コサック軍シベリアをゆく

バルトス・ヘップナー 作
上田真而子 訳
ビクター・G・アンブラス絵
岩波書店 1959/1973

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 壮大な歴史小説である。作者バルバラ・バルトス・ヘップナーは、魔術師のように16世紀のロシアの一端をわたしたちの前に甦らせる。一端というのは、コサックたちの生き死にに焦点をしぼって、ということである。数行の歴史的記述の裏側に、無数の人間が生きをつめて横たわっていることを、この作者は見落さない。そこにある哀歌、恐怖、闘争心、不安、希望、怒りを、血と汗の匂いと共に、わたしたちに示す。ローズマリ・サトクリフがそうだったように、この作者も、歴史の再生者であり、歴史に埋没した人間の再生者である。コサック。シベリア。帝政ロシア。そうした言葉からわたしたちの抱く固定観念は、みごとにくだかれる。何百年か昔の、遠い異国の話が、時間と空間の壁を突き破って、わたしたちをゆさぶる人間のドラマとして出現する。もちろん、これは、歴史的人間の血肉化といったことだけを意味しない。そうした実在の人物の蘇生と共に、架空の人物の創造が、ただの歴史的事実や記述にすぎないものを壮大な物語の原野に変えてしまうことをいっている。
 ここには、2つの糸がよりあわされるように、2つの人生がよりあわされている。コサックの長エルマークのそれと、コサックに身を投じる少年ミーチャのそれである。それは、事実と空想の交叉であり、また、復讐心と寛容や善の葛藤でもある。からみあった2つの人生は、苛酷な自然に対決し、異民族との激烈な戦いになだれこむ。人間たちのこの葛藤が、そのまま帝政ロシアの領土拡大の歴史とからみあっている。
 いうまでもなく、2つの人生の背後に君臨しているのはイワン雷帝である。
 エルマークはいう。
「そりゃあ、おれたちは良心の呵責になることをいろいろ持ってるさ。しかし、それはだね、みんな、あの<<殺人皇帝>>−−おれにはほかの呼び方はできない−−が、良心に負うはずの呵責に比べれば、何だというんだ。といっても、おれの両親のことだけをいってるんじゃない。あれは、あいつが消したたくさんの家族の中の1つにしか過ぎないんだ。ノウゴロドのことを考えてもみろ! 6万人の人間が、残酷きわまりないやり方で、伊命をうばわれた。そのときの避難者が、おれたちのところにもいる。しかし、なぜ、あいつはその人たちを殺した? どういう訳で? おれは知らない。おまえにもわからない。おそらく、あいつ自身だって知らないんだ! あいつは狂っている。そうだろう。そんなことは、狂っている人間だけに思いつけることなんだ。」
 エルマークの両親は、イワン雷帝の命令で殺される。子どもであったエルマークの目の前で、扼殺である。エルマークもまた、ころされるところを辛うじて助けられる。復讐心を胸にひめて、彼はコサックとなる。掠奪と飢餓と指名手配の生活。やがて、500人のコサックの長となったエルマークの前に、シベリア制圧の仕事がまわってくる。ウラル山脈をこえて、その東、タタール人支配の土地をロシア皇帝領にするためである。騎馬戦闘のコサックたちは、馬をすて、いかだに分乗して想像を絶する苦難の旅にでる。数倍数十倍する敵に対抗する唯一の武器は銃である。弓矢の戦闘しかしらないタタール人たちは、火器の威力に敗走していく。

 煙がエルマークの喉を刺した。が、かれは咳をのみこんだ。もしおれたちが勝利を得れば、盗賊という汚名が返上できる−−盗賊という汚名! エルマークはにが笑いをした。おれは、一生盗賊でいいと思ってたんじゃないのか。そのおれが、今皇帝のために、おれが腹の底から憎んでいる皇帝のために一国を征服する! 征服……征服……何という言葉だろう! 同じ略奪でも、命令を受け氏名を帯びてやれば、そして大々的にやれば、征服というんだ。

 エルマークは戦いの中で信頼した仲間を失っていく。そして、じぶんもまた、皇帝から下賜された鎧を着ていたために、敵の急襲にあい溺死する。
 このエルマークの人生にからむのが、ミーチャである。ミーチャは、平穏な暮しより「見知らぬ拾い世界」に心ひかれている。エルマークとの出会いが、ミーチャに決心をさせる。猟師である父、やさしい少女イリーナをあとに残してコサックの一員となる。ミーチャは、エルマークと共に苦難の旅にでかける。殺戮の中を駆け抜ける。しかし、ミーチャと他のコサックをわけるものは、ミーチャの人間に対するけいけんな内省である。

 ああ、神様−−ミーチャは思った−−あなたは何という魂をわれわれ人間にお与えになったのでしょう! たった今人殺しをしておいて、2、3時間あとではもう踊っている。狼のようにどん欲に分捕品に手を出すそおの同じ人間が、戦闘の最中には、生き残りたいというたった1つの願しか持っていなかったのだ。

 ミーチャは、ドイツ人の医師と知り合ったため、見よう見真似で傷の手当ができる。ミーチャは、戦闘にも参加するが、より力を入れるのは負傷者の世話である。
 エルマークがみせしめのため2人の子どもをしばり首にしようとする。ミーチャは反対する。エルマークは、ミーチャを認めつつも、コサックの生き方をつらぬこうとする。
 物語は、エルマークの死後、故郷にかえったミーチャが、イリーナと共にもう一度シベリアへ行く決心をするところで終る。いうまでもなく、殺戮者としてではなく、人間の命を守る医師としてである。人間はだれしも、特定の時代に、特定の状況で生きねばならない。それは20世紀でも16世紀でもおなじである。バルバラ・ヘップナーは、そうした人間の宿命をみすえる。そうした制約の中の人間の精いっぱいの生き方を浮き彫りにする。シベリアの極寒の四季の移りかわりの中で、力強く描きだしていく。第二次世界大戦後、ソヴィエト占領下に生きたという彼女は、この作品を書くことによって憎しみと許しの問題を自分なりに克服したのだという。「訳者あとがき」の中に記されているその言葉は意味深い。壮大な力作である。(上野 瞭
世界児童文学百選 偕成社 1979/12/15

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