児童文学に今を問う


藤田のぼる


           
         
         
         
         
         
         
     
 前書き・結びを合わせて大小一二篇の論文からなる、三部立ての評論集である。第一部は、一九五〇年代から八〇年代に至る日本の児童文学の変容を、主に作家の姿勢の在り方にたどった通史的なもの。第二部はジャンル論や作品論をとりまぜた各論風の展開を見せ、第三部は八〇年代の新たな傾向をさまざまに取り上げた「覚え書」−−という構成になっている。
 各論文は大部分がすでに雑誌などに発表済みのものであり、初出は最も古いもので一九八〇年にさかのぼる。テーマや作風が多様である上に執筆年代も一定でないとなれば、いわゆる「寄せ集め」的な内容のものが予想されても仕方がないところだが、この書にはそのような不統一は感じられない。それは、前書きに述べられた「児童文学というジャンルは、その時代の人間の時代意識というか、時代感覚といったものが極めてよく表現されるジャンルなのだ」という著者の認識。さらには、自らの評論のありようを「時代の無意識を意識にする」ことに求める著者の姿勢が、各論文の背景に確固として存在するからであろう。
 「時代」をはっきり意識した第一部と第三部だけではない。一見雑多とも思える第二部の各論文においても、著者はこの姿勢を崩そうとはしない。だから、児童文学に描かれた子どもたちの友人関係を扱った「いま、仲間であること」という論文は、そこに取り上げられたそれぞれの作品に対する個別の評価といったこと以上に、まず何よりも、七〇年代から八〇年代にかけての教育現場状況の変化を基盤に論じられているのだし、ノンフィクションの在り方を論じた論文は、「児童文学におけるノンフィクションの発見は、僕らが子どもたちと共に獲得しなければならぬ、時代の思想に近づくべき第一歩である」と結ばれる。思えば、書きためた原稿に加筆の跡がほとんど認められないのも、「今を今精一杯の言葉で意味づけていく」ことに意義を求める、この著者の時代に対するこだわりによるものなのかもしれない。
 それらの論文をまとめてみるなら、戦争によって失われた子ども時代の回復という、共通のモチーフに支えられていた五〇年代から六〇年代にかけての作品群。その共通性を失い、ひたすら個別の「私」を追究することに傾いていった七〇年代の作品群。そうして「自己憧着」していく作中の人物とはすなわち作者の分身である、という決めつけにはいささか疑問を感じるが、ともかくそうした過程を経て、日本の児童文学は、「大人が子どもを作る」という〃物語〃の時代から、既成の枠組みにとらわれない〃小説〃の時代に移行したのだ、と著者は説く。それが八〇年代のことであると。このあたりの展開は、大方の児童文学関係者が共感をもって受けとめるところだろう。
 だが、著者はそのような現状を必ずしも良しと思ってはいないようで、「やはり児童文学はもう一歩〃物語〃の側にふくこむべきなのではないか」と言う。そして結末部で、日本の児童文学が現在とりつつある「小説から再び物語へと向かう道筋」を説明しようとするのだが、この部分は例証も少なく、説得力に欠ける。次作に期待したい。 それにしても、これからの児童文学のあるべき姿として著者が最大の賛辞を捧げているのが、日本の作家のものでなく、ノルウェーのトールモー・ハウゲンの作品であるというのは、どこかさみしい。その同じ賛辞を、同じ一冊の中で何度も読まされるのは、読者として少しつらい。このあたり、編集上のひと工夫が欲しかったところである。(横川寿美子)

図書新聞 1991/02/16