クレヨン王国の十二か月


福永令三


講談社 1980

           
         
         
         
         
         
     
大晦日の晩、ユカはクレヨンたちの話し声で目が覚めた。クレヨン王国のゴールデン王が、シルバー王妃の欠点が直るまで戻らないと言い残し、姿を消してしまったのだ。一年の猶予期間が与えられたシルバー王妃は、ユカと一緒に王を探して十二のクレヨンの町を旅する。一つの町に一つの色、そして王が挙げた王妃の十二の欠点が、エピソードの中で示される。桜色の四月の町で、二人はうそつきの鷽(ウソ)にだまされるし、水色の九月の町ではけちな刑務所長に牢に入れられ、逃げたところをオオミズアオに助けられる。タイムリミットが迫ったとき、王妃とユカは灰色の町で十二のがいこつと勇敢に戦い、王を救った。王妃は欠点を克服し、ユカとの友情を約束して、冒険は終わる。
大衆性と文学的な質の高さは、しばしば反比例するとみなされる。だが、一冊の本の語りのうまさが、読者を魅了するとき、その本と作者はすぐれたエンターテイナーである。『クレヨン王国』のような作品は、子どもにとって「おもしろい」本であるのと同時に、教育的なメッセージが強く見えかくれしているため、二重の意味で主流から差別されている。だが、愛される大衆的な児童文学は、わかりやすいパターンの中で子どもたちにストレートに語りかけ、子どもは、大人には見えすぎてしまう作者のしかけの中でも、自由に遊ぶことができる。そして、「教育的」などということは考えない。大衆的な児童文学といっても、一つの時代・一つの社会でしかいのちを持ち得ないイデオロギー的な作品もある。そのような作品群は、歴史の中に埋没し淘汰される。その中にあって、クレヨン王国のシリーズは、普遍性のあるメッセージに支えられた楽しみの世界を提供する文学として、楽しさと教育性とを一致させ、独自の地位を確立した。そして「児童文学」の中で 、読者に最も接近した作品群の本流を形作っているのである。(鈴木宏枝
           
         
         
         
         
         
     

『ユリイカ』1997年9月号