片目のねこ

ポーラ・フォックス
坂崎麻子訳/ぬぷん児童出版

           
         
         
         
         
         
         
     
☆『片目のねこ』ってどんな話?

 ネッドは牧師のひとり息子、リューマチ性関節炎で車椅子生活の母と、家政婦との4人でハドソン川のほとりの丘の古い家に住んでいる。9月、ネッドの11才の誕生日の直前、彼の大好きなヒラリー叔父(母の弟)が、ふらりと立ち寄り、1丁の空気銃をプレゼントしてくれた。父はまだ早すぎると、その銃を取り上げ、屋根裏部屋へしまいこむ。ネッドはさからわないが、納得したわけではない。夜中、彼は1度だけあの銃をこの手でさわりたいと思う。手でさわるだけ…。しかし、さわってみると、1度だけ撃ってみたくなった。1度だけ…。そうすれば諦めがつく。
 月夜だった。外へ出たネッドは銃を構える。むこうをよぎる影…。思わず彼は引き金を引いてしまった。
 4ヶ月後、ネッドは向かいのスカリー老人の庭で片方の目がつぶれた猫を見かける。あっ!あの目はあの晩、自分が撃ったのでは?それ以来、彼は罪の意識にさいなまれるようになった。
 少年が苦悩をのりこえて、心のやすらぎを得るまでが、この物語である。

☆この本を読んで感じたこと

 11才の誕生日に叔父さんから貰った思いがけないプレゼントのために、ネッドの人生は悩み多いものとなった。そして、それを乗り越えて成長していく少年の姿。…それにしても、11才の少年に空気銃が贈られるという社会的背景を、私はまず理解しなければならなかった。ヒラリー叔父さんは世界中を旅行している随筆家、おしゃれでハンサムで、少年にとっては憧れの的の眩しい存在だったろう。ヒラリーは、牧師に、「シマリスが屋根裏部屋を荒らすって聞いてたから、ネッドがつかまえれば兄さんが喜ぶかなと思って…」と、軽くいい、牧師の方は「それこそ、ネッドに一番してほしくないことだ」と反論する場面で、銃を持つことの可否が今も問われているアメリカの現状を思った。
 時は作者の子ども時代だろうか。1935年という年は、大恐慌(1929年)でどん底になったアメリカ経済が、やっと立ち直り落ち着き始めた頃で、まだ時間がゆったりと流れ、人々が豊かな自然に囲まれていた時代であった。しかし数年後には第二次世界大戦が勃発する。そういう短期間の平和な時代という設定は現代の物語として読むよりも迫真性があるように私には感じられた。
 少年の回りには、悩める者にとって誰よりも頼りになるはずの牧師の父や、やさしい母がいる。学校友達もいれば、ミセス・スカラップという世智に長けた家政婦や、教会の「善意のかたまり」のような人たちもいて、いつでも手をさしのべてくれそうだ。それなのに、少年は彼らに救いを求めようとはしない。人の模範たるべき牧師の子に生まれた宿命だろうか。
 向かいに住むスカリー老人は一人暮らしの上、手足が不自由なので、ネッドは学校帰りに老人の家に寄って雑用を引き受け、いくらかの報酬を得ていた。冬に向かう季節で、「片目では餌を取れないだろう」と、老人がいい、猫に餌をやるのが2人の日課になった。猫は2人になつくほどではないが…。誰にも話せない罪の意識を持つ少年と、確実に1歩ずつ死に近づく老人の間に、片目の猫が介在する。少年は老人のさりげない言葉に勇気づけられ、老人は少年に支えられて死への旅路を歩んでいく。少年が心のやすらぎを得ようとする場は、一人暮らしで手足の不自由なスカリー老人の所だ。老人とともに片目の猫に餌をやり、自分の背負ってしまった(と思い込んでいる)罪を、少しでも軽くしようと努力するネッド。
 人が老いて死に至るということを少年が知っていくプロセスも重要だ。生命の大切さを実感し、生命をいとおしむ気持が彼の中に芽生え、あの猫を寒空の下に放っておけなくて、大好きなヒラリー叔父さんとチャールストンでクリスマスを過ごすのさえ断念したのだ。…でも、みじめな思いで迎えたクリスマスの日、(あんなみじめったらしい猫のために…。あんな猫、死んじゃえ)と思うのも、少年の本音だろう。
 そして、ついに、死に瀕したスカリー老人に、「あの猫の片目を撃ったのは、ぼくなんです」と告白する。死に至る老人にだから、いえたのだ。(ウソで作ったハシゴの上にのっかっている自分、自分の回りには、雪の塊のようにヒミツがこおりついている)と感じている少年の、氷の一角が溶け出したのだ。スカリー老人の死は悲しい出来事だけれど、ここでは,それがネッドにとって一つの救いになっている。もし、老人が死に瀕していなければ、彼は告白できただろうか。重荷を一つおろせただろうか。
 一つのきっかけが、他の秘密を氷解させる力をネッドに与え、彼は、かつて聖餐のグラスを盗んだことを,父に告白できた。
 そして、ああ、あの春の満月の夜の感動的なシーン…。ネッドは眠れずに、小康を得た母と庭に立つ。庭の隅をあの猫が2匹の子猫をつれて歩み去る。「顔を見せるのは、もうこれでおしまい」というように。ネッドは思わず心の秘密を母に打ち明ける。母も過去の秘密を彼に語って聞かせた。父母と心をわって話すことで、3人は本当の家族になれたようだ。卵のからがわれたように…。
 ネッドが撃った弾は本当にあの猫に当たったのだろうか。真相は分からない。しかし、それはもう、どうでもいいことだ。悩みを乗り越えて逞しく成長した少年と、強いきづなで結ばれた家族がここにいるのだから。
 事件の始まりは9月の月夜、そして、ラストシーンは春の満月の夜だった。すべてがよみがえる春を迎えて、ネッドにも新しく生きる力がわいてきたようだ。

 この物語で、傷ついた若い魂への癒しとなったのは、より弱き存在にむけての自らの行動だった。その点で、M.マーヒーの『ゆがめられた記憶』に通じるものがある。
 さて、作者はネッドが大きくなった時、銃を持つかどうか、結論をいっていない。しかし、ネッド自身、もう充分すぎるほど考えたはずだ。そして、あの月の夜、メイクピースさんの荒れ果てた庭園で(MAKE PEACE…なんて象徴的な名前だろう!)母から、その家の2人の息子が、銃で撃たれて戦死した話を聞いたネッドは、きっと銃を必要としない大人に育つだろう…と私は考える。(山本明子
「たんぽぽ」16号1999/05/01