[抜粋C]

 ここに興味ある一文がある。日本出版販売株式会社のPR誌〈子どもらいぶらり〉(一九七二年・六月号の『課題図書』と題する「巻頭言」で、署名は全国学校図書館協議会事務局長松尾弥太郎となっている。

 〈読書感想文全国コンクールが始まってから、今年で十八年目。はじめのころは、応募対象の本には、何の制限もなかった。図書館にある既刊の本がすべて対象となっていた。しかし応募した感想文は、ほとんど文学関係の本が対象となっていた。そこで、文学以外の本にも目を向けさせたいと思い、対象図書を第一類文学、第二類非文学の二部門とした。その後、さらに新刊図書にも注目させたいという声が指導する先生方の間から起り、第八回コンクール以降、自由読書の部(第一類部門、第二類非文学)課題読書の部(第三類課題図書) の二部門とした。音楽コンクールに、自由の部、課題の部とあるのにならったわけである。応募者は自由、課題のそれぞれ一編計二編に応募できるしくみである。/過日、新聞社の記者が訪れてきた。課題図書について、いろいろの批判があるが知っているかという。/聞いてみると、課題図書そのもの、課題図書制度の批判というより、課題図書決定までのいきさつに対する疑心暗鬼の声といった方がいいかもしれない。ほとんどが、課題図書の選から洩れた出版社、作家たちの声であった。取次会社、書店の心ない商売競争からくるノンフェァプレイ。これも批判の的 となっていた。つきつめていくと利潤追求にからむ大人の声ばかりで、残念ながら子どもの声はひとつもなかった。/そもそも読書感想文コンクールは、本を読まない子へ刺戟奨励のひとつとして企画された仕事である。何を読んでいいかわからないままに本を読もうとしない子に目安のひとつとして与えられた課題図書である。/心ない大人たちの、筋を外れた批判論争は、子どもたちにも、私たち関係者にも迷惑な話である。〉

 これを読んだとき、正直なところ、私はこの盗人たけだけしい居直りに呆れ返って、言葉が出なかった。飢えたネコの中へネズミを投げこんで、ネズミを捕えようとするネコがお互いに小突き合ったからと言って、ネコの責任だろうか。もっとも近ごろのネコはネズミを獲らないというが、相手はただのネズミではない、億というキャッシュを銀色のラべルに貼ったネズミなのだ。ネズミをほうりこんだ責任など知らぬ顔で、ネコを非難するなぞ、どこぞの革新政党と全く同じやり口ではないか。この松尾の文章を読んだあとで、たまたま問題になったのが、例の盗作問題であった。私は日本読書新聞から、この問題と課題図書について論じてくれという依頼を受けた。過去何度も課題図書批判をしてきた私が適任だと言うのである。この事件の直後、私は村田栄一、遠藤豊吉とこの問題についての座談会をしていたのと(『闇への越境』村田栄一・田畑書店に収録)、事件報道前に私が、ある講座でその問題に言及したことから、事件を暴露したのは佐野美津男・山中等、六月新社のトロッキスト共の陰謀とささやかれていたこともあって、気が進まなかったが、前の松尾の文章のことがあるので、引受けるこ とにした。

〈八月十日朝日新聞(朝・夕刊)、十一日読売新聞(朝刊)がかなりのスぺースをさいて報じた児童文学者那須田稔盗作事件は、その後、那須田の日本児童文学者協会退会を報じた読売の記事だけで、それに関する児童文学者の公的な論評もないままに終止符を打ってしまった感がある。もちろんこの事件に附随して問題の作品『文彦のふしぎな旅』を絶版にしたものの読編の扱いについて出版社が苦慮していることや、鳥越信・渋谷清視監修で刊行の寸前であった那須田稔選集も中止になったという話もきいた。しかし那須田が日本児童文学者協会の理事であり、甚だ皮肉なことに著作権問題委員長であり、機関誌「日本児童文学」の編集長であったこと、及び過去三回、全国学校図書館協議会(略称SLA・以下略称使用)主催の青少年読書感想文コンクールの「課題図書」の選定を受けた、いわば当代一の売れっ子作家であったことに極めて不気味なものを感じるし、問題はただ単に盗作だけで、児文協退会といった処理だけで終ることとは思えないのである。/那須田は「課題図書のチャンピオン」といわれていたし、その知名度からも、どこの出版社も彼の作品をほしがっていたという。事実、三度「課題図書」 の指定を受けた児童文学者は現在までに三名いるが、三度とも「小学校の部」であったのは彼だけである。小学校の部に指定されたものが圧倒的に売れることは常識になっている。しかも今度問題になった『文彦のふしぎな旅』の巻末に推薦の解説を書いているのはSLA参事・日本子どもの本研究会理事である里沢浩である。かなり釈然としないものが残る。出版社・作家・課題図書のべたつきを感じるのである。/ところで問題の「課題図書」についてSLA事務局長松尾弥太郎が「子どもらいぶらり」(日販)の六月号の巻頭言に甚だ興味あることを書いている。(*以下、前掲の引用文の後半があって)まさに六○年安保のときの岸信介が「声なき声をきく」といった倣岸さにもにた、恥知らず不正直な発言である。課題図書選考の基準も秘密なら、選考委員の構成メンバーも非公開である。疑心暗鬼のもとを作っておいて一切の責任を出版社や作家などに押しつけて居直っている。ところがこれに抗議している出版社も取次会社も書店もないのである。本当にこんなことを言わせておいていいものかどうか。出版社の場合わからないでもない。児童図書専門の中小出版社にとっては最高二五万部も売れるという「課題 図書」になんで因縁がつけられよう。本の奥づけの広告だって有効に作用する。/確かに今日の創作児童文学出版の隆盛はこの「課題図書」の開設に負うところが大である。日共系の児童文学者たちは地道な読書運動、母親文庫、作家の努力などを第一番に謳い「課題図書」の問題をさけて通っているが、「課題図書」の開設は無視できない。大体いままでに一年やそこいらで二五万も売れた児童図書があったか。だがそうしたことから惹起された「隆盛」は結果的にどうであったか、驚異的なまでに出版点数、購買部数を増大させはしたが、児童文学の質的な高揚はもたらさなかった。「課題図書」むきのテーマと「課題図書」になりやすい作家を「課題図書」をねらう出版社が追いまわすという現象を表出させただけである。しかも全国の地方教育委員会と結んで、行政的権力を帯びながら学校に「課題図書」を押しつけたために、図書予算の少い学校などでは図書室の本棚は何年分かの「課題図書」とその副本に占領されて、他の図書のはいらないのが現状である。/「本を読まない子」が聞いて呆れる。ただでさえ、本を読みたくない子どもに強引に本を押しつけ、それも本来的に子どもの情緒を刺戟し解放 するような本ではなく、ほとんどが、感想文を書きやすい、比較的テーマのはっきりしているなどの理由で選ばれたらしいもので、教育的効果のために感想文を書かされたのでは、これから本を読もうとする子どもも、本を敬遠するようになる。/確かに作家にとって自分の著書がより多くの読者の手に渡ることは念願である。しかしこんな形で渡され、感想文を書かされ、そのために子どもから呪われることが念願のわけはない。児童文学者の中にはかならずしも、「課題図書」を狙っているのではない作家も出版社もあると所感を述べているものがあるが、そのことまで否定はしない。だが、その発言が何を利しているかを主体的に問い直すべきである。/那須田問題はそうした根の無い隆盛に酔う児童文学状況の中でからくりに防衛されて鈍磨した部分を露呈させたに過ぎない。しかもこの状況は当分続く筈である。七月二日青少年文化センター主催の「課題図書・推薦図書を考える」の席上で、SLA選定部長芦谷清は「課題図書は続ける」と明言しているのである。/多分この拙文も「選に洩れ」っぱなしの作家のエゲツナイ、ゲスの勘ぐりのきき過ぎた「心ない」批判として黙殺されるであろう。しかし私は 私たちのミニコミ誌「児童図書館」に拠って、喚き続けるつもりである。二九七二年・九月二日)

 同じころ、この問題について、村田栄一が〈婦人民主新聞〉の「教育時評」で論じている。重視する部分もあるが、前記松尾の文章に対しての数少い意義申立てのひとつとして目を通して欲しい。

 〈こどもにとって二学期は「読書の秋」たりうるかということについて今日は考えてみたい。/夏休みの宿題を減らして、そのかわりに読書をすすめようという傾向が、ここ数年来強まってきた。文部省が昨年から改定した学習指導要領(小学校)の中で「読書指導」重視を打ち出した影響がはっきりとあらわれてきた。夏休み前に、どこの学校でも読ませたい本のリスト作りに夢中だったことを思い出す。/そのプリントを持って、こどもたちは書店や図書館に出かけていった。/「ねえ、『モテモテの木』っていう本ない?」とか『ゆきちゃんのお話ください」などという注文を受けて困った司書もいたとかきいた。教師たちが印刷したリストには、例外なく毎日新聞と学校図書館協議会(SLA)主催の感想文コンクール課題図書が載っているのであるが、課題図書であるならば読まないでも推せんしてしまうという無責任さから『モチモチの木』が『モテモテの木』になったり、『ゆきごんのおくりもの』が『ゆきちゃん…』になったりしてしまうのであった。(三点とも本年度低学年向課題図書)/とにかく「本を読むことは良いことだ」という思想が一般的にあって、官制読書体制へ向う警戒心はまだきわめて弱 いといわねばならない。/学習指導要領をめくってみると、いたるところに「○○○技能と態度を養う」という用語が使われていることに気づく。体系だてられた科学的認識よりも小手先の技能や心掛けを重視する文部省の教育観がそこにあらわれているのであるが、とくに社会科や国語科において、それは〈道徳〉への傾斜となってはっきりと表出している。/ぼくは「読書指導の重視」という方針を、このような「道徳へのすりかえ」路線に接続するものとみなしているのである。/このような目で「隆盛」を誇る児童図書界を眺めてみると、そのマスプロ=マスセールをリードするものとして「課題図書」の選定ということが浮かびあがってくる。/小学生向けとして毎年六点選ばれる本は、とにかく選ばれさえすれば二十万部以上の売れ行きが保証されるのであるから、作家にとっても出版社にとっても無関心でいられるはずがない。ところが毎年無数といってよいほど発行される児童書の中で六点だけ(小学生向きの場合)がヤケに売れ、読まされるということは何とも不自然な話ではないか。選定図書がズバ抜けた良書である保証はまったくない。出版社と作家のバランス(そのバランス感覚を分析すると選定 者の思想が浮き彫りになってくるのであるが)を計算した上での「売書」運動にすぎないのである。/「課題図書」開設によってひきおこされた児童図書の「隆盛」がもたらしたものは何か。ユニークな書き手として知られる山中恒氏は次のように言う。/「驚異的なまでに出版点数、購買部数を増大させはしたが、児童文学の質的高揚はもたらさなかった。『課題図書』むきのテーマと『課題図書』になりやすい作家を『課題図書』をねらう出版社が追いまわすという現象を表出させただけである」(「日本読書新聞」九月二日号)/比較的テーマのはっきりした感想文を書きやすい本が、そして批評家をくすぐる適度の時事性と進歩性で味つけされた本が選定の対象となりやすく、しかも一旦「選定」されたとたん、教育委員会、学校図書館、母親の読書サークル、書店とあらゆるネットワークを通じて、飛ぶように売れるというナダレ現象が待ちかまえているとなれば、「課題図書」選定ということが児童文学を〈文学〉として質的に高めて行く契機になどなりっこないということがはっきりとしてくる。/こどものうちにひそむ野性的なバイタリティを対象化することによって、「よい子」の偽善性をさらけ出し 、必然的ななりゆきとして〈権力〉としての教師や親の仮面をひっぱがしてしまう山中恒氏など、その作品のリアリテイによって「選定」されるはずはないのである。文学としての緊張をもたらす上で不可欠な「毒」を敬遠してしまう教育的配慮によって簇生している「毒消し児童文学」の行方は? 過去三回もその著書が「選定」され、課題図書時代を代表する花形作家のひとりであった那須田稔氏の作品『文彦のふしぎな旅』が、長谷川四郎氏の『少年』の盗作を含むものであったということに示される「創造的表現」の欠落こそ「根のない隆盛に酔う児童文学状況」(山中恒)の頽廃を象徴するものではないか。/「そもそも読書感想文コンクールは、本を読まない子への刺戟奨励のひとつとして企画された仕事である」とSLA事務局長の松尾弥太郎氏はいう。(『子どもらいぶらり』六月号・日販)そして「課題図書」に対して批判を加えているのはほとんどが、「課題図書」の選から洩れた出版社、作家たち……つきつめていくと利潤追求にからむ大人の声ばかりで、残念ながら子どもの声はひとつもなかった」とひらきなおっている。この松尾の文章は傲慢の一語に尽きる。選定基準も選考メンバーもいっさ いが秘密・非公開のうちに「隠れたべストセラー」がでっちあげられて行くことのおそろしさをぼくは感じる。こどもたちはいま「売書」と「読書指導」のはざまで、教育の名のもとに、「無告の民」として「感想」を強制されているのだ。/もともと、〈読書〉とは個的な「心」が、共鳴する精神との「出会い」をたずねて彷徨する「自由」選択にこそその喜びがあったのではないか。「課題図書制度」とはその「個的な自由選択」を脅かす「思想統制運動」(強制読書)の一端として排撃されねばならない。/こどもたちにむかって「課題図書」を無批判に媒介してきた無責任さの反省の上に立って、ぼくは子どもたちから逆流してくる回路を持った「手づくりのリスト」によって、眼前のこどもたちに挑戦してみたいと思っている。そのような主体的緊張を賭けた「読書の秋」にしたいものである。〉

 前記松尾の文章には確かに「応募者は自由、課題のそれぞれ一編計二編応募できるしくみである」と、何やら恩着せがましく言っているが、実際、教育委員会あたりからの押しつけで、感想文コンクールに応募する場合、教師としては「自由読書」を選ぶことが不可能であろう。例えばクラス四○名の子がそれぞれ一冊ずつ計四○冊の本の感想文を書いたとして、いかに優秀な教師であろうと、感想文の対象になった本に当らないで、その指導が出来るわけがない。そこで勢い「どの本を読んでもいいのだが、課題図書はこれだ」という言い方になる。教師としては指導、比較などの面で、課題図書一点に絞った方がやりやすいというのだ。もちろん、この「やりやすい」という言い方にひっかかるが、これはわからないでもない。村田の文章にもあるが、夏休みの宿題としてこの課題図書を読んで感想文を書かせることが、ごく普通に行われている。親の方としても、子どもが夏休みに本を読むと言えば、嫌な顔はしない。冒頭の阿部氏の文章ではないが、テレビやマンガよりはよいという「活字神聖視」の迷信があって、親は喜び勇んで子どもを連れて書店に行く。ちなみに児童図書出版社は、この課題図 書がもっとも売れる夏場は新刊書を出さない。出したところで売れないし、いたずらに返本期限を待つだけの結果になってしまうからである。
 一般書店の場合も、この時期には比較的目立つ場所に課題図書コーナーを設けて、銀の丸いシンボルマークのラべルを貼った課題図書を平積みにする。そのために特別の設備をして、その費用をどこへ請求したらよいのかと出版社の営業に問い合わせがあったという笑えない話もある。もっとも近年は、夏休みにはいる前に、取次店が各書店に「課題図書はなるべく学校単位で一括注文されたい」と要請している。そうすることにより、取次手続きの煩雑さが省略される上に、まちがいなく部数に見合った手数料がはいる。取次店や書店に取っても、これは悪くない材料である。

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