あとがき大全17

金原瑞人
【児童文学評論】 No.58/2002.10.25日号

           
         
         
         
         
         
         
    

一 おわび
 前回、「次はキプリングの『ジャングル・ブック』のなかから「白いオットセイ」の翻訳を載せる予定」と書いたけれど、間に合わなかったので、次回にまわします。


二 ?
 つい先日、倉本聡の『ニングルの森』を読んでいて次のような文章にぶつかった。

子供の手の指が一つ折られます。
それからもう一つ折られます。
しばらくしてもう一本折られました。(47頁)

「片手の指を全部折ってしまったので、今度は別の手に移動してそっちの指も次々に折って行きます……」(48頁)

 なんだよ、これ? と思った方はどうぞ、本屋へ。幼児虐待の描写ではないのでご安心を。しかし部分を取り出すと、まったく印象が異なってしまうような文章ってどうなんだろうと改めて考えさせられてしまった。しばらく、こんなことにも留意しながら翻訳をやっていこうと思っているところ。


三 タイトル
 もうご存じの方も多いと思うが、来年、『ライ麦畑でつかまえて』が新訳で登場する。出版社はもちろん白水社。出版社が版権をもっている限りは、他社が出すわけにはいかない(作者が亡くなって50年たっていればOK)。おそらく白水社も「さすがに野崎孝訳は古くなった」と判断したのだろう。英断だと思う。野崎訳の『ライ麦畑』は1964年に出版されて以来、その新鮮な訳で一世を風靡し(ちょっと古いけど、当時の感覚としてはこうだと思う)、多くの人々に読まれてきた。この野崎訳に影響を受けた日本の作家は少なくなく、庄司薫が芥川賞受賞作『赤頭巾ちゃん気をつけて』を出版したとき、「文体の剽窃」であるとして訴訟になったのは記憶に新しい(いや、新しくない人も多いかもしれない)
 しかしすでに四十年前の話だ。もう古いだろう、という声は二十年ほど前からささやかれていた。ぼくが大学院の頃かな。とはいえ、じゃあ、だれが訳し直すか……ということになると、だれもが口を閉ざしてしまう。ある意味、エポックメーキングな(これも古いか)名訳である。どんな翻訳家もちょっと手が出せないだろう。それにとにかく売れていた。出版社のほうも二十年前は、訳し直して出すことなどこれっぽっちも考えていなかったと思う。
 さて、それをそろそろ訳し直してだすべきではという声が編集部からあがったとき、一番の問題になったのは、もちろん、訳者だろう。あの有名な野崎訳を越える(あるいは、話題性のある)訳……というわけで、まあ、本人が望んでいるということもあり、村上春樹の抜擢になった……のだろう。
 来年の白水社の目玉になることはまちがいない。
 ところで、気になるのはタイトルである。
 おおかたの予想では『キャッチャー・イン・ザ・ライ』だろうとのこと。身も蓋もないといえば、身も蓋もないが、逆に、それ以外ないだろうという気がしないわけでもない。
 あまり知られていないが、じつはJ・D・サリンジャー(このJとD、なにか知ってます?)の The Catcher in the Rye 、白水社の野崎訳で出る前に、もう一種類、翻訳が出ている。1952年の橋本福夫訳(ダヴィッド社)が、それ。原作の出版が51年だからずいぶん早い出版である。なぜこんなに早く翻訳が出たのか、当時の事情をご存じの方があったら、ぜひ教えていただきたい。橋本福夫は戦後の翻訳界では忘れることのできない翻訳家で、ミステリやアメリカ文学の翻訳が多く、ラルフ・エリスンやジェイムズ・ボールドウィンなどの黒人作家の翻訳もある。おそらく翻訳点数は200点を超えているのではないだろうか。
 ともあれ、その橋本福夫訳のタイトルが『危険な年齢』。いまの感覚にはそぐわないような気がするが、当時としては、かなりまっとうなタイトルだったにちがいない。たとえば次のような映画のタイトルをみれば、それがわかる。
・The Wild One(53) 『乱暴者(あばれもの)』 マーロン・ブランド主演
・The Blackboard Jungle(55) 『暴力教室』 グレン・フォード主演
・Rebel without a Cause(55) 『理由なき反抗』 ジェイムズ・ディーン&ナタリー・ウッド
 もちろん当時から洋物の映画、小説のタイトルについては様々な工夫(?)がなされてきた。日本には日本に事情があり、またその時代時代の事情というものがある。
 うろ覚えなのだが、ヘラルドかワーナーの日本支社にいた人がある映画に『君知るや南の国』というタイトルをつけたことがあって、それをアメリカの本社に英訳して送ったら、「こんなタイトルはだめだ!」といわれ、「おまえらに日本語がわかってたまるか。日本じゃ、アメリカのことはライス・カントリーで、フランスはブッダ・カントリーというんだ!」と怒ったとか。
 まあ、難しい問題である。もちろん、昔から原題をそのまま訳そうとする人もいて、またそれを当時の日本に合ったように訳そうとする人もいた。たとえばシオドア・ドライサーの小説にしても、An American Tragedyには『アメリカの悲劇』という邦題もあれば『陽のあたる場所』という邦題もあり、Sister Carrieにも『シスター・キャリー』という邦題もあれば『黄昏』という邦題もある。
 とにかくタイトルを決めるのは難しいのだ!
 そこでもう一度、『ライ麦畑』にもどろう。この作品、アメリカで出版された次の年に『危険な年齢』というタイトルで翻訳出版されたのだが、それほど評判にはならなかった(らしい)。そしてその後12年たって、『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルで出版され、ベストセラーになりロングセラーになった。問題はその間の12年間である。この作品は本国アメリカでは出版とほぼ同時に評判になり、多くの文学者や文芸評論家たちにとりあげられるようになる。いまではアメリカ文学の古典といってもいいだろう。なにしろ出版されたのが51年。もう半世紀も昔だ。主人公のホールデン少年も十年ほど前に還暦を迎えている。話がずれてしまったが、問題はその間の12年間である。橋本訳の『危険な年齢』というタイトルが定着しなかったため(あるいは、気に入らなかったためかもしれないが)、論文やエッセイでこの作品を扱うときに、自分なりのタイトルをつけようとした人がかなりいる。代表的なのはまず、『ライ麦畑のキャッチャー』、『ライ麦畑の捕手』、『ライ麦畑の捕まえ手』。迷走ぶりが目に見えるようで、楽しい。
 そうして64年になってやっと、『ライ麦畑でつかまえて』というタイトルで出版され、めでたしめでたしとなる。そうして2003年、もしかしたら『キャッチャー・イン・ザ・ライ』というタイトルになってこれが定着するのかもしれない。
 このように、翻訳物のタイトルというのはなかなか面白いものであり、訳者や編集者にとってはある意味、頭の痛いものでもある。
 青山南が『ピーターとペーターの狭間で』というエッセイ集のなかで、ジョン・アーヴィングの『ガープの世界』についてやはり同じようなことを書いている。アメリカ文学に詳しい方はご存じかもしれないが、この原題は The World according to Garp 。そしてこの本もまた、定番の翻訳が出るまで、様々な日本語のタイトルで呼ばれてきた。『ガープからみた世界』『世界、ガープ発』などというものもあったらしい。いったいどうなるんだろうと思っていたら、『ガープの世界』というタイトルで出版された、あ、なるほど、これでいいんだと納得した……というふうなことを青山南は書いている。このへんのいきさつ、興味のある方はぜひこのエッセイ集を。
 まあ、タイトルというのは、原題をそのまま訳して使えそうなら、そのまま使うことが多いが、そうでないときには、その時代・社会の好みと作者(編集者)の好みを反映してつけられる。
 ただ困るのは誤訳に近いタイトルだろう。たとえばシェイクスピアの A Midsummer-Night's Dream 。『真夏の夜の夢』という題名がつけられていることがあるが、midsummer というのは「真夏」ではなく「夏至」のこと。夏至の日には、人間界と妖精界の壁(しきり)がなくなって(うすくなって)、いろんな不思議なことが起こるという言い伝えがある。それから有名な誤訳のタイトルとしてはフェニモア・クーパーの The Last of the Mohicans 。『モヒカン族の最後』というタイトルで出ているが、モヒカン族が滅亡していく様を描いた作品ではない。モヒカン族の生き残りというふうな意味。ちなみにモヒカン族は滅んでいない。
 一方また、すごいな、素敵だなと思わせるタイトルも多々ある。トルーマン・カポーティの『遠い声、遠い部屋』(Other Voices, Other Rooms)、レイ・ブラッドベリの『十月はたそがれの月』(The October Country)あたりは、センスいいなと思う。
 そして自分が訳した本のタイトルをながめると……まあ、なんといっていいのか……
 つい先日、英文科のある先生に「『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』というタイトル、いいですね」といわれた。原題は Bless Me, Ultima 。そのまま訳すと、『ウルティマ、ぼくを祝福して』。これを『ぼくに大地の教えを』としたところが、センスの良さを感じさせる……というふうなほめ言葉だったのだが、じつはこのタイトル、編集部の案であって、金原は何もしていない。
 また理論社から出ている「レイチェル」シリーズのタイトルは、すべてリテラルリンクの編集スタッフがつけてくれているし、あかね書房の「マインド・スパイラル」シリーズのタイトルも編集部がつけてくれている。
 考えてみれば、金原がしているのは原題をそのまま訳して編集部に差し出し、気に入ってもらえたらそのまま使ってもらって、だめだったら編集部にお願いするという、いたって無責任な作業なのである。それで一度びっくりしたのが(前にも書いたけど)、ロバート・ニュートン・ペックの『豚の死なない日』。これも原題をそのまま訳して、「まさか編集部もこのタイトルじゃ出さないだろうな」と思っていたところ、このまま出てしまった。編集の平田さんに電話をしてきいてみたら、「あ、あれでいいじゃないの? 原題そのままだし」といわれ、しっかり納得してしまった。ところが続巻の方はそうはいかなかった。原題は A Part of the Sky 。こちらが考えたタイトルはそのまま『空のどこかに』。で、これは平田さんにあっさり蹴られてしまった。まず妙にセンチメンタルだし、なにより『豚の死なない日』の続巻であることがわからない。じつはこの本の出版のちょっと前に、あるベストセラーの続巻が出たけれど、それがタイトルを見ただけでは続巻だとわからず、ほとんど売れないという事件があった。とまあ、そういうこともあり、ずばり『続・豚の死なない日』になった。
 同じように、スーザン・プライスの Elf Gift と Elf King の二巻を、『エルフギフト・上下』として出すのも編集部の案だった。ポプラ社といえば、先日出た『物語に閉じこもる少年たち』も編集部案。原題は『デイヴィッドとリザ』。
 その他、アン・ローレンスの『アンブラと4人の王子たち』(The Half Brothers)、アレックス・シアラーの『青空のむこう』(The Great Blue Beyond)、『ぼくたちが大人になれない12の理由』(New Year's Day)などなど、すべて編集部案。
 原題と異なっていて、かっこいいタイトルというのは、ほとんどが編集部のつけたものばかりだ。というわけで、金原は昔から、訳書の表紙、装幀、タイトルに関してはすべて編集におまかせである。
 考えてみれば、表紙、装幀、タイトルというのは本の顔である。それに関しては、訳者はアマであり、編集はプロである。センスのない訳者は、センスのある編集者におまかせするのは当然だと思う。しかしもちろん、センスのない編集者というのもいるわけで、とくに外国の本の表紙をみると、たまに泣きたくなるようなものがある。たとえばドナ・ジョー・ナポリの『逃れの森の魔女』なんか、表紙がひどい。あまりにひどい。まず手に取る気にもなれないんじゃないかと思うくらい。じゃ、なんでおまえ、わざわざアメリカの書店で買って読んだんだときかれると、困ってしまう。じつはなぜこの本を買ったのか、覚えていないのだ(買った書店はよく覚えているのだが。薄かったせいかなあ)。で、日本版を送ったところ、作者のナポリから、「表紙が美しくて、思わず泣いちゃった」というメールがきた。出久根育さんの表紙はとてもいい。
 さて、今回はタイトルについて、思いつくままに書いてみたのだが、やぱりタイトルというのは大切だと思う。それでふと頭に浮かんだのが、モンゴメリーの『赤毛のアン』。いうまでもなく村岡花子の名訳で、このタイトルはいろんな訳者に受け継がれている。原題の Anne of Green Gables をそのまま日本語にしてもピンとこないし。それにここまでの定番となったタイトルの本を別のタイトルで出すのも、ちょっと考え物だろう。というわけで、日本ではこの本が読み継がれていく限り、『赤毛のアン』というタイトルは変わることがないと思う。ただ、村上春樹訳『キャッチャー・イン・ザ・ライ』の例もあるわけで(いや、そのタイトルになると決まったわけではないのだが、そうなると仮定して)、金原瑞人訳『アン・オヴ・グリーン・ゲイブルズ』が定番となる可能性もないわけではない。
 しかし Anne of Green Gables は本当に『赤毛のアン』でいいのかという疑問はいつもついてまわる。自分のこともふくめ、原題とまったくかけ離れたタイトルをつけた場合、それがセンスのいいぴったりのものであっても、どうしても一抹の不安が残る。
 というわけで、『赤毛のアン』のタイトルに関してのエッセイを載せたいと思う。これは現在ボストンに留学中の方の小林みきさんに書いていただいた。小林さんからはたまにメールのやりとりをして、いろんな情報の交換をしているのだが、あるとき、「アンが育ったプリンス・エドワード島にいくので、原文で『アン』を読み直したんですけれど、ずいぶん印象が違っていて……」という内容のメールがきた。それがとても面白くて、ぜひにとお願いしてエッセイにまとめていただいた。
 どうぞ、読んでみてください。

四 
 私の大好きな本のひとつ、『赤毛のアン』。この物語のイメージは、なんといっても「赤」だ。
 『赤毛のアン』は赤毛の女の子のお話なんだから当然、といえば当然。でも、赤毛のアンはただ単に「髪の毛が赤い女の子」なのではない。「髪の毛が赤いことがいやでいやでたまらない女の子」、それがだいじなところなのだ。
 アンはことあるごとに、赤毛だと「おしゃれが似合わない」、赤毛なんて「ぜんぜんロマンティックじゃない」と嘆いている。そんなアンだから、「にんじん、にんじん」と呼ばれて、カンカンになり、石板をギルバートの頭にたたきつけてしまう。これがきっかけで、アンはギルバートにライバル心を燃やして猛勉強するようになるのだけど、そこまでアンは赤毛がいやなんだ、とへんに感心させられる一件でもある。
 もうひとつ印象的なのは、マシューとマリラが外出し、アンが家に親友ダイアナを招く場面。アンはちょっと大人になったような気分で、気取っておもてなし。マリラお手製の「いちご水」をダイアナにふるまう。あまりのおいしさにダイアナは二杯目、三杯目、とおかわりを。ところがこれが実は赤い「ぶどう酒」。ダイアナはべろんべろんに酔っ払い、アンはダイアナのお母さんから「もう家の子とは会わないでちょうだい」といわれてしまう。
 というように、「赤」はアンのキャラクターそのもの。『赤毛のアン』は、ロマンティストで、元気で、やさしくて、おっちょこちょいで、がんばり屋さんの女の子のお話なのだ。

 子どもの頃に読んでからずいぶんごぶさたしていたこの物語を、英語で読んでみた。
 物語がはじまる。季節は六月。緑の豊かな風景にふうっと包まれてしまった。その緑の風景の中、アンがマシューに話すのを聞いて、アンの目が緑だったことに、ほんとうに初めて気づかされてしまった。そして、みなしごアンが住むことになったマシュー、マリラ兄妹の家の屋根は緑色。そういえば、英語の原題はAnne of Green Gables、「グリーン・ゲイブルズ(緑色の破風屋根)のアン」であることを改めて思い出す。
 後半、アンが赤毛を黒くしたくて染めたら、緑色になってしまったエピソードがある。緑といっても赤みがかった「グロテスクな」緑色の髪に緑の目、これはロマンティストのアンにはかなりきびしい。
 それから、物語のなかでは何度か、女の子のおしゃれ心をくすぐる、アンのドレスに関するくわしい描写がある。マシューがプレゼントしてくれた「ふくらんだ袖の茶色いドレス」、発表会のときの「白いオーガンディーのドレス」。そして、アンがクイーンズ学院に入学、グリーン・ゲイブルズを離れるときにマリラが持たせてくれたのは、「緑色のドレス」だ。
 アンのキャラクターは、日本語で読んでも原書で読んでも変わらない。でも、「あたしは『どこか別のところにいるアン』じゃなくて、『グリーン・ゲイブルズのアン』でいたいの」というアンのことばを、原書のタイトル、Anne of Green Gablesのもとに読むとき、アンと、アンのまわりが見えてくる。そう、この物語はプリンス・エドワード島の豊かな自然、マシューやマリラをはじめとするやさしい人々に囲まれ、育まれた女の子のお話なのだ。

 ところで、『赤毛のアン』を原書で読みはじめたのには訳がある。ボストンで過ごす最後の夏はたまらなく暑かった。八月の週末、涼しくさわやかなところでのんびりしたくなり、ふと、赤毛のアンの作者モンゴメリが生まれ育ったカナダ、プリンス・エドワード島に行こうと思い立った。それで、自分の中の『赤毛のアン』のイメージと実際のイメージを重ね合わせてみよう、と原書を手にとったのだ。
 
 プリンス・エドワード島は、島といっても大きさは愛媛県と同じくらい。緯度は北海道と同じくらい。現在カナダのジャガイモの三分の一はこの島で作られているという。酪農やムール貝の養殖もさかん。原野や牧草地の緑、空と海の青、赤土のコントラストが美しい島だ。(ちなみに私が訪れたのは八月末。)車で走っていると、けっこう起伏があるので、緑、青、赤の三色がバランス、配置を換えながら、あきることなく絵になる風景を見せてくれる。
 そんな風景にうっとりしながら、ふと思う。赤毛に緑の目のアンは、この島そのものなんだ。
 でも、もし、タイトルに「赤」と「緑」を両方もりこんだら……『緑の破風の赤毛のアン』……??……くどいし、変。
 作者モンゴメリがつけたタイトル、Anne of Green Gables。このGreen(緑)には、厳しい冬のあともかならず訪れる、強く、たくましく、美しい自然、人々の暮らしを支え、恵みを与えてくれる豊かな自然のイメージが投影されているように思える。
 日本語訳のタイトルに「赤」を選んだこと、それは正解だと思う。子どもの頃、まわりはだいたいみんな黒髪、という日本社会に育った私には、赤毛というのはとても衝撃的。『赤毛のアン』は明らかに、自分のいるところではない、どこか異国のお話だった。でも、読んでいくと、アンには共感できるところがたくさんあった。そして、あこがれもした。子どもの私にとって、『赤毛のアン』には、ショートケーキにのっている真っ赤なイチゴみたいな魅力があった。