ゴッドハンガーの森

ディック・キング=スミス作
金原瑞人訳
講談社 1998

           
         
         
         
         
         
         
     
 『ゴッドハンガーの森』がディック・キング=スミスの硬派のファンタジーと聞いて、不思議な気がした。キング=スミスといえば、『ベイブ』として映画化された『子ブタ シープピッグ』や『ハリーのひみつのオウム』などイギリスのユーモラスな動物ファンタジーの作家として頭に刻みつけられていたからだ。だが、読み終えて納得した。硬派とは、いたずらに動物を殺す人間に対する、怒りの動物ファンタジーであった。
 いたずらに動物を殺す人間対動物という構図は、神沢利子の『銀のほのおの国』や、メルヴィン・バージェスの『オオカミは歌う』などにも見られる。前者では、トナカイと青イヌの戦いのなかで、この世界に送りこまれた男の子が無益な殺生をする二本足の息子として特別扱いされ、後者はハンターとオオカミの死闘である。執拗にオオカミを追うハンターの姿には、同じ人間として怒りやなさけなさをおぼえ、最後にオオカミがハンターを出し抜くシーンには拍手をおくりたくなる。『ゴッドハンガーの森』は、怒りの激しさという点で『オオカミは歌う』に匹敵する。
 ゴッドハンガーの森には、ウサギ、イタチ、アナグマ、オオガラス、フクロウなど様々な動物が暮らしている。この森には他の森にはない二つの特徴がある。小さな開墾地に森番が住んでいることと、森のはずれの大きなレバノンスギにスカイマスターがいることである。
 スカイマスターはある日突然森に現われた謎の鳥で、森の動物の命を森番の銃から守っている。レバノンスギでは、スカイマスターを中心に鳥たちが夜明けの会合をもち、森番に殺されつるし台につるされた仲間の報告をしたり、スカイマスターから、生き物に上下の区別はないことや、仲間の死をなぐさみものにしないなどの教えを受ける。鳥のほかにも、スカイマスターは親を失った子ギツネに食べ物を与えたり、森番の小屋へ近づくものに忠告を与えたりする。 スカイマスターに狩猟の邪魔をされ続け、畑や鶏が荒らされ、瀕死のノロジカの角に右手を裂かれ、スカイマスターにライフルを持ち去られたとき、森番は復讐の鬼と化す。手当たり次第動物たちの命を奪い、スカイマスターをつけ狙うようになる。森番の執拗な復讐に対し、森番の行く先々で鳥たちが警告の声をあげてたちむかう。このなかで、スカイマスターは仲間の命を救おうとして、森番の銃弾に倒れる。しかし、森番にも天罰がくだる。
 本書ははたして、動物ファンタジーなのだろうか。読んでまず驚くのは、登場する動物たちの生態や動物世界の食物連鎖のリアルさである。例えば母ウサギが森番に殺される箇所では、撃たれた虫の息のウサギを猟犬がくわえてくると、森番がウサギの首の骨を折る。さらに森番は死んだウサギの腹を裂き、内臓を下生えに捨てる。内臓はイタチの腹におさまり、残された子ウサギはアナグマの餌となる。余ったものは、ウサギの毛皮だけである。
 このリアルさは、動物世界のはみだしものである森番の存在を浮き上がらせる。またこのリアルさ故に、登場する鳥や獣に固有の名前があり、人間の言葉は話すのだが、動物以上の顔が見えてこない。鳥たちが鳥以外の顔を見せるのは、スカイマスターと関係する場面がほとんどである。ここにはスカイマスターと森番の闘いという構図を強調する狙いがあったと思われる。本書がリアリズムの『オオカミは歌う』に似ていると感じたのはこのためであろう。
 それでは、スカイマスターとは何ものなのか。鳥としては、ゴールデンイーグルだというが、中身はキリストの化身である。誕生の前夜に空に不思議な光が輝き、その誕生を祝って三羽の鳥が訪れ、レバノンスギには十二羽の信奉者がとりまく。死後の世界を信じ、「ゆるす」という言葉を残し、仲間の犠牲となって命を落とす。その後、自ら予言したように、昇天する。動物が強大な人間という敵に立ち向かうには、人間を越えた神の存在が必要だったのであろう。 自然と人間の共存が叫ばれている今、キング=スミスの怒りに耳を傾けてみようではないか。(森恵子
図書新聞 1998/07/18