風と木の歌

安房直子
実業之日本社 1972

           
         
         
         
         
         
         
     
 安房直子の最後の作品集『花豆の煮えるまで――小夜の物語』は、作者の死後に刊行されたということもあってか、一種遺言的なメッセージがはめ込まれているように読み取れる。とともに、彼女のこれまでの作品世界を読み解くキイワードが、いたるところに散りばめられているようにも思われる。
山奥の温泉宿の息子と山姥の娘の間に生まれた小夜は、彼女が生まれるとすぐに風になって山に帰ってしまった母親の話を、花豆が煮えるまでのあいだに祖母から聞く。山姥の娘と人間の息子の結婚ということは、民話研究などで言うところの異種異類婚である。
 民話の異類婚では、娘を猿や河童や大蛇などの異種異類の者たちに嫁にやる約束をさせられ、嫁になった娘が知恵を働かせて、婚姻相手からなにがしかの財宝を持って逃げ帰ってくるといったものが多い。つまり人間社会と異類社会を対立関係の中にとらえ、人間の知恵による勝利が物語られる。
 安房直子の作品世界では、この作品でもそうであるように、逆に両者の親和関係が基調になっている。というよりも、人間社会を取り巻く森羅万象の中に生命を吹き込み、それらとの交流の中に不思議な物語を垣間見せてくれる。風も木も草花も小動物も、自然の中のすべてのものが彼女に命を与えられると、まるでその霊的姿をあらわにするかのように生彩を帯びて浮かび上がってくるのだ。
 温泉宿の息子の三吉は、町に買い出しに出掛けた帰りに、山の中で狐や百舌やイタチや鬼に次々と豆や魚をせびられ、気持ち良く分けてやる。ある日、山道を歩いていると、三吉の名を呼ぶ優しい声がして、振り向くと紅い着物をきた娘が立っている。瞼がほんのりと紅色の、まるで、ほころびかけた梅の花のような娘だった。花豆を少し分けて欲しいと言われて、三吉が差し出すと、娘はそれを、袂に入れてくれと言う。

「ね、のぞいてごらん。わたしのたもとの中。」
おずおずと、三吉が、たもとの中をのぞきこむと、そこには、小さな小さな花豆の畑があって、いちめん、うすむらさきの花ざかりなのでした。
豆の花は、薄絹のような花びらを、風にふるわせていました。


 のぞくとそこに、不思議な異世界が見えるというのは、教科書にも取り上げられている初期の秀作、「きつねの窓」などでもおなじみのものだ。娘は花豆が大好きな山姥の子どもで、山姥はお礼に温泉宿にたくさんの山の幸を届けてくれ、そのうえ娘を三吉の嫁さんによこした。それが小夜の母親だ。
 山姥というのは、民俗学的には山に住む妖怪で、もともとは山の神に仕える巫女だったと考えられている。しかし、この作品では山の守り神とされ、山から里を見守る山の精のような存在だ。そして山は、死と再生の場であるとともに、山に入るというのは山籠もりも含めて、一種の母胎回帰のイメージとも重なるものだ。小夜の母親が山に帰ったのも、小夜が風になって山を訪ねるのも、そのような民族社会の原初的な心性を象徴しているようにも読み取ることができる。
 小夜は両手を広げて釣り橋を駆け抜け、母親と同じ様に風になって山を越え、谷底まで一面に真っ白な百合の花に埋め尽くされた上空に到達する。白という色は、ヤマトタケルが死んだ後に白鳥になって飛び立ったように、死の世界と現世を繋ぐ意味を持っている。この作品が、繰り返し死と再生をイメージさせながら、小夜の自立へと導く、そのための象徴的な仕掛けが随所にはめ込まれているのだ。三吉と山姥をつなぐ「豆」もまた、民族社会では、節分の豆まきに象徴されるように、厄除け的な役割を持つとともに、死を排除する呪術的な植物ともみられている。
 安房直子の作品世界を辿っていくと、このように民族社会の心性に重なるイメージが多用に散りばめられていて、それらが作品の奥行きの深さを保証しているのに気づかされる。作者がそれを意識して象徴的に用いているというよりも、彼女の自然界に対する優れた感受性と卓越した洞察力とが、自然の中に宿る心霊的イメージを引き出し、期せずして民俗学や文化人類学が抽象したシンボリックな意味を作品世界に浮かび上がらせていると言えるだろう。そしてそのような資質は、一九七○年の日本児童文学者協会新人賞を受賞し、実質的なデビュー作ともなった「さんしょっ子」の中に、早くも読み取ることができる。
 「さんしょっ子」を含む初期の短編を、『まほうをかけられた舌』『北風のわすれたハンカチ』に続いて、一九七二年に刊行された彼女の三冊目の作品集『風と木の歌』の中に見てみよう。そこには、その書名にも象徴されるように、最後の作品集となった、『花豆の煮えるまで』に至る、彼女の生涯の作品的なモチーフが明瞭に表現されている。
 八つの短編を集めた『風と木の歌』の最初の作品は、「きつねの窓」である。ひとりぼっちの若者が、一面に咲く桔梗の花畑で出会った子狐に、青い色の水で両手の親指と人差し指を桔梗色に染めてもらい、それで窓を作って覗くと、過ぎ去った過去の懐かしい光景がそこに映し出される。しかし若者は、いつもの習慣で、無意識のうちに手を洗ってしまったために、そのすばらしい魔法の効力を失ってしまう。
ひとりぼっち、あるいは孤独といった主人公の心的設定は、「まほうをかけられた舌」「北風のわすれたハンカチ」をはじめ、彼女の初期の作品から、すでに物語の前提として頻繁に使われているものだ。そしてその寂しさが、不思議な世界に主人公を誘う要因ともなっている。
 安房直子の作品に共通しているのは、登場人物の個性よりも、物語の中から立ち上がってくる不思議なイメージの鮮烈な印象である。ひとりぼっちであることの寂しさとか、愛への渇望とか、人を恋するひたむきな心といった内面の不条理性や心理状況が、キャラクターの具体的な描写や性格付けに先行し、そのために総じて登場人物の個性を希薄にしているが、かえってそれが登場人物の透明性となって、そこに生起する不思議を一層際立たせ、より印象深いものとなっている。
 幼なじみの百姓の娘すずなと茶屋の息子の三太郎。年頃になったすずなが、隣村の大金持ちの家に嫁ぐのを諦め切れずにいる三太郎に、叶わぬ想いを寄せる山椒の木の中に住んでいるさんしょっ子。「さんしょっ子」は、山椒の木の精を思わせるキャラクターの、けっして報われることのない愛とその悲哀を描いたものだが、木の中にすまう精霊の魅惑的な誘惑で、危うく死の世界に誘われそうになる「カスタネット」や、『花豆の煮えるまで』に収められている「大きな朴の木」同様に、樹木のもつ神霊性を巧みに引き出して、そこに不思議な世界を浮かび上がらせるのも、この作家の得意とするところだ。
 ガラスの棒を太陽にかざし、真っ白なハンカチの上に虹を架け、そこから筆で青い色を取って椅子に塗ると、その空色の椅子に座った目の見えない少女に、まざまざと空が見えてくる「空色のゆりいす」。縄跳びの紐にオレンジ色の水を垂らし、それで縄跳びをするとひなげし色の夕焼けの国に行くことができる「夕日の国」。これらの作品には、「きつねの窓」と同様に、水の持つ根源的な生命力が、呪術的な魔力となって超現実の世界を幻視させるという共通性が見られる。水はまた、神社の聖水やみそぎの水で明らかなように人々を清めるとともに、末期の水のように、生と死を隔て異世界を意識させる象徴でもある。
 「もぐらのほったふかい井戸」の天と地のコスモロジー。自分もカモメだということを知らずに、耳の中の秘密をお医者さんに取ってもらえば、少年に変身していたカモメがもとに戻らないですむと思う、少女のひたむきな愛を幻想的に描いた「鳥」。お医者さんが覗いた少女の耳の中に広がる海の描写は、「きつねの窓」から見えた過ぎ去った懐かしい光景や、『花豆の煮えるまで』の山姥の娘の袂の中に広がる花畑などと同様に、現実世界の間隙から時間と空間を超越して感知できる超感覚的イメージである。
 「あまつぶさんとやさしい女の子」では、因果応報。「だれも知らない時間」では、二百年も生きてきた亀からもらった時間の中で、誰にも知られずに夏祭りの太鼓の練習をする若者が、亀の夢の中に閉じ込められた娘を助け出す。夜を徹して太鼓を打ち続け、村人たちが踊り狂う中で、村人がこぞって亀の寿命を使い果たしてしまうことによって、愛する娘を亀の夢の中から救出するという発想のユニークさとともに、ここでは、悪霊を追い払い、生と死を繋ぐものとされている太鼓のイメージが、効果的に生かされている。
 安房直子の作品世界を、日本という風土の共同幻想から浮かび上がってくる民族社会の心性と重ね合わせて解読していくと、そこに描かれる独特な愛の姿や、死と再生のドラマが、より鮮明に見えてくる。それは彼女が、自然の懐の中に素直に溶け込み、野の草花や樹木や風やらが奏でる微妙な音色を巧みに聞き出し、それを見事に物語り世界にはめ込んでいったからなのだろう。こうして見てみると、風と木の歌というのは、デビュー作から最後の作品集まで、彼女の作品世界を象徴するキイワードだとも言える。(野上暁
日本児童文学 特集・安房直子の世界1993/10
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