青いイル力の島

スコット・オデル

藤原英司訳/理論社


           
         
         
         
         
         
         
         
    
十八年間、島に置き去りにされたまま一人で生活した少女の物語である。
十二才の少女カラーナが一人で生きてゆかねばならなくなった事の発端は、ラッコをとりにきたアリュート人と島の住民との争いだった。部落の主な男たちは殺され、残された人たちは白人の船で島を出る。乗り遅れた弟と共に少女も島に残るが、弟が野犬に殺されたため、少女は完全に一人ぼっちになってしまう。
来る日も来る日も船が戻ってくるのを少女は待つが、船は来ない。彼女は部落の人々や姉の思い出を断ち切るために住居を変え、日々の食べものを採り、道具や、身を守るための武器を作り、しっかり生きてゆく。
待つことに疲れた彼女は、小舟にのって、自力で島を出ようとする。しかし不成功に終り、また島に帰ってきたとき、彼女は出る時とちがって幸せな思いでいっぱいになる。青いイルカの島を自分の家と感じる。
少女は暮しの場を整え、生活に必要なものを手に入れるため何でもする。季節はつぎつぎ移り変り、やはり毎日船を侍ちつづけるが、同時に日々を充実して生きるためにエネルギーを向ける。ある日、彼女は弟を殺し自分を脅やかす野犬を退治しようとするが、重傷を負わせた頭の犬をなぜか助けてしまう。ロンツーと名つけたその犬は、その後彼女のなくてはならない生活の伴侶となり、淋しさを救ってくれる。彼女はまた、小鳥を、ラッコを、そして島に住む他の生きものたちを友としていとおしむようになる。しかしやはり一方で、一時的に立ち寄ったアリュート人の中の少女ツ-トックとの出会い、姉への思いを忘れることができな
そしてやっと、少女は船にのることができる。ロンツーの子ども、ロンツ-・アルーをつれ、鵜の羽のスカートを大切に持って。

無人島で暮らす男の物語に対して、これは女、それも少女の物語である。前者は冒険や探険のおもしろさが主とすれば、これは文明社会から離れた所で自然を相手に女が一人生きてゆくことの物語である。
作品はごく小さい記録によって創られ、それによると少女は十八年後に救い出されたそうだから、少女カラーナは女になり、女ざかりも過ぎて少女とは呼べない年になっている筈である。しかし作者はあとがきでもずっと少女で通し、又作品の中でも、少女が女として成熟し、女として悩むという側のことは書かれていないので、少女としてのイメージで最後まで読んでしまう。
一人で暮らしてゆくために少女は何でもやらねばならない。女の仕事として十二才までに覚えてきたことはそのまま役立てることができるが、道具を作り、武器を作り、武器を使って戦うことは男の仕事であったから、彼女の体験にはない。それは女の能力でできないということよりも、女がすることを禁じられていたのであった。少女は父の仕事を思い起こし、素材を探し、工夫し、挑戦する。禁を破ることに恐れをもちつつ、男の能力とされていたものを自らの能力としてゆく。
彼女は島で暮らしてゆくのに必要な知識や能力は充分身につけている。しかし、ロンツーと暮らすようになってから、彼女はいかに自分か愛に飢えていたかを自覚するのであった。わかってもわからなくても言葉をかけられる相手がいること、心を通わせ、ともに生きる喜びを分かちあう者をもつことで、彼女の日々は安らぐ。
少女はこのままここで暮らすこともできた。しかしやはり、彼女は人間世界に救われることを望んだ。作品はここまでしか書いていないが、私はあとがきにある、実在の少女はその後長くは生きられなかったという記述に興味がある。風雪にさらされ、強じんに生きぬいてきた少女の身体は何故にそんなに脆くこわれてしまったのか。
人間社会を得た代りに自然の友を失なった。いや、人間社会への適応はできなくて、いっそう孤独になった。持ちつづけていた目標がなくなり、新たな目標が持てなかった、等々、想像をめぐらす。
作者は、他の歴史物語と同じく、事がらの細部や主観的内容の記述をしない。作者自身の思いも投影しない。簡潔で、つき放した書き方である。そのために、読者は自由に空想を働かせて細部を埋め、情感を投げ入れることができる。何に強く感じるかも人それぞれの自由である。たくましく生きてゆく少女への感動。愛を求める少女の淋しさ。小さな冒険のたのしみ。文明に病んでいない自然の生活。
そして又、これは男性作家が書いた少女の物語である。腕輪や首飾りや、たんねんに作り上げた鵜の羽のスカートを愛し、それを身につけて幸せな気分に浸るその書き方に、男性から見た女性の目であることを感じる。 (松村弘子)
児童文学評論22号 1987/07/01