クルド人作家
ジャミル・シェィクリーを訪ねて

野坂 悦子

           
         
         
         
         
         
         
         
         
     
 昨年11月に、『ぼくの小さな村 ぼくの大すきな人たち』(くもん出版 1998)という本が出版されました。ベルギーに住むクルド人作家ジャミル・シェイクリーが、もともとオランダ語で書いた本ですが、この本の翻訳を引き受けたことがきっかけとなり、私はさまざまな出会いに恵まれました。S先生との出会い、4年1組の子どもたちとの出会い。S先生が、クラスで本を読み聞かせたところ、先生の言葉を借りると「三日目あたりから、なぜか子どもたちが本に食いついてきて」、授業は語り合いに発展していき、とうとう2月26日のまとめの授業に、訳者の私を招待してくれることになったのでした。
 本の主人公は、五歳の少年ヒワ。作者は、そのヒワの視点から、平和だったクルドの村の生活を淡々と描き出します。私は、4年1組の子どもたちが、ヒワの生活をありのままに受け止め、クルドの村で自分たちも暮らしているように感じていることに、驚きました。もっともっと、クルドの村について知りたいと思っている子どもたちに代わって、私が手紙を書くことになり、作家シェィクリーさんとの文通が始まりました。手紙はすぐにE-mailのやりとりに代わり、シェイクリーさんは、「ヒワの村にも雪はふるんですか?」「きれいな服って、どんな服ですか?」といった素朴な質問に、ていねいに答えてくれました。
 私はまとめの授業で、「ロイバッシュ(クルド語で『こんにちは』、遠くの国にすむみなさんへ」と、作者からのメッセージを伝えました。「ぼくは、日本のことを少し知っています。白血病で死んだサダコという女の子の物語を、翻訳したことがあるのです。」そこまで読むと、子どもたちから、わあっと歓声が上がりました。原爆症で死んだ佐々木禎子さんのことは、ヒロシマの少女サダコの物語(*)として、海外でも広く取り上げられ、日本でも本やビデオの形(**)で紹介されています。4年1組の子どもたちは、偶然学校でそのビデオを見たばかり。このとき私は、クルドと日本、ベルギーと日本の距離が、一気に縮まったような気がしました。シェイクリーさんに直接会ってみたい。私の漠然とした思いは、日を追うにつれ、「ぜひ会わなくては」という無謀な決意に変わっていきました。
 4月25日、ベルギーのルーヴェン着。1962年生まれ、今年で37歳になるシェイクリーさんは、想像以上に気さくな人物でした。ふたりで広場のカフェに入り、まず、ルーヴェン名物の白ビールで乾杯。おみやげに、授業風景のビデオと、あられ、日本の童謡のCDをお渡ししました。ビデオはもちろんのこと、海苔あられにも大喜びするシェイクリーさんを見ているうちに、自分が外国に来ていることも、シェイクリーさんが初めて出会うクルド人だということもわすれ、親友に再会したような気分になっていました。
 シェイクリーさんがアルバムを開きます。クルディスタンの緑の丘を背景に、音楽にあわせて踊る家族の写真。ライフルを肩にしたゲリラ時代の写真。私はときに呆然とし、ときには自分の無知を恥じながら、話に聞き入りました。
「ぼくは、1989年にベルギーに亡命した。1988年3月16日、ハラブジャ(***)の町が爆撃と毒ガスによる攻撃を受け、その後クルディスタン各地で一般市民までが攻撃されるようになり、ここに留まっていたら、ぼくも死んでしまうと思った。それで、亡命を決意したんだ。でも、それまではずっと、ゲリラとしてイラクの山岳地帯で解放のために戦いながら、クルドの人々に情報を流していた。つまり、仲間たちと、秘密のラジオ局や、ステンシルで手作りした新聞を作っていたわけだ。新聞には、子どものためのページも作ったよ。戦いで、親を亡くした子どももたくさんいたから、ぼくが書いたものを少しでも楽しんでもらえれば、と思っていた。」
 シェイクリーさんが「新聞記者」だったことは、略歴を読んでいたので、私も知っていました。とはいえ、日本に住む私の抱いていたイメージと、実像が、これほどかけはなれていたとは……。
「ハラブジャは、ヒロシマと同じだ。ぼくはそう思っているし、友人たちもそういっている。サダコの物語は、まずペルシャ語版で読んだ。クルドの子どもたちにもぜひ読んでもらいたいと思ったから、クルド語に翻訳した。でも、その直後印刷所が爆撃され、サダコの物語は燃え、たくさんのクルドの子どもたちが、サダコと同じように死んでいった。毒ガスのせいだった。子どもは、悪いことなどなにもしていないのに。サダコの物語は、それでもかろうじて100部ぐらい残ったので、少しは子どもたちに配ることができたんだ。」
 原爆、水爆、ミサイル、地雷、科学兵器……。大人たちの発明の犠牲になって死んでいった世界中の子どもたちの姿が、この作家には、重なってみえるのでしょう。
「ぼくが、子どもの本を書くようになったのは、そんな体験も影響しているんだと思う。それに、ぼく自身大きな子どもだから、子どもの気持ちがよくわかるんだろうな。クルディスタンにいた頃、子どものために『白い雲』という作品をクルド語で書き下ろした。ベルギーに亡命後、それをオランダ語に翻訳して、出版社(ダヴィッドフォンズ)に持ちこんだ。二ヶ月後、返事があった。いい作品だという自信はあったよ。」
 『白い雲De witte wolk』(未邦訳)は、クルド人の少年の視点から戦争を描いた作品で、ベルギーだけではなく、イランでも出版されました。また、『ぼくの小さな村 ぼくの大すきな人々 Een vlinder aan het raam』は、ベルギー国内で1998年度ブックンウェルプ賞を受賞、日本のほか、近々ドイツでも出版される予定です。
「亡命後しばらくは、家族を後に残してきたこと、失業していたことなどが重なって     つらい時期だった」と、シェイクリーさんはいいます。それでも、六人兄弟の長男である彼がベルギーに来たあと、3人の妹と2人の弟が次々とスウェーデンに亡命。1996年には、最後までクルディスタンに残っていた母親のアイシャさんも、スウェーデンに住むことが許され、「今は家族と自由に行き来できるのが、なにより嬉しい」と、シェイクリーさんは明るい表情になりました。同じ1996年に、彼自身は、ベルギー国籍を取得したそうです。
「クルド人というと、戦争の話ばかりしているように思われている。でも、ぼくはふつうに生きたい、そして、この国の人たちに、ぼくたちもふつうの人間だということを、わかってもらいたいんだ。」
 そう語る顔には、ベルギーで生きる道を長い間模索したあとの、現実を受け入れる決心が見えました。ベルギーに住むクルド人ではなく、クルディスタン生まれのベルギー人として、今、何をするべきなのか、何を伝えるべきなのか。シェイクリーさんは自分の思いを、とりわけ、これから大人になっていく子どもたちにむけて、発信しているのです。
 シェイクリーさんは、現在アントワープ郊外にある難民収容センターで働いています。クルド語、オランダ語、英語はもとより、アラビア語、ペルシャ語*、アフガン語を話すこの作家には、うってつけの仕事ですが、かたときも戦争のことを忘れることはできません。世界各国(23ヶ国以上)から亡命してきた、約450名の難民が暮らすセンターには、NATO軍によるコソボへの空爆開始以降、アルバニア系難民が急増しているそうです。「こんなものを作る人の気が知れないよ。」ルーヴェンの町のショーウィンドウに飾られた、カットガラスの巨大な花瓶を見つめながら、シェイクリーさんはそうつぶやいていました。     
 私の出会った生身のシェイクリーさんは、悩んだり迷ったりしながら、常に考え、行動して、先に進もうとする人物でした。四年1組の子どもたちが、物語の主人公のヒワのことを、「ヒワは上へ上へと新しいことを重ねるのがすき」、「知りたがり屋、やりたがり屋でかわいい」、「やりたいことがあると、ほかのことはみんな忘れてしまう」と表現していましたが、それがまさにシェイクリーさんだったのです。「ヒワ」という名前は、クルド語で、「希望」を意味する言葉だそうです。「ベルギーで、本物のヒワに会ったのよ!」S先生や四年1組のみんなにまた会うことがあれば、私はそう報告したいと思っています。
 書いていただいた色紙を見るたびに、シェイクリーさんと過ごしたルーヴェンでの三日間がよみがえります。ラティフ・ハルマットというクルドの詩人の言葉が、そこにはこう書かれています。
         <武器を だまらせてください。
          子どもは 眠ろうとしているのです>

(註)
*おそらく1977年に、『サダコと千羽鶴Sadako and the Thousand Papaer Cranes』(エレノア・コア著)という本が、米国で出版されたことが一つのきっかけとなり、サダコの物語は色々な形で、海外各地にも紹介されるようになったのだろう。
**例えば、『折り鶴の少女』(たいらまさお著・偕成社)『飛べ!千羽づる』(手島悠介著・講談社)『折り鶴の子どもたち』(那須正幹著・PHP研究所)『折り鶴は世界にはばたいた』(うみのしほ著・PHP研究所)等の本や、『つるにのって』(世界の子どもに平和のアニメを贈るピース・アニメの会)というビデオがある。
***ハラブジャ:ハラブチャともいう。イランとの国境にあるイラクの都市。イラン・イラク戦争の勃発後、この町は壊滅的な打撃を受け、現在も無数の地雷が埋められている。
「JBBY会報92号」1999