気まぐれ図書室(6)

――おばあちゃんはパワフルに──
西村醇子

           
         
         
         
         
         
         
    
子どもの本の作家には、長命な人が多いが、作品にも強烈な個性をもつお年寄りが跋扈(ばっこ)している。たとえばE・L・カニグズバーグの作品では『クローディアの秘密』から『ティーパーティの謎』まで、さまざまな老人が縦横無尽に活躍していた。2001年に訳されたリチャード・ペックの『シカゴよりこわい町』(原1998、斉藤倫子訳、東京創元社)のダウデルばあちゃんも、かなり型破りな傑物のひとりに数えられるだろう。
アメリカでニューベリー賞オナーとなった『シカゴよりこわい町』は、シカゴ在住の9歳のジョーイと2歳下の妹メアリ・アリスが、1929年から1935年まで毎年、8月を田舎町に住む祖母のもとで過ごす話だ。1章1年のペースで1935年まで連続し、最後だけが7年後の1942年にとんでいる。この年、第2次大戦で出兵するジョーイが線路から見える祖母の家の近くを汽車で通り過ぎるという、ウィリアム・サローヤンの『人間喜劇』の一場面を連想させる情景で締めくくられている。夏を切り口にした短編連作は、戦前のアメリカの田舎町を定点観測した一種の記録でもある。そのなかでジョーイとメアリ・アリスは、じょじょに祖母のやり口を飲みこむようになり、大人の世界に存在する建前と本音を学んでいく。ただし作品で輝いているのは祖母のキャラクターである。
祖母(ダウデル夫人)は、小学校を中退し、若い頃からきつい労働に明け暮れてきたが、生活に根ざした知恵が豊かで、人間性にも戦略にも長けている。いたずら好きや感傷的な一面も持ち合わせていながら、自分なりの正義感をもち、ときに大胆な勝負師となる型破りな女性である。ダウデルばあちゃんが出向くところ必ずや事件が起きる。そしてどのエピソードにも意表をつく展開があり、読者はダウデルばあちゃんにしてやられるのだ。
すっかりダウデルばあちゃんに魅せられたわたしは次作が翻訳されるまで待ちきれず、2000年に出版された「ア・イヤー・ダウン・ヨンダー」も読んだ。(便宜上『田舎町で過ごした一年』と呼ぶが、訳書の書名を先取りしたものではない。)
『ホーンブック』誌2001年7月/8月号に掲載された『田舎…』受賞スピーチによると、前作『シカゴ…』はもともと、ある友人が編集する銃をめぐる短編集に寄稿した作品だったという。ほかの作家たちがそろって男性を主人公にしたまじめな作品を書くだろうと予想したペックは、短編集にある種のバランスをもたせようと、女性を主にした話を構想しようと決心した。そして誕生したのが、アメリカのほら話の伝統をほうふつとさせる、トリックスター的なダウデルばあちゃんの物語だったわけである。
『シカゴ…』が好評だったため、もっとダウデルばあちゃんの物語を書いてほしいとリクエストされペックは、「しまった!」と思ったそうだ。それもそのはず、『シカゴ…』の語り手ジョーイは、物語の最後に舞台から退場している。そのためふつうの続編は無理だと思ったとき、妹を中心にすればよいと気づいたという。そこで『田舎町…』は物語内時間を1937年とし、父が失業したため祖母のもとへ預けられたメアリ・アリスの物語となった。文字通り姉妹編の『田舎…』は、1作目を上回るできばえとなり、ニューベリー賞を受賞した。

『田舎…』は、シカゴから田舎の学校に転校したメアリ・アリスが、最初は不満だった田舎町での暮らしにとけこむ様子を描いている。夏には知りえなかったような四季の行事と人々が抱えている事情を知るうちに、メアリ・アリスもまたいつしか、祖母から習い覚えたとしか覚えない巧妙なやり口でコミュニティの一員となるのだ。いっぽう祖母の豪傑ぶりも健在で、たとえば、戦時中に毒ガスで失明した男性と暮らす農場の女性の生活資金をひねりだすことを目的とした婦人会の行事では、会計を担当した祖母は金持ちからはそ知らぬ顔で「おつりがない」という口実を使い、ときに脅迫すれすれのやりかたで、例年を上回る資金を集めている。すると婦人会は「あなたはここにいる女性たちの倍も鉄面皮でずうずうしく、恥知らずです。…あなたが、不誠実なつり銭詐欺師や芸術的ペテン師、プロの強請屋を出し抜いたことを婦人会の記録にとどめたい…」という、なんともユニークな賛辞でダウデルばあちゃんの功績を称えている。
ちなみにペックは女性の老人だけにこだわっているわけではなく、2001年に出版した1893年のシカゴ博覧会をテーマにした歴史小説「ア・フェア・ウェザー」(仮題『博覧会日和』、未訳)では、子どもたちに祖父を見直す機会を与えている。もっともわたしは、好意で甥や姪を博覧会に招待したばかりに、生活を根底からひっくり返される老人の娘、つまり子どもたちの伯母にひそかに肩入れしているのだが、これは余談。
ペックの作品には必ずといってよいほど老人が登場する。1989年の時点でペックの評伝を執筆したドナルド・ギャロによると、知恵があり、どこかエキセントリックで元気のよいこれら老人たちの役割は、郷愁を抱かせる過去との接点となることで、日ひごろ老人と接する機会があまりない若者に、老人にたいする積極的なイメージを提供することが狙いだろうと、述べている。ペック自身も、前述の2001年のニューベリ賞受賞スピーチで老人の登場人物が多いことに触れ、自信過剰の若者文化にたいして知恵を提供し、またバランスを持たせるために、歩くモニュメントである老人を加えるのだと述べている。
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リチャード・ペックの話が長くなった。予定ではニナ・ボーデン作の『おばあちゃんはハーレーにのって』(こだまともこ訳、偕成社、2002年6月)が出版されたことを受け、この作品をメインに据えるはずだった。しかし、そうなるとボーデンがまきこまれた列車事故のことに触れないわけにはいかず、気が重い。

ニナ・ボーデンは出発が大人の本だったし、今も両方の作品を書いている。ただ日本国内では大人向けの本が訳されていないこともあって、『帰ってきたキャリー』(1973)や『ペパーミント・ピッグのジョニー』(1975)など児童文学の書き手として知られている。『帰ってきたキャリー』は出版から20年後の1993年に、フェニックス賞を受賞した。また『ペパーミント…』は1976年のガーディアン賞を受賞している。そこで、60年代にデビューした1925年生まれの作家が70年代にピークを迎えたのだなと、漠然と思っていた。
ところが1989年に出版された「ジ・アウトサイド・チャイルド」を読んだとき、その新鮮さに驚き、ボーデンは過去の作家だという思いこみが恥ずかしくなった。そして現代を舞台にし、新しい「家族像」を探っているこの作品を紹介したのが『家族さがしの夏』(拙訳、国土社、1998年)である。続編の「リアル・プレイトー・ジョーンズ」にはあまり夢中になれなかったが、再度ボーデンに感心したのが1995年の「グラニー・ザ・パグ」だった。それが今回訳された『おばあちゃんはハーレーにのって』である。
『おばあちゃん…』が『家族さがしの夏』と似ているのは、主人公が、実の親よりも育ててくれた人物を自分の「家族」だと感じていることだろう。カトリアオーナ・ブルックことキャットは、両親が旅興行の劇団員だったため、引退した医者である祖母に育てられている。
この祖母もまたかなり型破りな女性である。といっても、強靭さをひめ、常識にとらわれない女性ということであって、ペックのようにほら話を彷彿させるところはまったくない。猫を9匹、犬を4匹飼い、ヘビースモーカーで、ジーンズと革ジャンを愛用し、ハーレー・ダビッドソンでとばすのが好き。キャットは、もっとやさしくて親切で「ふつう」の服装をした女性でいてほしいと思うときもあるが、この祖母を尊敬し、愛している。そして、誕生日を忘れたり、クリスマスに2サイズも小さな服を送ってくる、自分のことがわかっていない両親のことは恋しいとは思っていなかった。
中学生になったキャットは、ウィリーという少年の悪口をいったことから、彼のいじめの標的となる。ひとりで家に帰るとちゅう、電車内で脅されたキャットは、たまたま駅へ迎えにきてくれた祖母をみてほっとする。すると祖母はウィリーにむかい「もしうちの孫娘をいじめたら、そのすじや、あんたの親や先生に報告するだけじゃすまないよ。このわたしが、こてんぱんにやっつけてやるからね」とおどす。
キャットの視点で物語を読んできた読者は、この祖母を頼もしいと思う。ところが意外なことに、いじめの被害者のはずのキャットは、翌日校長室に呼び出され、加害者側として事情をきかれる。どうやらウィリーの父親が理事のひとりで、校長はウィリー側の言い分を鵜呑みにしたらしい…。
この物語にはふたつのプロットがある。ひとつは、学校内におけるいじめである。ウィリーが一時仲間入りしていた連中は本物の「ワル」で、その後弱いものへのいじめ行為をエスカレートさせ、犯罪者となる。もっともウィリーは彼らとは離れ、キャットに言葉で報復するだけだ。
このように加害者と被害者の境界があいまいになるのと並行して、もうひとつのプロット、つまりキャットの親権問題が進行する。いまやテレビの連続ドラマで成功して金持ちの有名人となった両親は、家を買い、キャットと同居したいと言い出したのだ。世間の常識では、子どもにとって好ましいのは祖母より両親との同居だろう。祖母も高名なドクターであるとはいえ、老人であることは否めない。また精神病の元患者が訪ねてくるような家庭環境は、けっして有利には働かないし、学校でのごたごたも不利な材料にされるおそれがある。
『おばあちゃん・・・』は、「弱者」をめぐる状況が反転し、弱者と強者の関係が相対化される物語である。読者はこれによって物事には両面があることや、パワーゲームを制するものが真の勝利者となるが、その戦い方にはいろいろな方法があることを発見するだろう。祖母のキャラクターも印象的で、ボーデンもなかなかやるね、と快哉を叫びたくなる一作だ。
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2002年5月10日金曜日、英国のロンドン、12時45分にキングズクロス駅を発車したキングズ・リン行きの列車が、通過駅ポターズ・バー付近で脱線した。乗客のなかに、ケンブリッジへ向かうためにこの列車に乗り合わせた作家のニナ・ボーデンとその夫君がいた。ニュースによると、ニナ・ボーデンは鎖骨を怪我して入院したものの、命に別状はないそうだ。でも夫のオースティン・カーク氏は、7人の死者のひとりだったという。
わたしは2年前に一度、ボーデン夫妻の家におじゃましたことがある。「エンジェル」という浮世離れした地名のロンドン北部の町で、駅から近いにもかかわらず、カナル(運河)に面しているせいか、緑につつまれた環境だった。夏の夕暮れ、オリーブの実をつまみながら、カナルを眺めてご夫妻と歓談したことが、鮮やかによみがえってくる。カーク氏の冥福を祈り、これまでにもきびしい現実をくぐりぬけてきたボーデンがこの痛手から立ち直ってくれるよう、はるか遠い日本から願っている。
梅雨空に影響され、いささか湿っぽくなってしまった。そろそろ閉室としよう。