銀河鉄道の夜

宮沢賢治 ちくま文庫 宮沢寛二全集7

           
         
         
         
         
         
         
    
 父親は漁に出たまま帰ってこず、病気の母親と暮らす貧しい少年ジョバンニ。親友は、博士を父に持つカムパネルラ。
 今夜は銀河のお祭り。授業で銀河系を習っていたときそれが星の集まりであることを知っているのに、ジョバンニは寝不足でぼんやりしていて答えられません。バイトをすませ母親の世話をし、牛乳をわけてもらいに行った後、お祭りを見学しようとすると、出会ったクラスメイトのザネリが、父親のことで意地悪な言葉を投げかける。もうしわけなさそうにジョバンニを見るカムパネルラ。川へ行くみんなから逃れるように丘へ向かった彼は、そこで銀河鉄道の列車に乗り込みます。寂しさがジョバンニを幻想世界に導く。そこにカムパネルラが乗り込んでいるのを読者は不思議には感じないでしょう。彼はジョバンニの寂しさを埋めてくれる友だちなのですから。ジョバンニ(と読者)はまだ知りませんが、現実世界では溺れたザネリを助けたカムパネルラは水死しています。ジョバンニが寂しさで夢に見る幻想風景が、そこかしこで死の匂いを漂わせているのはそれ故だったのだと、カムパネルラの死を知った時点で。読者はなんとなく納得します。
 ジョバンニの夢の中でカムパネルラは「おっかさんが、ほんたうに幸になるなら、どんなことでもする。」と述べます。自己犠牲をも厭わない、大人にとってはある意味で理想的な良い子像です。彼は亡くなっているので、こ想いは悔いとしても受け止められます。続けて「けれども、いったいどんなことが、おっかさんのいちばんの幸なんだろう」。カムパネルラの想いは宙に浮いたままです。一方その後今度はジョバンニが「ほんたうにみんなの幸のためならば僕のからだなんか百ぺん灼いてもかまわない。」。カムパネルラの言葉とほぼ同じです。対象が「おっかさん」から曖昧な「みんな」へと変わっただけで。続けて、「けれどほんたうのさいはいひは一体何だらう。」
 これはジョバンニの夢ですから先のカムパネルラの言葉も、本当はジョバンニの想いでだと考えることもできます。とすると、水死していると読者が後で知ることで納得してしまうカムパネルラのセリフも、ジョバンニの一層曖昧なそれを、補強するために仕組まれたものと言えるでしょう。
 「みんなの幸のためなら自分がどうなってもいい」という想いを持つ子ども。その「幸」のあまりに曖昧なことに気付いている子ども。彼自身の「幸」は「みんなの幸のためなら自分がどうなってもいい」であるようですから、これは無限循環です。
 大人が幻想する理想像の罠にはまるなよ!。ジョバンニにはそう声をかけてあげたい。(hico)(徳間書店 子どもの本通信 200212)