シロクマたちのダンス

ウルフ・スタルク

菱木晃子訳 堀川理万子絵 佑学社 1994

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 両親の離婚という重いテーマでありながら、びっくりするほど軽快で洒落た作品である。エルビス・プレスリーのナンバーにのせて「ぼく」が語る、十三幕の劇といった構成になっている。「1−とうさんが、黒い礼服を着こみ、ぼくの欠点がつぎつぎとあばかれ、アルプの髪の毛にふにあいなチューインガムがくっつく」と目次はト書きのようで、この第一章には、学校の面接での一騒動の後、とうさんとラッセが家でくつろぐ場面で、エルビスの『愛さずにはいられない』と『私の世界へ』の歌がながれる。
 ラッセはストックホルムに住む小学生。勉強が苦手で,成績も悪く、悪友のブッコたちと町へくりだしては、いたずらを繰り返している。そんなラッセが大好きなのがとうさん。白衣に白い帽子をかぶり、冷凍室で働くとうさんは、シロクマのよう。無口で不器用だが、ラッセをあたたかく包みこむ。看護婦のかあさんも、いかしている。
 とうさんヘのプレゼントをさがしに行ったデパートで、ラッセはかあさんが見知らぬ男と買い物をしているのに出くわす。そしてクリスマス・イブ、プレゼント交換の真っ最中に、かあさんがその男の子どもを妊娠していることがわかり、ラッセの家庭は崩壊する。 
 冬休みに、ラッセはかあさんと、かあさんの恋人の歯科医のトシュテンソンの家へ引っ越す。そこにはトシュテンソンの娘ロロがいてなにかとラッセに意地悪をする。トシュテンソンは友人であるラッセの学校の校長先生とかけをして、ラッセを優等生にすべく、つきっきりで勉強を教えはじめる。ここでラッセは、髪型から洋服、靴にいたるまで、トシュテンソンの趣味に大変身させられる。
 大変身にはじめはとまどっていたラッセだが、自分をばかにした連中を見返してやろうと、やる気になる。しかし、成績が上がるに従い、ブッコたちはラッセから離れていく。トシュテンソンと校長先生とのかけの決着の日、ラッセはすべてを放り出し、とうさんのもとへはしる。 ラッセととうさんの気持ちを代弁するプレスリーの歌の使い方は抜群である。例えば、ラッセがかあさんとかあさんの恋人と会った後では『知りたくないの』だし、ラッセがとうさんのもとへ帰ってきたときには『もどってきた手紙』という具合だ。
 とうさんの象徴としてのシロクマは切ない。ラッセが動物園のシロクマが見たいのは、狭い所に閉じこめられしょぼくれて見えるシロクマがかわいそうだからだ。だからこそ、とうさんと行ったとき、シロクマたちがいなくてほっとしたのだ。ラッセはシロクマたちが送り返され北極の空の下で楽しくダンスをしていると信じたかった。「むかし、とうさんとかあさんがそうだったように…」 その他、チューインガムやネズミのブラッキーなどの小道具はユーモアを誘う。
 言葉をめぐってのとうさんとトシュテンソンとの対比も効果的である。ラッセととうさんは、「ことばなんてだましあうためにあるんだ」というくらい言葉などなくても分かりあえる親子だが、トシュテンソンはラッセに言う「ちゃんとことばで表現できるようにしないとな。一番だいじなのはことばなんだ」と。
 以上のような象徴、小道具、そして劇を思わせるはっきりした場面設定と「ぼく」という一人称の軽快な語り口の中で浮かび上がってくるのは、ラッセの悲しみと自分さがし、そしてとうさんの悲しみである。両親の離婚の中で翻弄されるが最後に「ぼくはぼく以外のだれにもなれない」と宣言するラッセには拍手を送りたい。また、トシュテンソンでの第一夜にラッセが見るシロクマの夢、気がつくととうさんのアパートに足が向くラッセ、「平和」を愛し一人になってからも、アパートの部屋を元のままにしておくロマンチストのとうさんには、胸がいたくなる。トシュテンソンもロロもかあさんも傷ついている。 スタルクの作品は『おばかさんに乾杯』『ぼくはの魔法の運動ぐつ』、ニルス賞を受賞した『ぼくはジャガーだ』が日本で紹介されている。(森恵子)
図書新聞1994年7月9日