がんばれウィリー

ジリアン・エイブリ:作
松野正子:訳 岩波書店 1971/197

           
         
         
         
         
         
         
    
    
 まずは物語を概観することから始めよう。
 『がんばれウィリー』、原題は“A Likely Lad”−−“有望な若者(少年)”ということになるだろうか。舞台はイングランド北部の工業都市マンチェスター、時代は前世紀末から今世紀初頭にかけて、いわゆるヴィクトリア朝時代の末期である。こちらはロンドンが舞台だけれども、コナン・ドイルのホームズ物が人気を博したのが一八九〇年代だから、ほぼあの作品の時代を思い浮かべればいいだろう。
 ただ、産業革命以降この時期にかけて、イギリスの社会構造は大きな変動の時を迎えており、「ほぼ」という風な言い方は許されにくいかもしれない。というか、そうした社会構造や価値観の転換の時代、ということがこの作品のテーマとも大きく関わってくる。
 主人公のウィリー・オーバーズは、作品の冒頭では六歳や八歳の頃のエピソードも語られるが、物語の“現代”においては十二、三歳になっている。当時のイギリスでは十三歳までが義務教育であり、つまりはウィリーの“進路”が問題になる時期ということでもある。
 オーバーズ家は小さなパン屋を営んでおり、ウィリーの両親と弟のジョージの四人家族である。ウィリー以外の三人ともこの物語においてはきわめて重要な登場人物であり、オーバーズ家の家族全部が主人公とさえいって良い。
 ウィリーは学校に上がる前から字がスラスラ読めるといった利発さを示し、父親の期待を一身に背負っている。ウィリーはオーバーズ氏にとって、まさしく Likely Lad なのである。さて、その“期待”の中身だが、それはオーバーズ氏のきわめて強固な人生観と分かち難く結びついている。彼は幼いときに家族を失い、みなしご同然の境遇から身をおこし、パン屋を開業するところまでこぎつけた努力の人である。彼は、ウィリーが近所の工場労働者の子ども達と遊ぶことを禁じており、自分の子ども達が将来まちがってもそうした境遇にならないように心を砕いている。
 ウィリーは、わたしが“やめたところ”から“はじめる”のだ。わたしのできなかったことをするのだ。ウィリーには、できる。それだけの力がある。わたしには、それがわかる。ウィリーは、上へ、上へとのぼって行くのだ。わたしたちは、みんなで、そのウィリーをば、みまもって行くのだ。そうとも。上へ上へとのしあがって行くウィリーをな。わたしたちは、ウィリーの名前がオーバーズだということをば、ほこりに思うようになるだろう。
 しかし、この文字通りの上昇志向には、また一つ別の側面もある。オーバーズ氏は、自身が貧困から身をおこし、労働の中で暮らしてきただけに、その出自ゆえに安楽に暮らせる人々=貴族たちに強烈な反感を抱いており、勤労者、平民のための社会運動家たちを崇拝している。ウィリーが文字を覚えるや父親は真っ先にこうした人々の著書を与え、ウィリーに彼らの後に続くことを懇々ととくのである。
 物語りは、この父と子の関係を軸に、オーバーズ家のライバルともいえる母の姉の家族であるサウター一家との様々な軋轢、両親の結婚以来絶縁していた母方の大叔母ミス・チャフィーの遺産相続をめぐるごたごたなど、盛りだくさんな展開で読者を飽きさせない。こうした中で、「優柔不断な優等生」の典型的なタイプであるウィリーも、少しずつ自分というものを形作っていく。そうしたクライマックスとして、物語の最後では、義務教育を終えたらすぐに実社会に出て生きた勉強をすべしという父親と、進学して学校での勉強を続けたいというウィリーとの対立(といっても、ウィリー自身はそれを口にすることすらなかなかできないのだが)に至っていく。そして、結局父はウィリーの選択を認め、むしろ学問の道で“有望”らしいわが子の将来に新しい夢を託すのである。
 この作品は一九七一年に出版されているのだが、確かに人間造型や場面場面では確かなリアリティーを感じさせ、楽しませてくれるこの作品に対する、作者の基本的なモチーフということになると、正直のところぼくにはもうひとつ良く分からない。七〇年代という時代にあって、この作品の書かれた意味をどのようにうけとめたら良いのか、そのあたりがつかめないのだ。
 ただ、次のようなことは言えるかもしれない。オーバーズ氏とウィリーとの間にあるズレは、どの時代にもある父と子の対立という側面は持ちつつも、自己と社会とが地続きの世界に生きてきたオーバーズ氏と、自己と社会との対立もしくは齟齬という根本的不安を抱えながら生きようとしているウィリーとの断層ではないか。見えるもの」のためにいきていけば良かった父に対して、これからウィリーが立ち向かおうとするものはむしろ「見えないもの」であり、言えばそれが「近代」ということでもあるのだろうか。ウィリーがこれからの自らの“有望”さとどう対していくのか、近代そのものがそこで問われていると言えば、この作品からはあまりに離れてしまうだろうか。(藤田のぼる
「世界の児童文学百選」(ぶんけい)

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