金原瑞人のあとがき大全(5)

『魔女の丘』『滅びの符合』『ゴースト・ドラム』
児童文学評論01.10.25

           
         
         
         
         
         
         
    
一 翻訳について(一人称の話)
 前回、「メアリーとわたしは公園にいった」などという「日本語」はない……と書いたら、翻訳の手伝いをしてくれている海後さんから、逆ならOKじゃないか、たとえば「わたしはさいこちゃんと日仏会館のレストランに行った」とか……というメールがきた。ぼくは首をかしげて、ううん、いいような気がするけど……というふうなことを書いて妹にメールで送ったら、次のような返事がかえってきた。

「わたしはさいこちゃんと日仏会館のレストランに行った」という文章は確かな日本語だと思うのだけれど、違うのですか?
「わたしとさいこちゃんは○○に行った」というのは確かに変。「わたし達は○○に行った」とは言うけど、「わたしとさいこちゃんは」と言わないのは、きっと日本人に利己的遺伝子が組み込まれているからだ。
 つまり、「わたしとさいこちゃん」というふうに、「わたし」と他者が並列されたものは、主語にしたくないんだ、きっと。二人以上を主語にするには、「わたし達」でないと許せない。主人公は、常に自分でなければならない。少なくとも、私の場合はそーだナ。私は遺伝子を忠実に守って、種の繁栄を支えている、立派な利己主義者になれていると思うよ。
 そう考えると、冒頭の「わたしはさいこちゃんと日仏会館のレストランに行った」というのは、正しいと思うなあ。だって、さいこちゃんは「わたし」にちゃんと隷属してるもん。
 でも、思うに「わたしは夫とティファニーに行った」というより、「わたしと夫はティファニーに行った」と並列にした方が、夫も喜んで行っているという微妙なニュアンスが出るような気がする。前者だと、夫が嫌々ティファニーに行ってるような、まるで泣く泣く連行されているような感じがして、何となく嫌だわ。少なくとも私の夫ぢゃないわ。

 ともあれ、英語と日本語の一人称はかなり違う。なんといっても英語の場合、一人称は「I」ひとつ。幼児でも若者でもおばあちゃんでもドラゴンでも異星人でも、みーんな「I」なのだ。これは考えようによれば、すごいことかもしれない。じゃあ日本語ではドラゴンや異星人のための特別な一人称があるのかといわれると、それはないが(たぶん)、とりあえず「ぼく、おれ、わたし、わたくし、あたし、あたい、自分、自ら、己れ、われ、わし、拙者、朕……」数え上げればきりがない……ことはないだろうが、ずいぶんたくさんあるのは間違いない。そしてそれぞれが独自のニュアンスを持っている。だから昔のおばあちゃんが自分のことを「おれ」といったりすると、もうそれだけでかなり強烈なインパクトがある。しかし何度も繰り返すが、英語には「I」しかないのだ。だから、日本語についてほとんど知らない欧米人に、「日本語には『I』にあたる一人称が十や二十はあって、日本人は各自そのうちのいくつかを自分の立場とTPOに応じて使い分ける」というと、目を丸くする。
 したがって「I」をどう訳すかで、思い切り悩むこともたまにある。まず、こんなクイズはどうだろう。
「その弁護士は離婚訴訟が専門で、そのうえ必ず女性の側につくことにしていたのだが、それまで一度も負けたことがなかった。ところがあるとき、自分が離婚する羽目に陥った。もちろん法廷には自分が弁護士として出ることにして……勝った。ところがこのときも女性のほうにつき、かつ無敗の記録は持続したという。なぜか?」
 昔なつかしいベストセラー多湖輝の『頭の体操』から。
 「その弁護士は女性だった」というのがその答え。さっきの一人称の話、じつはこのクイズに似たようなことがたまに起こる。
 たとえば石原万里さんが訳しているイアラ・ジステルの『すてきな仲間たち』(ぬぷん児童図書出版)。この作品の最初の章は、森のなかでひとり動物を相手に暮らしている動物学者が自分の生活を語るのだが、一人称なのでもちろん主語は「I」。だいたいこの章を読んだ人は、てっきり主人公は男だと思ってしまう。が、二章に入って初めてそれが女性だということがわかる。石原さんは、この作品の「I」を「わたし」と訳しているから、原文のおもしろさはそのまま出てきている。
 ところがそれができないことがある。たとえば、ぼくが訳したハイム・ポトクの『ゼブラ』(青山出版社)のなかの「B・B」という短編がそう。これも一人称で書かれているのだが、最後の最後までいかないとこの「I」が男の子なのか女の子なのかわからない仕掛けになっている。なにしろみんなからは「B・B」と呼ばれているので、ぼくは最初、男の子だと思ってしまった。児童文学作家にそういう名前の作家がいるので。そしてまんまと間違えてしまった。そこで去年、タトルというエージェントで翻訳を教えているとき、この短編をテキストに使ってみたところ、男の子で訳した人と女の子で訳した人が、ほぼ半々(男の子で訳した人は、最後に出てくる「girl's voice」という一言を見逃してしまったのだ) これはおもしろいなと思って、次に大学院の比較文学の授業でこれをやってみた。すると十数人いる学生のうち、女の子で訳したのがひとりかふたりだった。あとは全員男の子で訳していた。そしてさらに面白いことに、この「I」が男の子なのか女の子なのか考えてから、どちらかに決めた学生はほとんどいなかった。つまり、みんな無意識のうちにどちらかに決めて読み進めていたのだ。これはタトルの翻訳教室でも大学院でも大体同じ。
 ところがこの短編、そういう原文の仕掛けを日本語に訳せない。なぜかというと、主人公が子どもなので、「I」を「わたし」と訳してしまうと、もう女の子に決まってしまう。小中学生の男の子が「わたし」とは絶対にいわない。結局、「あたし」で訳してしまった。だから最初から主人公が女の子だとわかってしまう。
 原文のおもしろさがひとつ消えてしまったが、それでもこの作品のすばらしさは十分に伝わってくるとは思う。
 それじゃあ、絶対にそういうおもしろさは訳せないのかというと、そうでもない。じつはひとつだけ方法がある。主語の「I」をすべて省いて訳せばいい。
 たとえば偕成社文庫で出すというので、編集の別府さんからスティーブンソンの『宝島』の翻訳を頼まれたとき、主語でちょっと考えた。これはジム少年の冒険物語で、一人称で語られているのだが、ジム少年が語っているのかどうかはわからない。なぜなら、これは回想録の形になっているわけで、語っているのはジム少年かもしれないが、ジム青年であるかもしれず、もしかしたらジム老人かもしれない(とはいえ、冒頭のところで、トリローニさんもリブジー先生も生きているから、事件から五十年も六十年もたってはいないだろうという気はする……が、もちろん可能性としては七十年後ということも考えられないわけではない)。というわけで、主人公が「ぼくは」と語りかけるのはどうなんだろう、とふと思ってしまったのだ。つまり英語では、語っているときのジムの年齢は不明なのだから(たぶん英語圏の読者は、語り手のジムを好きな年齢に設定できるのだろう)、これを「ぼく」と訳してしまうとまずいのかもしれない。というわけで、最初の数頁は主語を省いて訳していった……のだが、途中で面倒になって、結局「ぼく」にしてしまった。
 一人称の小説で主語をまるっきり省いてしまうのは、翻訳の場合は面倒だが、最初から日本語で書く場合はそう難しくない。今年の夏のゼミ合宿で学生がひとり、主語をまったく省いた一人称小説を書いてきたし、ぼくも昔書いたことがある。しかし翻訳だとかなり面倒だ。創作の場合は、主語を省くと書きづらい状況になったら、主人公をちょっと移動させればいいし、どうしてもうまくいかなかったら思い切ってその部分を削ってしまえばいい。ところが翻訳の場合は、原文があるわけで、それをそのまま日本語に移さなくてはならない。そこで小細工くらいはできるが、ばっさり削ったり、視点を転換させたりという大細工はできないのだ。
 しかしなんとかならないかという気持ちは依然として強く、ついにO・ヘンリーの短編集『最後のひと葉』(岩波文庫)で、これをやってみた。「ジェフ・ピーターズの話」という短編がそれ。主語なしの一人称の語り。まずまずの出来だと自惚れてはいるものの、主人公が相手と組み合う場面なんかは、きつかった。編集の若月さんから、「主語をわざと省いたのですね。でも、そのせいでわかりづらいところがいくつかあります……」というチェックが入ったりして……。
 しかししかし、ついにそれを大長編でやってしまった。来年の前半に出る予定の『ディヴォーシング・ジャック』(東京創元社)がそれ。共訳者の橋本さんが、まず訳すときに、「この主人公、『おれ』でもないし、『ぼく』でもないし……困ってるんです」といってきたので、「じゃ、主語なしでやってみようか」ということになった。アイルランドを舞台にしたミステリーなのだが、すでに映画になっていて、橋本さんと編集の山村さんと三人で試写会をみにいった。映画の字幕では、「おれ」だろうか「ぼく」だろうかと思って目を皿のようにしてみていたところ、どちらでもなかった。というか、主語なしだった。考えてみればあたりまえなんだけど、映画だと科白が字幕で出てくるわけで、わざわざ「おれは」とか「ぼくは」とかいう必要はないのだ。
 さて、『ディヴォーシング・ジャック』、来年の刊行をお楽しみに。
 さて次に、まったく逆の話をしよう。じつはつい先月、吉田直樹の『沈黙のアスリート』(NHK出版)が出た。帯には「最新鋭の設備で練習中に起きた女子マラソンランナーの突然死。その裏にはオリンピック招致をめぐる巨大な陰謀が……」とある。女子マラソンをテーマにしたミステリーだ。吉田直樹のミステリーは、奇天烈な事件や派手なトリックや異常心理なんかはまったく出てこない。緻密な下調べに基づいたプロットがよく練れているうえに人物造形が巧みで、なにより地味な文体がいい。ところでこの作品も一人称で、主人公は地の文では自分のことを「わたし」といっている。ところが、だれかと話すときには「おれ」になる。主人公の屈折した気持ちとこだわりと性格が、この「わたし」と「おれ」の使い分けにうまく表れているのだ。しかしこれは、絶対に欧米の言葉では翻訳できない。一人称はひとつしかないのだから。いつもこれで悩まされている翻訳家としては、「ざまあみろ、口惜しかったら訳してみやがれ」といいたくなる。

二 昔の話
 当時、というか八十年代、三鷹にあった犬飼先生のアパートにはかなりの量の原書が集まっていた。英語の児童書が中心だったが、フランスのアシェット叢書なんかもたくさんあった。それをみていて、あるときふと思いついた。ここに並んでいるだけではもったいない。みんなで読んで、海外の未訳の児童書を紹介すればいいんじゃないか。それも年に何回かの雑誌の形で。そこで犬飼先生に提案してみたところ、「お、それはいいねえ」……というわけで、話はトントン拍子に進み、ぬぷん児童図書出版から出ることになった。幻の「薬師谷図書館」設立準備協力隊(本の整理をしていた大学や大学院の連中)、および烏山の文庫の人たちが中心になって、片っ端から原書を読んでいった。年に二回発行。未訳の児童書の紹介のほかに、エッセイや論文を載せた形の同人誌である。海外のいろんな児童文学賞の紹介や受賞作一覧のコーナーもある。ページ数は薄いときは六十数ページ、いちばん厚いときは百六十頁。名前は「海外児童文学通信」。現在、やまねこ翻訳クラブが月刊で出しているメールマガジンの雑誌版と思ってもらえればいい。ただ当時はインターネットなんてなかったから、雑誌の形にしなくてはならず、そのための印刷費の捻出がとても大変だった。が、これもみんな会員の会費でまかなった。印刷は、うちの親がやっている印刷屋、創文社に頼んだ(ここでは『海外児童文学通信』のほか、赤木幹子の『烏賊』なんかも印刷してもらっている。なにしろ実家なもんで、安くしてもらえるし、いざというときは借金を踏み倒すことができる)
 第一号が出たのが八十四年九月一日。見事に背文字を入れ忘れている。五年後、つまり十号までで約四百五十冊の原書を紹介した。その後さらに五年ほど続いて、二十号くらいまで出ただろうか。創刊号から全巻そろっていると、古本屋で数万円になる……というのは嘘らしい。
 会員は二十人くらいのこともあれば二十五人くらいのこともあった。いろんな人がいて、英語関係だと、ぬぷんですでに訳書を出していた沢登さんや安藤さん、レターボックス社からジャニ・ハウカーの『ビーストの影』を出した田中さん、ドイツ語だと酒寄さん、そのうちに訳書を出すことになる西村さん……そうそう、異色だったのはなんといってもイスラエルの本を中心に紹介してくれた母袋さん……もうひとり意外なのが、赤木幹子(ほとんど英語が読めないにもかかわらず、足を引っぱりつつ、多少協力してくれた)。まとめ役は犬飼先生。全員の原稿に目を通して、しっかり赤を入れてくださった。
 それにしても、よく十年も続いたものだと思う。

三 あとがきについて(『魔女の丘』『滅びの符合』『ゴースト・ドラム』)
 さて八十年代の終わり頃から何年か、バベル翻訳学院で教えていた。自分でいうのも気がひけるが、人気の講座だった。ひとクラス、二十人から多いときは三十人以上。自分でいうのも気がひけるが、授業がおもしろかったからだと思う。それに「欠陥翻訳時評」の別宮先生みたいに、あまり怒ったりしなかったし。いうまでもなく自信のなさが、その一因である。
 やがて当時受け持った翻訳のクラスから何人か翻訳家として活躍するようになった。筆頭は斎藤さん。とにかくクラスにいたときから目立っていて、ぼくの誤訳をずばずば指摘してくれた。訳文もセンスがあるし。
 斎藤さんの翻訳はぼくと正反対……とまではいわないが、かなり違う。ぼくが早くて雑だとすれば、斎藤さんは遅くて正確で緻密でていねい。文体も違う。ぼくはストーリー展開の早いダイナミックな話が好きだけど、斎藤さんにはじっくり読ませる心理小説なんかが向いている……ような気がする。
 まだ三浦さんがあかね書房の編集をしていたとき、訳さないかといって持ってきてくれたのが『メイおばあちゃんの庭』。早速読んでみて、さすが三浦さん、いい本持ってきてくれるなあと感動したけど、どう考えてもぼくの文体じゃない。女の子の心の変化をじっくりゆっくり描いたこの本は、読むのはいいが、訳すのはしんどい。そこで斎藤さんはどうかと勧めてみたら、OKが出て、斎藤訳で出た。これがとてもよく訳せている。斎藤さんはこういう本を訳すと、じつにいい味を出す。
 『メイおばあちゃんの庭』、じつは次の年の課題図書になった。ちょっと残念だったが、ぼくが訳してたら、おそらく課題図書になってなかったと思う。
 さて、話はすこしもどるが、斎藤さんにはしばらく、ぼくが訳したものを原文とつきあわせる仕事をお願いしていたのだが、そのうち共訳で一冊出すことになった。それがウェリン・カーツの『魔女の丘』。
 福武のリーディングスタッフをやっていたときに読んだ本で、それなりに面白かったのだが、いまひとつパンチにかけるところがあって、ずっと保留になっていた。ところが福武文庫で児童書を出す企画が動き出して、出版の運びとなった。
 ぼくにとっては初めての共訳。まず斎藤さんが訳して、それをぼくが原文とつきあわせて赤を入れて、斎藤さんがチェックしながらそれを直して、またぼくがみて……という、かなり面倒なやりとりをしてできたのが、この訳。完成度は高い。
 次の共訳は、やはりバベルに通っていた渡邉さん。ものはハイウォーターの新作『滅びの符合』。これも同じ工程をたどってできあがった。
 ぼくが受け持ったバベルのクラスにいたなかで、訳書を出して活躍しているのは斎藤さんと渡邉さんのほかに、西田さん(講談社文庫の『警視の休暇』など)、長滝谷さん(「マクブルームさん」シリーズなど)、原田さん(『弟の戦争』など)、野沢さん(『メサイア』など)、小川さん(「ウィーツィ・バット」シリーズなど)、鈴木さん(国書刊行会のミステリー)といった面々。同じくバベルのクラスにいて、翻訳も少し出したけど、詩人、歌人として有名になった人もいる。だれかというと、つい先月、第二詩集『アクリリックサマー』と第一歌集『世界が海におおわれるまで』(両方とも沖積舎)を出した佐藤さん。みんなぼくより翻訳はうまい。
 さて、今回のあとがきの最後は『ゴースト・ドラム』。これは訳したものを斎藤さんに原文とつきあわせてもらった。
 スーザン・プライスの初期の傑作である。というより、イギリスの現代ファンタジーの傑作といっていい。これほど強烈なファンタジーには、そうそうお目にかかれない。この本にめぐりあったときの感動が、そのままあとがきに表れていると思う(当時の編集者からは「生意気」といわれたが)
 ここで余裕があれば、モダン・ファンタジーの歴史について簡単にまとめるところなのだが、今月は残念ながら仕事が山積みなのでパス。そのうち気が向いたら。
 『ゴースト・ドラム』はいろんなところから反響があった。
 たとえば、かつてホピー・神山なんかといっしょに「ピンク」というバンド(映画『チンピラ』の音楽なんかもやってる)にいた福岡ユタカが、おおいに気に入ってくれて、「The Ghost Drum」という曲を作ってくれた(『UR WORDS』というアルバムに収録)。早速スーザンに送ったところ、とても喜んでくれた。スーザン・プライスの新作『The Sterkarm Handshake』というガーディアン賞を受賞した作品のハードカバーの折り返しの部分に次のような箇所がある。
「The Ghost Drum, which won the 1987 Carnegie Medal, and has been translated into Japanese. A Japanese composer, Yutaka Fukuoka, has written a piece of music inspired by the book.」
 よっぽどうれしかったんだと思う。
 ちなみに、福岡ユタカは大友克広のオムニバス・アニメ『メモリーズ』のなかの一編の音楽を担当したり、「ニュースセンター9時」のテーマを歌ったりしながら、最近はアンヴィエント系の音楽をやっている。
 もうひとり、文学畑以外で『ゴースト・ドラム』に思い切りはまってくれたのが、生態系アーティスト、もりわじん。このところ猫ばかり作って、全国で個展を開いているし、猫関係のムックや雑誌でもよくお目にかかる。荒俣宏監修の『招福縁起図鑑』でも大きく取り上げられている。また谷中には「もりわじん常設ギャラリー」まである。まあ、天才である。小物はぼくもいくつか買ってあるのだが、大物はもうとてもとても手が出ない。もし興味のある方は、HPへどうぞ。(http://www.necomachi.com/atelier/mori/index.html)
 で、わじんも猫作りの初期、チンギスの活躍する世界を猫数十体を使って表現してくれた。
 と、ここまで書いたら疲れてしまったので、あとは簡単にすませよう。
 ともあれこの『ゴースト・ドラム』で福武時代(当時はもうベネッセと名前が変わっていた)は終わり。福武ではいろんな編集者にお世話になった。『のっぽのサラ』は角田さん、『明日の魔法使い』は米田さん、『ブラック・スワン』は中楚さん、『破滅の符合』は盛山さん、その他はすべて上村さんの担当。
 この福武時代は大学で非常勤をやりながら、翻訳をやったり、朝日新聞にヤングアダルト向けの本の書評を書いたり、『海外児童文学通信』を出したりしていた。疾風怒濤……というよりは、なにがなんだかよくわからない、ごちゃごちゃした時代だったような気がする。

四 あとがき
『魔女の丘』
訳者あとがき

 ウェリン・ウィルトン・カーツの本邦初登場です。
 カーツはカナダの作家で、『魔女の丘』を書くときもカナダ・カウンシル(カナダ文化振興会)から奨励金をもらっているみたいだし(みたいというのは、じつをいうと作者についてはあまりよくわかっていないのです)、また『三番目の魔法』という作品ではカナダ総督文学賞(スポンサーは同じくカナダ・カウンシル)を児童文学部門で受賞しています。
 とまあ、いまのところ作者についての情報はこのくらいだけど、とにかく筆力のある作家だということは、この作品を読んだ方ならすぐに認めていただけますね、はい。
 で、この作品についてはあとでまた簡単にふれるつもりだけど、とりあえず、英語圏やヤングアダルト向けのミステリーについてちょっと。
 日本にはまだ、ヤングアダルト向けのミステリーがあまりはいってきていないんだけど、アメリカ、イギリス、カナダ、オーストラリアなどでは、かなりの数が出版されていて、けっこう有名な児童文学作家も書いているのが特徴的。
 たとえば日本でも知られている作家としては、『わたしはアリラ』を書いたヴァージニア・ハミルトンや、『青い鷹』を書いたピーター・ディキンスンなどがその代表(もっとも、ディキンスンの場合はもともとがミステリー作家で、大人向けのものは相当の数にのぼっているけれども)。
といった具合に、英語圏のヤングアダルト向けのミステリーは多いわけだが、日本で翻訳されていることはほとんどないんですね、これが。
 もっともいくつかの理由があって、その第一の理由は、いい作品があまりないってこと。もう何年も前にヤングアダルト向けの本に興味を持ちはじめて、一時この手のミステリーを読みあさったことがあるが、そのほとんどが徒労に終わったといっていい。この手の本はテンポもよく、ストーリーもまずまずなんだけど、人物設定と謎解きが安易という作品が圧倒的に多い!
たとえばマーガレット・マーヒーの『足音がやってくる』という作品なんか、そのなかではまずまずのできだったけど、やはり謎解きが安易で、その手はないぜという気になってしまう。ヤングアダルト向けのミステリーがあまり翻訳されないというのは、どうもこのへんにその理由があるらしい(『足音がやってくる』については、原書で読んだとき、あまり感心しなかったもので、福武書店の編集の人には、「訳すことないよ」などといってしまい、申し訳ないことをしました。けっこう売れているそうですね。この場をお借りしておわびいたします。でもね、やっぱり、いまいち最後が甘いんだよな)。
 そういえばアメリカにはエドガー・アラン・ポー賞っていうのがあって、優秀なミステリーに与えられるんだけど、このなかには児童文学があるわけ。ところがあまりパッとしないんだな、これも。たとえば新しいところではアレイン・ファガーソンの作品があるんだけど、これは生まれて間もない赤ん坊が次つぎに死んでいき、ある少女がその罪を着せられそうになって友人と真相をつきとめるって物語。スリルはあるしテンポは速いし最後まで一気によませるだけの迫力はあるんだけど、謎解きがバツ。死んだと思われていた赤ん坊はみんなある種の毒のせいで仮死状態になっていただけで、埋葬された夜に犯人が助けだして、子どもをほしがっている人に売っていたという結末だもんね(死体を火葬にしない、異教徒の赤ん坊ばかりがねらわれるというところから足がつくわけ)。
 ミステリーファンなら怒るよな。
 だいたい中学生くらいになると早川のポケットミステリーや創元推理文庫の一般向けのものを読みはじめるわけで、わざわざできのよくないものを読む理由はないのだ。
 というわけで、このあたりがひとつのネックになるんだと思う。たとえば中学生を主人公にした場合、どうしてもその行動には制限ができるし、行動半径も限られてくるし、あまりショッキングなストーリーを展開するわけにもいかない。そのうえ、抜群に頭の切れる中学生なんてのも気味が悪いから、ポワロやホームズのような主人公を設定することも無理だし、かといってシムノンのようなしぶい雰囲気小説に仕立てるわけにもいかない。もちろん、ハメットのようなハードボイルドってわけにもいかないし、ル・カレみたいなスパイ物なんて絶対にだめ。
 これがいわゆる児童文学の探偵物なら、話はべつで、ヒルディックの『マガーク探偵団』や那須正幹の『ずっこけ三人組』といったシリーズでおなじみのように、傑作がそろっている。こういった作品の場合、子どもの行動力と、ストーリーのおもしろさで読ませるわけで(ユーモアのセンスも必要かな?)、設定も謎解きもそれほど厳密でなくていいので、のびのびしたものが書ける。
ところが、中学生あたりが主人公になると、こうはいかない。『ずっこけ…』みたいな設定は無理で、一応はリアリスティックなものにしなくてはならない。
まあ、そういった無理難題を承知で、英語圏ではヤングアダルト向けのミステリーが書かれているわけで、「これぞ、ミステリーの醍醐味!」という作品が少ないのも無理はない(日本では赤川次郎や栗本薫や森雅裕たちがヤングアダルト向けのミステリーを書いているといえなくもないけど、やっぱり一般向けとしてという気がする)。
 英語圏のヤングアダルト向けの本は海外でも多く翻訳されているけれど、やはりミステリーは少ない。それにかんしてはドイツやフランスも日本と同じといっていい。まあ、考えてみれば、ことさらにヤングアダルト向けのミステリーがどんどん出版される英米ってのが、そもそも異常なのかもしれない(そういえば、赤川次郎は中国語に翻訳されているそうです)。
ヤングアダルト向けのミステリーはもう相当の数にのぼるけれど、はっきりいって訳してみたいと思ったのは、いまのところこれ一作。
 『魔女の丘』、おそらく一般向けのミステリーにくらべても遜色はないはずです。エンタテイメントとしては抜群のできでしょう。スリル、サスペンス、謎解き(この本の場合は犯人ではなくて……もちろんおわかりですね)、どれも合格点ですし、なによりマイクとリザの二人が魅力的です。
突然変異にも似たヤングアダルト向けのミステリーの傑作、どうぞご一読を!
また、今回はじめて共訳というものを試みてみました。いつもとはちょっと文体が変わっています。
 最後になりましたが、理想の共訳者、斉藤倫子さんと、理想の編集者、上村令さんに心からの感謝を! 一九九〇年十月六日 金原瑞人


『滅びの符合』
訳者あとがき

 一九九一年の九月から十月にかけて、フィラデルフィアで、一大フェスティバルが行われる。フィラデルフィア・ミソスというタイトルのもとで、七週間にわたり、神話学・人類学・民族学に関する講演、現代詩の朗読、現代音楽の演奏、舞踏(現代舞踏から、アメリカ、アフリカ、アジアなどの民族舞踏をもとにしたものまで)、映画の上映、絵画やマルチ・メディアを駆使した作品の展示、芸術の多様性や神話学に関するシンポジウムなど、全部で百十のプログラムが組まれている。
ユニバーシティ・オブ・ジ・アーツとネイティヴ・ランド・ファンデーションとが共同して行うこの企画は、現代の神話学、人類学、民族学、芸術を中心にすえた壮大な試みで、子どもを対象にしたプログラムまでそろっている。
このフェスティバルの企画責任者がこの作品の著者である、と紹介すれば、ジュマーク・ハイウォーターのおおよその輪郭はつかめてもらえるのではないだろうか。
 ハイウォーターはチェロキー族とブラックフィート族の血を引いており、アメリカ・インディアンのメンタリティを生かした小説や評論を書いたりテレビ番組を製作する一方、音楽、絵画、舞踏を中心とした現代芸術全般にかかわって、その普及につとめている。また現代アメリカを代表する神話学者ジョゼフ・キャンベルとも親交が深く、一九九〇年に発表した『神話と性』は文字通り、古代ギリシアから現代アメリカまで、それぞれの文化を、神話における性の扱われ方から解読しようとする試みで、ハイウォーターの知識の広さもさることながら、インディアンならではのユニークな視点がとても楽しい。
 また現代のアメリカ・インディアンのスポークスマン的な役割も負っていて、ケヴィン・コスナーが『ダンス・ウィズ・ウルブズ』を作るさいに、意見を求めにきたという話も伝えきいている。そのときのハイウォーターのコメントは否定的なもので、白人=悪、インディアン=正義という図式があまりに安易だし、さらに善良なインディアンと好戦的なインディアンという対立構造もうなずけないというものだったらしい。
 しかしアメリカ・インディアンのメンタリティを現代に生かそうとしているからといって、羽根飾りをつけて踊っているインディアンを想像されては困るので、ついでながら書いておくと、ハイウォーターのジャーナリスト、あるいは作家としてのデビューは、ロック界のスーパースター、ミック・ジャガーのティーンの頃からスターダムにのしあがるまでを描いた『ミック・ジャガー』というノンフィクションであった。その後、さらにロックに関する評論を一冊だしている。たしか八九年に、国際観光振興会の招待で日本にきたときにきいたことだが、いくつかの新聞や音楽雑誌に数年来クラシックとロックの音楽評を書いているとのことだった。
現代アメリカの異才といっていいだろう。
 またこれまで日本語に翻訳された作品は『アンパオ――太陽と月と大地の物語』『伝説の日々』『汚れなき儀式』『暁の星をおびて』(以上三作は<幻の馬>の第一部から第三部)の四作。いずれも福武書店から刊行されている。

 さて、この作品は、コルテスによるアステカ征服をインディオの側から描いた小説で、西洋的なものとまったく異なった視点から透視した歴史であり、その特徴は、ハイウォーター自身によるあとがき(「最後に語り手から」と「アステカ世界の終焉」)に詳しく書かれている。ただ訳者としていっておきたいことは、これが、どういう意図にもとづいて書かれたにせよ、途方もなくエネルギッシュで、かつ現代的な作品だということだ。ドナルド・バーセルミ、ジョン・バース、トマス・ピンチョンといったアメリカの現代作家の実験的な作品とは正反対で、非常に読みやすく、面白く、圧倒的な迫力で最後まで一気に読まされてしまうが、それでいて今までの文学作品とは異質な背骨が一本しっかりと、それもど真ん中に通っている。その意味では、作風など似ても似つかないカート・ヴォネガットあたりに共通するものがあるかもしれず、ヴォネガットが「傑出した歴史小説……アステカの歴史をインディオの目からみたことのないわれわれの目を開かせてくれる、めまいがするほど衝撃的な作品」と高く評価しているのもうなずける。
 「認識できるもの、考えることができるもの、感じることができるもの、夢にみることができるもの、インディアンにとってこれらすべては現実に存在しているのである」(ポール・レイディン)
この作品は、まさにこの言葉を証明している。夢も現実も歴史も神話もすべて同レベルにあるインディアン(インディオ)にとっての「現実」が、ここにはとてもドラマティックな形で表されている。とくに、夢と現実と歴史と神話が混然一体となった、恐ろしくも美しい情景が繰り広げられる第五章は圧巻である。
 訳語についてひとこと。原書に“Mexica(Mexicans)”という言葉がでてくる。これは本来なら「メシーカ(メシーカの民)」と訳すべきなのだが、ここでは、わかりやすいように「メキシコ(メキシコの民)」と訳しておいた。お読みになった方にはおわかりと思うが、現代使われている意味での「メキシコ」とは少し違っている。その他、意味は多少ずれるものの、わかりやすさを考慮して日本人になじみのある訳語を用いたところがいくつかあることを、お断りしておきたい。
また、アステカの暦については原書に何ヶ所か誤り、あるいはまぎらわしい表記があるので、作者と相談のうえ、多少手を入れている。
 最後になったが、今回は渡邉さんという理想的な共訳者を得ることができた。まず渡邉さんが全体を訳し、それをもとに原文とつきあわせながら私が訳し直し、もう一度渡邉さんに手をいれてもらい、さらにもう一度私が手をいれ、初校も再校もふたりでそれぞれに手をいれてからまとめた(というわけで、文責は最終的に訳をまとめた私にある)。今思うと気が遠くなるような仕事だったが、それなりの成果はあったのではないかと満足している。
 それから、本書を訳すにあたり作者からは何度もアドバイスをいただいたし、編集の盛山さんには、訳文のチェックなどお世話になった、心からの感謝を。また、文中のアステカをめぐる訳語については、国立民族学博物館助教授の八杉佳穂先生に綿密なチェックをお願いすることができた。この場を借りて御礼申し上げます。 一九九一年八月二九日 金原瑞人


『ゴースト・ドラム』
訳者あとがき

『ゴースト・ドラム』、いかがだったでしょうか。
 この本を最初に知ったのは、アメリカのある書評新聞の児童書のコーナーでした。かんたんなストーリーが紹介されていて、それを読んだだけで、「おっ、すごい!」と思い、すぐに、編集の人にたのんで、取り寄せてもらいました。正直いうと、そのときでも、まあ子どもの本だから、けっこう甘いところがあるんじゃないかなという不安はありました。
 で、一読。思わずうなってしまいましたね。
 おもしろい、とにかく文句ぬきにおもしろい。そして、冬に閉ざされた世界をつむぎあげるイメージの豊かなこと。さらに、その物語の凄絶なこと!
 はっきりいって、これは訳す以外ない、というのが正直な感想でした。
しかし訳すったって、日本の児童書の出版社がだしてくれるものかどうか、かなり不安ではありました。
 読んだかたならおわかりだと思いますが、この作品、どこからみても、どこから切っても、絶対にファンタジー指数百%の純正ファンタジーなのですが、児童文学によくある、ただ甘くてセンチメンタルなだけの「お子様ランチ風ファンタジー」とはまるっきりちがっているのです。そのうえ、日本では耳にたこができるくらいきかされている「教育的配慮」ってやつがほとんどない。まあ、このあたりはロバート・ウェストールも似たようなところがありますが。
冷酷非情で理不尽な皇帝、それに輪をかけて残酷な女帝、まるで虫けらのように殺されていく人々、生まれたときから塔のいちばん上の丸天井の部屋に閉じ込められたままの皇子サファ、サファを助けようとし、奴隷の兵士たちを助けようとして、どんどん死の中につき進んでいく若き魔法使いチンギス、これらの人々がさまざまな形でからみながら作りあげてゆく、死と地と嫉妬と復讐と愛の物語、それも、冷たく暗い冬が一年の半分を占める北の国の物語……かんたんにまとめれば、こんなところでしょうか。
 この作品、さきほどのアメリカの書評のしめくくりの言葉は「子どものための大人の物語」でした。
スーザン・プライスもまあ、よくこんなファンタジーを書いたものだし、フェイバー(イギリスの出版社)も、よくこんな本を子どもむけにだしたものだと感心しますが、それよりもっともっと感心したのは、なんと、カーネギー賞の選考委員たちがこれを授賞作に選んだこと。
このしらせをきいたときは、「うーん、やってくれるなあ」とつぶやいてしまいました。
りっぱとしかいいようがありません。
 それから、ついでにというわけではありませんが、これを日本で出版しようという福武書店も四番目くらいにすごいのかもしれませんが、こちらはちょっとおいておきましょう。
一九六五年、トールキンの『指輪物語』がペーパーバックでアメリカで出版されて以来、ファンタジーというジャンルが一般に認められるようになり、毎年すさまじい数のファンタジーが出版されるようになりました。しかしそのあまりに安直な作り方のせいで、このところ読みでのあるファンタジーはどんどん少なくなってきています。
 紋切り型のラブ・ロマンスであったり、昔ながらの英雄物語の焼き直しであったり、教育的配慮のかたまりのような教訓物語であったり、ただかわいいだけの幼稚なお話であったり……。 心からファンタジーを愛している人々にとって、現代はあまりめぐまれた時代とはいえません。
 そんな中で『ゴースト・ドラム』が生まれたというのは、うれしいことです。物語のたのしさ、視点のおもしろさ、快い驚き、あざやかなレトリック、どこまでもどこまでも広がってゆくイメージの躍動……ここには、ファンタジーのエッセンスがそのままつめこまれています。
 スーザン・プライスの体にはきっと、ロード・ダンセイニやマーヴィン・ピークといったイギリスの傑出したファンタジー作家の血が熱く流れているのでしょう。このような作家が、なにげなく登場するところをみると、イギリスのファンタジーもまだまだ期待できそうです。
 どうか、日本でも多くの読者に読まれんことを!
 最後になりましたが、原文とのつきあわせと日本語のチェックをしっかりやってくださった斉藤倫子さん、またいい本にしあがるようにいつものように尽力してくださった編集の上村令さんに、心からの感謝を。 一九九一年 金原瑞人