あとがき大全(70)

金原瑞人

           
         
         
         
         
         
         
    


1.半年ぶりです
 ずいぶんごぶさたして申し訳ありません
 最近ではパソコンで〈もう〉と入力して変換キーを押すと〈申し訳ありません。〉と変換される。ほかにも、〈める〉は〈メール、ありがとうございます。〉〈じつ〉は〈実際にはそうかもしれないけど、道義的な責任を考えるというそういってばかりもいられない〉とか。変換機能がここまで便利になるとは思わなかった。けど、最近しょっちゅう単語登録しているのはおわびの言葉ばかり。ほかにも、〈あ〉と入力して変換すると、〈あ、ごめん。ついあれこればたばたしてたもんで、返信が遅くなっちゃった!〉となる。昔は、〈や〉→〈薬師丸ひろ子、かわいいよね。〉とか、けっこう遊んでたんだけど、この頃はその余裕、なし。
 去年から引き続き学生部長(新たに学生センター長と名称変更されたけど、内容的にはほぼ同じで、雑用が少し増えた)をおおせつかり、妙に気ぜわしい今日この頃で、これをやっていて、なにがいやかというと、歩いたり電車に乗ったりしているとき、つい学生問題について考えてしまうことだ。
 多摩キャンパスに4月からできたコンビニでは7月の中旬からアルコールを売り出す(それも24時間ずっと)。まったく、キャンパスの中でアルコール、24時間売るか? といいたいところだけど、前の総長・理事がそういう条件で認可しちゃったわけで、コンビニのほうもそこは強気。しかし、ここ数ヶ月、うちのキャンパスでは学生が泥酔したり、急性アルコール中毒で病院に運ばれたりといった事件が起こっていて、まずいよ。
 市ヶ谷キャンパスでも昨年度は泥酔者が続出して問題になってたし、いまでもコンビニの前で、夜遅く学生が座ってビールを飲んでるとかきくし。
 今年の学祭、多摩キャンパスでは例年より半月以上前倒しになっているのに、学祭の実行委員会からまだ企画とか出てこない、だいじょうぶかよ、とか。生協の食堂が営業時間を短縮したいとか、ある建物から食堂を撤退したいとかいってきてるけど、郊外型大学の食堂問題、これからどうすればいいんだ、とか。
 そういうことをついつい考えてしまう。学生部長をやっていなければ、「ポプラ・ビーチ」や「小説すばる」のエッセイのネタをあれこれ考えたり、新しい出版の企画のことを考えたり、映画のことを考えたりと、そういったことを、ああでもないこうでもないと楽しく過ごす時間がほかのことに取られてしまう。これがつらい。ただ、ものは考えようで、今まで思いもよらなかった学生のことが目につくようになってきたのは、うれしいし、おもしろい。というわけで、このところ、ある意味、学生問題にはまっているのである。
 まあ、あと1ヵ月ほどで前期もおしまい。あと後期がんばれば、少し楽になる。
 さて、そろそろこのエッセイも続きを書かなくちゃ。
 前回(69回目)、『ユゴーの不思議な発明』と『バージャック』のあとがきを載せて、それっきりになっていたので、いまちょっと調べてみたら、それ以後、次のような本が出ている。
2008年2月29日『魔使いの秘密』(東京創元社)共訳
 The Spook's Secret by Joseph Delaney 410p
2008年4月11日『キスで作ったネックレス』(東京創元社)共訳
 Necklace of Kisses by Francesca Lia Block 286p
2008年5月『暗黒天使メストラール』(理論社)共訳
 Angel by Cliff MacNish 373p
2008年5月30日『ターニング・ポイント』(岩崎書店)共訳
 Firestorm: The Caretaker Trilogy Book 1 by David Klass
2008年6月10日『トム・ウェイツ 素面の、酔いどれ天使』(東邦出版)
 The Many Lives of Tom Waits by Patrick Humphries
2008年6月10日『トロール・ブラッド 呪われた船 上下』(あかね書房)共訳
 Troll Blood by Katherine Langrish 290p 310p
2008年6月5日『シュワはここにいた』(小峰書店)共訳
 The Schwa Was Here by Neal Shusterman 357p
2008年6月13日『スカイシティの秘密 翼のない少年アズの冒険』(東京創元社)共訳
 The Fledging of Jay Amory AZ Gabrielson 437p
2008年6月23日『緑のヴェール』(国書刊行会)共訳
 The Beyond by Jeffrey Ford 345p

 『魔使いの秘密』のあとがきは田中亜希子さんが、『キスで作ったネックレス』のあとがきは小川美紀さんが書いてくれたし、『トロール・ブラッド 呪われた船』と『シュワはここにいた』は訳者のあとがきがない。というわけで、残りの本のあとがきを。


2.あとがき

   訳者あとがき(『暗黒天使メストラール』)
 マクニッシュの最新作『暗黒天使メストラール』(原題:Angel)はおそらく、これまでになかった物語だと思う。
 『レイチェルと滅びの呪文』以来、たぐいまれな想像力で新鮮かつユニークなファンタジーとゴーストストーリーで読者を驚かせ楽しませてきたクリフ・マクニッシュが、今度は“まったく新しい天使の物語”を作り出した。
 小さいころから天使にあこがれていた主人公フレイアは、八歳のとき、一度だけ部屋にあらわれた白い天使がわすれらない。そして会いたいばかりに奇行を重ねて病院に入れられる。六年後、ようやくその天使のことをわすれて普通の女の子の生活ができるようになった矢先、今度は黒くみにくい天使をたびたび目にして、ぞっとする。ふたたびつらい過去に引きもどされるかもしれないと思ったのだ。
 しかし白い天使と黒い天使はほかの人にはみえない。いったい何者なのか、いや、実際に存在しているのか……。
 いっぽう、父親や兄ルーク、転校生ステファニーなど周囲の人たちがかかえる問題も次々にフレイアに迫ってくる。
 ここでマクニッシュの描いている天使は〈神の使い〉とされる美しく愛らしいものではない。〈四本の腕、七対の翼、体じゅうについたまぶたのない目〉という、いかにもマクニッシュらしい天使だ。天使というよりは怪物のようなイメージだが、なぜこのような姿になっているのか、それもこの本を読むうちにわかってくるだろう。また、天使のイメージは時代や宗教によって異なり、多くの目と翼を持つとする考えも実際にあるらしい。
 元々“天使”に興味があったというマクニッシュは、この作品を書くにあたり、なるべく宗教色を出さず、人間に近い存在として描きたいと考えたそうだ。たしかに本書に出てくる天使はよくも悪くも人間くさい。つつしみ深く、自らを犠牲にして人間に手をさしのべる天使もいれば、人間に絶望し、見捨てる天使もいる。寿命があり、けがをすることもある。人間によく似た“悩める守護天使”だ。そう、そういう天使たちとフレイアが不思議で不気味で切ない物語を織り上げてく。
 だが、今回の作品はそれだけではない。これまでと大きくちがうのは、思春期の少女の心のゆれに光をあてた点だ。恋もし、友だちとの関係に悩み、天使の世界でも大きな壁にぶつかる。そんな十四歳の等身大の姿がていねいに描かれている。ひとりの少女の成長物語としても読みごたえがある一冊だ。
 マクニッシュの新たな一面に出会える意欲作。十代の少女の〈現実〉と、天使という〈非現実〉が交差するちょっとビターな物語を味わっていだだけるとうれしい。

 最後に、理論社の小宮山民人さん、編集のリテラルリンクのみなさん、原文とのつきあわせをしてくださった中田香さん、質問に快く答えてくださった作者のクリフ、マクニッシュさんに、心からの感謝を!

二〇〇八年四月
                    金原瑞人・松山美保


   訳者あとがき(『ターニング・ポイント』)
 主人公はジャック・ダニエルスン。アメリカのありきたりな町の高校三年生。名前も普通、趣味も普通。ただスポーツは得意。身長百八十八センチで筋肉質でフットボールチームの先発ランニングバック。あと、笑顔がキュート。本人はあまりいいたがらないが、詩も好きらしくて、たまに難しい言葉がぽろっと出てくるのはそのせいかもしれない。そんなジャックがレストランで不気味な男を見かけたときから、恐ろしい悪夢が始まる。
 妙な男に出会ったという話をきいた父さんは、ジャックを車に乗せて時速百キロ以上のスピードでハイウェイを飛ばし、「わたしは本当の父親じゃない」とかいいだす。追っ手が迫ってくる。車は横転。父さんは不思議な武器で応戦する。

「船のところへいけ」父さんはいう。「やつらは、ここで食い止める。さっさといくんだ。それがおまえの運命だ」
「おれはどこへもいかない。父さんが何をいったって、逃げたりするもんか。やなこった」
 父さんはおれをみる。「いい争っている場合じゃない」そして銃口を下げ、撃つ。自分の足を?! しかもねらいを定めて?! 苦しそうにあえぎ、ひざががくんとなって、いまにも崩れ落ちそうだ。つま先、いや足が半分なくなってる。血があふれ、骨がむき出しだ。父さんはもう一度おれをみて、銃口をこめかみに当てた。「次は頭をふっ飛ばす。みたいか? いやなら逃げろ」

 それまで生きてきた世界が音をたてて崩れていく。なぜ追われるのか。父さんも母さんも、いったい何者だったのか。いや、そもそも自分自身、何者なのか。しかし考える暇もなく、次々に追っ手が迫ってくる。それも異様なモンスターのような連中ばかりだ。
 ジャックは逃げのびることができるのか。自分の秘密をつきとめることができるのか。そんな謎をはらんだまま、このSF風ダーク・ファンタジーは疾走する。
 アクションたっぷりのスピード感あふれる新感覚ファンタジー……なんだけど、その奥にはしっかりエコロジーの問題がからんでいて、そのせいで、この作品はただのジェットコースター・アクション・ファンタジーではなくなっている。そう、この物語は人類の、ぞっとするような未来をかいま見せてくれる。その意味で、グリーンピースという世界的規模の環境保護団体がこの作品を初めて公認したというのもうなずける。
 しかし、それ以上に魅力的なのは、とことん追いつめられてもユーモアのセンスを忘れない主人公のキャラクターだろう。それから、彼につきそうことになる、異様にでかくて、とびきり目つきが悪い、毛むくじゃらの化け物みたいなワン公ギスコと、異様に武術にたけたかわいい女の子イコ、このふたりが思いきり物語を盛りたててくれる。
 とにかく、いままでにないタイプのニュー・ファンタジー、思うぞんぶん楽しんでほしい。

 最後になりましたが、編集の山北美由紀さん、原文とのつきあわせをしてくださった○○○○さんに心からの感謝を!
     二〇〇七年十月十五日                   金原瑞人 


   訳者あとがき(『トム・ウェイツ 素面の、酔いどれ天使』)
 たとえば、どのアルバム、どの曲というわけでもないけど、いつのまにか親しみ、なじんでいて、気がつくと、うちにCDが数枚あったりする。ぼくの場合、そんな音楽のひとつがトム・ウェイツだった。
 ジム・ジャームッシュ監督の一連の映画で有名になった頃にはすでに、あのだみ声は耳に親しいものだった。当時、ちょっと気になって、酒井謙次さんという昔からの音楽友だちに「トム・ウェイツって、どうよ?」ときいてみたら、「ううん、いまはあまり興味ないなあ」との返事で、そのときは、それっきりになってしまった。
 それからも何度か新宿三丁目のバーで耳にした覚えがある。どれもレコードだった。そのうちイラストレーターの五味太郎さんと対談する機会があって、あとの飲み会でこんなやりとりがあった。
「金原くん、トム・ウェイツの『タイム』って曲知ってる?」
「知ってますよ。'And it's Time Time Time' ってやつでしょう?」
「それそれ。それ、訳してくんない?」
「え、なんで?」
「意味がわからないと、歌えないんだよ」
 というわけで、歌詞の翻訳を頼まれてしまった。ところが、なかなか手が着かない。曲の入ってるCDはあるし、英語の歌詞もわかるんだけど、なぜか訳す気になれない。二年くらいして五味さんからいきなりメールがきた。「『タイム』の歌詞、まだ?」
 それから一年くらいして、酒井さんからお勧めのCDが2枚送られてきて、その解説のあとに、こんな追伸が。

 追伸と言うか、しかしと言うか、実は今の今もっとも気に入っているのは(barakan beatでも何度も掛かりますが)トム・ウェイツの『orphans』です。どこでも買えるし、もしかしたら買っているかなと思って、上記2枚にしました。もし未購入でしたら、絶対のお勧めです! 3枚組です(特に2枚目は一生ものじゃないでしょうか。胸が痛くなります)。日本版6300円(輸入盤は4000円くらいかな)、迷わずどーぞ!

 そして迷わず買って、いきなりはまってしまった。一週間くらいはこればかりきいていたと思う。ききながら、たまに「タイム」の歌詞が頭をよぎるものの、このときも、やはり訳すにはいたらなかった。
 それから約一年後、トム・ウェイツの評伝を訳さないかというメールがきた。どんな本かもわからず、また出版社もできたばかりだというし、まずは編集者の方とお会いしてからと思って市ヶ谷のカフェで待ち合わせて、話をしてみたら、これがなんと『オーファンズ』の日本語版の解説を書いてる城山さんだった。ついでに、彼の奥さんは、ぼくが昔からお世話になっている雑誌の編集者だった。
 考えてみれば不思議な縁だが、これを訳し終えて、じつにいい本だなと思った。これがノンフィクションでなくフィクションであったとしても、いい作品だ。トムの攻撃的な側面とシャイな側面と、どことなく変でユニークな所が見事に紹介されている。そしてあちこちに巧みにちりばめられたトムの名言・暴言・箴言の数々。この本ではそれが太字になっているので、それを拾って読むだけでもおもしろい。
 筆者は映画監督を描かせても驚くほどうまい。とくにコッポラなんか、本物以上に本物らしく、そしてユーモアたっぷりに描かれていて、この部分はそのまま、中編くらいの読み物になってしまいそうなくらいだ。
 ところで、「タイム」の翻訳だが、まだ仕上がっていない。ちなみにトム自身はこんなことをいっている。

 二度と歌えなくなった曲もある。『タイム』がそうだ。あれを作ったときの感覚が取りもどせなくなってることに、ある日ふと気づいたんだ。どう取りもどそうとしても、結局は他人の家族写真をみせられるようなものだった。

 さて、最後になりましたが、切り貼りで大活躍の編集者ジョウヤマさん、翻訳協力者の西田登さん(この翻訳の文体は基本的に彼のものです)、原文とのつきあわせをしてくださった中村浩美さん(じつにじつによく調べてくれました)に心からの感謝を!
                       二〇〇八年五月五日          金原瑞人


   訳者あとがき(『スカイシティの秘密 翼のない少年アズの冒険』)
 主人公の少年アズには翼がない。
 これはスカイシティに暮らす人間にとっては大きな障害だ。なにしろスカイシティは地上数キロの上空に浮かんでいる都市だ。ちょっと足を滑らせただけで真っ逆さまに落ちてしまう。そんな危険を別にしても、ほとんどの人が翼を持っていて「飛べる」のが当たり前の世界なので、大きな建物でもエレベータなんかついていない。アズは、乗り物の助けを借りないと学校にたどり着くことさえできない。だから当然、「翼がない」ことにコンプレックスを抱えていて、エアボーン(上空人)の世界になじめないでいる。それなのに「翼がない」という理由のせいで、エアボーンの代表として地上に送りこまれることになる。「翼がないグラウンドリング(地上人)にそっくりだから」というのがその理由だ。
 アズがそんな使命を負うことになったのは、スカイシティに地上からの物資が届かなくなりはじめたからだった。しかも、その原因がわからない。スカイシティはユートピアのような場所──太陽の輝く平和で豊かな世界だが、それは、地上から届く物資を前提に成り立っている。ところがエアボーンは、晴れることのない雲の下にグラウンドリングと呼ばれる人々がいることさえ知らない。資源を収集して送ってくるのはオートマティックで動く機械だと信じている。
 スカイシティの秘密でもあるグラウンドリングの存在を知っているのは一部の高官だけだ。アズはなぜ物資が届かないのか、調査のために地上へ──それまで、エアボーンがだれひとりとしておりたことのない未知の世界に送りこまれる。そのアズと、地上で暮らすキャシーとの出会いから、迫力満点の冒険小説が始まる!
 このSF風冒険小説には魔法も特殊能力も出てこない。エアボーンも翼はあるものの、たいしたことができるわけではない。だが、その代わりに、乗り物が大活躍して、物語を盛り上げる。
 まずはグラウンドリングのキャシーが家族のように思っているマークコーマー「バーサ号」。キャタピラーで走る五十トンもあるこのでっかい乗り物は、どんなにがんばっても時速三十キロしか出ないが、足場の悪い場所でも平気だ。このバーサ号が沼に落ちかけたり、家に体当たりを決めたり、敵に追われたり、アズを救出したりと奮闘するところは、まさに登場人物のひとりのようだ。キャシーにバーサ号があるように、アズにも飛行船のセルリアンがある。この元軍隊輸送機が通過不可能と思われていた雲のじゅうたんに挑戦するシーンなどは迫力満点だ。このほかにもエアボーン界は航空機が発達しているため、テストパイロットでもあるアズの兄ミカエルは、ヘリコプターでさまざまなスタントをみせて読者を楽しませてくれる。
 もうひとつ、この本の大きな特徴は章の短さ、というか、章変えの早さだろう。それこそ二、三ページというスピードで一章が終わってしまうこともざらだ。たとえば「短い会話」という章があったかと思うと、その次に「もうひとつの短い会話」という章がつづき、まったく違うシーンで進行しているふたつの会話が取り上げられていたりする。この速射砲のように続く短い章のリズムが、ハイテンポのストーリーといっしょになって、この作品をさらにスリリングなものにしている。
 エアボーン界、つまり空の上の世界らしい文化や言葉もおもしろい。たとえはジェットボールという球形の競技場で行なうスポーツがあったり、ことわざにも「同じ穴のむじな」ならぬ「同じ巣の鳥」のようなのがあったり、悪口をいうのにも「あのアホの頭には、羽根しか詰まってないんだ」というような言い回しを使ったりする。一方、グラウンドリングのしゃべり言葉も一種独特で、ちょっと粗野で乱暴な言葉使いが多い。
 ところでアズの相手役、グラウンドリングのキャシーのキャラがまたおもしろい。スカイシティでは先生や親に「手に負えない」といわれるアズも、地上ではまるで育ちのいいおぼっちゃまだ。そのアズと、男勝りなキャシーとのコントラストがいい。たとえば、ふたりが握手するシーン。

──キャシーは、なんてやわらかい手なんだろうと思った。アズは、なんて力強い手なんだろうと思った。

 まるで、あべこべだ。そこにある矛盾は、ふたつの世界の圧倒的な格差を表してもいる。アズが生きてきたのは「大人が故意に子ども傷つけるなどありえない」世界であり、女の子といえば「ないしょ話やくすくす笑うのが大好き」な生き物であり、戦争もなく平和で、とても豊かな社会だ。一方、キャシーにはくすくす笑いながら夢をみている余裕などこれっぽっちもない。幼いころに母を亡くし、十六歳にして一家の母親代わりをつとめている彼女の両肩には、生活の重しがずっしり乗っている。だからアズが雲の上からきたことを知るなり、助祭に売り飛ばして金に換えることを考えたりもする。が、そんな違いを乗り越えて、アズとキャシーは手をつなぐ。力を合わせてヒューマニストや助祭を相手に戦い、空と大地が戦争にならないことを願う。アズはスカイシティの、キャシーは助祭による宗教の嘘を知り、共に大人になっていく。

 本作はイギリスの作家ジェイ・エイモリーの処女作。原題は『The Fledging Of Az Gabrielson』。「fledge」には「羽毛が生えそろう、巣立ちができる」などの意味があり、主人公アズに翼がないことを引っかけつつ、その成長と冒険を暗示するタイトルになっている。
 すでに続編に当たる二作目も出ていて、このふたりの今後についてはますます楽しみだ。

 最後になりましたが、出版にあたり編集を担当してくださった東京創元社の小林甘奈さん、最初にこの本を紹介してくださったマッグガーデンの佐藤淳一郎さん、訳文のチェックをしてくださった中村浩美さんに感謝の気持ちをこめて。

     二〇〇八年四月二十三日
                         金原瑞人・圷香織


   訳者あとがき(『緑のヴェール』)
 『白い果実』(The Physiognomy)、『記憶の書』(Memoranda)と続いてきた、ジェフリー・フォードの三部作がついに完結! 最後を飾るのは本書、『緑のヴェール』(The Beyond)だ。
 第二部『記憶の書』の終わりで、ミスリックスとクレイがウィナウの村をあとにして〈彼の地〉に旅立ってから、かなりの年月が経ったようだ。「眼鏡をかけた魔物」、ミスリックスは旅を早々に切り上げてウェルビルトシティの廃墟に戻り、孤独な学究的生活を送ってきたが、ある日ふと、〈彼の地〉で別れたクレイの身の上に思いを馳せる。〈彼の地〉で起こったことは〈彼の地〉が知っているはずだという理論に基づいて、ミスリックスはクレイの身に起こったことを〈彼の地〉から聞き出すことにした。それもジェフリー・フォード作品にふさわしい荒唐無稽な方法で。
 ミスリックスは〈彼の地〉に飛び、〈彼の地〉の基本物質(土、羊歯、水、空気)を採集し、廃墟に持ち帰る。羊歯の葉を噛み、土を両手にすりこみ、壜に入れた空気を吸い、水を飲むことによって、物語の断片を自分の中に取りこむ。それらの断片は彼の中で、ひとつの物語になった。ミスリックスは何度かに分けて、その物語に耳を傾け、書きとめていく。〈彼の地〉の伝える物語の中で、クレイは〈彼の地〉の運命を左右する重大な使命を担っていた。
 一方、ミスリックスの現実の生活の中では、ウィナウの人々との交流が始まる。ミスリックスは一個の「人間」として認めてもらおうと、いじらしいほどの努力をする。
〈彼の地〉のクレイの物語と、廃墟とウィナウにおけるミスリックスの物語。本書ではこの二つの物語が交互に語られていく。
 さて、クレイは〈彼の地〉の苛酷な自然の中で暮らすうちに、いつしか勤勉で、人間的で、とても誠実な男になり、初めて生身の女性とまともに相対する。第一部、第二部を通じて、傲慢な観相官だった頃のアーラへの歪んだ片恋や、ビロウの記憶の中の存在であるアノタインへの耽溺――をよく知っている読者ならきっと、クレイのけなげな奮闘を応援し、冒険と愛の成就を願わずにはいられないだろう。たとえすべてが、美薬にふける「眼鏡をかけた魔物」の妄想に過ぎないかもしれないとわかっていても。
 最後の最後で、このふたつの「現実」の間に風穴があく。というか、この壮大な三部作の最後の最後に、いかにもフォードらしい仕掛けが待ちかまえている。その素晴らしさを味わうためにも、ぜひ第一部と第二部を読み直したうえで、この第三部を読んでほしい。

 (元)観想官クレイが陰に日向に活躍するこの三部作は、ひとつひとつが異なる輝きを放っている。第三部『緑のヴェール』の魅力はイマジネーションの奔放さと、話のスケールの大きさだろうか。〈彼の地〉の自然の華麗なこと。肉桂の香りのする薔薇色の山猫、獰猛な鎧狼、鳥を喰らう肉食樹……。そして〈彼の地〉の壮大な歴史や、〈彼の地〉を救う方法、そしてクレイのたどる運命については大技、力技の連発で、読者を存分に楽しませてくれるはずだ。
 この三部作の第一部The Physiognomy(一九九七年刊行)が『白い果実』として翻訳出版されたのは二〇〇四年八月のことだった。ジェフリー・フォードの作品が単行本の形で日本の読者に紹介されたのは、これが最初だと思う。その後四年のうちに、『シャルビューク夫人の肖像』、『記憶の書』、『ガラスのなかの少女』が翻訳出版されて、フォードの日本での知名度は急速に高まり、いまや多くの人に愛され、注目される作家となった。今後も、彼の作品はどんどん紹介されていくだろう。そんな中で、SFとか幻想文学といったジャンルを遥かに超えたフォードの三部作の翻訳を無事に終えることができて、心からほっとしている。

 なお、最後になりましたが、第一部『白い果実』のリライトをしてくださったメイン訳者の山尾悠子さん、第二部『記憶の書』と本書『緑のヴェール』で同じ役割を果たしてくださった貞奴さん、そして三作を通してお世話になった国書刊行会編集長の礒崎さんに心からの感謝を捧げます。また、同じく三作を通して谷垣(第一稿担当)の質問に答え、原文理解を手助けしてくださったロバート・リードさんにこの場を借りてお礼を申し上げます。そして最後までおつきあいくださった読者の皆さん、ありがとうございます。

二〇〇八年五月
                           金原瑞人・谷垣暁美


3.最後に
 次のエッセイ、また半年くらいのびるかもしれませんが、どうぞ、お見捨てなきように。しかし、大阪の児童文学館、どうするつもり?