神宮輝夫の視点(2)
fairytaleもfantasyも政治的でありうること

【児童文学評論】 No.54
2002.06.28日号

           
         
         
         
         
         
         
    
 今回は、前回とまったく違うトピックでお話します。これは、バーナード・アシュリーと同時代の何人かの作家たち、特に戦争について書いた作品が読み切れず、二回目としてまとめられないので、「神宮輝夫の視点」というタイトルをはじまってからすぐに悪用してお茶をにごそうというわけです。

 Fairy taleとかfantasyなどという、私にはあまりなじまないようなことについて、お話するのは、国立国会図書館国際子ども図書館の全面開館記念展示「不思議の国の仲間たちー昔話から物語へー」のお手伝いをしたことと、現在計画中の子どもの文学のリアリズムの歴史執筆のため、さまざましらべているうちに、やはり考えていただきたいことが出てきたからです。

 いろいろな本を読んでいるうちに(というと格好がよいのですが、実際はたいして読んでいるわけではありません。)Nancy L. Canepa(1957−)という若い研究者のFrom Court to Forest: Giambattista Basile’s Lo cunto de li cunti and the birth of literary fairy tale(1999)という著書に出会い、興味深いことを教えられました。子どもの文学の起源はfairy tales と深い関係があることは、よく知られています。つまり口承の文学であるfairy taleの収集と記録がはじまり、続いてそれに似た創作が始まり、やがてそこから今日のfantasyとよばれる子どもの文学の一分野が開かれたというのが、発達の筋道とされています。つまり、グリム兄弟によるいわゆる「グリム童話集」のように、語られたものを出来るだけ忠実に文字化したものから、アンデルセンの作品のようにfairy taleの語り口や構成や雰囲気などを活用した創作が生まれ、やがてそれがfantasy を生んだということです。そして、アンデルセンの童話のようなものは、昔話風なお話とか昔話風な童話とかよばれます。英語ではliterary fairy talesといわれます。

 Nancy Canepaは前述した彼女の研究書のタイトルの一部分であるLo cunto de li cunti、つまり十七世紀前半にBasileが収集した昔話四九話プラス枠物語一話を文字化した通称Pentamerone(「五日物語」)とよばれる本からliterary fairy tale がはじまったとしているのです。Pentameroneはfairy talesの最初の文字化の一つとされていますから、fairy taleは文字化された瞬間に口承のものとは異質になるというわけです。

 私は、昔話の研究家ではありませんから、文字化されたfairy taleが即literary fairy tale という考えが昔話研究の世界で常識になっているのかどうかはわかりません。しかし、すくなくとも英米児童文学研究の世界では、シャルル・ペローはfairy tale を文字で定着させたけれども、話の出所にはいっさい触れていないので、fairy taleを文字化して定着させた功績はグリム兄弟のものとなったとか、Blue Fairy Book(1889)で有名なアンドルー・ラングによるfairy taleの再話は自由に過ぎて話の本質からはずれていると言った批評を何度となく読まされたり聞かされたりしています。ですから、「グリム童話」は伝承のfairy taleに属し、literary fairy tale はアンデルセンあたりからというのが一般的な認識ではないかと思います。口承のfairy taleは、とにかく文字化されたとたんにliterary fairy taleになるという考えは、私にはとても新鮮でした。

 この考えは、しかし、ただ単に新鮮というだけのものではありません。私が子どもの文学を研究しはじめた頃、「日本でも昔話の収集とその忠実な保存の大切さに人々が目覚めた時には、例えば、小波などの再話で大きなダメージを受けてしまっていた」と言った趣旨の意見を聞かされたことがあります。私は、そこで小波による日本の昔話の再話を読んでみました。例えば「桃太郎」は、

 むかしむかし、あるところに、爺と婆がありましたとさ。ある日の事で、爺は山へ柴刈りに、婆は川へ洗濯に、別れ別れ出て行きました。時はちょうど夏のはじめ。堤の草はみどり色の褥を敷いた如く、岸の柳は藍染の総を垂らしたように四方の景色は青々として、まことに目もさめるばかり。折々そよそよと吹く涼風は、水の面にさざ波を立たせながら、そのあまりで横顔を撫でるあんばい、実に何とも云われない心地です。(『日本児童文学大系』1、三一書房、1955、115頁)と始まっています。この引用部分は、現代かなづかいで、教育漢字を主にした当用漢字まじりにあらためてあるので、原文とはまたいささか感じがちがいますが、語り口は十分におわかりになるでしょう。私も、最初に読んだときには、「これはいけない、昔話ではない」と思いました。しかし、今から考えてみると、そのとき私が「昔話」と思っていたものは何だったのでしょう。絵本で読んだか、誰かに聞かされたたかしたものが根拠になっていたにちがいありません。絵本はだれかが再話していますし、聞いたとしも私は囲炉裏のある村ではなく、人口五万ほどの待ちに住んでいましたから、たぶん、本を読んだり、誰かから聞いた大人の記憶によるものだったでしょう。大部分の人は、おそらく、むかしがあったそうです。あるところに、爺と婆とがあったそうです。爺は山さ薪とりにいったし、婆は川さ洗濯に行ったそうです。婆が洗濯していると、上の方から桃こがつんぶらつんぶらと流れてきたそうです。(関敬吾編、岩波文庫、1968、13版,12頁)とか、
 むかしむかしがあったそうな。なんとも貧しい村にじいさんとばあさんがあったそうな。大風が吹いてくるように、鬼どもがときどきやってきて、作物をさらっていくもので、いつになっても貧しい村だったそうな。
 それでもはたらかにゃならん。じいさんもばあさんも、朝暗いうちから、夜は星の出るまで働いた。
 ある日のこと、じいさんは山へ木を伐りに、ばあさんは川へ洗濯にいったそうな。(松谷みよ子『日本の昔ばなし』2、講談社文庫、1978、58頁)
などの方を明治期の小波の「桃太郎」よりも昔話と感じるでしょう。しかし、それぞれに、筆者の昔話に対する考えが表現されれていることはよくわかります。
 文字化されたfairy taleには、筆者の考えが表現されるとしたらそれが楽しんで読まれることを主目的としている限り、小波の再話も松谷みよ子の再話も、平等に受け入れることができます。もちろん、読者が受け入れてくれる限りにおいてではありますが。

 Nancy Canepaは、Pentameroneの筆者バジーレは、収集して本にまとめた話に、人間、社会、政治、経済、道徳、宗教など、彼の考えすべてを投影させているとのべています。バジーレはPentameroneを子どものために発刊したわけではありませんでしたが、ペローは、その童話集をはっきりと子どものために出版しています。そして、彼もまた、自分の考えのすべてを童話集に投影させています。口承の芸術であったfairy taleの文字化という作業でも自分が表現されるのですから、個人の創作であるfantasy に自分が充分に表現されていることは当然です。
 常識的に言えば、政治、経済、国家、道徳、価値観、人間関係、人生観などの直接的な反映があるのは、リアリスティックな作品の方でしょう。それが、literary fairy tale からfantasy への流れの中に明瞭に見られたことは、現実から脱出、飛翔したい衝動が生む作品も、やはり、リアリスティックな現実認識を基礎にしていることを示しています。

 話が、急に小さく個人的になって恐縮ですが、たしか、邦訳名『幽霊を見た10の話』に収録されている「水門にて」という短編について作者フィリパ・ピアスにたずねたとき、彼女は、他の方法では表現しえない強烈な感情や、特異な考えなどを的確に伝えたいときに超常現象を使うことがあると答えてくれました。極端に言ってしまえば、写実的な方法では表現不可能な場合とか、どうしても的確に掴みきれないものを描こうとするようなときに、fantasy作品が創られたのだと思います。文学史の上でも、現実を超える力をfantasy作品は示してきました。もっとも顕著な例は、19世紀前半のイギリスに蔓延していた教訓主義的リアリズムの停滞を打ち破って後半50年の隆盛をみちびいたのは、アンデルセンの翻訳やジョン・ラスキンの『黄金の川の王様』(1851)やサッカレーの『バラとゆびわ』(1855)のような作品群でした。ナンセンスな発想や不思議な出来事がリアルな物語の可能性をひろげたのです。
 リアルな物語からliterary fairy taleが生まれ、それは、後にリアルな作品に活気を吹き込み変化と発展を促します。そんな強い力のある文学作品を、私たちは、今まで、驚異の念を喚起するとか、異世界には独自の法則がなくてはならないとか、その作品世界の時間、空間、出来事の性質などばかりを詳しく定義し、一方、今の子どもと大人に何を語るかについては、常に曖昧でした。今は、ちょっとしたfantasyブームですが、ずらりと並ぶあの翻訳ものは、子どもの文学のリアリズムを変える力があるのでしょうか。リアリズムでは表現不可能な何かのメッセージを読者に送ることができているのでしょうか。
 とにかく、literary fairy tale は生まれた土地と時代の強い影響下に生まれたのだということは、しっかり覚えておく必要があります。 (文中、昔話を意味する語としてfairy taleだけを使ったことをおことわりしておきます。もちろん、昔話、民話、おとぎばなし、メルヘン等のあることは承知していますし、英語でも昔話だったらfolk taleがあることも知ってのことです)