砂の妖精

E・ネズビット

石井桃子訳
 角川書店 1902/1963

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 「児童文学とは何か」という時、いつも三つの作品が反射的に頭に浮かぶ。その一つが、ここで取リあげるネズビットの『砂の妖精』である。ちなみに残りの二つをあげると、一つはE・B・ホワイトの 『シャ-ロットのおくりもの』であり、いま一つは、サン-テグジュぺリの『人生に意味を』というエッセイ集の中の一篇「モーツアルトの虐殺」を語った一文である。それがすべてを語り尽している…というのではない。この三篇が少なくとも、児童文学のみならず「文学」と呼ばれるものの原型を(いや、物語発生の要因とでもいったものを)、適切に表現していると考えるからである。
 『砂の妖精』がイギリスで出版されたのは一九○二年。明治三十五年のことだから百年近い前の話になる。そんな古い物語がなぜぼくの興味を駆りたてるかというと、ここに子どもの本ながら、人間の普遍的な願望とでも呼ぶべきものが言葉で形を与えられているからである。
 物語は、母親と五人の子どもとばあやが引っ越しをするところから始まる。シリル、アンシア、ロバート、ジェインと赤ん坊の五人は、引っ越しの荷物整理のごたごたに邪魔だからといって外に遊びにだされる。乳母車に乗った赤ん坊は別として、砂場を見つけた兄弟姉妹たちは砂遊びを始める。突如、砂の底から奇怪な姿をした生きものが姿を現わす。これが砂の妖精こと「サミアド」で、その不思議な魔力はすぐに子どもたちの理解するところとなる。
 「そいつ」は(原題にはそいつと記されているが「妖精」という言葉はない。しかし、「付けたるかな」と訳題には感心する)子どもたちの願いを何であれ即座にかなえてくれる力を持っている。ただしそれは一日の終り、陽の沈むまでのことである。子どもたちはそれを知って、次の日も、また次の日も「お願い、何々をして」とサミアドに頼む。願望の実現と消滅。「あリえないこと」から「あリうること」へ、物語は異質の時間と日常の間を行き来する形で「最終部」にたどリつく。サミアドは二度と再び子どもたちの前に姿を現わしませんでした…というのが、「しめくくリ」の言葉だが、それはなぜか…ということは、未読の読者のために触れないほうがいいだろう。
 それよりも、子どもたちの願ったことを簡単に整理してみよう。はしょった言い方だが、子どもたちは「美しくなリたい」といって、見違えるようなピカピカの子どもになる。「強くなリたい」と願って、自分をいじめる奴にも負けないような子どもになる。「空を飛びたい」と頼んで背中に羽根を与えられ、大空を鳥のように遊泳する。「お金持ちになリたい」とサミアドにいえば、一瞬にして足元の砂は金貨に変わる。他にもさまざまな願いが束の間にしても実現するのだが、この四つの願いを取りだせば足リるだろう。
 この子どもたちの「願い」は、物語を離れて考えてみれば、実はたわいない子どもの夢というよリ、大人であるぼくたちの潜在願望であることに気づくはずだ。「清貧」とか「自足」とか「負けるが勝」とか「足を地に着けて生きる」とか、人間はさまざまな言葉で「自己肯定」するが、そういう言葉を生みだし、そういう形で「与えられたおのれ」を「受け入れ」ようとすることこそ、実は、「そうではない自分」を願っているからにほかならない。人は、出来るならば、より美しく、よリ強く、より豊かに、そして空をも自由に駆けめぐりたいに違いない。
 残念ながらすべての生命体は、みずからの容姿や性情、生存の場所や時間を自己選択してこの地上に誕生するわけではない。一本のコスモスがコスモスたらんとして咲きでたわけでないように、人もまた「今のおのれ自身」を自ら選び取って生まれたわけではない。父も母も、国家も時代も、貧富の格差も、すべて「期せずして」自分のまわりにある。多くの宗教は、人間のこうした存在の仕方を肯定するために生みだされたといえよう。そうした「悟達への道」を志す人も多いと思うが、それでもなおかつ、人は「別の人生」「別のおのれ」を時には夢見るものである。
 それを「変身願望」と呼んでいいだろう。『砂の妖精』に読み取れるものは、そうした人間に共通した(あるいは潜在する)願望である。 「変身願望」は、生命体のもう一つの条件、つまり「人生は一回限りであり、差し替えのきかないものだ」という無意識の知覚から生まれる。
 イーデス・ネズビットは、そうしたことを考えもしなかったかもしれないが (ただ、おもしろい子どもの物語を作りだすことだけを考えていたのかもしれないが)、結果として、『砂の妖精』で、人間に普遍的に潜在する「願望」を描いたのだと、ぼくは考えている。この物語のおもしろさは、サミアドによって「束の間の別時間」を体験する子どもたちの姿にあるが、同時にそれが、ぼくたちの潜在願望の照射になっている点にもある。
 藤子不二雄がかつて、漫画「パーマン」によって表現したことも同じである。主人公の少年にコピー・ロボットを用意したことは、同時に三つの人生」を生きる夢の具体化だった。人はいくつになってもそうした夢を見る。所詮ばかげた夢だとうそぶくことによって、その夢を心の奥底に押しこむ。そういう人のためにもこの一冊はある。(上野 瞭)
「児童文学の魅力・いま読む100冊・海外編」日本児童文学者協会編 ぶんけい 1995.05.10

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