おしゃべりなカーテン

安房直子

講談社 1987


           
         
         
         
         
         
         
     
くカーテン〉というのは、よく考えるととてもファン夕ジックな素材だ。光や風や景色を遮断し、内側にひとつの世界をつくりだす。そして、そのカーテンの色や摸様や素材が、閉ざされた空間を演出する。それだけではなくふんわりと揺れたりさっと引かれたり、現実と異界の境にふさわしく、なかなか変化に富んだ存在なのだ。またカーテンは心の壁もあらわす。いつかソ連の若い演出家の「桜の園」を観た時、舞台で白いカーテンがラネーフスカヤの心そのもののように終始風に揺れていたことなども思い出す。
こんどの安房さんの新作『おしゃべりなカーテン』は、そうしたカーテンの持つ、象徴性までも含めたさまさまな性質をたくみにとらえた連作のメルへンになっている。
カーテン屋さんをはじめたおばあさんがミシンをカ夕カタ踏んでつくる力ーテンの一つ一つがお話になっていくが、注文者たちはネコやネズミや蝶や、これから生まれてくる赤ちゃんのお母さんなどいろいろ。でも、おばあさんがはじめて作った「力ーテン屋さんのカーテン」は無地のまっ白な麻だ。ときどきしゃらんと揺れて、おばあさんの問いに答えたり、示唆をあたえてくれるこの純白のカーテンは、魔法の世界を生みだすナイーヴな心の原点のような存在で印象深い。「白いカーテンのむこうがわには、なにかとてもいいものがかくれているような感じです」たとえば希望・・・・・と、おばあさんの小さな助っ人のはる子はつぶやく。
ほんとうにどの話にも希望の色が灯り、ともすれば美しい悲しさに逃避することもあった安房さんのメルへンが、希望の人間=子どものものになってきた、という感じだ。そして、その白を基調とした上で紡き出される色彩は心にしみるようだ。故郷の魚村に帰れず、海の色のカーテンを注文しにきた男の人に、おばあさんが白いカーテンの助言をきいて作ったのは、濃い水色、薄い水色、黄色、うす紫と白の五枚のレースを重ねたカーテンだった。「海ってほんとにこんな感じねえ」、そう、これぞ変幻極まりないゆらめく深い海の色。こんなすてきなエッセンスの宝石が、一見なにげない幼年童話のなかにちりばめてある。きっとこれらは「子ども」といえばギンギラギンの原色の組合わせしか患い浮かばない貧しい大人たちへの静かな挑戦ではないだろうか? あたたかな感じの装画をながめ、字面をさっとながめると、ただ心優しいだけのメルヘンにも見えるが、本当に読むと安房文学の特徴でもある、きっとしたところ、はっとするところが随所にあるのがわかる。たとえば秋の野原をスキップしてきたはる子が「すすきさん、今夜はお月見よ、大きなまんまるのお月さまがこれからのぼるのよ」というと(ここまではなだらかで平凡なのだが)「それだからこまるのよ」と小さな小さな声がする。それは月の光がまぶしくて眠れない蝶だとわかる。そしてその後の展開から、黒いビロードのカーテンを木のほこらに掛けてあげるという話が導かれるが、「それだからこまるのよ」という時、物語にある電流が流れる。それは、意外性という言葉ではちょっと大袈裟すぎ、やはりきっとした感じなのだ。また「歌声のきこえるカーテン」では、秋が探まり木の葉が地に還る季節に、白い力ーテンが「ねえねえ、知ってる? かれ葉は散るとき歌をうたうのよ」という。(ここでもはっとさせられる)いそがしいおばあさんはその時はとりあわないが、風邪をひいて寝込んでいる時に枯れ葉の歌声をきく。いちょうの葉の声、かきの葉の声、もみじの声…。おばあさんは白い カーテンに話しかける。「あんたのいったとおりだわ。静かな気持でいるとちゃんときこえるのねえ」
あまりに女性的な童話と受けとるむきもあるかもしれないが、こうした静かな気持へのいざないはジェンダーに開係ないと私は思うのだ。
南部英子
図書新聞1988/02/13