書評というものを書き始めて、もう20年くらいはたっただろうか。

あとがき大全(33)

           
         
         
         
         
         
         
    
1.ハーレクインの頃
 書評というものを書き始めて、もう20年くらいはたっただろうか。「図書新聞」あたりが最初だったと思う。
 と書いたところでふと、「図書新聞」を知らない人がいるのではないかと不安になってしまった……ので、簡単に説明を。
 欧米では書評新聞というものが存在する。これは本の書評だけでできている新聞で、多くは週刊。そこに載る書評は、日本の朝日、毎日、読売といった新聞に載る書評とはかなり違う。そもそも長い。二面、三面にわたって一冊の本を論じ、紹介するといったものもあったりする。かなり専門的なものから、一般向けのくだけたもの、あるいはエッセイ風のものなど様々で、なかなか楽しい。これを日本でもやってみようとしてできたのが「図書新聞」と「週刊読書人」。残念ながら欧米ほどの発行部数ではないものの、かなり頑張っている。ただ経営的に苦しいのが難点で、原稿料も安い。「日本児童文学」の原稿料とほぼ同じである。なら、多くの人は書かないのかというと、書くのである。なにしろ「図書新聞」にはお世話になることも多いし、こういう書評新聞がなくなっては困るからだ。つい先日、金原も「週刊読書人」に、『バーティミアス』がらみでファンタジーの話を書かせてもらった。
 ともあれ、「図書新聞」に書評を書きだしたのは、まだ大学院に在籍していた頃で、赤木かん子に紹介されたように覚えている。当時の「図書新聞」の編集長はサイドビジネスとして「ハーレクイン」の編集もしていて、「金原くん、一冊訳してみないか」ということになった。とりあえずは英文科の専攻で、犬飼先生のもとで翻訳の勉強をしていたこともあり、ふたつ返事で承知して、早速やり始めた。
 「ハーレクイン」の翻訳は4、5冊やっただろうか。これがおもしろかった。普通の翻訳とはちょっとちがっているところも含めておもしろかった。ほう、こんな世界もあるのか、と目を見張ったものだ。
 ご存じの方も多いと思うが、「ハーレクイン」はアメリカの原書も、日本の翻訳版もページ数が決まっている。そして原書をそのまま忠実に訳すと、日本語版の規定のページ数を軽く越えてしまう。ではどうするかというと、削りながら訳す。
 さらにおもしろいことに、原書のほうは作品によって長いものもあれば短いものもあるのに、ページ数はすべて同じなのだ。どうしてかというと、長いものは活字を小さくして、短いものは活字を大きくするからだ。ところが日本語版のほうは、どんな作品であっても活字の大きさは変えない。となると、長い作品は削る部分が多く、短い作品は少なくなる。だから厳密にいえば、どれも翻訳というよりは抄訳になってしまう。そしてまた、どこをどう削るかが、訳者の腕の見せ所になる。
 その頃の「図書新聞」の編集長の武勇伝をひとつ紹介しておこう。昔、編集長も「ハーレクイン」の翻訳をやったことがあって、あるとき、途中で削りすぎてしまった。原稿用紙はたくさん余っているのに、原書の英語がもうない……のである。
「いやあ、まいったよ。かといって途中までもどって訳し直すのも面倒だから、自分でひとつエピソード作っちゃった」
 まあ、武勇伝としか言いようがない。しかし考えてみれば、「ハーレクイン」の翻訳を原書とつきあわせてみようなどという読者はまずいないだろうし、これはこれでいいのかもしれない。
 それはともかく、「ハーレクイン」の翻訳で学んだことは少なくない。たとえば、段落が変わって最初に、原書で 'he' とか 'she' が出てきた場合、そのまま「彼」「彼女」と訳すのではなく、名前に置き換えてやるとか。その他、表記、漢字の使いかたなどなど、読みやすさを徹底的に追及したノウハウが何枚かの紙にまとめてあった。もちろん、一般書の場合、すべてをすべて読みやすく訳す必要はないし、原文の読みづらさをそのままに訳し出さなくてはいけない場合もある……が、それはまず読みやすい文章を書けるようになってないと無理なのだ。下手で読みづらくなっている訳文と、原文を配慮してわざと工夫して読みづらくした訳文は、読めばすぐにわかる……と思う。
 話がずれてしまったが、そんなわけで、「図書新聞」にも、「ハーレクイン」にも、ずいぶんお世話になった。「ハーレクイン」のほうでは、一冊訳すたびに原稿料が上がっていったのは、とてもうれしかった。まだ、新高島平に住んでいた頃である。最初の一冊目は、板橋の喫茶店で「ハーレクイン」専用の原稿用紙に鉛筆で訳文をしたためていった。駅から一分か二分くらいのところにある、感じのいい明るい雰囲気の喫茶店で、サーフィンやウィンドサーフィンのビデオが大きな画面に映し出されていた。
 しかし鉛筆で原稿用紙に訳文を書いたのは、おそらく、それが最初で最後だと思う。その翻訳が仕上がった直後に、ワープロを買ったのである。当時、NECの(当時としては)高性能のワープロが100万だった。もちろん80年代のこと、大学院生にそんな機械はとても買えない。それがほぼ同じ性能で(ちょっと劣るものの)、一気に半額のマシンが出た。「文豪」の初期のものだ。50万。いまからおよそ20年前の50万はかなりの額だったが、ここぞとばかりに思い切って買ってしまった。フロッピーは5インチ。ぺらぺらのやつである。そのうえ、FDを差し込むところがひとつしかない。それも、マシンを起動すると最初に「システム・フロッピー」などというものを入れて出して、データの入っているFDを改めて入れる……という操作が必要だった。
 しかし、しかしである。それが便利で便利でしょうがなかったのだ。正直に言うが、もともと字は下手である。字の下手な人間は、ちゃらちゃらっと書くから下手なのであって、読みづらいけれど、書くのは早いだろう……などと、ちまたでは思われているが、これが大きな間違いであることは、悪筆の人間はすべて、ひとり残らず知っている。字の下手な人間は、字も下手だが、書くのも遅いのだ。字のうまい人間は書くのも早い。そして読みやすい。
 まあ、そんなわけで、最初の翻訳では相当に時間がかかり、そのうえ、編集者にもご迷惑をかけてしまったという次第。すぐに反省するのが金原である。その頃、かなり貧しい生活をしていたにもかかわらず(ちなみに、子どもは保育園に入れたのだが、区立だったせいで、一銭も払っていない。たしか最低に近い所得額で、その下は保護世帯になってしまうというところだった)、50万の「文豪」を購入したのである(さすがに親の援助を仰いでしまったのだが)
 しかしこのワープロというマシンは救世主のようなもので、これがなかったら、翻訳にこれほど打ち込むことなはかったように思われる。
 しつこいが、かなりの悪筆である。「ハーレクイン」の第二作目の訳をワープロで仕上げて持っていったところ、女性の編集者から「金原さん、次からもぜひぜひワープロでお願いします」といわれてしまった。
 ここでもうひとつ忘れてならないのは、当時はまだ、ワープロのFDをそのまま印刷のゲラにすることができなかったということだ。つまりタイピストの人が、ワープロの原稿を見て、それを打つという作業が必要だったのだ。だからタイピストの打ち間違いもかなりあるわけで、校正にはかなり時間と労力を食った。これはその後もかなり続いて、福武書店で『かかし』を訳したときなんかも、やはり、打ち込んだデータをそのままコンピュータで読みこんでゲラにすることはできなかった。ところが、さらにおかしなことに、当時、岡山の印刷屋では、すでにそれが可能になっていた。というのも、まだ父親が健在で岡山で印刷屋を営んでいたのだが、そこに妹の旦那が入ることになり、一気に電算化が進んだのだ。なにしろうちの妹の旦那というのは神戸大の地球物理を出ていて、在学中からコンピュータのおたく。そのあまりの熱中ぶりに、妹が切れてしまい、金槌で一台コンピュータをたたき壊してしまったくらいだ。そんなわけで、うちの印刷屋はまたたくまにワープロのデータ入力が中心になっていった。妹の旦那いわく、「ワープロで打った原稿をみて、打ち直すなんて、ばっかじゃないの」。今なら、だれでもそう思うけど、あの頃の東京のほとんどの印刷屋はそんな芸当はとてもできなかった。とはいえ、ひとこと添えておくと、大手の印刷屋の開発部は非常に高度な研究を進めていて、地方の中小の印刷屋などとてもおよばないほどの技術を持っていた……が、残念なことに営業にまでその知識や技術は伝わっていなかったらしい。つまり、上の方では驚くほど高度な技術が開発されつつあったにもかかわらず、下々はそれを活用できない状況だったということ。
 まあ、科学、技術というのはそういうものなのかもしれない。
 そんなわけで、ワープロで打った原稿がそのままゲラで出てくるようになるまでには、それから数年を要したのである。その間、妹の旦那は「ばかみたい」と言い続けていた。が、それが現実である。不思議なことは山ほどある。
 ともあれ、文字を書くのが下手で遅い金原は、かなり早い時期にワープロを導入したのであって、ひいてはこれが翻訳への道を進む大きな要因になったのは間違いない。
 というわけで、金原の本格的な翻訳事始め、児童書は『さよならピンコー』、一般書は「ハーレクイン」だった。そろそろ「ハーレクイン」を訳していたときのペンネームを明かしてもいい頃だろう。「鏡美香」。ただイニシャルを合わせて女性名を考えた、というだけである。

2.本の紹介
 なぜ、「ハーレクイン」のことなどを書き始めたのか、よくわからない。たしか、目的があったはずなのだが、書いているうちに忘れてしまった。年は取りたくないものである。
 ここで一冊、写真集を紹介してみたい。和書なら新聞でも雑誌でも紹介する場はたくさんあるのだが、これは洋書。ちょっと紹介の場がない。
Author Photo: Portraits, 1983-2002
by Marion Ettlinger
Simon & Schuster
$35
 見ての通り、エトリンガーがアメリカを回って撮りまくった作家の写真集である。とにかく素晴らしい。なにが素晴らしいのかわからないけど、もう何度もめくっている。200人以上の作家の顔をながめるだけなのに、なぜか楽しい。不思議である。自分の訳した本の作者もいる。シャーマン・アレクシー、ルドルフォ・アナヤ。もちろん、有名どころも多い。ポール・オースター、トム・ウルフ、トバイアス・ウルフ、ジョン・アーヴィング、エリカ・ジョングなどなど。それから『ワイルドバーガー』の作者、ロイス=アン・ヤマナカもいる。そして最後を飾っているのが、ニューヨークにいたハルキ・ムラカミ。
 この本はリテラル・リンクという編集プロダクションの奥田さんからいただいたもの。奥田さんは、もと祐学社の編集をしていて、それからタトルというエージェントに入り、それから独立して編集プロダクションを立ち上げた。こんかい理論社から出た『バーティミアス』もここのお世話になっている。
 その奥田さんが、なぜこの本を買ったかというと、ジョイス・キャロル・オーツがどんな顔をしているか見たかったから……という、ただそれだけだったらしい。変な人である。が、それはともかく、何度でもめくりたくなる写真集なのだ。そんなわけで、ここで紹介してみた。ぜひぜひ、手にとってみてほしい。

3.『木曜日に生まれた子ども』
 このところ河出書房新社から、『プリンセス・ダイアリー』(メグ・キャボット)や『ヘヴンアイズ』(デイヴィッド・アーモンド)など、ヤングアダルト向けの本を次々に出させてもらっているのだが、その最新刊がこの『木曜日に生まれた子ども』。オーストラリアで現在注目の作家、ソーニャ・ハートネットの作品である。金原は、恥ずかしいことにかなりのあいだ、「ソーニャ・ハーネット」とばかり思っていた。
 それはともかく、すごい本なのだ。というわけで、この本のあとがきを。

   訳者あとがき

 一般書の世界でもそうだが、ヤングアダルトむけの本の世界でも、信じられないほどの個性と想像力で新しい領域を切り開いていく、魔法使いのような作家がたまに出てくる。たとえば現在、イギリスならデイヴィッド・アーモンド、アメリカならフランチェスカ・リア・ブロック、オーストラリアならこのソーニャ・ハートネット。三人ともほかの作家とはまったくちがう「何か」を持っていて、ちょっとずれた作品や不思議な作品を投げかけてくる。そして、どの物語も激しく強烈なのに、どこかやさしい。この『木曜日に生まれた子ども』(原題 Thursday's Child)もそんな作品だ。
 舞台は大恐慌の頃のオーストラリアの開拓地。それも、かつては金鉱掘りたちが暮らしていた、荒れた土地だ。石を積み上げた小山が点々と散らばっていて、昔の小さなトンネルが地下を走っていたりする。そんなところに暮らす一家の物語を、ハーパーという女の子が書きつづっていく。
 次々にふりかかってくる災難と、それに追い打ちをかけるようにやってきた大恐慌によって、次第にばらばらになっていく家族を、ハーパーはたんねんに描いていく。酒に溺れていよいよかたくなになっていく父親、そんな父親に対して子どもを守ろうとするがやがて気力をなくしていく母親、おませな姉、馬が大好きな兄──そして弟のティン。
 ティンは幼い頃から土を掘り始め、トンネルを作り、土の中で暮らすようになり、そのうちほとんど地上に姿を現さなくなる。一家が悲惨な運命をたどるにつれ、ティンのトンネルは加速度的に広がっていく。そしてごくまれにティンが地上の家族と出会うときは、いつも一家をゆさぶるドラマが用意されている。
 地中で生きることを選んだ少年というと、イタロ・カルヴィーノの『木のぼり男爵』を連想する人も多いだろうが、雰囲気も構成もまったく異なっている。『木のぼり男爵』が、ほら話風のある種、さわやかで切ないファンタジーなのに対して、こちらは、現実と神話がせめぎあう熱く泥臭い物語なのだ。ひたすら土を掘り続けるティンは、うとんじられ、敬遠され、恐れられ、愛され、やがて神話の登場人物のような存在になっていく。これはリアルなはずなのに、なんとも奇妙で不思議で、そのくせ感動的な物語なのだ。こんな物語は魔法使いでもない限り書けないような気がする。
 タイトルになっている「木曜日に生まれた子ども」はマザーグースのなかの一節。「木曜日に生まれた子どもはどこまでも歩いていく(Thursday's child has far to go)」から。

 作者のソーニャ・ハートネットは一九六八年生まれ。現在までに十冊以上の作品を書いているが、そのひとつひとつが風変わりで独創的。何度かオーストラリア児童図書賞の候補になり、二00二年、Forest で大賞を受賞。また『木曜日に生まれた子ども』は同賞の候補になるとともに、ガーディアン賞を受賞、世界各国で大きな話題となっている。

 なお、最後になりましたが、編集の田中優子さん、翻訳協力者の小林みきさん、原文とのつきあわせをしてくださった宮坂聖一さんに心からの感謝を!
二00三年十二月二十四日       金原瑞人


4.最後に
 今回、なんか尻切れトンボの感が強いけど、とりあえず、ここまで。
 次回に期待……かな。3月下旬には、『木曜日に生まれた子ども』につぐ超話題作『ホエール・トーク』(青山出版社)も出るし。そうそう、今年は金原的に目一杯力の入った作品が続々と出るのだ。前回で予告していたドナ・ジョー・ナポリが4冊出るし、それに……
 それから、しばらく手を入れていなかった金原のHP、近々更新します。「流行通信」で連載している「今月の言葉」、2003年分を追加。それから、「東販週報」で連載している「あれもYA これもYA」の書評を約二年間分、まとめて載せます。それから原書の要約も何点か追加の予定。おそらく2月末くらいまでには準備ができると思う。
 今回の「あとがき大全」、不満の残った方は、今月末にでもHPをのぞいてみてください。