永遠の童話作家・鈴木三重吉

半田淳子
高文堂 1999

           
         
         
         
         
         
         
         
    
 三重吉は童話作家に転向したとされるが、小説家時代の作品もまた童話といっていい要素があり、元来彼は童話作家であったことの検証の試み。『千鳥』を例に見てみよう。
 「〈懐かしい〉という感情は、三重吉の作品を理解する上で極めて重要であ」り、それは「恋の一つ手前の感情であり(略)それでいて、やはり恋ではないのである」とし、「青木(語り手+主人公。筆者注)の思いは極力、性愛からは遠ざかる傾向にあ」り、そのことを、「性的またはエロティックな素材も、昔話においてはおなじように非現実化されている。(略)本来の意味での性愛は欠けている」というマックス・リュティの言葉とリンクし、「『千鳥』は性に関して、メルヘンと同じ世界を形成している」とする。ここには無理がある。もし仮に、昔話やメルヘンが普遍的に「本来の意味での性愛は欠けている」として、主人公が「性愛からは遠ざかる傾向にあ」るとは、あくまで「主人公が」であり、その作品全体を拘束するわけではないからだ。
 次にリュティがメルヘンを時間の経過が意味を持たないとしていることを挙げ、「〈千鳥の話〉の藤さんは永遠に年を取らない」と指摘する。が、藤さんが永遠に年を取らないのは、青木が記憶の中にそう留めようとしているからであり、至極簡単に言えば、物語の語り手かつ主人公の彼は年を取って行く。
 続けて半田は、「リュティの説が面白いのは、メルへンのこうした時間の永遠性を保証しているのは、(略)発端句と結末句はいずれも現在の時間を語り、同時にこれから始まろうとする物語を日常から切り離し、物語の最後に臨んでは、聞き手を再び日常世界に連れ戻すというのである。この〈定式〉が実は『千鳥』の作品構造に当てはまる」と述べるが、昔話の場合の語り手はその語られる物語に所属しないから、そうしたことが起こるのだけれど、『千鳥』は、そうではない。青木は所属し、かつ、所有している。
 こうした様々な無理が起こってしまうのは、「永遠の童話作家」として三重吉を位置づけようとするとき、比較されるのが童話でなく、昔話・メルヘンである点によるだろう。ただし、「リュティは主としてグリム童話をもとにメルへンの普遍的な特徴を明らかにしようとした」のなら、グリム童話を昔話の再話ではなく、グリム兄弟と近代の価値観による改作童話との観点に立つことで、話は変わってくる。原題が「児童と家庭のお伽話」であるグリム童話が「性的またはエロティックな素材」を採り入れないのは当然であるかもしれないからだ。昔話と童話の境界、昔話が何故、童話や子どもと結びついたかの時代的背景(近代の病としての「懐かしさ」もそこに含まれるだろう)、ジェンダーの視点による三重吉の解析(例えば同時期童話を書いてもいた与謝野晶子に「赤い鳥」から何故執筆依頼がなかったか?)、ユング派のアニマ・アニムスに潜むイデオロギーの再点検などを装備してかかるのがいいと思う。
 「三重吉への旅も、ようやく終着駅の辿り着いた思いがする」とは、あとがきの言葉だけれど、そうではないだろう。むしろ、ここから始まる。(ひこ・田中)
「解釈と観賞」1999.04至文堂