十三湖のばば

鈴木喜代春著
山口精温絵/偕成社/1974

           
         
         
         
         
         
         
     
 作品を読んでいて、嗚咽がこみ上げてくるのを押さえることができない時がある。人情芝居のメロドラマに目頭をおさえたり、《死》という神秘にほのかな恋心ともいうべきセンチメンタリズムを感じるといった、茶の間越しに垣間見る世界ではなく、生きていることの不可思議なすばらしさ、同時に死と接続された壮烈な《生》の重さ、深さという、まさに人間存在の極みを見せられて、そのあまりにも魅惑的な不条理さに、己をゆさぶられ、泣くというより、叫びたい気持ちに駆られる時がある。《叫び》というものはその底に、怒り、怨み、喜び、哀しみ、陶酔といった人間的感情を沈殿させているものだと思うが、鈴木喜代春は『十三湖のばば』で一体誰に、何に向かって叫んでいるのだろうか。
 十三湖は津軽半島の日本海に面した浅い湖だ。泥水が北西の風で白く泡をたて、夏でも冷たい水が田んぼの方に入ってくる。田んぼは腰までつかる泥のうみで、腰切り田という。物語は、暗きょ排水や農耕機等のなかった明治の時代から、貧困と飢餓と過酷な自然と戦いながらおばあさんの思い出話で進められる。
 序章から七章を経て終章まで、津軽弁の訥々とした語りは、ひたすら我が子や夫の死を追っていく。大正の初めに嫁に来て男童子五人、女童子六人も生んだが、今生きているのは男童子一人と女童子二人だけである。
 第一章「水虎さま」では一番先に死んだ次女のトメ(生後一年未満)、第二章「赤いきもの」では二番目に死んだ長女のミチ(十二歳)、第三章「水車ふみ」で三番目に死んだ次男の忠二郎(十四歳)、第四章「むらさきの木の実」では四番目に死んだ五男の兵五郎(七歳)、第五章「津軽じょんがら節」では五番目に死んだおやじ(夫、四十四歳)第六章「大洪水」では六番目に死んだ長男の多助(二十四歳)、第七章「川倉で」では三男の勇三、三女のサキ、六女のサヨ……と、出征した勇三と満州にいったサキ以外は、いずれも十三湖の泥水や冷たい北西の風の下に眠っている。
 エジコから落ちてせきにはまって死んだトメや、生後まもなく医者に払うお金もなく放っておかれて死んだサヨという乳児たちの死に様も胸を打つ。また眠いのをこらえては水車を踏みつづけ、いつのまにか眠ってしまい、同じようにねぼけたおやじの踏む水車の下敷きになって死んだ忠二郎、大雨の降る中を稲島を守ろうと出ていき、水の増えるのも忘れて両の腕に稲束を抱いたまま流された多助という孝行息子たちの死に様も胸を打つ。だが、一人前の働き手になったばかりの長女ミチと、毒の実を食った五男の兵五郎と、叱りつけて山へ追いやることしか知らないおやじの死にようは、この作品の核であり、何にもまして胸を打たずにはおかない。
 土を打つ百姓仕事というものはまさに大自然との戦いであり、人間の持つ全エネルギーをぶつけるほどに激しいものである。日本の児童文学というものは、私見であるが、自然の無情さに支配権力の横暴さを加え、〈民衆−百姓〉を無この民として捉えることにより、その受難に研ぎをかけてきたと思われてならない。これは一見百姓に想いを寄せているようで、実は生きる主体性を図式的な美意識の中に閉じこめようとするものであろう。百姓は同情や憐憫の代名詞ではない。楽しむことにおいて、彼らほど貪欲ですがすがしいものはない。哀しむことにおいて彼らほど豊かであっけらかんとしているものはない。身体をはって生きている彼らは、喜怒哀楽がすべて五体のすみずみにまで疼いている。
 『十三湖のばば』において胸を打つのは、ひたすら受難に甘んじて献身的に土に帰る姿ではなく、主体性を持った人間として生き続ける視点を捉えている点であろう。言葉をかえれば、図式ではなく人間くささ、人間そまものを描き出していることである。十二歳のミチに嗚咽をこらえられないのは、熱病の身を隠してもたった一枚の着物が欲しいというその少女っぽい欲望の故であり、同時に七歳の兵五郎の場合には、飢えの極限で「食いたい」「食ってみんなにいばってやりたい」という少年の意地と哀しい食欲のせいであろう。私たちはここで死を乗り越えた能動的な《生》を感じるが、この作品の一番の圧巻はおやじの存在であり、おやじの生き様死に様であろう。子どもたちを叱りとばし、なぐりとばして百姓仕事へ向かわせ、自然のいたずらや己れの落ち度で死なせてもけろっとしている鬼のようなこのおやじは、働くことしか知らない頑迷な家長のようであるが、実は酒をのんでジョンガラ節を歌うひょうきんな面を隠しもっている。つまり子どもを十三湖にもっていかれたり、飢きんに苦しめられても、彼の底には自然の摂理に身をまかせる大ようなたくましさ、うるうると盛り上がる喜びに も似たエネルギーが秘められているのだろう。ここに私たちは、現代人理性人の忘れた掛け値なしの自我の存在としたたかな楽天性を見る思いがする。そしてこの楽天性は、紛れもなく百姓たちが踏みしめる土の底から湧き上がってくるものだろう。土――自然とは不思議なものである。草太や虫や獣や人間など生あるものを土の下に眠らせ、そしてまた新しい命をはぐくみ、見事な花に咲かせるのだ。はだしの足で土に立つ百姓は、自然の摂理の前に畏敬の念で頭を垂れることがあっても、自身も小さな摂理者のように作物を生み出すマジックを秘めているのであるから、《輪廻》のようにやがて芽ぶきかえす生命をいつくしみ、いとおしみながら己が胸の中を喜びで満たしているのかもしれない。
 「したども、おらは、ここからにげべえとおもったこと、ただのいちどもねえだ。やっぱりここがええだ。どうしてええのか、おらにもよぐわがらね。よぐわがらねども、自分の生まれだところ、いちばんいいでねえが。」
 十三湖のばばの重みのあることばに耳を傾けながら、私は七十五歳らなって書いた『洟をたらした神』(大宅壮一ノンフィクション受賞)の農民詩人三野混沌の妻吉野せいさんのことを思い出していた。「梨花、さようなら。土にかえれよな」ともに夫や娘をなくし、母なる地を守りつづけた老婆の淡淡とした語りの底には、土に生きるものの情愛とあったかさがにじんでいるような気がしてならない。(松田司郎
日本児童文学100選 偕成社
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