横谷輝児童文学論集2』(横谷輝 偕成社 1974.08.14

児童文学批評の姿勢
――児童文学批評はなにをなしうるか――

(1)
ひきつづいて、児童文学批評を中心に、創作の問題とも関連させながら、考えを進めてみたいと思う。
最近わたしの眼にふれた文章のなかで、強く問題意識をかきたてられるものがあった。それはけっして大論文ではなく、ほんの三、四枚の感想であったが、すこし大ゲサにいえば、アイクチを胸許につきつけられたようなショックをうけた。
それはつぎのような文章である。
「この数年間をふりかえってみると、毎年毎年、群を抜いているという作品が少くなってきている。ことしもそうだが、六三、四年ごろのそういう現象とことしのそれとはちょっと意味がちがっている。六三、四年ごろには質的低下が見られたが、ことしは水準が上がっているのではないか。いぬいとみこ、佐藤暁、山中恒など、いまの児童文学の中軸となっている人びとの作品が多かったからであろう。そして、これらの作品はそれぞれそっぽをむきあっている。かつて『長い長いペンギンの話』と『赤毛のポチ』には共通の社会正義とでもいうものがあった。だが、いま『ぼくらはカンガルー』(いぬいとみこ)と『青い目のバンチョウ』(山中恒)にはどのような共通性があるのだろうか。それに『おばあさんのひこうき』(佐藤暁)を加えれば、いっそう公約数は存在しない。それだけ作者の個性が豊かになった、作品が多彩になったということはできる。同時に批評の衰弱を見ることもできる。乙骨淑子『八月の太陽』今江祥智『かくれんぼ物語』をふくめて、それぞれが児童文学であり得ているのはなぜなのか。さらに今後の日本の児童文学の方向はいったいどうなのか。これらについてはほとんど答えは出されていない。批評はいまや作品群のはるか後を歩いている。この現象をぼくはことし最大の問題と考える。それにくらべれば、評判の悪かった児童文学賞のことなど問題ではない。なぜなら、群をぬいた作品がないということと批評の衰弱はかかわりあっているからだ。新しい世界を創造する。その追求をことしの作品群は最後まではやり通さず、横にそれる、あるいはおもわず作者のいままでの世界によりかかる、ということになっている。それを単に作者の責任ということはできぬ。批評の衰弱が一因となっている。(後略)」(古田足日「読書新聞」昭和四十一年十二月二十六日号)
一九六六年の児童文学の「動向と収穫」を論じたこの一文のなかで、わたしは六六年度のもっとも大きな問題点は、「作品群のはるか後を歩い」てきた批評活動の衰弱にあるとする、古田氏の問題意識にかかわろうと思う。
ここにいわれているすべてのことが、そのまま正当であるかどうかは、もっと厳密な追求がおこなわれたのちでなければ、にわかに断定することはできない。しかし最近の児童文学批評が、しっかりとした目的意識と、明確なビジョン、ゆたかなイメージをもってなされなかったことはたしかなことであろう。
日本児童文学が進むべき方向という大状況についても作家や作品についての検討についても、児童文学批評はなにほどのことも提示することができなかったことは認めなければなるまい。このことのために、児童文学批評家の怠慢を批判されても、甘んじてうけるしかほかに弁明の余地はないように思われる。
だがしかしである。
なぜ児童文学批評活動が衰弱し、明確なビジョンがうちだせなかったのかは、問いたださなければならないだろう。それも児童文学批評という狭い範囲でなく、日本の児童文学全体をみわたす広い立場からおこなわれる必要がある。なぜなら、児童文学における批評活動の衰弱は、創造をふくめて日本児童文学全体の衰弱とどこかで密接につながっているにちがいないからである。
まず日本の児童文学全体についていえることは、古田氏も指摘しているように、いまかかれている作品がそれぞれに「そっぽ」をむきあい、そこにある「公約数」的なものを求めにくいという状況が、しだいに色濃くなりつつあることがあげられている。いうならばそこにあるものは方向性の喪失であり、作品の分極化である。
たとえば、あみものの好きなおばあさんが、毛糸をあんで飛行機をつくり、空をとぶという『おばあさんのひこうき』の基盤にあるものは、いわば名人芸という日本の伝統的な芸術至上主義の思潮であり、それを近代的な意匠でもってまとめあげたところに、この作品の特色というか核があると思う。
また『ぼくらのカンガルー』は、カンガルーの子どもが人間につれさられ、それを動物たちが力をあわせて救いだすという動物物語であるが、そこに描かれている人間と動物は善意的に共存し、動物たちも「いわば、しんせきどうしのようなものです。よくけんかぐらいはしますが、おたがいにたべあったり、ころしあったりすることだけは、けっしていけないと、みんなの生まれるまえから、やくそくができて」いるような世界にすんでいるのである。ここでは人間の未来像というか、理想的なすがたがさぐられている。
あるいは、太田デンベエという混血児にまちがえられて、まわりから疎外されながらも活発に生きていく外国人の子どもを描いた『青い目のバンチョウ』では、日本人が日本人を差別する社会の矛盾を鋭く告発している。この作品の基調を「社会主義」や「ヒューマニズム」という言葉でくくることはたやすいが、わたしにはもっと深いところで、「日本人とはなにか」といった問いがひそんでいると考えている。
このように見てくるとき、これら三つの作品がそれぞれにたっている基盤はもちろん、その目ざそうとしている方向においても異なっており、そこではにわかに共通項を見出すことは困難である。しいて「公約数」的な特色づけをすれば、ともに「児童文学作品」であるとでもいうしかないような状況がそこにはある。
ある人はいうかもしれない。これら三つの作品には子どもを尊重するという意味で共通しており、「ヒューマニズム」が「公約数」ではないかと……。だがおそらくこのような「公約数」はなんの意味もないだろう。「ヒューマニズム」の名で、公然と戦争や殺人がおこなわれている現代において、その根源を問いなおすことなしには、「ヒューマニズム」を口にすることは、ほとんど偽善に等しいことである。
すくなくとも、現代の児童文学はいままでの「ヒューマニズム」を根本から疑うところに、はじめて成立しうるものでなければならない。そして、現代児童文学の方向喪失や分極化の現象は、この従来の「ヒューマニズム」にかわる新しいヒューマニズムがまだ十分に見出せないところに一つは起因しているのである。
これらのことを、いま一度方法的な側面をとらえていえば、一方では平穏無事な伝統的な方法によりかかった作品があり、いま一方の極には、反伝統的な方法と文体をもって、新しいけれども不安な試みをおこなっている作品があるというわけである。この両極のあいだには大きな距離がよこたわっていて、相互批判や相互理解もあまりなされていない。しかも、従来の児童文学のワクにおさまっている作品と、そこからはみだしている作品のあいだに共通性を見出すことができないことはやむをえないにしても、ワクからはみでた作品の一つ一つも、たがいに鋭く分裂しているのが実状である。
このような状況は創造の場だけでなく、批評の前にもたちふさがっている。ここでは批評家は作家と同じく強いモチーフやテーマがなければ、ほとんど有効性のある批評を展開することはできない。「人生的な実感」(宮本百合子)にたった評論、理論活動をおこなおうとすればなおさらのことである。しかも、批評は作品と異なってそれをイメージとしてよりも、より多く論理として提示しなければならない。方向の混乱、思想の分極といった状況のなかで、作家が題材ときびしい緊張を持続させることによって作品を創造していくように、作家や作品と格闘しながら強いモチーフをもって、あるテーマを論理的に展開することは、ある意味で作家以上に苦しい困難な作業なのである。おそらく現代の児童文学における批評活動の不振の一つの原因はこのあたりにあるとわたしは考えている。断定的なものを今日の時点で提示することは、きわめてむずかしいことなのだ。どうしても口ごもりがちになるのは、あながち、児童文学批評家の非力ばかりだとはいえないのではないだろうか。

(2)
それにしても、批評活動の衰弱ということは、結局時代にたいする精神の回復への努力が弱いことを意味する。そこでは困難さばかりを強調しているわけにはいかないことはたしかである。
このような弱さは、たとえば最近、児童文学者とはなにか、児童文学者はなにをなしうるのかといった、児童文学者の位置やその役割、社会的責任などきわめて根源的な問題について、真正面から論及した文章がほとんどといっていいぐらいにかかれなくなってきていることにも示されているとわたしは思っている。
現代という時代に真剣にたちむかおうとしている作家や批評家が、社会のなかにおける自己の位置やそのなしうる役割について、全く無関心でいられるはずがない。心ある作家や批評家は、なんらかのかたちで、これらの問題にたいする答えをたえず問いつづけながら、自己の仕事を推し進めているにちがいないのである。
にもかかわらず、その問いの様相があまり明瞭なかたちで、たちあらわれてこないことの一つには、児童文学者の位置、役割、社会的責任といったことがらを抽象的に論議してみても、あまりみのりの多いものにならないという状況があるからであろう。また、このような問題を倫理的な側面からとらえようとすると、そこにひきだされてくるものは、「児童文学者はかくあるべし」式の、よくいえば理想的な、わるくいえば道徳的、公式主義な結論だけで、むしろ重要なことは、創造の側面・美の側面からの問題追及であるという傾向もそこにははたらいている。
これらの見解はそれなりの正当性をもっているとわたしは考えるが、同時にそこには、常識的な俗論や「敗北主義」がひそんでいる危険もある。
つまり、児童文学者の位置や役割やその社会的責任をまともに云々することは、野暮天のする仕事で、所詮それは空論であり、児童文学者の役割やその社会的責任などといっても、そこにはけっして本質的な価値はなく、あるものはかきたいからかくという思いだけである。だから児童文学などは非力なものにすぎないといった説がそれである。
ここには文学の一種の遊び、戯れにすぎず、社会や政治その他の価値となんらのかかわりもないという見解がかくされている。このような「空論」だから無意味だといった見解は、えてして「良識家」と呼ばれる人たちから、もの知り顔に発せられることが多い。だがこうした立場は結局「敗北主義」に通じる以外のなにものでもないと考えられる。
わたしは現代の児童文学者は、わたしもふくめて「良識家」が多すぎ、あまりにも「憤る」ことがすくなすぎるという感想をもっている。「敗北主義」は、児童文学者から怒りをうばいとってしまう役割を果す。
現代の児童文学者はもっと「憤る」べきである。「憤る」ということはなにも声高く叫ぶことではない。むしろ声低く「べし」の叫びを発することである。人間の精神を束縛しているものにたいして心底から怒ることである。この「憤り」をうしなって、いわゆる「良識」が幅をきかすと、そこに生じるものは文学の堕落である。この「憤り」の深さが、文学をささえ、それに生命をあたえるのである。すべてはこの「憤り」から出発するといってもいいほどである。だがいうまでもないことであるが、この「憤り」は支配体制側に保証されるような質のものであってはならない。
現代児童文学の批評活動の衰弱も、いえばこの「憤り」の弱さからといってもいいのである。児童文学批評は、したり顔の「良識」とは無縁でなければならない。児童文学者の「人格円満」は美徳でないことはない。しかしそれが政治的、社会的なかかわりを回避して、この世のできごとは他人が責任をもつだろうという一種の無力感と結合するとき、「人格円満」は逆に体制側にくみ入れられ人間を疎外する「悪」となる。
作家も批評家も、まず人間を束縛しているあらゆるものにたいして、「憤る」ところからはじめなければならないのである。ここにおいて、はじめて作家と批評家は共通の目標をめざして進むことが可能となる基盤に立つことができるのである。
批評と創造の関係は、けっして「仲良しクラブ」的なそれであってはならないことは、いまさらいうまでもない。
きびしい緊張と対立の関係のなかにおいてのみ、両者の真の交錯が成立する。このことなしには、批評はつねに作家、作品のあとを追いかけ、印象、裁断の提出と、その整理にとどまらざるをえないだろう。永久に創造的なビジョンをうちだすことはできないのである。
ところで、批評の有効性は、作家、作品との正しい対立をとおしてのみ発揮されることはさきほどもふれたとおりである。またわたくしは前回の『児童文学批評は必要か』において、「もっとも関心をそそられる批評対象は、わたしとおなじような問題意識をもち、それを形象化するために格闘している作家や作品である」とかいた。ということは結局、批評が創造にたいしてある有力なビジョンを提示しうるためには、真の対立を可能とするような作家、作品をとおしてのみであるということである。
だが、現実にはけっしてそう理想的にはいかない。あるビジョンなりテーマをうちだそうとするとき、作家や作品をくぐるよりも、ともすれば抽象的な問題提起におわりがちである。それにはわたしの問題意識にふれてくるような作家、作品が数少ないということもあるが、一つには児童文学批評の方法が十分に成熟していないことからもきている。それに批評と創造の論理のちがいもあるだろう。作家は作品や思想や論理だけでかくのではない。むしろどちらかというと、自己を拡大しようとする本能的な衝動のほうがよりつよくて、方法意識というものは創作の過程ではそれほど明確なものではないということがある。そこでは思想や論理も重要であるが、文章によって人をうつという技術の積み重ねがなによりもまず要求されている。おそらく創造の論理というものを分析すればそうである。
ところがそれに比べて批評の論理は、そうした技術よりも、その作家がどのような思想をもっているかということを重視し、それがいかに表現され、どのような説得力をもっているかは従になりやすい。批評の態度と方法の問題としてこのことを考えるとき、そこには大きな問題がひそんでいるが、批評の論理としてはそうである。
この問題は「児童文学批評の基準」の問題とも深く連関しており、さらに項をあらためてくわしく論及してみたいと考えているので、ここではこれ以上立ち入らないことにする。
いずれにしても、現代の日本の児童文学には、明確な方法意識をもって作品をかいている作家は、かならずしも数多くない。前述に引用した文章にとりあげられた作家や作品がそのなかでも自分の方法をもとうとして努力している数少ない例であるが、そこでもなお、日本の風土や特殊な条件のなかで、真実や真の意味でのヒューマニズムを表現するにふさわしい効果のあるかきかたを身につけているとはいえないところがある。佐藤暁氏やいぬいとみこ氏は、人を動かすにたる利き目のある方法が一つは身についているすぐれた作家であるが、それもせいぜい一つで、二つや三つの方法をくみあわせて効果をさらに増大していくというところまでにはいたっていない。もちろん、佐藤氏やいぬい氏の方法は、いままでの日本の児童文学がもちえていた「詩的散文」とでもいうべき唯一つの方法を止揚して、日本の伝統や外国児童文学から学び選択し自分なりの方法を身につけ日本の児童文学の方法に多様性をもたらしただけでも、たいへんな仕事であるといわなければならないが、よりいっそうの円熟と多様な発展を期待することは無理な要求だとはいえないであろう。
話が作家の方に傾いたが、問題はそこで児童文学批評がなにをなしうるかということである。

(3)
まず常識的には、児童文学作品に内包されている、モチーフ、テーマ、構成、プロットや登場人物の性格や心理、行動などを、創作方法との関連のなかで厳密に検証し、評価すること、さらにその作品にあらわれている思想を社会・政治とのかかわりにおいて評価し、それがどのような立場と姿勢と方向において形象化されているかをとらえ定着させる努力が必要になってくるだろう。
このような批評方法は、個々のケースのできばえは別としてもいままでにとられてきているところのものである。そしてその行為が正しくおこなわれるとき、そこに必然的に進むべき方向が提示されるはずである。
だが、現代児童文学の全体的な像が、はっきりととらえられないところでは、そこに一種の「偏向」が生じることはやむをえない。ここで児童文学批評家が求められることは、一つの選択であり、苦しんで自己の志をのべることである。前回の『児童文学批評は必要か』において、児童文学批評にも「自己表現」の側面があるといったのも、このことを意味していた。
今日のような混沌とした時代において、批評の旗をふるということは、「窮して志をのべる」こと以外にどのような方法が許されているだろうか。自らすすんで混沌のなかに身を挺する以外に、どこにも批評行為を成立させる余地はないのである。
このことを避けて、いたずらに全体像をもとめようとしたり、傍観者的な立場からの神のご宣託は、もはやなんの有効性をももちえないことはいまさらいうまでもないことであろう。
たしかに全体像をはっきりと把握しないところでは、不安をさけることはできない。現代の不安も、自分が世界のどこにいるかが、わからないところから生じている。社会的な空間が急速に拡大しつつあるのに、その世界をとらえるのにふさわしい言語や手段をもちえないところから、現代の文学のひいては現代の児童文学の不安、混乱がおこっているのである。さきほどのべてきた現代児童文学の方向喪失、分極化も大きくはここに起因している。
したがって、それを克服するために、現代児童文学の全体をとらえ、それがどのような方向にむかって進めばいいのかを、見きわめようとする動きがおこってくるのは当然のことである。事実、明確なビジョンと目的意識をもって制作しうるにこしたことはない。
だがわたしの感じでは、安易に全体像をもとめることはかえって危険であると考えている。それは児童文学を前におしやるよりも、後退させることになりかねないからである。
現代児童文学がかかえている不安を克服しようとして、「伝統」や「共同体」的なものに身をよせようとすることは結果において自己を埋没させることになってしまうからである。
むしろ、いまわたしたちがやらなければならないことは、単純に「伝統」や「共同体」へもたれかかることを拒否し、「伝統」「共同体」への回帰以外のところで、方向喪失や分極化を克服する方法を発見することであろう。
そのためには、まず不安や孤独をおそれてはならないだろう。不安、孤独にたえて、自己のめざす方向を、イメージのうえからも、論理のうえからもほりさげ、より徹底的に、より包括的なものにしていくしかほかに道はないように思う。
イメージや論理の包括化は、やがて日本人あるいは人間そのものの存在にまで、つきささざるをえないだろう。そうした作業を通してのみ、あたらしい現実認識を獲得することができ、現代児童文学の全体像をとらえることも、したがってなんらかのかたちで今後の児童文学の進むべき道を見出すことも、可能になるにちがいない。
しかし、このようないいかたは、あまりにも抽象的でかつ主観主義的だというそしりをまぬがれないように思う。もっと端的に問題を提出するところからはじめる必要があるようだ。
いまここであきらかにしなければならないことは、現代児童文学のうえに、児童文学批評はなにをなしうるかということである。ということはとりもなおさず、作家と批評家の共通の目標を見定めることであり、日本児童文学の今後をさぐることにほかならない。
いま日本の児童文学作家および批評家のまえにおかれている課題の一つは、日本の近代化という問題にかかわって、戦前、戦後の日本の現実をどうつかみとり、その土壌のうえにたった児童文学作品をどう創造していくかということである。
この課題はなにも児童文学者だけに課せられた問題ではない。日本の知識人全体が解決しなければならないものである。だが日本の児童文学が進展していくためにはこの課題を児童文学なりに考究し、解決していかなければならない。
わたしたち児童文学者のあいだでは、ともすれば大きな状況や公的な状況についてななめにかまえ、あまり正面きった論議がおこなわれないことが多い。それはすでにわかったこととして、あるいは前提条件として暗黙のうちに了解されて児童文学の特殊性に限定したところで論議がすすめられることがしばしばである。ケースによってはそれもけっしてわるいことだとはいえないだろう。しかしその暗黙の了解が、他人に下駄をあずけたかたちになって、結果的には大状況の問題が素通りされがちである。大状況にかかわることは、ときとして迂遠な感じがしないでもないが、やはり児童文学の側面からそれにたいして切り結んでいくことが生産的であることは確認されなければならないと思う。
現代児童文学のすがたは、いま日本におこなわれている技術革新や高度成長経済下における生産力の上昇といった現象ときりはなしてはおそらく考えることはできない。社会基盤のおどろくべき変化は、必然的に上部構造である児童文学のあり方にも微妙な影響をあたえている。たとえばリアリズムはもちろんのこと、ファンタジーの領域でも、この問題ときりはなしてはその実体や創作方法を十分に把握することは不可能にちがいないのではないか。
組織と技術と人間という三つの要因に集約できる近代化の問題は一方で日本の西欧化という問題をもふくんでおり、外国児童文学の移入によって大きな影響をうけてきた日本の児童文学のあり方は、この面を無視しても考えることはできない。いうならばナショナリズムとインターナショナリズムの問題である。たとえば、西欧の児童文学をモデルとして歩みさえすれば、日本にもすぐれた児童文学が生れるという近代主義の発想に、わたしたちはどう対処するかということもきわめて重要な課題だといわなければならないだろう。なぜならわたしたちは単純に児童文学の近代化を手ばなしに礼讃できない状況におかれているからである。
これらの問題と関連していま一つの課題は、わたしたちはどのようにして、民族的なつまり日本の土地に足をつけた児童文学作品を創造するかということである。いうならば児童文学におけるナショナリズムの問題を解決することである。
一口に児童文学におけるナショナルなものといっても、きわめて大きなむずかしい問題である。それは風土、自然、言語、経済、文化など一切のものの生きた統一体としてとらえなければならない。それが児童文学としてどう表現されなければならないかは、ほとんどあきらかにされていないのである。そこでは国家の問題、民主主義の問題、階級と民族の問題なども考察されなければならないだろう。
最近明治百年か戦後二十年かという問題提起をめぐってさまざまなナショナリズム論議がおこなわれているが、それはけっして古いナショナリズムへの回帰であってはならないはずである。しかし、わたくしたちは古いナショナリズムは否定しても、新しいナショナリズムはかたちづくっていかなければならない。日本人とはなにか、日本民族とはなにかを問うことによって、世界の中に日本を位置づけ、日本の進むべき方向を見定める必要は大いにあるのである。だがこの新しいナショナリズムはまだ十分に定着していない。
これらの問題はきわめて困難な、答えの容易にひきだせない質のものである。しかしこれをあきらかにせずして今後の日本の児童文学の方向もあきらかにすることができないといえる。
もし、児童文学批評家になしうることがあるとすれば、このことの解明、方向づけをおいてほかにない。これらの問題をすこしずつでもあきらかにすることによって、児童文学批評は作家や作品のあとを追うことをやめることができるかもしれない。ここではもはや問題の提起だけにおわらざるをえないが、いずれ機会を見て論及したいと考えている。
(「童話」昭和四十二年二月号掲載)
テキスト化赤羽伸行