考えろ丹太!

木島始・作
池田龍雄・絵 理論社 1960

           
         
         
         
         
         
         
     
 少年のポケットから金をくすねた山高帽の紳士が、ベルリンの町なかで少年少女に追いつめられるといえば、いうまでもなくエーリッヒ・ケストナーの『エーミールと探偵たち』です。この作品はナチス擡頭の前夜ともいうべき一九二八年に出版されました。それからすでに半世紀経ったというのに、この少年少女探偵団のファンはいまだに跡を絶ちません。ケストナーのすこしだけ皮肉な目、人間に対するあたたかい配慮、それに抑制のきいた独自の表現の仕方、加えて、子どもが大人よりも正義に近いという発想、そうしたものが年齢をこえて多くの読者を魅了し続けるからでしょう。当然、日本の児童文学もまた、こうした上質の作品の誕生を考えます。『エーミールと探偵たち』のような愉快な物語であって、しかも現代そのものを表現したもの。そうしたものを考える時、ここに一つの作品が浮んできます。木島始の『考えろ丹太!』がそれです。この作品こそは、まさにそうした期待に応えるべくして、一九六〇年に上梓されたきわめてユニークな作品だとわたしは考えるのです。ここには、ケストナーの世界を、形を変えてなぞるのではなく、それをこえる形での同質の文学があります。
 一九六〇年といえば、日本の児童文学が、従来の児童文学伝統を踏みこえて長篇小説の在り方を手探りしている時期です。そのために現実の諸矛盾を子どもを鏡にして表現しようという試み、あるいは正義や連帯を志向して新しい方向を見いだそうという試み、また、向日性の文学という理念からオプティミズムにむかう試みなど、さまざまな方向探求がなされました。その中で、『考えろ丹太!』は、文学性とおもしろさの二つを作品の中にからめとり、児童文学の新しい方向の一つを示唆したものだといえます。
 物語は、地図にない町、河をはさんで東京に隣接するナカ町の六月のある夜の出来事から始まります。学校にいくよりも店の手伝いや子守りに忙しい中学一年生のモリ・タンタローとミヤノ・ミチ。この二人が偶然、堤防から河に転落する自動車を目撃します。転落現場から立ち去るバクに似た男。そして、河口で発見される死体。その死体はタンタと同級生のヒデオの兄らしいというのです。警察は事故死ということで片付けますが、タンタたちは疑問に思います。オオタ・カンイチにヒデオを加えて、しまらない探偵活動がはじまります。もちろん、この探偵団は自動車事故を殺人事件と考えるわけです。物語の展開につれて学校の先生もまきこまれていきます。千利休の死を学術論文にしようと考えているキムラ先生。それに担任のサクマ先生。事件は、タンタが家出し、死んだはずのヒデオの兄にめぐり合い……といった形でひとつの終幕を迎えるのですが、これがいわゆる推理小説ではなく、きわめてシリアスな物語であったことはつぎの言葉で明らかです。
「作者であるぼくは、犯人なんてどうでもいい、とまでは云わないものの、ふつうの探偵小説ほどには、犯人がわかっちまったら万事休す、とも思ってはいないのだ。」(あとがきより)
 もうひとつ引くと、この本の「はじめに」記された編集部のこの作品に対するつぎの言葉がそうです。
「ちょっと、推理小説かスリラーみたいですね、と、わたしたちが言ったら、作者は、とても残念そうな顔をしました。」
 わたしには、この作者の「残念そうな顔」がすこしだけわかるような気がします。きわめて私的な話ですが、わたしが『目こぼし歌こぼし』という作品を書いた時、やはり、それによく似たことをいわれたことがあるからです。
「ミステリーのような時代小説ですね。」その時、わたしはこの作者のように、とてもくやしげな顔をしていたのだと思います。
 ミステリーを書く[*「を書く」に傍点]ことと、ミステリー風に書く[*「風に書く」に傍点]こととは大いに違いがあるのです。ミステリーを書く場合には、事件を追いつめ謎を解く点に比重がかかります。しかし、ミステリー風に書く場合には、事件や謎解きも用意しますが、それ以上に、人間の在り方、あるいは人間関係の表現に比重を置くわけです。事件や謎解きは、時代状況をより鮮明にするための一つの手段であり、同時に物語のおもしろさを生みだすための道具立てです。手段・道具といっても、その作為の中に、そういう形で現代の問題点や人間の矛盾も描きたいという意図もあります。いずれにしても「そうした点」だけで作品をきめつけられることへの不満が、右の作者の言葉や顔によくでています。
 『考えろ丹太!』は、少年少女の在りようを描くために(いや、大人たちの在りようも描くために)ミステリー仕立ての構成を取りました。しかし、作者がそこで表現してみせようとしたのは、事件でも謎でもなく、そうした出来事を生みだす人間や人間社会の歪みです。たとえばバクのような顔の男や豊島組といった組の存在に集約される現代社会の暗い顔。あるいは「ナカ町新報」の社長に代表される欲ぼけた大人たちの生き方。そうしたものと併存しなければならない現代の少年少女の在り方といったものが大きい比重を占めています。
 もちろん、それだけではありません。物語から主題だけを抜きだす風潮にむかって、人間表現の厚みやおもしろさといったことも考えさせようとします。たとえば、モリ・タンタローの父親モリ・ヤスオ(五十二歳)。この人物をきわだたせるために、作者はさまざまな人物にコメント述べさせるのですが、ここには、タンタローの父親を浮き彫りしようという意図とともに、作者の「遊び」があります。妻、警官、先生、お客などの発言にまじって、野良猫も一言意見を述べるのです。
 こうした「遊び」が、実はこの作品の厚みでもあり、文学のおもしろさを明示するためのしなやかな発想のあらわれであることは、いうまでもありません。主題や筋書きだけを追う児童文学の在り方に、文学の在りようを示そうとした試みといえます。はじめに、この作品をシリアスなといいましたが、シリアスな作品とはかならずしも深刻な顔をしているものではないのです。そのことは、この作品に一貫してある知的なユーモアによってわかります。(上野 瞭
日本児童文学100選(偕成社)
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