児童文学ヘの招待状
大人にとって子どもの本とは何か

上野瞭

「児童文学の魅力・いま読む100冊・海外編」
日本児童文学者協会編 ぶんけい 1995.05.10

           
         
         
         
         
         
         
    
 ある事柄を明確に告げようとする場合、「この一言につきる」というそんな言葉がある。児童文学の場合でいえば、それは「ナルニア国ものがたリ」を書いたC・S・ルイスの言葉がそれである。
「五十歳になっても子どもの頃と同じく(しばしばそれ以上に)読む価値のあるものでなければ、十歳の時にだって読む価値はない」
 これは『別世界にて』(中村妙子訳・みすず書一房・一九七八)の一節だが、これほどみごとに子どもの本の価値を定義したものは他にはない。こうした言葉は、著者自身の自負のほどをあますところなく現していて、ある読者は大きくうなずき、ある読者はすこし眉をしかめるのかもしれない。
 しかし、児童文学にかかわらず「物語を書く」ということは、本来、そうした自負の上に成立しているもので、ここに収めた作品群はすべて、作者たちのそうした思いの結果である。
 もちろん、時代と共に、また、状況の変化と共に、その自負なり思いのほどが、現代の人間の暮らしに合わなくなり、違和感を与える場合もあるだろう。また、時代や状況の変化を越えて意外な共鳴感を与える場合もあるだろう。いずれの場合にしても、作家がそれを書こうとした時、そこには作家たちの「内にたぎる思い」があったはずである。
 それでは、作家たちは、なぜそこまでしても作品を書こうとしたのか。
 読者はまた、なぜ、そうした作品を読もうとするのだろうか。
 本書の場合、読者とは、たぶん「子ども」と呼ばれる人々であるよりも、かつて「子ども」と呼ばれていた人、今もその子ども」を自分の中に住まわせている人、あるいはもうそのことさえ忘れている人、つまリは「大人」とか「ヤング・アダルト」とか呼ばれる人たちに違いない。
 人間は「自己を選択出来ない」という厳然たる事実がある。芥川龍之介の『河童』にも書かれているが、母胎内にいる時、人は、自分を「産んでくれてもいいよ」とか「産まないでくれ」とか、誕生の可否を親に告げることは出来ない。出生からして、実は「自己選択」の埒外の問題であって、生まれてみればそこに、「自分の選択したわけでもない親」がいて、気がつくと、特定の時代、特定の国家、特定の姓、特定の容姿・性格を持った「自己」と呼ばれる命があるということである。子どもの頃、「なぜ、こんな家庭に生まれたのだろう」と考えた人は少なからずいると思う。学校、人間関係、仕事、配偶者その他、すべてのものが「自己の選択の埒外のもの」で成リ立っている。これは突き詰めると「自分自身」こそが、最大の「選択の埒外」だということになる。
 それが「人生」と呼ばれるものである。人は、そのすべてと関わって生き続ける。それは別の言葉でいえば、「自分の選択しなかったもの」を「受け入れ続ける」過程こそが「生きる」ということになる。もし、そう出来ない場合は、自滅するか、無気力な植物状態に陥るしかない。
 作家が作品を書くということは、実は作家が、「選択しなかった人生」を「受け入れる」ための一つの作業であリ、読者は逆に、作品を通して、作家のその試みを知り、それを手がかリに「自己を受け入れ」生きる糧にするということである。
 C・S・ルイスは、そこまでは考えなかったかも知れないが、彼の「子どもの本」に関する言葉を読むと、そうした「思い」のほどが息づいていることを感じる。
 本書は、そうした人間の思いを、それぞれの形で表現したものの結晶である。「たかが子どもの本」という人もあるだろう。それには「されど子どもの本」というしかない。(上野瞭)
「児童文学の魅力・いま読む100冊・海外編」日本児童文学者協会編 ぶんけい 1995.05.10