あとがき大全(25)

金原瑞人

           
         
         
         
         
         
         
    

1.ふとした発見
 翻訳をやっている西田佳子さんから久々にメールがあって、往年の流行病を患っているとのこと。なにかときいたら、「昔でいうと猩紅熱」という返事。へえ、そうなんだ、猩紅熱かあ、きっと全身真っ赤なんだろうなとか思いながら、辞書を引くと、「顔面紅潮し、全身皮膚に紅色小丘疹を発し……」とある。ちなみに、これは「広辞苑」からの引用で、使った辞書はカシオの「Ex-word」。この電子辞書、翻訳をしている人に限らず、英語に興味のある人にはぜひ勧めたい。
 なにより、研究社の「リーダーズ」と「リーダーズ・プラス」の二冊が一緒に入っているのがありがたい。紙の辞書だと、まず「リーダーズ」を引いて、そこにないと新たに「リーダーズ・プラス」を引くという手間があったのだが、この電子辞書だと両方が入っているので一発でOK。このふたつの辞書が一緒に入っている電子辞書がなかったかというと、そうではなく、数年前にある会社から出たのだが、これは重くて、とうてい持ち運びできなかったし、そのうえ故障が多かった。
 そしてやっと今年になって出てきたのがカシオのこれ。「リーダーズ」「リーダーズ・プラス」のほかに「広辞苑」「ロングマン・現代アメリカ英語辞典」「ジーニアス英和辞典」「ジーニアス和英辞典」「ロングマン・英語アクティベータ(活用辞典)」「ロングマン・シソーラス」「英語類語辞典」「漢字源」などが入っている。定価は4万円以上するが、ヨドバシカメラやビッグカメラでは3万2千円くらい、大学生協では2万8千円弱、ネットの通販でうまくさがせば、それ以下で買えるかもしれない。これだけの辞書を全部買うことを思ったら、ずいぶん安い。それになにより、軽い。厚さは1センチ未満。ようやく、使える(持ち運べる)電子辞書がでてきた。いよいよ、電子辞書の時代に突入した感がある。
 閑話休題。「猩紅熱」を引いて、ふと気になったのは「猩々」という言葉。
 ちなみに、最初、この猩々(ショウジョウ)という言葉に出会ったのは、昔々の翻訳の『モルグ街の殺人事件』だった。作者はアメリカの恐怖小説作家として有名なエドガー・アラン・ポー。この「猩々」というのは、もともとは「中国で、想像上の怪獣。体は狗(いぬ)や猿の如くで、声は小児の如く、毛は長く朱紅色で、面貌人に類し、よく人語を解し、酒を好む」(広辞苑)。なお、能の『猩々』は、この怪獣というか、霊獣が舞い踊る。そして後生それが、「オランウータン」の意味でも使われるようになる。というわけで、『モルグ街の殺人事件』の犯人、昔々の訳では「猩々」だった。もちろん、金原訳『モルグ街の殺人事件』(岩波少年文庫)では、猩々ではなくオランウータンになっている。
 ところで「猩紅熱」は赤い発疹ができる。「猩々」は赤の象徴なのだ。たしかに能の猩々も真っ赤である。それにオランウータンはお尻も赤いし、顔も赤いような気がする。そこでついでに「猩々緋」を引いて、驚いた。
「(猩々の血をとって染めた色という)黒みを帯びた鮮やかな深紅色。また、その色の舶来の毛織物」とある。さらについでに「日本国語大辞典」を引いてみたら、(猩々の血をとって染めた色)という語源(説)は「大言海」に載っていることがわかった。が、いったい、どこの本に、「猩々の血で染めると鮮やかな赤色が出る」と書かれているのだろう。気になってしょうがないが、とりあえず、調べ物はここまで。

2.『ティモレオン センチメンタル・ジャーニー』
 今月、とてもうれしいことがあった。『ティモレオン』が「ダ・ヴィンチ」のプラチナ本に選ばれたのだ。先月号に書いたとおり、あまり一般受けのする本でないことはわかっていたし、まことに後味のよくない本であることもわかっていたが、強烈な魅力のある、一種独特の現代小説であることもわかっていた。要約をまとめてくれた石田文子さんも、とても気に入ってくれて、ぜひ訳したいといっていた。おもしろいのは、石田さん、「最後に残酷な場面があるので、そこは省いて要約をまとめてしまおうかと思ったくらい好き」といっていたこと。アンドリュース・クリエイティヴの社長である小川さんが、この要約を気に入ってくれたというのもまた不思議である。理由をきいたら、「おもしろいよ、これ。要約を読んでて、途中、何度か笑っちゃった」という答え。たしかに笑える要素はかなりあるのだが……。
 そもそもこの本は、アウルズ・エイジェンシーという新しいエイジェンシーにいる田内万里夫さんが持ってきたもの。田内さんに「とにかく、すごい本だから」といって渡され、要約をまとめたはいいが、なかなか出版しようというところは現れなかった。しかしおもしろいことに、どの編集者もかなり興味を示してくれて、迷ったあげく、没。それが妙な縁でアンドリュースから出ることになった。ところがゲラが出た段階で、営業の人が帯の推薦文を書いてもらおうと、ある人のところにもっていったら、ていねいに、しかし、しっかり断られてしまった。もともとそう売れる本だとは思っていなかったものの、あまり幸先はよくない。が、そのうち豊崎由美さんが書評で激賞してくれて、少しずつ認知されるようになって、「ダ・ヴィンチ」のプラチナ本という運びになった。
 ともあれ、興味のわいた方は、一種、肝試し、腕試しのつもりで読んでみてほしい。ただし、くれぐれも体力と気力の充実したときに。作者のダン・ローズもこれを書き終えたとき、「作家家業はやめる」と宣言したくらいだ。これ一冊書き上げるのに、精も根も尽き果てたらしい。読む方もしんどいが、当然ながら、書く方はもっともっと大変なのだ。
 金原訳の本のなかで、金原個人として非常に気に入っているものは、先月号で書いたので省略するが、『ティモレオン』もそのうちの一冊。
 今月は、先月予告したとおり、デイヴィッド・アーモンドの『ヘヴンアイズ』(河出書房新社)、スーザン・プライスの『500年のトンネル(上下)』(東京創元社)と、かなり濃い作品が出る。さらにもう一冊、妙に軽い本も一冊出る。もう70年も前のベルギーの作品、『9990個のチーズ』(ウェッジ)。チーズ嫌いの中年男が大量のチーズを売る羽目になるという、たいした事件も起こらないし、ストーリーもいたって平板……なんだけど、ついつい読んでいって、しみじみしてしまう、まるでチーズのような味わいの作品。ちなみに、欧米のチーズは、日本でいえば漬け物にあたる。なにより、あの独特のにおい(くささ)、そして、ほぼ食事を終えたあと、デザート(お菓子)の前に出てくる。まさにチーズは漬け物なのである。
 あと目玉は、ニール・ゲイマンの『コラライン』(角川書店)かな。

3.増刷
 増刷というのは、訳者にとってはとてもありがたい。ボーナスのようなもので、多少なりとも収入が増えるし、なにより、訳した本が増刷になると、読んでもらえたんだと思って、ほっとする。
 じつは今日、アーティストハウスの海老沼さんから電話があって、『ぼくたちが大人になれない、12の理由』と『サラ、いつわりの祈り』が増刷になったとのこと。とてもうれしい。アーティストハウスでは何冊か訳本を出してるのだが、これといったヒットはない。『サラ、神に背いた少年』が多少売れたくらいだろう。だが、かなり気に入った作品が多い。とくにジム・ハリスンの『神の創り忘れたビースト』なんて最高だと思っているくらいだ。しかしながら、そういう本に限って売れない。こちらは訳したいものを訳しているだけだからいいようなものの、たまに出版社にたいして申し訳ないような気がしてくる。

4.今月のあとがき
 というわけで、今回は『チーズ』。それからアーティストハウス・角川書店から出ている「ブック・プラス」シリーズの本のあとがきを。
『サラ、神に背いた少年』(前に一度掲載)『サラ、いつわりの祈り』『ぼくたちが大人になれない、12の理由』『テリーと海賊』『わたしが私になる方法』。

訳者あとがき(『チーズ』)

 本書は二0世紀ベルギーを代表する作家のひとりヴィレム・エルスホット(一八八二〜一九六0年)が一九三三年に発表した作品 Kaas の全訳だが、翻訳にあたってはポール・ヴィンセント訳の英語版 Cheese を使用した。
 この英語版のまえがきを、そのまま「解説」として訳しておいたので、作者および作品についての詳しいことはそれを参照してほしい。また原作の冒頭にある「著者序文」は「著者あとがき」として載せておいた。エルスホットのユニークな「文体論」が展開されているので、興味のある方はぜひ読んでみてほしい。さらに、この日本語版の帯には柴田元幸氏の見事な感想が紹介されている。
 そう長くもない、七十年も前の小説に二重三重のぜいたくな付録のついた日本語版を手のすることのできる読者は幸福だと思う。
 が、こうなると訳者としてはほとんど書くことがない。とりあえず、まずは作品の簡単な紹介から。
 ベルギーに住む主人公ラールマンスは、造船会社の下っ端職員だったが、ちょっとしたことからオランダ製のチーズを販売する総代理人になってしまい、二十トンのエダムチーズを引き受ける。ところが、これがなかなかさばけず、四苦八苦して、ついに……
 会社でも家庭でも軽い存在だが、そのくせプライドは高く、一攫千金を夢見ている小市民を等身大に描いた作品といったところだろうか。物語には、大事件も、殺人も、恋愛も、盛り上がりも、悲劇も、なにもない。ごくごくありふれた日常のなかで、なんとか夢を実現させようと必死になる主人公がいるだけだ。電車で隣に座っていそうな中年のおじさんラールマンスの行動と気持ちが淡々と描かれていく。それがなんとなくユーモラスで、なんとなく切ない。ああ、いい味出てるな、というのが英語版を読んだときの感想である。
「思わず引きこまれてしまった……小さな宝石みたい」(デボラ・モガク)
 主人公のラールマンスが、七十年前の人物とはとても思えないくらいリアルに感じられるのはなぜなのだろう。そうそう、これを訳すのに使った英語版は二00二年にイギリスで出版されたものだ。イギリスでもなかなか評判がいい。
 不思議な本である。
 じつはこの本を訳すことになったのには、ちょっとしたいきさつがある。
 ヘールト・フォン・ファステンハウトという、オランダ人のアーティストがいる。純抽象の美しい絵を描く画家で、すでに日本でも何度か個展を開いており、熱烈なファンもいるらしい。そのファステンハウトと日本橋のギャラリーで会ったときのこと。「いまちょうど、On the Water というオランダ語の小説を英語から訳しているところなんです」といってその本を見せたところ、彼は「ああ、読んだよ。いい本を訳しているね」といってくれて、話題はやがて彼の敬愛する谷崎潤一郎の話に移っていった。それから数ヶ月後、岡山の新しいギャラリー「アートガーデン」で個展をするというのでファステンハウトがふたたび日本にきたときの土産が、この本だった。「昔の作品なんだが、いまオランダでちょっとしたブームなんだよ。英語版も出たから、そっちを持ってきた」とのこと。
 読んでみると、これがおもしろい。なんともいえない味があって、つい最初から読み返してしまった。そこでエージェントに問い合わせたら、まだ版権は売れていないとのこと。共訳者の谷垣さんに要約をまとめてもらい、エージェントに送ったところ、ウェッジから出版したいとの連絡が入った。
 ぜひファステンハウトに、日本語版を一冊送らなくてはと思っている。
 おそらく天国にいるエルスホットも、この本を上の方からながめながら、にやにやしているのではないだろうか。

 さて最後になりましたが、手際のいい編集作業でさくさくと仕事を進めてくださった服部滋さん、絶妙の紹介を書いてくださった柴田元幸さん、発音その他のことで親切に教えてくださったベルギー大使館の伊達さん、オランダ大使館のErik van der Molen さん、この本を紹介してくださったファステンハウトさんに心からの感謝を!
二00三年五月二五日金原瑞人


訳者あとがき(『サラ、神に背いた少年』)

 リザード……蜥蜴@とかげ@……娼婦や男娼を指すスラング。
 主人公の少年がリザードになろうと、雇い主のグラッドからアライグマのペニスの骨で作ったネックレスを首にかけてもらうところから、この小説は始まる。
 アライグマには陰茎骨と呼ばれる骨があり、アメリカ南部では「ラヴ・チャーム(愛のお守り)」として使われる。
 少年はそのうち最高のリザードになって、サラなんかよりずっと売れっ子になって、大きなペニスの骨をもらうことを夢にみている。サラというのは少年の母親で、美しい娼婦。少年が働く場所は、グラッドの縄張り。トラックの運転手たちが次から次にやってくるサービスエリアだ。
 少年は少しでも早くいっぱしのリザードになろうとあせるあまり、禁じられている川の対岸へ足をのばし……そこで魔力を秘めたジャカロープを目にする。ジャカロープというのはアメリカ南部の伝説によくでてくる架空の動物で、角のついた大ウサギ。このジャカロープを見にいって、プーという傷だらけの少女に出会ったところから、少年は奇怪な世界に転がりこむ。

 まだゲラの段階のこの小説を読んだときの強烈な印象は忘れられない。主人公の少年が男娼の世界に喜んで飛びこんでいったかと思うと、いきなり聖者に祭り上げられて、不思議な体験を重ねるが、そのうち一気に転落して、やがて……アメリカ南部に独特の、幻想的で、グロテスクで、猥雑で、ユーモラスで、シニカルで、コミカルで、リアルで、寓話的で、ぞくっとするほど美しいゴシック風の物語……カースン・マッカラーズの『悲しいカフェの歌』とトルーマン・カポーティの『遠い声、遠い部屋』とルイス・キャロルの『不思議の国のアリス』を足したような「奇妙な味の小説」とでもいえばいいのだろうか。
 題材も、語り口も、物語の展開も、どれもあまりにユニークで、最初から最後まで翻弄されっぱなしだった。そして最後に残ったは、少年が抱えている、母親に対する悲しいまでの思慕、そしてそのやりきれないほどの切実さと切なさだった。
 アメリカでも様々な方面から賛辞が送られている。

「奔放な想像力と冷静で的確な描写力。『サラ』は、リロイの美を創造するすばらしい才能を証明している」(「ヴィレッジ・ヴォイス」)
「不気味で、悲しくて、遠い物語」(「サンフランシスコ・クロニクル」)
「なぜかルイス・キャロルの不思議な国を思い出させる。温かいと同時に、奇怪で、美しく、驚くほどのオリジナリティにあふれている。だれにも真似のできない新しい才能の登場」(「ブック・ディスクリプション」)
「ごく、ごくごくまれに、作家が神とともに歩いてやってくることがある。わたしはJ・T・リロイを十六歳のときから知っている。彼は神とともに歩くだけではない。天使とともに書くのだ」(ジョエル・ローズ)
「この旅は暗いが、そこには希望がある。フィクションは新しいヒーローを得た。その名前は『サラ』」(トム・スパンバウアー)
「『サラ』は、驚きと興奮を与え、挑発的で楽しい。すばらしい本というのは、いや、すばらしいセックスもそうだが、すべからくこうあってほしい」(チャック・パラニアック『ファイト・クラブ』の作者)

 作者のJ・T・リロイは八0年生まれ。「ターミネイター」というペンネームで雑誌に短編を載せたりしている。本書が初めての長編小説。
 まさに「文学界の天才少年!」(「スピン・マガジン」)
 ようこそ、リロイ・ワールドへ。

 なお最後になりましたが、編集の三浦彩子さんと村山愛さん、翻訳協力者の中村浩美さん、そして細かい質問にていねいに答えてくださった作者に心からの感謝を!
二000年七月七日(金原瑞人)

訳者あとがき(『サラ、いつわりの祈り』)

 J・T・リロイの処女作『サラ、神に背いた少年』が出版されたときの衝撃はかなりのものだった。
 作者が一八歳で、さらに自伝的な要素を多分に含んでいる、というだけでもセンセーショナルなのに、作品そのものが驚くほどのインパクトを持っていた。アライグマのペニスの骨で作ったネックレスを首にかけた少年がトラックの運転手相手の男娼になろうとするという設定、話がすべり出してからの悪夢にも似た物語の展開、全編を通して流れる少年の母親サラへの切ない思い……これらが巧みに編み合わされ、美しくもグロテスクなタペストリーになっていた。
 この作品は二000年の出版界にとって、一大事件だったといってもいいだろう。
 そして二00一年、第二作目の『サラ、いつわりの祈り』は出版早々ベストセラーになり、好意的な書評が次々に出た。気力、迫力、筆力すべて前作を上回っている。
 この作品は、前作の続編というより、前作の前編になっている。思いやりのある養父母に育てられていた主人公の少年を、実母のサラが無理やりに引き取るところから、物語が始まる。少年はサラに脅かされ傷つけられいじめられながらも、次第にサラに心を寄せ、憧れるようになっていき、ついにはサラのようになりたいとまで思うようになる。児童虐待と性的倒錯の物語といってしまえば、それまでだが、この小説はそんな言葉でくくられるようなものでは到底ない。
 自分勝手でわがままで、次々に男を変え、やがて麻薬に溺れていくサラ。そのサラにいいように使われ翻弄され、憎まれ愛されている少年。このふたりがつむぎあげるセックスと暴力の物語は、異様に寂しく切なく、不思議でおかしくて、やりきれないほどの悲しみをたたえている。
 そしてまた、この作品は、前作の謎解きにもなっている。なぜ主人公の少年が女の子になりたがるのか。なぜ少年が、これほどまでの被虐的な愛を貫き通そうとするのか。そして、第一作目では「ぼく」としてしか出てこなかった少年の名前は?
 物語が進むにつれて、サラについての謎も解き明かされていく。なぜそんな聖書にちなんだ名前を持っているのか(兄弟も同じような名前を持っている)。どのような家庭に育って、なにが原因で道を踏みあやまってしまったのか。なぜそこまで息子に執着するのか。
「リロイの文章は、情熱的で、簡潔で、感情的な深みを持ち、あまりに叙情的で美しい。われわれが現代小説に期待するようになってしまったお決まりのスタンダードすべてを越えてしまっている」(デニス・クーパー)
 少年の悲劇とサラの悲劇が、ときどき残酷に、ときどきコミカルに、ときどき哀切に交錯するこの連作集は、おぞましくも美しいステンドグラスで作り上げられたゴシック風の尖塔のような趣がある。
「この本がこれほどまでに力強く強烈な印象を与える理由のひとつは、見事に構築され、美しく書かれているからだ」(ヒューバート・セルビー・ジュニア)
 前作とこの作品のふたつで、J・T・リロイは現代のアメリカ文学で確固たる位置を占めるようになったといっても過言ではないだろう。
 まさに「文学界の天才少年!」(「スピン・マガジン」)
 ようこそ、リロイ・ワールドへ。
 なお最後になりましたが、編集の村山愛さんと翻訳協力者の中村浩美さんに心からの感謝を!二00二年二月二日(金原瑞人)


訳者あとがき(『ぼくたちが大人になれない、12の理由』)
「ぼくは二十歳だった、それが人生でもっとも素晴らしい年齢だったなどと、ぼくはだれにも言わせはしない」(ポール・ニザン作『アデン・アラビア』の冒頭)

『ニュー イヤーズ デイ 約束の日』を観た。すごい……というか、切ない。まさにポール・ニザンの言葉が胸に突き刺さってくるような映画だった。
 もうすぐ十七歳を迎えようとしていたふたりの少年が、突然の雪崩で十人の仲間を失い、一年後にいっしょに死ぬ約束を交わす。そしてそれまでの一年のうちに『生命の書』に記された十二の約束を果たすことにする。
一  全国紙の新聞の第一面にデカデカと載る
二  学校を燃やす
五  車を大破させる
九  トンブクトゥでアイスクリームを食べる
十  タバコをやめる
十一 理解を示し、嘘をつかず、友だちを大切にする
 ふたりの少年、ジェイクとスティーヴンは次々に十二の約束を実行に移していく……いや、実行に移そうとするのだが、なかなか思うようにいかない。そもそも『生命の書』の約束はスティーヴンが決めたものだが、ジェイクはその理由を知らない。そのうえ、ことあるごとにふたりの気持ちも行動も、ぶつかり、揺らいでいく。
 不信、裏切り、猜疑、嫉妬、反目……様々な思いがふたりを揺さぶる。
 そしてふたりがぎりぎりまで追いつめられたとき、すべてが明らかになる。その真実は、あまりに残酷で、あまりに優しい。
 映画は最初、ジェイクとスティーヴンの電話のやりとりで始まり、バスのなか、雪山でのスキー、そして雪崩、病院のシーン……と続いていく。
 このテンポのよさ、スピード感、まさに映画ならではの小気味よさ。
 脚本を書いたラルフ・ブラウンがこれを小説にしたという話をきいたとき、思わず耳を疑った。こんなにスリリングで鮮やかな映画を小説にしてどうする。やたら重くてやぼったいものになるに決まってるだろうに。
 ところができあがってきた作品を読んで、また驚いてしまった。おそらくラルフ・ブラウンはある種の天才なのだろう。映画ほどの鋭さはないが、そのかわりに映画よりもずっと厚みのある小説を書いてしまった。
 小説をそのまま小説らしく映画化しようとすると必ず失敗する。そして映画をそのまま映画らしく小説にしようとすると必ず失敗する。映画と小説はまったく違うメディアなのだ。それをラルフ・ブラウンはこの作品で見事に証明してくれた。
 そもそも冒頭からして映画とは違う。ジェフリー・チョーサーの『カンタベリー物語』の引用から始まって、「死神」のイメージの交錯、そして授業風景……それからしばらくしてジェイクとスティーヴンの電話でのやりとり。
 映画のノヴェライゼーションで、たまにふと胸をつかれることがある。たとえば、クシシュトフ・キェシロフスキーの『トリコロール』。この第二部にあたる『白の愛』を観たとき、ジュリー・デルピーが刑務所の窓からみせるパントマイムの意味を、まったく取り違えていた。それがわかったのは、その小説を読んだときだった。
 小説は、映画のような切れ味の鋭さや、有無をいわせぬ説得力はないかわりに、多くのことを説明し、解説してくれる。
 本書を読むと、細部にこめられた脚本家と監督の気持ちがひしひしと伝わってくる。脚本家や監督はここまでつきつめて映画を作っているのだ。ジェイクとスティーヴンの気持ちを、映画だけで、この小説に描かれているほど細かく的確に理解した人はいないと思う。
 あの翻弄されぱなしの二時間弱の映画で描かれていることは、小説にすると、これほどの長さになるのだ。そしてこの小説自体が、完成された素晴らしい小説になっている。
 映画が先か、小説が先か……そんなことはどうでもいい。どちらからでも一向にかまわない。どちらも最高の出来なのだから。
 そしてまた、監督はこの映画のエンディングを他の人に話さないでほしいといっているが、そんなコメントもまったく必要ない。エンディングを知っていても、知らなくとも、この映画は、この小説は、感動的なのだから。そしてエンディングを知ったあとでも、さらに発見があり、感動がある。
 最後になりましたが、編集の村山愛さんと翻訳協力者の小川美紀さんと、多くの質問にていねいに答えてくださったラルフ・ブラウンさんに心からの感謝を!
二00一年三月二九日(金原瑞人)

訳者あとがき(『テリーと海賊』)

 主人公のテリー・タリーは高校生だけど、寄宿舎学校に転校させられそうになったのをきっかけに、「翼を広げよう」とばかりに、メイトランド・クレイン(世界的に有名な登山家、レーサー、単独航海の冒険家で大富豪)の小型帆船に密航。メイトランドに連れられて、カリブの島にいくことを夢見ていたが、なんと、乗りこんできたのはその息子のほう。このミックという息子が、どん臭いうえに、強度の吃音、つまりどもる癖がある。そのうえ二重人格で、いきなり、フランスの侯爵になってしまう。それも、オルレアンの処女、ジャンヌ・ダルクと知己のあった侯爵に。そのときは、フランス語なまりの英語を流暢にしゃべるのだ。
 テリーは半分うんざりしてミックを相手に船旅を続けるのだが、いきなり嵐に襲われて船は難破、ミック(と侯爵)は行方不明になってしまう。そのうえ、なんと、海賊につかまって南の孤島に連れ去られてしまう。海賊といっても、過去の遺物などでは決してなく、現在でもタンカーや貨物船がたびたびその被害に遭っている。
 さてさて、テリーの運命やいかに……!!!
 作者のジュリアン・F・トンプスンというのは、かなり変だけど、ずいぶん才能のある作家なんだろうと思う。アメリカの人気コミック『テリーと海賊』をもとに、こんなに面白い小説を書いてしまうのだから。日本ではこれが最初の翻訳だけど、アメリカではもう十五冊以上書いている人気作家。
 いつも前向きなテリー、いまひとつパッとしないミック、ダンディーで冷静な侯爵、中年のおやじ海賊ゴールド船長、スタイリッシュで抜群に色っぽいけど冷酷なドラゴンレディー、その子どもの双子チェリーとバディー……この連中が繰り広げるくんずほぐれつの大活劇……おっと、ひとり、いや一匹、大切なキャラクターを忘れていた。体重百四十キロのコモドドラゴン(コモド大トカゲ)もこれに加わって大活躍。
 さて、スリルとサスペンスとユーモアの(ちょっとだけHな)、突飛で奇妙で楽しい海洋冒険小説の女の子版、いかがだったでしょうか。海外の声をいくつか紹介しておきましょう。
・大笑いしたい人にお勧め!
・スゴイ本。とにかく、すっごくおかしいの……コミックがアニメ化されるみたいに、この本も映画化されるべきだと思う。

 少しだけ説明を。
 海賊の乗っている「キッド・ミー・ノット号」というのは、そのまま訳せば「〈冗談いってんじゃないよ〉号」。もちろん、有名なスコットランドの大海賊キャプテン・キッドのもじりでもあります。
 それから中年おやじ海賊ゴールド船長の肩にとまっている九官鳥の名前、イシュミアル(昔の本では、「イシュメル」と訳されています)は、この小説のなかにも出てくるメルヴィルの名作『白鯨』に登場する語り手の名前です。 
 最後になりましたが、編集の廣瀬美佳子さんに心からの感謝を!
二00一年一一月一五日(金原瑞人)

訳者あとがき(『わたしが私になる方法』)
なんか自分はほかの人とちがう。だめだめ、友だちと同じなんだってふりをしなくちゃ。そのためには、ほかの人をよく観察して、目立たなく小さくなって、家のことはだれにもいわないようにして、ときどきなら嘘もついて、なんとかごまかして、どうしようもなくなったら、逃げちゃえ!
 六年生のカーラはいつも、びくびくしていた。パパはサンタバーバラにいってしまって、なかなか帰ってこないし、いっしょに暮らしているママの具合がどんどんわるくなっていくような気がしてしょうがない。ママは精神的に不安定で、いつも薬をのんでいる……はずなんだけど、この頃どうもおかしい。でも、そのことは、だれにもいっちゃいけない。そのうち、ママもきっとよくなるんだから。そう、がんばらなくちゃ。
 そんなカーラの気持ちが、カーラの言葉でたんねんに綴られていく。
 ママはだいじょうぶ、きっとよくなる、それまでほかの人に知られないように……と思いながら、不安のなかで、いろいろなことを必死に取りつくろっているうちに、次第に現実からずれていって、現実がみえなくなって、自分が自分でないような気がしてくる。
 そんなけなげなカーラの思いを読んでいるうちに、心のなかにうっすらと、切ない染みが広がっていく。そしてそれと同時に、そのうちなにかが起こるのでは、という不安がどんどんふくらんでいく。
 これはちょっと不思議な小説だ。とてもリアルなんだけど、とてもファンタスティックで(とくに『青いイルカの島』に出てくるひとりぼっちの少女カラーナのことを考えるところとか)、とても切ないけど、ぼんやりした希望がところどころにかすかな光を投げかけている。それになにより、なんでもリストにしてしまわなくちゃ気がすまないカーラが、ユーモラスないい味を出している。
 女の子なら、きっと一度はこんな経験があるにちがいない。なんでもひとりで一生懸命、他人を頼らずに強がってみたり、大人になりたくて自分だけのルールを作ってみたり。そんなカーラの気持ちはとても純粋だ。強そうだけれど、はかなくて、ガラスのように傷つきやすい心を持ってる。カーラがカラーナに自分を重ねたように、カーラに自分を重ね合わせられた読者の方も、たくさんいらっしゃるのではないだろうか。

 カーラが唯一、心の友にしていた『青いイルカの島』──著者はスコット・オデル。アメリカの有名な作家で、一九六一年当時、現代のように子供たちのための本が少ないことを嘆いて、実話をもとにこの作品を書いた。その年の優れた児童文学作品に贈られるニューベリー賞を受賞して、映画化もされた名作だ。
 そしてカーラのようにこの本が宝物だったにちがいない本著の著者、サリー・ワーナーは、いまアメリカで注目の作家。こういった、なにげない、なんともいえない、さわやかなヤングアダルト小説を何冊か書いている。これからがますます楽しみだ。

 みなさんがこの本を通して、心のなかにある大切な自分を、どうか見つけられますように。

 最後になりましたが、ていねいに手を入れてくださった編集の安田沙絵さんと、原文とのつきあわせをしてくださった中村浩美さんに、心からの感謝を!

5.付録……というより、今回のメイン・エッセイ
 いま大学院の授業で、ミッチ・カリンというアメリカ作家のTidelandという作品をテキストに使っているのだが(やがて角川書店から出る予定。ちなみに翻訳協力者は『チェンジリング・チャイルド』の海後礼子さん)、ボストン帰りの小林みきさんが、ちょっとおもしろいエッセイを書いてくれたので、それを最後に載せておこう。とても楽しいので。

 いま聴講している大学院の授業で米国のテキサス州出身の作家Mitch CullinのTidelandを読み始めた。主人公は十二歳の少女。冒頭からの緻密な情景描写で、どことなく暗い雰囲気が醸し出される。が、そのなかで、少女の無邪気さが光っている。
Tidelandを読み進めると、二章の終わり、約一ページにわたって『ふしぎの国のアリス(Alice's Adventures in Wonderland)』からの引用が出てくる。主人公の少女の大好きな物語、ということで。が、一章からすでに、『アリス』のモチーフは点在している。
少女は家の二階から外に「さかさま(upside-down)のスクールバス」を見つける。表に出て、じぶんよりも背の高いモロコシ畑を抜け、バスに近づく。バスのドアが開いている。少女は、その「さかさま(inverted)のドア」から中に入る。そう、まさしく『ふしぎの国のアリス』のイメージ。さらに、少女は割れた窓ガラス(glass)が足下でパリンパリン鳴るのを楽しみながらバスの中に入る。そして、さかさまの窓から外にむかって手を振る場面。英語では"Looking through the topsy-turvy windows, I shook a hand..."。『鏡の国のアリス(Through the Looking Glass)』までも思い起こさせる。
 三章では父親が薬を買いあさり、”Wonder Bread”、つまり、アメリカ大手の製パン会社「ワンダー」のパンを買ったりしている。こうなると、Tidelandという作品タイトルまで『ふしぎの国』を髣髴とさせる気がしてきたり……一見陰鬱な感じの物語の展開が楽しみになってくる。

 そういえば、これまでに読んだ英語圏のYA作品でも、ときどき『アリス』を思わせる描写に出会った。
 Sylvia CassedyのBehind the Attic Wall(1983)は、リアリスティックだけどファンタジーっぽくもある作品。両親を亡くした十二歳の少女マギーが主人公。寄宿学校を転々としたのち、大おばさんふたりにひきとられることになった。丘のうえにぽつんと立つ大きな屋敷で、マギーは孤独な生活を送る。ふたりの大おばさんにやたら規則を押しつけられてうんざりのマギーは、ある日、クローゼットのなかに秘密のとびらを見つける。開けるとそこには二体のアンティークの人形、自称ティモシー・ジョンとミス・クリスタベルが、お茶会をしている。「やかんにお湯が沸いたから、持ってきて。やけどしないように気をつけて」といわれたマギーはやかんをとるが、なかは空っぽ。でも、人形たちは、お茶のないお茶会をすずしい顔でつづける。お茶のあと、「庭にバラを見に行こう」と。どこかに行く気配はないのに、「さあ、見てごらん」とマギーはいわれる。「バラ」は壁紙のバラ。「さあ、水をあげて」とまでいわれる。マギーはあきれて、「あたし人形なんかと遊ばないわ。あんたたちなんて、ただの古くさい人形じゃない!」という。原文で”You're just a couple of old dolls!”は『アリス』の最終章の”You're nothing but a pack of cards!”と重なる。
 このほかにも、やたらと駄じゃればかりいうモリスおじさんが出てきたり、マギーが屋敷についてすぐ、暗い玄関に誰かいる、と思ったらそれは鏡にうつった自分の顔だったり、ティモシー・ジョンは金時計を持っていて、それはいつも八時三十五分を指していたり。
マギーはのほうは、次第に人形と心を通わせるようになるが、その人形の正体は?……物語自体は少し謎めいていて、暗い雰囲気を漂わせながら進む。
 今なおアメリカで読みつがれているZibby OnealのThe Language of Goldfish(1980)は「大人になることが怖い」ティーンエイジャーの少女キャリーのお話。じぶんが大人になるということを意識するたびに幻覚を見るキャリーは、精神科のクリニックに通院している。ビルの23階にあるクリニックに行くために、エレベーターに乗らなくてはいけない。エレベーターは揺れながら上がっていく。キャリーはいつも落ちるんじゃないかと思う。そして、想像する。「ゆっくりと、落ちていく。エレベーターのケーブルやほかの階の閉じたままの扉を見ながら……夢見るように落ちていく。でも、夢と同じで、何かにつかまって落ちるのを止めることはできない」この描写はウサギ穴に飛びこんだアリスが、ゆっくりと、下へ、下へ、下へ落ちていく場面を思い出させる。
 オーストラリアのYA作家Sonya Hartnettの作品、Thursday's Child(2000)。語り手の女性が、大恐慌時の自分の子ども時代を回想している。母親が末の弟カフィを生んで数ヵ月後、四歳の弟ティンが家の下に穴を掘りもぐってしまう。地上では一家が貧困や不幸に苦しんでいるが、ティンは掘りつづけ、そのうちに穴は縦横無尽のトンネルに。そして、ある日、語り手の女性がティンの掘った暗く深い穴に落ちてしまう。真っ暗やみのなか、転がり、ぶつかりながら、宙を舞うように、長い長いトンネルを落ちていく……というところでも、読者はアリスが落ちる場面を連想することだろう。
 こうしてみると、『アリス』を取り入れている作品は、大人の世界と子どもの世界のはざまでの揺れ、不安をテーマとしているところが共通している。
 アリスが訪れた「ふしぎの国」には、今まで知らなかった、新しい発見がいっぱい。でも、けっして愉快なものばかりではない。それぞれに法則や理屈はあるけれど、不条理でばかばかしいことがたくさんある。(それが証拠に、テニエルの描くアリスは笑わない)「ふしぎの国」は混沌とした大人の世界だ。でもその一方で、それを作り出しているナンセンス自体は子どもの発想、言語観ととても似ている。「ふしぎの国」のナンセンスは、子どものイノセンス(無知・無垢)を象徴しているともいえる。
 一般にとてもよく知られた『アリス』。この白昼夢の物語のイメージを作品にとりいれる。すると、混沌とした大人の世界と、イノセンスな子どもの世界の危ういテンションという通奏低音が流れる、というところだろうか。