イーハトヴのアリス-宮沢賢治

『われらの時代のピーター・パン』(上野瞭 晶文社 1978/12/20)

           
         
         
         
         
         
         
     
 宮沢賢治のことを書こうとすると、どうも、もたもたした気持になる。もたもた……というのだから、それこそいろいろな思いが含まれている。どうして『銀河鉄道の夜』を、あんなに賛嘆のまなざしで見る人が多いのだろう……とか、『かしはばやしの夜』は、もっとほめなくっちゃ……とか、作品をめぐる未整理な気持がその理由の一つである。その中には、呪縛……ということも含まれている。わたしもまた、かつて、この詩人の呪縛の「洗礼」を受けたな…という記憶のよみがえりがそれである。そのほか、暗号解読をやるように、無数の原稿の断片をつきあわせる地道な研究者の存在がある。それを見ていて、かなわないな……と、ひそかに、じぶんの怠惰を恥じる思いも、その中に含まれている。
 いずれにしても、宮沢賢治というと、最初に、遠い風景が浮かびあがってくる。その風景の中には、十八歳のわたしがいる。そして、しきりに、つぎのようなことを呟いている。
 この人は、とてもえらい人に違いない。きっと、女の人を見ても、光や風を前にしているように、おだやかな涼しい目をしているのだろうな。
 「十誠」の一つに、「汝、姦淫するなかれ」という言葉がある。十八歳のわたしは、それを、ただの言葉としてやりすごす。しかしやりすごすことのできないのは、宮沢賢治の作品である。それは、透明度の高い純粋な結晶体のように、わたしを無言のうちに圧迫する。わたしの愚かな欲望を、それでいいのか……とにらみつける。透明なその凝視に出会うと、わたしは、『よだかの星』のように銀河系の中で燃えつきたいと思う。いや、燃えつきなければならないのだな、と思いこむ。そんなふうに、よだかは、わたしの中を光芝を放って飛び続ける。しかし、『よだかの星』に、それほどまでも心をゆり動かしているじぶんなのに、どうしても、町角に立つ時、『貝の火』のホモイのように、よこしまな思いを抱いていることに気づく。わたしは息苦しく、今にもじぷんが、ホモイの手にした貝の火のように、ばらばらに砕け散るのではないか、とおびえる。
 もちろん、そこにいるわたしは、詩集『春と修羅』を知らない。だから、ずっとあとに、梅原猛が、『地獄の思想』(中公新書)の中において、賢治の内なる「修羅」……と指摘したことを知るはずがない。また、鶴見俊輔が、『限界芸術論』(けい草書房)の中で、Marginal Artistとして照明を当ててみせた賢治像も、その時点では、想像のはるか彼方にある。敗戦直後の飢餓と、進行する胸部疾患のため、肩で息をしながら、その風景の中のわたしは、一冊の本……「ともだち文庫1 『どんぐりと山猫』宮沢賢治著・中央公論社版・昭和二十一年三月十五日第二刷発行・七円五十銭」を、福音書のように机の上に置
いている。
 時間は、疾走する急行列車ではない。ほんとうは、そうなのかもしれないが、それは、個人の中を通過する場合、のろのろと、いつのまにか別の風景の中を横切っている鈍行列車である。
 わたしは、リバプール駅から、ケンブリッジにむかって汽車にのっている。イーリーにいくには、ケソブリッジで乗り替えをしなけれぱならない。駅をでてしばらく、ロンドン郊外の景色を眺めている。しかし、微熱のせいで、わたしは目をあいていられなくなる。やがて、うとうとと眠りこむ。そして、ケンブリッジ近くでゆり起こされた時、いつのまにか窓外の景色は変わっている。
 それとおなじで、宮沢賢治という時、つぎに浮かぶ風景は、東北の野づらである。最初の風景から、二十五年は経っている。その中のわたしは、ひとり、花巻温泉からその奥の台温泉にむかって、夜道を歩いている。バスは、とっくになくなっている。わたしを包みこむものは、暗闇である。人影のまったくとだえたその道は、二度と人家にいきつかないのではないか……と、心細い思いにかりたてる。わたしは、じぶんの靴音を聞いて歩きながら、賢治の『林の底』という作品を、ふと思いだす。思いだしながら、『よだかの星』や『貝の火』に、あれほどまでも近づくことを願ったじぶんが、今、それではなく、『林の底』を考えていることに気づく。『よだかの星』や『貝の火』は何であったのか。わたしの中で、どこへいったのだろう。なぜ、それではなく、『林の底』なのか……。そんなことを考えはじめる。賢治の熱心な読者なら、『よだかの星』と『貝の火』が、同一の発想であることは、自明の理だろう。どちらも、「おのれの内なる業を問いつめる」ことで成立している。命ある故に、それを保持しようとして、そこから生じるさまざまなあがき。その宿業を、賢治は鋭く問いつめる。じぶ んの生きざまを問いつめる形で、作品に投げこんでいく。その自責が、鋭ければ鋭いほど、作品は美しい光芝を放つ。よだかは身を焼き、ホモイは失明する。それは、結果としてそうなるのではない。必然的に、そうならなければいけないのである。これは、文字通り「純粋志向」の形象化である。賢治は、じぶんの純化を願う故に、存在それ自体の宿業性を否定しなければならない。そうせざるをえない思いにかりたてられる。できることならば、じぷんの体を焼きつくしたい。そんなふうに思う。それに、感情の振幅をうながす美醜を選別する目。それも閉ざしてしまいたいと思う。しかし、賢治は、そうするかわりに、よだかを焼きはらう。ホモイの目を見えなくする。この自己純化への志向性は、本来、宿業からの解脱を願ってのことである。それは、たぶん、情念の桎桔から、人間を解き放つ唯一の道だろう。賢治はそう考える。しかし、賢治のその「純化解脱」の志向性は、窮極において、人間の人間たること…本来、愚かさや、あやまりにみちた存在であることを、完全否定する発想ではないのか。そのことを、賢治は考えない。考えないというよりも、人間のあるべき姿、望ましい在りようを考え る方が先行してしまう。人間をいつくしむその発想が、反対に人間否定の作品を結晶化させる。すくなくとも、『よだかの星』や『貝の火』は、そうしたものとして、読者の前に立ちはだかる。この存在の醜悪さを黙許するくらいなら、むしろ、消滅を願おう……と語りかける。その願いが、賢治のぎりぎりの自己追求から発せられる声だけに、読者は、身をかわすことができない。その呪縛にかかってしまう。
 もともと、人間を自由に解き放つはずの空想力のひろがりが、空想力のつくりあげた「原罪滅却」の世界の中に、人間を閉じこめ、絶望的思いにかりたてるということ。十八歳のわたしが、賢治の作品を前にして、おそれとおののきを感じたのは、そうした作品世界の断定的性格のせいではなかったか。ただ一筋の道だけを示し、もろもろの人間の情熱を断ち切る発想。それが、純化結晶しているだけにわたしにとっては、逃れがたい呪縛となった……とはいえないか。
 花巻をたずねた数年後、わたしは、もう一度、東北へ旅している。今度の風景は、めっぽう明るい。わたしは、遠野の町に滞在し、連日、自転車で遠野の野づらを走りまわっている。波打つ稲穂のあいだに、ふいに苔むした古い墓石を見いだす。また、人影のない山間の道のかたわらに、奇妙な恰好で枝をのばしている枯れ木のならびを見つけたりする。それが、わたしに、賢治の『烏の北斗七星』や『かしはばやしの夜』といった作品を思いおこさせる。なぜ、『よだかの星』ではなく、『林の底』なのかと考えた花巻の夜の思いをよみがえらせる。奇妙な枝ぶりは、まるで、手足をのばした人間の姿である。明るい光の中で見てさえ、そうである。もし、夜ふけ、月の光か星あかりの中に、これらの木を見た場合、どう見えるだろう。それは、今にも、通りすがりの旅人のえり首をつかもうとするふしぎな生きものに見えるのではないか。暗闇というフィルターを通して、それら「自然」の姿を眺める時、そこに、息づく架空の生命を感じるのではないだろうか。突如、おそれとおののきはよみがえり、人びとの空想力に奇怪な情景を生みださせるに違いない。たぶん、わたしは、その時、そうした連想か ら、賢治と自然の関わりということを考えていたのだろう。賢治は、夜歩くことによって、じぶんを取り包むものに命を与え、それを構想力の世界に招きいれたのだと……。
 『林の底』や『かしはばやしの夜』には、『よだかの星』に見られた燃焼消滅への激しい祈念がない。反対に、そこにあるのは、「ふしぎな世界」、あるいは、「おかしな世界」への、読者へのいざないである。わたしたちは、少女アリスが、 ふいに「うさぎ穴」から奇妙な世界にはいりこんだように、『林の底』にはいりこむ。「清作」と共に『かしはばやしの夜』の世界にはいりこむ。 それは、ルイス・キャロルを思わせるだけではなく、ルイス・キャロルとは、まったく異質の「ふしぎの国」であることを納得させる。

 清作は、さあ日暮れだぞ、日暮れだぞと言いながら、稗の根もとにせっせと土をかけていました。そのときはもう、鋼づくりのお日さまが、南の山裾の群青いろをしたところに落ちて、野はらはへんにさびしくなり、白樺の幹なども、なにか粉をふいているようでした。いきなり、むこうの柏林の方から、まるで調子はずれの途方もない変な声で、
「うこんしゃっぽのカンカラカンのカアン。」とどなるのが聞こえました。
 清作はびっくりして顔色を変え、鍬をなげすてて、足音をたてないように、そっとそっちへ走って行きました。
 ちょうど柏林の前まで来たとき、清作はふいに、うしろからえり首をつかまれました。
 びっくりしてふりむいてみますと、赤いトルコ帽をかぶり、ねずみいろのへんなだぶだぶの着物を着て、靴をはいたむやみにせいの高い眼のするどい絵かきが、ぷんぷん怒って立っていました。
「何というざまをして歩くんだ。まるで這うようなあんばいだ。ねずみのようだ。どうだ、弁解のことばがあるか」

 これは、『かしはばやしの夜』の冒頭の部分だが、アリスの物語の冒頭の部分よりもすばらしい。もちろん、こういういい方が、洋の東西の状況を無視した発言であることはわかっている。しかし、こんなふうにいうのは、キャロルのひらいた世界を、賢治もまたひらいていたことをいいたいためである。アリスは、せかせかと懐中時計を取りだして眺めるうさぎを見る。しかし、清作の出会うのは、トルコ帽をかぶった画家である。ルィス・キャロルを思わせる……というのは、冒頭の、この奇妙な相手との出会いだけではない。アリスが、公爵夫人の家で話すことや、三月ウサギや帽子屋とかわす会話。あるいは、トランプの女王のはじめる裁判におけるナンセンシカル・シーン。その一つ一つが、トルコ帽の男や、柏の木たちとのやり取り、あるいは、ふくろうたちの話に対比できるおもしろさを持っているということである。また、ルィス・キャロルとは異質の……という時、わたしは、賢治にあってルイス・キャロルにないものとして、その「自然」を考えている。たしかに、『ふしぎの国のアリス』にも、虫や草花や動物は登場する。しかし、それらは主人公を押し包む「おそれ」や「おののき」 を感じさせない。それは、そうした「自然」ではない。数学者ラトウィッジ・ドジソンの配置した数値としての「観察された自然」。というよりも、おなじ島国ながら、「花鳥風月」の発想(自然への感情移入)を持たなかったイギリス的自然と呼んでいい。
 それに比べ、賢治のナンセンス・テールには、木にも鳥にも、人間を押し包む大きな生命体の発想がある。それは、アリスの物語のように、対等に見られる自然、人為の支配する自然ではない。一見対等に見えながらも、そこから人間の生まれ、そこへもどる母体としての自然がある。
 わたしは、遠野において、そんなふうなことを、漠然と考えていた……と思う。賢治には、『よだかの星』のように、読み手を息苦しい世界に閉じこめる作品と、反対にそこから解き放つ作品のあることを考えていた……といえる。『林の底』は、そうした後者の作品として、たまたまその時、思い浮べたものである。わたしは、賢治とキャロルの対比をつきつめなければ、と考えていたに違いない。しかし、その考えも、遠野を去る日、その風景の中に置き去りにしている。
 今、宮沢賢治のことを書こうとして、もたもたしているのは、すでに、そうした考えを、遠い風景として眺めているからだろう。それにしても、一枚目の風景と、二枚目の風景にあるこの違いは、どこから生まれたのだろう。わたしは、ハウフの書いた「こうのとりになったカリフ」の話を思いだす。カリフと大臣は、鳥の姿から人間にもどるために、最後の場面で、やっと呪文を思いだした。その呪文にあたるもの。つまり、宮沢賢治の呪縛を脱して、彼の作品をわたしなりに客体視できるようになったもの。それは、何をかくそう、宮沢賢治の『シグナルとシグナレス』である。しかし、これもまた、わたしの中では、遠いなつかしい一枚の風景になっている。
 『われらの時代のピーターパン』(晶文社 1978/12/20 )