あとがき大全13

金原瑞人

           
         
         
         
         
         
         
    


一 近況報告(『ジャックと離婚』)
 東京創元社からそろそろ『ジャックと離婚』が出ます。アイルランドのベルファストを舞台にしたミステリー。ぼくはミステリーにはあまり縁がなくて、せいぜいロバート・コーミアの作品を(扶桑社から出ている『ぼくが死んだ朝』と『真夜中の電話』)訳しているくらい。しかしこれも、ミステリーというよりは、ヤングアダルト向けの小説だと思う。『ジャックと離婚』は共訳者の橋本知香さん(元タトルの翻訳講座の生徒さん)がみつけてきた本で、ぼくが一口のった形。
 前に一度、この「あとがき大全」で触れたけど、この一人称で書かれている作品、主語に「おれ」も「ぼく」も「わたし」も使わずに訳してます。訳しはじめのころ、橋本さんから「主人公、どうしましょう、おれでもぼくでもわたしでもない感じなんですけど」というメールがきて、じゃあ、いっそなしでやってみようかというわけで、訳してみた、という本。なるべく主語を省きに省いて、どうしてもうまくいかないときは「自分」とか「こちら」を使ってます。おれでも、ぼくでも、わたしでもない主人公の感じをなるべくだしてみました。
 自分が日本語で小説を書くなら、これは簡単にできるけど(うちの創作のゼミの学生も軽くやってのけた)、翻訳ではかなりきつい。自分で書くなら視点を変えるなり、あるいは主語抜きではうまく表現できない部分は省いたりできるけど、翻訳の場合、書かれているものはちゃんと訳さなくちゃいけない。しかしまあ、かなり苦しかったけど、どうにかやってみました。
 そんなわけで、『ジャックと離婚』を訳してからというもの、たまにこの方法を使ってます。たとえば、去年出た岩波少年文庫の『O・ヘンリー短編集』のなかの一編はそうなってます。それからついこないだ訳し終えた同じく岩波少年文庫の『エドガー・アラン・ポー短編集』のなかの「ウィリアム・ウィルスン」も、そんなふうに訳してます。
 というわけで、そのあとがきを。

  訳者あとがき
 舞台は北アイルランドの中心都市ベルファスト。「天気予報はきいたか?」「曇り、のち、ところによりテロだとさ」というジョークが飛びかう、物騒な町だ。ちょうど首相選挙を前にして、策謀と陰諜がめぐらされ、様々な思惑と爆弾が乱れ飛ぶなか、アメリカやヨーロッパのほかの国から続々と取材のジャーナリストがやってきている。
 主人公はジャーナリストでコラムニストのダン・スターキー。鋭い政治的つっこみと、辛辣なユーモアが売り。テロリストが跋扈する西ベルファストと、ダブリンにあるギネスの工場を交換する、つまり、こっちの問題をあっちに進呈して、あっちの問題はこっちで飲みほすという記事を書いてボスに没にされ、腐っているところにアルバイトの誘いがきた。アメリカから選挙戦の取材にやってきた黒人ジャーナリストの案内役だ。
 スターキーの多々ある欠点のうちのふたつは、妻とともに大の酒好きで、パーティ好きなこと。そしてパーティで酔いつぶれ、同じく酔っぱらった女子大生のマーガレットを前に、ふと魔がさした瞬間、ノンストップの悪夢の世界に放りこまれる。いってみれば、『不思議の国のアリス』(キャロル)×『審刑』(カフカ)×『三十九階段』(バカン)といったところ。
 耳元に響いた『二十四時間以内に出ていって』という妻の爆弾宣言を皮切りに、さんざんな肉体的虐特を受けて左目は腫れてふさがり、そのあと生まれて初めての浮気の相手マーガレットとベッドイン、妻のパトリシアの復讐……やがて銃で撃たれて虫の息のマーガレットはスターキーに「ディヴォース・ジャック」というダイイング・メッセージを残して死んでいき、さらにはパトリシアが何者かによって拉致されてしまう……という、ここまでが事件の発端。
 こうしていきなり高みに押し上げられたジェットコースターは、一気に凶悪な夢のレールを急降下していく。
 スターキーはアメリカのジャーナリストの相手をしながら、妻をさがしながら、いつの間にか、自分が何者かのターゲットになっているのに気づく。
 コースターは上へ下へ、右へ左へ、レールから飛びださんばかりに揺れながらぶれながら疾走し、悲鳴と絶叫とひきつった笑いが渦巻くなか、スターキーはまさに絶体絶命。アル中のうえに体力も腕力もなく、武器なんかとはまったく無縁。そのくせ口だけは達者で、敵の反発と反感を買うのが大の得意ときている。

「強烈にパラノイア的で、思い切りおかしい。そして、この生きのいいミステリは、何十冊もの真面目なルポ以上に、アイルランドの抱えている問題を見事に捉えている」(「サンデー・タイムズ」)
『ロディ・ドイルが、九O年代を舞台に『三十九階段』を書いたら、こんなふうになるのかもしれない」(「タイム・アウト」)
「大西洋のこちら側でここ数年に出たなかでは、出色のブラックコメデイ・ミステリ」(「GQ」)
「いきなり喉元をつかまれた感じ……鮮烈なデビュー。これまでにお目にかからなかったミステリだ……マルクス・ブラザーズが『ジャッカルの日』を演ったら、こんなふうになるかも」(「サンデー・プレス」)

 この『ジャックと離婚』は、一九六二年生まれのコリン・ベイトマンの処女作。この作品が出版されたとき、イギリスもアイルランドも「大型新人の登場』とばかり、わきにわいたらしい。構成の見事さ、テンポのよき、過剰なまでのウィットとユーモア、最後のどんでん返しのまたどんでん返し。そのうえなんといっても、登場人働のキャラがどれも際だっている。主人公のスターキーはいうまでもなく、妻のパトリシア、マーガレットの元恋人のカウ・パット・クーガン。どれも一筋縄ではいかない、癖のある連中ばかりだ。それをここまで面白く描いて、かつうまくからめていく手腕はなかなかのもの。ベイトマンはこの作品で一九九四年に、有望な新人におくられるベティ・トラスク賞を受賞している。
 『ジャックと離婚』は一九九八年に、デイヴィッド・シューリス(『ネイキッド』『セブン・イヤーズ・イン・チベット』『シャンドライの恋』等)主演で映画化。日本でも『ディボージング・ジャック』として、二OO一年に公開された。ベイトマン本人が脚本を手がけただけあって、原作のスピード感や登場人物のキャラはそのままに、うまく整理されている。ただ当然ながら、二時間弱の映画にまとめる過程でかなりのくせ者キャラがカットされているので、映画のほうはちょっと印象が違うかもしれない。

「ダン・スターキーを訪ねる旅」に出るもよし。本作はフィクションとはいえ、実在の場所がたくさん出てくる。まずは、フォールズ地区とシャンキル地区の物騒きわまりない落書きを見物。次は、クーガンがぶちこまれていたメイズ刑務所。その名は、迷路(メイズ)のように入り組んだ構造に由来する。世界屈指の重警備刑務所として知られ、その黄金期(?)には、あらゆるテロ組織のメンバーを収監していたが、一九九八年の和平合意を受けて大半が釈放され、近々、閉鎖される予定とのこと。昼食は、ボタニック通り十六番地のドラゴン・パレスで。憎たらしいパンチパーマの中国人ウェイターはともかく、このレストランは本物。腹ごなしをしたら、ちょっとバンゴアまで足を延ばしてみよう。アライアンス党本部のレッド・ホールは実在しないが、バンゴアには樹齢三百年のアカガシワ(レッド・オーク)並木に囲まれたれんが造りの館がある。所有者はアライアンス党の支持者。ベイトマンはかつてバンゴアで記者をしていた時期があり、この館を党本部のモデルにしたものと思われる。ベルファストに戻ったら、ユローパ・ホテルのバーでひと休み。ドルフィン・ホテルは実在しないが、ユローパ・ホテルの向かいには、入り口にイルカの彫刻がほどこされたクラウン・バーがある。ユローパ・ホテルが「ヨーロッパで最も爆破頻度の高いホテル」だとしたら、クラウン・バーは「ヨーロッパで最も爆破頻度の高いバー」。ここで前後不覚になるまでハープとブッシュミルズを流しこめば、スターキー・ワールドを実地体験できるかもしれない。

 自ら事件を呼びこんでしまう、アル中毒舌ジャーナリスト、ダン・スターキーはかわいそうなことに、この作品のあとも運命の女神に見放され続け、Of Wee Sweetie Mice and Men(創元コンテンポラリ近刊)、Turbulent Priests、Shooting Sean、The Horse with My Nameと続く四作品ではベルファストを飛び出し、聖パトリック祭にわくニューヨークや、アムステルダムの赤線地区や、世界中のセレブが集まるカンヌなどで、悪夢のような事件に巻きこまれていく。妻のパトリシアとの関係も微妙で、一作ごとに二転三転する。
 乞うご期待!

 さて、最後になりましたが、編集の山村朋子さんと「ベルファストの親切なおじさん」こと、ケン・ウィンチャーさんに心からの感謝を。

          二00二年五月十六日
                     金原瑞人・橋本知香


二 近況報告(『神の創り忘れたビースト』)
 それからもう一冊、アーティストハウスからジム・ハリスンの『神の創り忘れたビースト』。
 『ジャックと離婚』はだめ男スターキーの話だったが、この作品もだめ男が主人公。ただこちらのほうはスターキーよりも二十歳くらい年が上だ。こいういうだめでだらしない男のだらしない話はなぜか大好きである。なんでかなあ。ともあれ、児童書では絶対にお目にかかることのできないタイプの物語といっていいだろう。
 児童書の世界にどっぷりつかっていると、たまに、「なんか違うぞ」という気がしてくる。そういうときに、こういう作品を訳すと、とても楽しい。
 ともあれ、コリン・ベイトマンとジム・ハリスン、ずいぶんタイプの違う作家だが、どちらも最高に切れ味のいい文章を書く。

   訳者あとがき
 最近のアメリカってさあ、まあたしかに×××も×××××も面白いっちゃあ面白いけど、もうちょい骨があって、ずっしり重くって、文体にめりはりがあって、読み応えのある作家っていないの? ほら、読み飛ばそうったって、読み飛ばせない小説ってのがあるじゃん。日本でも、色川武大とか車谷長吉とか山尾悠子とか若合春侑とか、こっちもそれなりの意気込みで読んでこそ面白い作家ってのがいるようにさ。
 こういう軽薄な口調で生意気なことを言う若者にはまず、ジム・ハリスンを薦めることにしている。たいがいが、顔を輝かせて感想を言いにくる。プロットやストーリーではなく、文体で読ませる優れた作家は少ない。それは日本もアメリカも同じだろう。面白おかしいコメディでもなく、山あり谷ありの通俗小説でもなく、意表をつくどんでん返しのあるミステリーでもないのに面白い……一文一文、読むたびに、うなずき、驚き、ため息をつき、にやっとする……そんな作品はなかなかあるものではないし、なかなか書けるものでもない。
 そういう意味でジム・ハリスンは貴重な作家だと思う。それは次のような賛辞から明らかだろう。

「小説の最初の一頁で、最高の作家に会えたと実感できる快感……」〈ニューヨーク・タイムズ・ブック・レヴユー〉
「アメリカの至宝」〈ワシントン・タイムズ〉
「内に不死を秘めた作家」〈サンデー・タイムズ〉
「彼の物語は、思いがけない力と思いがけない飛躍に満ちている。まるでメルヴィルかフォークナーのようだ」〈ボストン・グローブ〉

 ジム・ハリスンは現在までに中編を三冊、長編を七冊、詩集を七冊出している。一九七一年にWolfを発表してから三十年間にこれだけというのはずいぶん少ないような気がする。が、それぞれの作品を読めば、すぐにうなずける。これだけ考え抜き、練りに練って書いていながら、その苦労を少しも感じさせない文章、これを作り上げるのはたいへんな仕事だと思う。

 さて表題作「神の創り忘れた獣」は、オートバイ事故で木に正面衝突して、視覚記憶能力の大半を失って、母親の顔も覚えていられなくなった男ジョーの物語だ。「おかげでジョーは退屈に苦しむことはほとんどなくなったわけだ。なにしろ目に映るものは、毎回繰り返して目にしているものであってもすべて、初めて見るものなのだ。毎日がすばらしい新世界として始まる。いまのはオルダス・ハクスリーからの引用だが、奇妙なことに、この作家の初版本はどれもずっと値動きがない」
 語り手は不動産と稀親本の売買でかなりの財産を築いた初老の男。一方、ジョーはまさに野生児で、毎日を森のなかで獣のように暮らしている。この作品のテーマは、文明対自然……と言ってしまうと身も蓋もないし、実際そうではない。この中編でつづられていくのは、文明というしがらみから開放されてのびのびと生き生きと暮らすジョーに惹かれながらも、文明を捨てきれない語り手の男の、言い訳とあきらめと、悲しみと寂しさなのだから。それがユーモラスに、ときに切なく描かれていく。

 ふたつ目の「西への旅」でもジョーに似た男が登場する。ミステリー作家であり映画の脚本も書いている(と、主張している〉ボブだ。現代アメリカ文明にどっぷりつかった俗物だが、今回の主人公はブラウンドッグ。仲間に盗まれた熊の毛皮をさがしてロサンゼルスまで、はるばる五十マイルを歩いてきたネイティヴ・アメリカン(インディアン)だ。熊の毛皮を取りもどすことしか頭にないが、女には弱いブラウンドッグが、すっとぼけた、いい味をだしている。

 三つ目の「スペインにいくのを忘れていた」は短い伝記シリーズを言いてひと財産築いた、くたびれた男の物語。二十年以上前に九日間で終わつた結婚生活がいまでも心の傷として残っている。そしてあるときその結婚相手シンディに関する記事を読んで、電話をしてみる。彼女のほうは三回の離婚を経験し、現在は農園を経営する一方で、絶滅しそうな種を発見し保護するために世界中を飛び回っているらしい。「よくもまあ、キッシンジャーの伝記なんて書けたわね」シンディは言った。「戦争絶対反対の急進派だったくせに」
「生活のためさ」わたしは下手な言い訳をした。「あの本はよく売れた。本を書くからって、扱う人物の主義主張に同意する必要はない」
「けったくそ悪いこと言わないで」シンディは言った。以前はこんな下品な言葉を吐いたりしなかったのに。「貧しくても、気高い詩人になって、スペインで暮らしているんだとばかり思ってたのに。ライナス・ポーリングの本はよかったけど、ニュート・ギングリッチの本を見たときには、どうしてわたしの昔の恋人が豚小屋なんかに頭から飛びこんでしまうのか理解に苦しんだわ」
 男は現在の自分にうんざりしながらも、自分に言い訳をしてはまた落ちこみ、女に振りまわされ、フランス料理と高級ワインで憂さを晴らすが、やはりスペインにいってみようかなどと、また考えてしまう。こんな文学青年くずれのだめ男の反省と嘘と自省と居直りと言い訳が、たまらなくおかしい。まるで土屋賢二のエッセイが思い切り文学すると、こうなるような感じがする。
 ともあれ、これら三編、どれもがユニークで味わい深い。腰を据えてじっくり読むにはもってこいだと思う。

 資料によれば、ジム・ハリスンの作品は現在、二十二カ国語に翻訳されており、とくにフランスでの評価は高いらしい。日本でも『レジェンド・オブ・フォール』『突然の秋』『死ぬには、もってこいの日』『蛍に照らされた女』に続き、これが五作目。日本ではけっしてベストセラーのリストに名前の載る作家ではないが、確実に熱烈な読者を増やしつつあるのは間違いないようだ。

 さて、最後になりましたが、編集の海老沼邦明さんと川上純子さん、共訳者の久慈美貴さん、石田文子さん、中村浩美さん、山ほどの質問にていねいな答えをくださったカレン滝沢さんに心からの感謝を。
                        二00二年四月二十二日
                                金原瑞人


三 これまでの一般向けの本のあとがき
 八六年『さよならピンコー』でスタートしてから十年ほど、『異聞蝶々夫人』『ブラック・スワン』『滅びの符合』という例外はあるけど、ほぼ児童書やヤングアダルト向けの本を中心に訳してきたのだが、九六年の『イヴの物語』あたりから一般書がかなり入ってくる。『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』『満たされぬ道』『見えざる神々の島』『バビロン行きの夜行列車』『モデル・ビヘイヴィア』……。
 というわけで、一般書のあとがきを集めてみた。
 まずは『イヴの物語』。
 もうずいぶん前のことだが、イラストレーターの、ひたいたかこさんから電話があった。トパーズプレスという出版社の瀬戸川猛資さんが会いたがっているということだった。瀬戸川さんは、かなり辛口のミステリーや映画の評論を書いていて、ぼくも名前はよく知っていたけれど、まさか出版社をやっているとは知らなかった。そこで会ってみると、「百年の物語」という新しいシリーズを出したいとのこと。とにかく物語性の高い、面白い本を出していきたいということだった。シリーズはこのあとミステリーあり、SFあり、ジャック・ロンドンの作品ありと、ユニークなラインナップが続いていた。
 そこでぼくが提案したのが『イヴの物語』と『インター・ステラ・ピッグ』の二冊。最初は『イヴ』をぼくと斎藤倫子さんとの共訳で、『インター・ステラ・ピッグ』のほうはぼくの訳でというつもりだったのだが、斎藤さんが『イヴ』を読んで、「セクシュアルな描写の部分が……」という理由で予定変更。ぼくが『イヴ』を、斎藤さんが『インター・ステラ・ピッグ』を訳すことになった。
 『イヴ』は強烈なインパクトのある作品で、ぞくぞくしながら最後まで読んだ覚えがある。フェミニズムの立場からイヴの神話を語り直した……というだけではない。とにかく、物語・物語・物語……物語の魅力にあふれているのだ。
 この作品には作者自身のあとがきがあるので、それも加えておこう。

   作者あとがき
『聖書』がこのように扱われたことにショックを受けている読者に断っておきたいことがあります。それはわたしが付け加えたり語り直したりした部分は、想像力を奔放に働かせてできたわけではないということです。「創世記」は――注意深く読めばあちこちに矛盾があることがわかるはずですが――そもそもユダヤの創造神話の氷山の一角に過ぎず、その下にはユダヤ教の素材にみられる無数の物語――リリスに関する伝説からサマエルとイヴとの間にカインが生まれた伝説まで――が存在しているのです。これらの物語のいくつかが――たとえばアダムが動物たちの名前をつけたエピソード――キリスト教神話ヘとつながっていきます。こういったことを調べたいけれどタルムードまで読む気にほなれない読者には、ルイス・ギンズバーグのLegends of the Jews(Jewish Publications Society of America, Philadelphia 1909-38, 7vol) 、しかしこの作品で扱った部分については第一巻で十分だと思います)をお勧めしておきましょう。またロバート・グレイヴズとラファエル・パタイの Hebrew Myths, The Book of Genesis (McGraw Hill, New York 1964)やラポポートの Myths of Ancient Israel も参考になると思います。
 イヴの再評価というわたしの試みもまた、氷山の一角といっていいでしょう。というのも様々な研究によってもうすでになされていることですから。これらの研究によれば、ユダヤの初期の歴史において――『聖書』自体がこのことを明らかにしているのですが――長期にわたる一神教的家長主義的宗教の闘いがあり、この一神教的家長主義的宗教というのが、現在のユダヤ教になり、それ以前から現在まで続いている女性崇拝の宗教の上に立つことになるわけです。ラファエル・パタイのThe Hebrew Goddess(Philadelphia KTAV, 1976)はその点を明らかにしてくれています。またマーリン・ストーンはThe Paradise Papers(published by Virago、わたしが参考にしている本のなかでは、これが最も入手しやすいものでしょう)で、次のような説得力のある推論を提示しています。つまりイヴと蛇の物語は、女性、すなわち女神や多神教的な奔放な儀式の持っていた役割をなし崩しにしようとする宣伝のために作られたものではないかというのです。
 最後に、さらに広い立場から、次のことを指摘しておきたいと思います。それはユダヤ教における人問の堕落の物語は多くの堕落の物語のうちのひとつに過ぎないということです。しかしほとんどの神話において、死は避けられないものであるという諦念に近い観点から語られているのに対し、西洋のものだけは――とくに「創世記」と「パンドラ伝説」において――人間に死をもたらした者に罪があるというところが強調され、その者が糾弾される形になっています。『イヴの物語』で、わたしはそうではない、諦念に近い立場をとっています(もっともイヴ自身、死の問題はそれほど単純なものではないといっていますが)。わたしが集めた創世神話Beginnings(Chatto and Windus, 1977)は、そのほかの考え方がいくつも存在することを教えてくれるでしょうし、またさらに先に進むための文献も紹介してあります。白分自身で調べてみたい方にお勧めしておきます。
 最後に、わたしがこの作品にとりかかってから、アメリカでEve, The History of an Idea(Harper & Row, San Francisco, 1984)が出ました。これはイヴに関する神話を幅広く扱ったもので、わたしのイヴ神話に関する直感が正しいものであったことを証明してくれています。この本はまた、深くこの問題を追求してみたい読者に勧めたいと思います。


   訳者あとがき
 ぺネローピ・ファーマーはイギリスで活躍中の女性作家で、子供の本と一般向けの本の両方で高く評価されているという点では、『ムーンタイガー』でブッカー賞を受賞したぺネロピ・ライヴリーと似ている。しかしライヴリーが感覚的で流れるような文体と細やかな心理描写を特徴としているのに対し、ファーマーは非常にダイナミックな物語展開と鮮やかな心理描写と意表をつくイメージとアイデアを特徴としている。この点において、ふたりは両極端に位置するといってもいい。
 たしか五、六年前のことだったと思う。ヤングアダルト向けの本を中心に英米の小説をあさっていたとき、イギリス物でふと目についたのが、ライヴリーの『ムーンタイガー』とファーマーの『イヴの物語』だった。両方とも一般向けの本でちょっとした評判になっていた。どちらもそれぞれ独特の味があり、すごい作品が出たものだなと思ったが、自分としては、『イヴ』のほうが断然面白かった。久々に物語らしい物語を堪能させてもらったという感じ。本を読む楽しさを十二分に味わったといってもいい。
 さて、ファーマーの特徴はダイナミックな物語の運びと鮮やかな心理描写と意表をつくイメージとアイデアだといったが、それが見事に結実した作品が『イヴの物語』といっていい。おそらく彼女の最高傑作だろう。ファーマー自身も、一般向けに書いたもののなかで、とても気に入っている一冊たといっている。
 アダムとイヴがエデンを追放され、次に蛇が天使たちによって手足を切り落とされて砂漠に放り出される荒々しくショッキングな導入の部分はとくに素晴らしい。最初の八ぺージは、長編小説はこう書けといわんばかりの巧みさで、ただただ舌を巻く以外にない(このあとがきを読みながら、買おうか買うまいかと迷っている方は、立ち読みで結構、最初の部分だけでも読んでみてほしい)。
 さらにそれを受けて語り続けられるイヴの物語は緩急自在に、まるで瀬あり淵ありの渓流のように、快く刺激的なテンポで流れ、最後の最後まで一気に読者を引っ張っていく。

『旧約聖書』の創世記、
《主なる神が造られた野の生き物のうちで、最も賢いのは蛇であった。蛇は女に言った。
「園のどの木からも食べてはいけない、などと神は言われたのか。」〉
に始まり、木の実を食べてしまった女が、
《「お前のはらみの苦しみを大きなものにする。
お前は、苦しんで子を産む。
お前は男を求め
彼はお前を支配する。」〉(新共同訳〉
と神に言い渡される有名な"蛇の誘惑"。

 この作品は、そのアダムとイヴの神話を、『聖書』以前のユダヤの創造神話の資料と知識を駆使して、フェミニズム的な視点から見直したものである。
 参考までに紹介しておくと、ファーマーが『イヴの物語』に登場させたアダムの前妻であり、悪魔の母親ともされているリリスのエピソードは欧米でもよく知られていて、アメリカでも『LILITH』という雑誌がある。これは「自立したユダヤ女性のための雑誌」という歌い文句からもわかるように、ユダヤ人を中心にしたフェミニズムの雑誌で、ちなみに一九九五年の秋の号の巻末にはエリカ・ジョングのインタヴューが載っている。
 しかしこうして出来上がったものは、非常にユニークな現代小説であり、豊かな広がりをもった物語であることは、一読すれば明らかだろう。
 アダムの肋骨から生まれたイヴが、エホバやアダムの意のままに行動する無邪気で無自覚な状態から、アダムの前妻であるリリスや蛇に出会うことによって、自分に目覚め、ついに自ら進んで禁断の木の実を食べるまでの物語は、女性の自立の物語であるとともに、いかにも現代的な心理小説にもなっている。心理小説という点では、イヴの最初の子供カインの父親が堕天使サマエルであるというユダヤ伝説をてこにして、イヴとアダムと蛇とサマエルの(そしてエホバの)愛憎と確執を浮き彫りにしていく手腕もうまい。
 それからなにより、作中の蛇の描き方が面白い。
 蛇は堕天使サマエルと友人であり、かつ敵対者であり、イヴに自立するすべを教え、楽園の外の世界ヘと誘う。
この蛇からイヴが学んだ最も大きなものは「自立」、そして「物語」である。 いかに語るか、なにを語るか、そのすべてをイヴは蛇の語りをききつつ、自分の経験のなかから、学んでいく。そう、自分の口から語らない限り、すべては理解できるものにならないのだ。
 そして蛇が語る物語とは……ノアの方舟の話であったり、バべルの塔の話であったり、シャデラクとメシヤクとアべデネゴの話であったり……なんと、すべて聖書のなかの物語のパロディなのだ。まだアダムとリリスとイヴしか人間はいないというのに。
 蛇の話はいったいなにを意味するのか、蛇の物語とはいったいなんなのか。そしてイヴがつむぎあげる物語はどのようなものになるのか……そもそも蛇はなんのためにイヴに自立をうながすのか、蛇のアダムとエホバに対する憎悪はどこから生まれてくるのか……エホバはなぜ蛇の行為をながめながらなにもしないのか……リリスはなぜエデンの外からもどってきたのか、そしてどこへいくのか……?
 といった様々な謎と仕掛をふんだんにまき散らしながら、物語はクライマックスへと突き進んでいく。
 どうぞ、こくのある現代の物語を存分にお楽しみ下さい。
(翻訳に関し、作者と相談のうえ、わかりやすいように何箇所か手を加えたり、削除した部分があります。また、イヴがどの時点で過去を回想しているのかがあいまいに書かれていて、戸惑った方もいらっしゃるかと思います。その点、作者から、混乱を避けるために単純化してもいいという許しは出たのですが、原文のあいまいさにも魅力があるので、最低限の手直しにとどめました)
 最後になりましたが、この作品を訳す機会を下さったトパーズプレスの瀬戸川さん、原文について細々とした質問につさ合って下さったキム・コーノさん、原文との突き合わせをして下さった市川さんと斎藤さん、それから多くの質問に快く答えて下さった作者に、心からの感謝を!
              一九九六年二月
             金原瑞人


 あとがきに出てくる、キム・コーノさんは、当時カリフォルニア州立大学バークレイ校の大学院にいた日系三世の女性で、その後、日本にきて法政大学日文科の川村湊氏のもとで日本文学を研究し、その後またアメリカに帰った。また、市川さんとあるのは、市川由季子さんで、このあと『豚の死なない日』の下訳をお願いすることになる。斎藤さんというのは、いうまでもなく斎藤倫子さん。

 さて次はルドルフォ・アナヤの『ウルティマ』。これも強烈な作品で、最初、英語で読んだときのことはとても印象に残っている。そのへんのこともあとがきで詳しく触れている。

   訳者あとがき
 メキシコ系アメリカ人のことを別名チカノともいう。これは蔑称として用いられることもあるが、最近では彼ら自身が誇りを持って自分達のことをチカノと呼ぶようになってきた。現在のアメリカでは、メキシコ系アメリカ人の文学や美術をチカノ文学、チカノ・アートという。どちらもラテンアメリカ的な特徴を前面に押しだしたユニークなものが多い。
 一九九一年、アメリカの広報・文化交流庁から、「一ヶ月ほどこちらへきて、エスニックの作家や小出版社を訪ねてみないか」という誘いがあった。もちろん断る理由はなく、会いたい作家やそういった作家の本を出している出版社をリストアップしてアメリカに飛んだ。そしてアメリカで八都市を中心に取材をしてみて驚かされたのが、特に南西部におけるメキシコ系アメリカ人のパワーだった。おそらく今のアメリカの少数民族のなかで人口増加が最も大きいのが彼らだろう。その影響力は文学においても大きく、多くのチカノ作家が活躍している。
 クリスチナ・ガスシア、サンドラ・シスネロス、アナ・カスチロ、ジミー・サンチャゴ・バーカーなど、数えあげればきりがないほどたくさんの小説家や詩人が新しい作品を次々に発表している。ぼくにとって、ルドルフォ・アナヤという作家もそのうちのひとりにすぎなかったのだが、アメリカにいってみて、彼抜きでチカノ文学を語ることはできないということを痛感した。エスニック文学に関係のある作家や詩人や編集者と話していると、まず例外なく「絶対にアナヤに会え!」と強調するのだ。何度、これをきかされたことだろう。
 ルドルフォ・アナヤの名前はチカノ文学において、すでに伝説的なものになっている。「チカノ文学の父」「チカノ文学の創始者」という呼び方もまんざら誇張ではない。そしてチカノの人々にとって、アナヤの処女作『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』(原題Bless Me, Ultima)はアメリカにおけるチカノ文学の誕生を高らかに宣言した伝説的な作品であり、チカノ文学の古典でもある。
「官能的な夢、伝説、不思議な出来事、ラテンアメリカの暗い力に満ちた作品」(ニューヨーク・タイムス)
「バリート(メキシコ人街)の詩人……最も広く読まれているメキシコ系アメリカ人作家」(ニューズウィーク)
「このずば抜けた作家はつねに、気取らないけれど刺激的な、アイデンティティをめぐる物語を書く。そのひとつひとつが祝祭である……」(ロサンゼルス・タイムズ・ブックレヴュー)
 おそらくチカノ作家の作品で、これほど多くの書評に取り上げられ、これほど多く、文学史に取り上げられているものはないだろう。アメリカの大学のチカノ文学についての講義はまず、これからはじまる。
 本書は、アナヤが三四歳のときの作品で、一九七二年にクィント・ソルというカリフォルニアの小出版社から出た。
 舞台はニューメキシコ州の田舎町。主人公はアントニオという少年。アントニオは両極端なふたつの世界の間で大きく揺れながら成長していく。父は荒野を駆けめぐる自由奔放な牛飼い。母は寡黙な農家の娘。アントニオは、土着の信仰とキリスト教、奔放な生活と質朴な生活といったふたつの価値観の中で悩み苦しむが、それを善と悪、太陽と月、神話と現実といった対立する世界がさらに激しくあおりたてる。次々にアントニオを襲う暴力、そして死。その中でいやおうなく成長していくアントニオの唯一の指針となるのが、ウルティマという年老いたクランデラ(薬草医・呪術師)である。
 ニューメキシコの自然を背景に、生と死、暴力と美の錯綜するチカノの世界を描いたこの作品は当初、これといって注目を集めたわけではなかったが、次第にその読者層を広げていき、二十年以上にわたって読みつがれてきた。発行部数は三十万部を越えている。
 アメリカから帰ってきて本書を読んだときの衝撃は、今でもよく覚えている。それは、これほど熱く、これほどさわやかな風があるのだろうかという驚きであり、これほど激しく、これほど快い物語があるのだろうかという驚きだった。
 たしかにラテン・アメリカの文学によくみられるマジック・リアリズムの手法が巧みに用いられているものの、作品全体の印象は、ガルシア・マルケスなどのものとは全く異なっている。血と暴力に彩られた奇矯なイメージが交錯するラテン・アメリカ的な部分がそのままキャンバスいっぱいに描かれているのではなく、それが背景となって、力強いテーマを浮き彫りにする役割を果たしているとでもいったらいいのだろうか。人間の誕生と死、生きることの喜びと悲しみ、過酷な自然と美しい自然、そして少年の成長……それらがストレートに伝わってくる。
 アナヤの作品は、現代小説が忘れかけていたものを思い出させてくれる。それは有無をいわさず読着を引きずりこむ物語の面白さであり、てらいのない人間賛歌である。
 めくるめく強烈なイメージがからみ合う中でつむがれていく、素朴で優しいこの小説は、チカノとかエスニックとかいうジャンルを越えて、多くの読者に強く訴えかけてくるのだ。
 九五年、アナヤは新たな注目を浴びることになった。ニューヨークの大手出版社であるワーナー・ブックスが彼の作品を新旧取り混ぜて次々に出版することになったのだ。その第一弾がこの『ウルテイマ……』で、まずカラーの挿し絵入りのハードカバーが、次にぺーバーバックが、それからスペイン語版が出版された(ちなみにワーナーがスペイン語の本を出すのはこれが初めて)。さらに同社から『アナヤ・リーダー』というべーパーバックが出た。これはアナヤの短編、エッセイ、戯曲、長編からの抜粋などをおさめたもので、五百六十ページという分厚いものだ。こういったワーナーの新しい動きはあちこちで興味深い反応を引き起こした。
 フリーランサーのウィリアム・クラークは、「パブリッシャーズ・ウィークリー」で「大手出版界がルドルフォ・アナヤ発見」と題し、次のように書いている。
「ニューメキシコの作家ルドルフォ・アナヤとワーナー・ブックスが六冊の本の出版契約を結んだことで最も驚かされるのは、こういった大手の出版社がアナヤを評価するのにこれほどの時間を要したということだ」
 また作家のヴィジル・スマレスは「タラハシー・デモクラット」でこういっている。
「ニューヨークの出版界は、われわれが歓迎したくなるようなものはほとんど出してくれない。この二十年間を振り返ってみても、例外はせいぜい数冊の小説、何冊かの詩集くらいだ。そして今、チカノ文学の古典ともいうべき作品がハードカバーで出版された……これはアメリカの主流の出版界の、しかるべき方向への大きな一歩である」
 こういったいささか皮肉っぽい歓迎の言葉の裏には、アメリカ西部の東部に対する反感がかいまみられて面白い。マルチカルチャーの時代といわれて二十年以上たつもののアメリカの出版界は今でもニューヨークが中心で、白人作家(それと少数のユダヤ系の作家)がそれを担っている。それに対し、西側ではエスニックと呼ばれる作家が続々と登場して、刺激的な作品を発表している。メキシコ系のほかにも、アメリカ・インディアン、アジア系、黒人などの作家の活躍も目を見張るものがある。ところがニューヨークの大手の出版社はそういった作家には冷たい。アナヤ自身も肩をすくめながら、『アルブルケルケ』という作品をニューヨークの某出版社に持ち込んで断られたときのことを話していた(この作品もワーナーから出る予定)。
 しかし黒人作家トニ・モリスンがノーべル賞を受賞し、中国系作家エイミ・タンの本がべストセラーになり、アナヤの作品が大手の出版社から出るようになったところをみると、アメリカの出版界も多少は変わっていくのかもしれない。
 また、日本では今のところチカノ文学の紹介はほとんどなされていないが、近く平凡社からアナヤの第二作目『トルチュガ』が出版の予定らしい。
 さて、アナヤについては『サンデー・ローカル・ニュース」のジェイン・シボールドの美しい言葉でしめくくろう。
「アナヤは黄金の鯉である。神話の時という翡翠のような緑色の波の中でしぶきをあげ、体をきらめかせる」

 文中の用語について少しだけ説明しておきたい。
 まずアントニオの住んでいるグアダルーぺだが、これは現在のニューメキシコ州サンタ・ローザで、普通は「グアグループ」と発音される。しかしこれはメキシコシティに祭られている「グアダルーぺのマリア」にちなんだ地名で、しかもこの作品の時代ではスペイン語を話す人のほうが多かったということもあり、「グアダルーぺ」としておいた。ほかにも文脈や、背景の関係で、スペイン語の発音にならったものがいくつかある。そもそもニューメキシコ州は元メキシコ領であり、全人口の三分の一がメキシコ系である。
 また文中、何度も出てくる「チンガーダ」は「くそっ」とか「この野郎」にあたる言葉。アントニオの母親がよく口にする「アペ・マリア・プリシマ」は、聖母マリアへの呼びかけの言葉。
 この本を知り、作者に会い、訳すにあたってはたくさんの方に助けていただいた。インターナショナル・プログラムの件でお世話になったアメリカ大使館の松元美紀子さん。プログラムに推薦して下さった金関寿夫さんと迫村裕子さん、原文とのつき合わせをして下さった斎藤倫子さんと市川由季子さん、スペイン語について教えて下さった笠原さんご夫婦、カトリックの用語について教えて下さった原田豊己さん、この本を翻訳出版するにあたって積極的に協力して下さった編集の橋口砂子さん、そして、数々の質問に親切に答えて下さった作者のルドルフォ・アナヤさんに、心からの感謝を。
                 一九九六年五月一目
                               金原瑞人


 『ウルティマ、ぼくに大地の教えを』という本を出すことになる直接のきっかけはアメリカ政府の招待、つまりインターナショナル・ヴィジター制度だった。これはアメリカの文化をほかの国々に知ってもらおうという企画で、日本からも一年に数人、招待されることになっている。その年は「エスニック文化を研究している人をひとり」というふうなことになったのだと、思う。そのときにこの話を持ってきてくださったのが、トランスフォーム・コーポレーションというインターナショナル・マルチカルチュラル・カンパニー(これはぼくが冗談半分につけた名称)の迫村裕子さん。迫村さんとは、以前、英語の絵本の仕事でご一緒したことがあり、そのあと、金関寿夫さん(アメリカ・インディアンの詩や、ビートニクの詩の紹介者として有名)と迫村さんの共訳『ナバホの民話』のお手伝いをしたことがあった。そしてぼくがジュマーク・ハイウォーターの翻訳をしていて、インディアン文化に興味があることを知っていて、アメリカ大使館の文化部に紹介してくださった。もうひとりの推薦人は金関さんだった。こうして大使館からOKが出て、9月、アメリカに出発することになった。
 当時のぼくにとって、この制度はとてもありがたかった。往復の旅費はこちら持ちだが、アメリカ国内の旅費、宿泊費、食費はすべてアメリカ政府から出るし、そのうえ一ヶ月、通訳兼エスコートつきなのだ。このときにアメリカで仕入れた情報はかなりの量だったし、視野がぐっと広がった。ちなみに、ぼくはこれが初めてのアメリカ体験だった。
 蛇足ながら、同年、やはりインターナショナル・ヴィジターとして落合恵子さんもアメリカを回ったらしく、一度法政大学の多摩校舎でご一緒したときに、その話が出た。落合さんに法政にいらしていただいたときのことは、そのうちまた。
 そしてこの取材旅行での一番の収穫はルドルフォ・アナヤだった。アメリカからもどって、次々に彼の作品を読んでいった。しかしなんといっても『ウルティマ』が群を抜いて面白かった。というわけで、当時草思社にいた橋口砂子さんに要約を持っていったところ、すぐに出版の運びとなった。橋口さんはそもそもエスニック、ワールドミュージックが大好きだったから、この作品の独得の魅力をわかってもらえたのだと思う。
 またこの本の翻訳に関しては、作者のアナヤさんほか多くの人たちに助けていただいた。それはあとがきにある通り。なかでも、カトリックの司祭の原田さんにはお世話になった。そうそう、そのとき原田さんからひとつ注意されたことがあって、それはいまでもよく覚えている。
「キリスト教の用語はたまに仏教用語と混同されることがあって、翻訳をなさるときなんかには、ぜひ気をつけてください。たとえば、キリスト教では『懺悔』という言葉は使いません。『懺悔』というのは仏教用語ですから」(ちなみに、仏教ではこれを「さんげ」と読むらしい)
 ぼくも原田さんに注意されてからというもの、キリスト教に限らず、専門用語にはとくに気をつけることにしている。
 さて、アナヤに出会って以降、チカノ作家の本をあれこれ読んで、気に入ったものをみつけては版権を調べていると、意外なことがわかってきた。日本の出版社が次々にチカノ小説の版権を取り始めていたのだ。サンドラ・シスネロスなんかはかなり前から晶文社が版権を取っていた(のちに『マンゴー通り、ときどきさよなら』『サンアントニオの青い月』が出る)。そしてしばらくしてアナヤの第二作目の『トルトゥーガ』も平凡社が版権を取った。ぼくはこれが二番目に好きだったので、すぐに平凡社の編集者、古谷祐司さんに電話をしたら、「一度、会いましょう」ということになって、神保町の喫茶店でお会いした。話をうかがって驚いたのは、古谷さんはワールドミュージックならぬワールド・ストーリーズのシリーズをもくろんでいて、ルドルフォ・アナヤ、ジャメイカ・キンケイド、サルマン・ラシュディ、J・M・クッツェーといった、現在まさに文学という境界を揺さぶっている、世界のボーダー・ブレイカーたちの作品を次々に出すつもりだったのだ。
 そのとき古谷さんはこんなことをいっていた。
「アナヤを出すならまず『ウルティマ』だと思って、版権を調べたら、もう草思社が取ったっていうじゃない。なんで草思社があの本を出すつもりになったのか、さっぱりわからなかったけど、金原さんの持ち込みでしたか。なるほどね。というわけで、こちらは『トルトゥーガ』を出すことにしました」
 ぼくのほうでも、なんで平凡社が『トルトゥーガ』を出すんだろうと思っていたので、双方ともに謎が解けて、なるほどなるほど……というめでたいお茶の会だった。
 そのときの縁で、ぼくが、「それなら、これはどうだ!」とばかりに、平凡社に持ちこんだ作品がベン・オクリの『満たされぬ道』だった。
 古谷さんからやがて、「やはり、この作品は出すべきですね」という電話がきて、この作品、平凡社の「新しい〈世界文学〉シリーズ」に入ることになる。
 今までに百冊以上の本を訳しているが、翻訳をするのがいちばん楽しかったのは『満たされぬ道』だった。これほど楽しい翻訳はなかった。一行一行、訳すたびに驚きがあって、それを日本語に定着するたびに、わくわくしてきた。そして何度読み直しても、読み飽きない。不思議な作品である。

   訳者あとがき
 十年ほど前から、アメリカのエスニック文学を追いかけていて、最近のネイティヴ・アメリカン(アメリカ・インディアン)やチカノ(メキシコ系アメリカ人)の新しい作家によるエネルギッシュな活躍に目を奪われていたのだが、ふとほかの英語圏に目を向けてみると、なんと、こちらもポスト・コロニアル文学の若手がすさまじい勢いで台頭してきていた。放送大学の「今日の世界文学」でも触れられているが、一九八八年から九三年まで、ブッカー賞(アメリカを除く英語圏の小説が対象)を受賞した作家五人のうち生粋のイギリス人はひとりきりだ。あとの四人は、ピーター・ケアリ(オーストラリア)、カズオ・イシグロ(日系イギリス人)、マイクル・オンダーチェ(スリランカ生まれカナダ在住)、そしてべン・オクリ(ナイジェリア生まれロンドン在住)である。ついでに書いておくと、オクリと一九九一年のブッカー賞を競ったのは中国系のティモシー・モーであったとか。またブッカー賞を受賞してはいないものの、中国系のユン・チアンの『ワイルド・スワン』や、インド生まれのヴィクラム・セスの『スータブル・ボーイ』(未訳)などがべストセラーになり、かつロングセラーになっていることにも、驚かされる(ちなみに、一九九七年一月二十日の『タイムズ』で発表された「イギリスが選んだ今世紀の百冊」のなかに、これら二冊がふくまれている)。
 そしてそれらの新しい作家のなかでもひときわ輝いているのが、べン・オクリだろう。一九歳のときに書いたFlowers and Shadowsで多くの批評家の注目を集め、その後、詩集や短編集を発表していたが、一九九一年、三三歳のとき、本書『満たされぬ道』でブッカー賞を受賞、世界の注目を集めることになる。
 物語は、もともとは人間の世界に生まれてはすぐに住み心地のいい天国のような故郷にもどっていく精霊の子供(アビク)のひとりが、人間の世界で生きていこうと決心するところから始まる。ところが、そのうちに仲間の精霊が、「こんな残酷で無情な世界にいることないだろ、早く帰ってこいよ」といって連れもどしにくるし、貧しい日雇い人夫の父親がいきなり「おれはボクサーになる」といいだして練習を始め、やくざや幽霊を相手に試合をやりだすし、仲の良かった飲み屋のマダムは金の魅力にとりつかれ、政治の世界にからめとられて化け物のようになっていくし……とまあ、こんな物語が、独立前のナイジェリアの貧民街を舞台に展開されていく。
 同じ母親のもとに何度も生まれては、すぐに死んでいく「アビク」の伝説は、ウォレ・ショインカをはじめナイジェリアの多くの作家が好んで取り上げる題材だが、オクリはこれを核に、途方もない幻想的な世界を創造してみせた。この本は、鮮烈な詩であり、なつかしい物語であり、奇矯な小説であり、めくるめくイメージでつむぎあげられた音楽であり、魔術的リアリズムという一言ではとてもくくりきれないなにかを秘めている。とにかく想像力のたががはずれそうになる作品であることは間違いない。
 多くの批評家が難しい一言葉を並べて絶賛しているが、ここではアメリカ人ジェリー・トンプスンのコメントを紹介しておこう。「こんな本が人間に書けるなんて、とても信じられない。魅力的で、悲劇的なまでに美しい」
 なおこれにはSongs of Enchantmentという続編があり、本書の終わりで悟りの境地に入ったかのような独白をする父親が、またまた破天荒な行動で世界をかき回し、マダム・コトはさらにその存在感を大きくしていく。
 また、オクリの一九九五年の作品Astonishing the Godsも、近く青山出版社から拙訳で出版される予定。

 最後になりましたが、この本の出版を快く引き受けてくださった平凡社の古谷祐司さん、編集作業をしていただいた西口徹さん、原文とのつきあわせをしてくださった斎藤倫子さんと長滝谷富貴子さん、原文に関する質問にていねいに答えてくださったキム・コーノさんに、心からの感謝を。
    一九九七年六月二六日
                  金原瑞人

 この作品は何度か書評で取り上げられたが、なかでも印象的だったのが都立大学助教授の福島富士男氏によるものだった。その最後のところで、こう書いてくださった。
「オクリは子供は死んではならないと堂々と言い切っている。そして子供が生きられるように物語の空間をかぎりなく押し広げてくれる。そのなかをまるで天使のようなアビクたちが翼を広げて力強く羽ばたいている。物語の勝利、思わずそうつぶやいてしまった。もちろん、翻訳の勝利でもある。
 この物語の完結編『魅惑の唄』も心地よい訳文で読ませてもらえないものかと思う」
 涙がこみあげてくるほど嬉しかった。訳書を書評に取り上げてもらうことはよくあるが、訳文にまで触れてくれる書評はほとんどない。それも、これはそれまでで一番訳すのが大変で、かつ楽しかった作品だ。この書評を読んだときの高揚感は一週間くらい続いた。
 さて、次にベン・オクリのもう一冊の本『見えざる神々の島』のあとがきをそえて、今回は終わりにしよう。

   訳者あとがき
 あるとき、自分が「みえない」ことに気がついた青年の探求の旅。この作品をひとことで紹介するとこうなるだろう。
 しかし、ほかの人と仕事をしたりしているところをみると、どうも姿はみえているらしい。それでは、いったいなにが「みえない」のか。そんな読者の疑問をなおざりにしたまま、青年は不思議な街に迷いこむ。
 そしてみえない声に導かれるがままに、「みえる」ことと「みえない」こと、つまり「可視」と「不可視」との狭間で、様々な試練に出会うことになる。
 青年が最後に手に入れたものは、いったいなんだったのか。

 ナイジェリア生まれロンドン在住の新進作家べン・オクリはなんとも幻想的な作品を書く。一九九一年のブッカー賞を受賞した『満たされぬ道』(平凡社)は、人間の世界に何度も生まれてはすぐに死んでいく精霊の子どもが、今度はこの世界で生きてみようと決心して、次々に不可解な事件に巻きこまれるという幻想的な作品だった。これは灼熱のアフリカを舞台に、奇矯で雑多な極彩色のイメージが吹きあげ、吹きこぼれるような奔放な物語だったが、『見えざる神々の島』は、一転して、静かで、涼しげで、透き通ったイメージが澄んだ音を立てて響き合う幻想的な物語になっている。
これほど美しい物語もめずらしい。
しかしそれだけではない。随所にさしはさまれる奇妙で、不可解で、ときとしてユーモラスで、たまにぞつとするほど恐ろしい会話も、この作品の大きな魅力になつている。

「さがしものは、みつからないだろう」
「なぜです」
「ここでは、さがしものはみつからんことになつているからだ」
「なぜですか」
「さがすまえに、みつけなくてはならないからだ」
「そんな」
「いや、そうなんだ。ここはほかの場所と違つていてな……つまり、なにかをさがしているということは、それをなくしたということだ。そしてなくしたということは、もうみつけることができないということだ。簡単なことじやないか」
「少しも簡単じゃありませんよ。すごく複雑だ」
「ふむ、ではこう考えてみるといい。そもそも、なくすべきではなかったのではないか、とな」

 こういった、いささか禅問答にも似た不思議な会話と、透明感と輝きのある幻想的なイメージとがつむぎあげる世界、これがこの物語だといっていいだろう。

 それにしても、べン・オクリというのはまことに不思議で、どこまでも不思議な作家だと思う。いったいどこからこんな世界が生まれてくるのか、訳しながら、ときどき不思議でならなくなる。もちろん、中南米の戦後のある文学的な流れのひとつの特徴である「マジック・リアリズム」の影響を受けていることはあらためていうまでもないが、それらの作品と読み比べてみると、ずいぶん印象が違う。たしかに、人間の世界に精霊や魔物や化け物が出てきたり、あるいはとても無機的で神秘的な街が現れたりして、それがなんの違和感もなくひとつの宇宙を作っているところは同じなのだが、それがいわゆる「小説」という枠をはるかに越えているような気がするのだ。
 さらにいえば、べン・オクリの言葉は、非常にユニークな夢のような現実を写す道具でありながら、同時に激しいエネルギーを発散させているようなところがある。なにかを描写しているというよりは、ただただ読者に向かってまばゆいばかりの言葉を速射しているような感じのする部分があちこちに現れる。
 そのときの言葉は、「時間や空間を描写する」という、いわゆる「小説の言葉」ではない。いってみれば、読者の想像力を乱暴に蹴飛ばす一言葉、イマジネーション・キッカーとしての言葉だ。それぞれの読者の想像力はどの方向に飛んでいくのか、それこそ想像もつかない。言葉そのものの起爆力をこれほど感じさせる作家は、なかなかいないのではないだろうか。
 べン・オクリの作品が、恐ろしく、美しく、危険で、愉快で、難解なくせになぜか表現したいことがあざやかに伝わってくるような気がするのは、その言葉そのものの力にあるのではないか、彼の作品を訳しながらよくそんなことを考える。

『見えざる神々の島』は、ひそやかな驚きの世界であると同時に、めくるめく戦慄に満ちたジェットコースターでもあります。どうぞ、ゆっくり、このなかに遊んでみてください。

 最後になりましたが、編集をしていただいた浅見淳子さんと青山出版社の七戸綾子さん、翻訳に際してていねいに原文とつきあわせてくださった長滝谷富貴子さんに心からの感謝を!
                   一九九七年十一月
                                金原瑞人


四 最後の最後に
 前回の英語の問題の答えです。これは砂漠のなかで、「石が育つ」という、そういう短い物語でした。したがって答えは、
1(stones)
2(moon)
です。
 この話とても短いけど、なかなかいいと思いませんか。