青春が見直されている

           
         
         
         
         
         
         
         
     
 三月に松村優策の『苺畑の午前五時』(筑摩書房・一、二00円)というすがすがしい青春小説が出たとき、一九六0年代から七0年代という時代がノスタルジアの対象としてではなく、現在をとらえ直すための座標として、またそのころ青春時代を送った作家たちが現在の自分と向き合うための鏡として扱われ始めたのかな、という気がした人も少なくないと思う。今回は、このような傾向の作品を中心にひろってみた。
 まず、村上龍の69(集英社・九八0円)。時は六九年。東大の入試が中止になった年。作者の言葉を借りれば「コードを三つしか知らなくてもロック演奏家になれた」時代であり、「ドンチュノー」と叫びさえすれば、誰でもロック歌手になれた」時代である。主人公は高三のケン。女の子にもてたい一心で全共闘の連中をそそのかして高校のバリケード封鎖を実行したり、一大フェスティバルを企画したりするケンのなりふりかまわぬ軽薄で痛快な行動が、九州弁と標準語とが入り乱れた言葉のおもしろさとあいまって、今年最高のユーモア小説に仕上がっている。村上龍のとほうもないエネルギーを笑いのなかに封じこめたような作品だ。
 それから村上春樹の『ノルウェイの森(上・下)』(講談社・各一、000円)はいうまでもなく七0年前後を背景にした恋愛小説の傑作である。
 エッセーや評論でも同じ傾向が見られる。きたやまおさむのートルズ』(講談社現代新書・五二0円)もそのひとつ。これは、実際にフォークグループを作って活動してきた作者ならではのビートルズ論である。「私たちは当時・・・みんなが一様に愛されるように見せる方法を模索していた。それは、『運転手は君だ/車掌はぼくだ/あとの何人は電車のお客』と役割を分担し、そして一回終わるたびに、もう一遍・・・割り振りを繰り返す、あの電車ごっこのシステムだった。六0年代、それは『電車ごっこ』の時代だったのだ」と作者は指摘し、この「電車ごっこ」の成立と崩壊をビートルズを象徴として扱いながらたどっていく。
 中野収の代史のなかの若者』(三省堂・一、六00円)もユニークな若者論である。これは六0年代から現代までの若者像の変化をひとつの大きな流れでとらえようとした試みで、最初にアイデンティティ・クライシスに遭遇して知の体系の破壊と創造を合言葉に、不断に自己を相対化しようとした全共闘と、遊びとシラケの世代、つまり「パフォーマンスによるアイデンティティ」を追う現代の若者とを異質なものとしてではなく、同じく近代の終焉段階の文明・文化的風土を共有しているものとしてとらえようとしている。
 大島夏身、見目誠、谷口孝夫の『中島みゆきの場所』(青弓社、一、五00円)という評論集に収められた、谷口の「みゆき・マイ・クロニカル」は、歌の評論では歌詞しか扱えないもどかしさを、歌を七0年代の自分史にひきつけることによって解消しようとした、短いながらも読ませる評論である。陽水の「傘がない」という歌で、「本当に心動かされていたのは政治より生活が大事ということより、とにもかくにも『行かなくちゃ』『行かなくちゃ』というリフレインであり、だが「傘がない」という悔しさであった」という作者は、中島みゆきを「私達の時代の感性」として取り上げながら、自分と向かいあっている。六0年代七0年代を中心にすえた作品を紹介してみたが、その完成度とエネルギーは、作者の立脚点がつねに現代であることをはっきりと示しているといっていいと思う。
 最後に、時代を越えた明るいカントリーが聞こえてくる『父さんと歌いたい』(キャサリン・パターソン著、岡本浜江訳、偕成社・一、四00円)を紹介しよう。十一歳のジェイムズが、一家のやっていたカントリーフォークのグループで歌い始めるというストーリーだが、母親たちのジェイムズの才能に対する嫉妬や、「おまえの本当の父親だ」などといってくる男に悩まされながらも、夢中でカントリーを歌い続ける少年の成長を描いた心温まる作品である。(金原瑞人
読書人1987/12/13
テキストファイル化 妹尾良子