北風のうしろの国

G・マクドナルド 作
田谷多枝子 訳 真島節子 絵 太平出版社
1871/1977

           
         
         
         
         
         
         
     
 『北風のうしろの国』は、一八七一年の刊行ではあるから、古典という範ちゅうに入る作品であるが、どちらかというと、一部の熱心な読者に細々と愛され続けてきたという類いの特質をもつものである。
 御者の息子であるダイアモンドが馬小屋で眠っていると、北風の精と名乗る美しく、長い髪をした女の人が、壁のすきまから訪れる。その美しさにうたれるダイアモンドに北風は、「もしわたしが、わるくはなくても、みにくく見えたら、どう?」と問いかけ、それ以後、ある時は狼、ある時は小さい女の子と様々の姿で、残酷な時、やさしい時、疲れはてている時と様々の状態で現れる。ダイアモンドは、北風の背中に乗ってロンドンの街の上を飛ぶ。ダイアモンドは北風から話に聞いた北風のうしろの国にあこがれ、頼んでつれていってもらう。北風のからだをぬけると、静かな平和な雰囲気のところに出、人とは話をしないでも心が通い、木に登れば愛する人たちがどうしているのかわかるのであった。家に帰ってその国のことをきかれると、ダイアモンドは、「ぼくは、あれからあの国をはなれた気がしないの。いつもじぶんのどこかに、あの国を感じているんです。」あの国の人たちは、「いつか、もっとうれしくなるのを待ってるみたいだったよ」と答える。現実の世界では、重い病気にかかっている少年は、その国から帰って、いつも不思議な力と知恵を出すこどもになり、まわりの大人を慰め 、困った立場の側の人につく。もっとも他の人の目からみればへんなことをいう気のふれた子としかうつらない。
 父親が病気になって、馬のダイアモンドの御者としてロンドンの町を走る。字を覚えたり、小さい女の子を助けたりして忙しいうえに仕事ができてもけなげにやりとおす。父親がもち直したころ、また、ダイアモンドは北風を心待ちにするようになる。北風はやってくる。「北風は、ダイアモンドといっしょにおどりながら、長いからっぽのへやを、ぐるぐるまわっているのだ。髪が床にふりかかったかと思うと、弓形の天井いっぱいにひろがり、目はもの思う星のようにダイアモンドの上にかがやき、うつくしい口もとには、なんともいえずやさしいほおえみが、うれしそうにただよっている。」ダイアモンドは、北風が夢だったらたえられないという。北風は「わたしがただの夢だとしたら、あなたは、こんなにわたしを愛することはできなかったはずよ。」「夢のなかで、ふわふわと私を愛して、目がさめたらわすれてしまうことはあっても、いまのように、ほんとうにあるものとして、わたしを愛してはくれなかったでしょうね」と答える。「わたしは、人によっていろいろなやりかたで、すがたをかえなくてはならないのよ。でもわたしの心は、真実です。人は、わたしにおそろしい名をつけて、わ たしのことをすっかりわかったつもりでいるけど、それはうそ。ときによって、わたしのことを『不幸』だとか、『不運』だとか、『破滅』だとかいってね。わたしには、もうひとつ、みんながなによりおそろしいと思っている名前がついているのよ」といって死の暗示をする。それから、しばらくしてダイアモンドは死ぬ。
 ジョージ・マクドナルド(一八二四―一九〇五)は、聖職者、大学教師、詩人、説教家、寓話作家、批評家と幅広い活躍をした人であったが、今日では、その神秘的な思想を、伝承から出てきた昔話を借りながら、その次元を広げ、独自の象徴的な意味を豊かに内包するファンタジーとしてつくりあげた作者として評価されているのである。ただ単に、寓意だけで解釈される以上の作品の透明感や、なぐさめてくれるようなやさしさは、それを感じとれる読者をとらえて離さない。
 『北風のうしろの国』では、貧しさと、金持、慈愛とどん欲さ、みにくさと美しさ、わがままと真の柔順、ひいては、ロンドンのスラム街と北風のうしろの国の詩的描写といった対比をふんだんに使って、マクドナルドの宗教観、特に生死観、社会批判のほぼすべてが、ダイアモンドの体験を通して語られている。北風(=死の象徴)を全面的に信じることによって開けてくる真実の世界、大自然の奥底にみちている永遠なるものへの願いとあこがれが一貫して描かれている。ダイアモンドの死が人生の終わりなのではなく、始まりなのであって、死んでなお、より豊かな人生が存在しているものだという信仰が語られる。子どもの読者にとって、ダイアモンドとともにい、マクドナルドの形而上の世界に入ることは、(入れたらということではあるが)非常にスリリングな冒険であろうと思われる。
この作品のもう一つの魅力は、文体である。残念なことに訳を通しては、その香りがかなり消えてしまっているので、ダイアモンドが随所で歌ううたの響きは伝わりにくい。作中話の「第二八章 ひかり姫の物語」にしても、声を出して読んでみると、また別の輝きが感じられるのである。
 例えば、ダイアモンドが歌をうたったところで母親は、「お前がつくったんじゃないだろうな」といい、息子は「だれかほかの人のをとったんだね。それでもこの歌は、ぼくのだよ」といいはる論理は、@赤ちゃんが好き、A赤ちゃんは母親のもの、B母親が好き、C母親は自分のもの、故に、ますます赤ちゃんは自分のもの、と展開する。見えることと信じることとは違うのだというマクドナルドの思想は、中心に子どもをすえて、つまり、ダイアモンドの何の固定観念にもとらわれることのないすなおさで受け入れられるべくして語られるとき、一つの筋の通った論理になっているように思われる。しかし、反面マクドナルドの考え方についていけない人には、無縁のものにもなるのである。理想を語り、現実を批判するマクドナルドの考え方はヴィクトリア朝のイギリス人という背景の中では、よりよく理解できるとしても、死を、永遠の命、ハッピィ・エンドとして強調する唯心性には、反論がなされて当然である。価値観の揺れ、思想の分裂が激しい現代にあって、本質をみつめること、何が真実の姿かみつめることは、実に困難なことである。百年以上も前に、資質的にその奥底を子どもにもわか る文学という形で一つの完成をさせたマクドナルドの作品を切るのに、常にかわっているように見える「現代性」をもってするというのは有効には働かないにしても。(三宅興子
日本児童文学100選(偕成社)
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