横谷輝児童文学論集1』(横谷輝 偕成社 1974.08.14)#fffaf0

第二節 児童文学の文体における普遍性と独自性
―近代日本の児童文学のあゆみに即して―


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今日児童文学の世界において、文体についての問題意識が深くなり、文体そのものが問いなおされようとしていることには、どのような意味があるのだろうか。もちろん、そこにはそれなりの理由がなければならないが、わたしはそれをつぎのように考えている。つまり、一つは児童文学のあり方を追究する過程で文体の問題は、必然的にうちあたらなければならないことがらであるということ、いま一つは、現代の児童文学が当面している問題がきわめて困難にみちていることからきており、むずかしければむずかしいほど、それはかかわらざるをえないことなのである。
別な言葉でいえば、いま文体が問われるということは、新しい個性にささえられた価値ある文章が期待されているとともに、作者主体と世界との新しい関係が、もとめられているからにほかならない。あるいは逆の照明をあてれば、明治・大正以来の児童文学の文体が、ここにきてその有効性をうたがわれているといってもいいのである。
ところで、児童文学における文体の問題を考えようとするとき、また、それぞれの時代における特色やその継承発展をとらえようとするとき、まず二つの視点をふまえる必要があるだろう。その二つというのは、個々の作家が、それぞれの個性にしたがってかたちづくっている独自の文体と、その背後にあって個々の作家を規制している児童文学固有の文体である。文体というものがもっている本質的なことがらは、こうした個々の具体的な文体と児童文学というジャンルにそなわっている一般的文体との、相関関係のなかにおいて、はじめてとらえることが可能になると思う。
この二つを切りはなして考えては、問題を混乱にみちびくだけで、文体をその全体のすがたのもとに追究し、把握することはできない。なぜなら、ある作家がある作品にしめす文体は、けっしてその作家の個性のみによって形成されるものではない。児童文学というジャンルがもっている固有の文体に規制をうけ、影響されながら、それとたたかい、融合するかたちで、その作家の具体的な文体がうみだされるのである。
その意味では、文体は個人的なものと一般的なもの、普遍的なものと特殊なものとの、たたかい融合を経ることによってのみかたちづくられ、価値をもつことができる。この相関関係を無視しては、もはや文体論が成立する余地はなく、文体は作家の個性そのものに還元されていくか、でなければ文体のない、日常的な文章にまでいきつくしかのこされたみちはないのである。
 そして、これらのことをつきつめていくと、結局は作家である自己と世界との関係が、どのように文章のうえで構成されているかということになる。この自己と世界の関係が明確でないとき、文章は意味をうしない文体をかたちづくることはできない。したがって、文体というものの骨格は、作家主体と世界との関係によって形成されるものであり、その独自性は、関係のしかたの独自さによってもたらされる。
さて、ここでわたしに課せられた問題は、日本の近代児童文学において、その文体がどのような変遷をたどってきたかを、さぐってみることである。そのためには、まずなによりも、日本の近代児童文学は、それぞれの時代において、どのような固有の文体をもちえたのか。そこにはどのような独自性があるのか。その固有の文体は、各作家の具体的な文体のなかにどうあらわれているのか。さらには、現代の児童文学がもっている一般の文体は、それらとどうかかわっているのかといったことがらが、あきらかにされなければならないだろう。
だが、これらの問題をきめこまかく、歴史的多面的に追求するだけのゆとりはない。ただ、さしあたってのこととして、文体の骨格をかたちづくる作者主体と世界、作者主体と主人公のかかわりに焦点をあてながら、いくつかの作品にみられる言語構造の問題を考えてみたいと思う。

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 日本の近代児童文学は、明治期における巖谷小波の活動によって、その基礎がおかれたことはいうまでもない。そして、その処女作『こがね丸』が、馬琴調の文語体によってかかれたことはよく知られている。理由は少年の読物には、従来の耳なれた文章がいいということであった。しかし、それが堀紫山によって批判され、論争をおこなってからは、すでに執筆されていた『猿蟹後日譚』を別にし、口語体ですべての作品がかかれている。
 たとえば、つぎのようにである。

「或日のこと私は、いつもの通りお父さんについて、田舎の方にもらいに出ました。田舎には家がたくさんありませんが、その代りみんな人が好くて、きっとお銭をくれますから、それでお父さんも、にぎやかな町へ行くよりは、田舎を廻るほうが好きなのです。
 で、朝から方々廻ってお正午までに大分もらいができましたから、或る立場でご飯を食べて、あとは途々流しながら、大川の渡舟場の近じょまで来ました。あの渡舟場のむこうの堤を、もう七八町行くと自家なので、今日はいつもより早くかえれたと思ったら、なんだかうれしくって気がゆるんだものですから、私はそろそろ道草をはじめたのです。
 鍛冶屋で釘をこしらえているのを立って見ていたり、百姓家であひるに餌をやっているのをのぞいてみたり、あっちへぶらぶら、こっちへぶらぶらしているうちに、とうとうお父さんにはぐれてしまったのです。
 で、渡舟場へ来た時には、私たった一人で。多分待ってくれるだろうと思ったお父さんはもう先に渡ってしまって、はるかむこうの堤の上を行きます。そんな事はいくどもあるので、私が二町や三町おくれていたって、べつにお父さんは心配もせず、ずんずん行ってしまうのです。
 それにその日はお父さんが、さっきご飯屋でおつりに来た、二銭銅貨を一枚、私にくれてありましたから、自分が一しょにいないでも、それで渡舟銭もできるだろうと、こう思っていたのでしょう。ところがあいにく私は、せっかくもらったあの銭で、南京豆を買ってしまったものだから、そのときはもう一文無し、たもとにはそれが四つ残っているばかりです。
 ああ、よせばよかった。こんなもの買わなけりゃよかった。と、思ったれどももう仕方がありません。で、お銭がなければ舟に乗れませんから、渡舟場へ来ても先へは行かれません。といって橋のある所へは、もう一里も廻らなければならないのです。といってお父さんは、もう遠くへ行ってしまいましたから、大きな声をしても聞こえやしません。どうしたらいいかしらん、と私は困ってしまいましたが、あいにく渡舟場の爺さんは大そう一酷な爺さんですから、とても只では乗せてくれず……、仕方がないから私はそばの柳の木の下で、ぼんやり立っていました」。

 これは、明治三十三年六月の「少年世界」に発表された『渡舟銭』の前半の部分である。作品はこのあと、生徒の好意で舟にのることができ、それから十日ばかりたって、町のなかで雨にふられてこまっている生徒をみつけた私≠ヘ、お礼がえしに合羽を貸そうとするが、いらないといってかけだしてしまうというぐあいに展開されている。
 格別にあたらしい作品でも、おもしろい作品でもない。スケッチ文にすこし肉付けしたていどのものにすぎない。ただ、この部分抜萃からもうかがえるように、文章はいたってわかりやすく、軽快なリズムをもっている。それは音読にふさわしい調子で、したしみをもたらす効果はある。
 ところで、この作品がとっている方法は、作者が主人公の立場に即して語っていくもので、話は主人公である私≠フ視点をとおして語られている。この方法は、今日ではつかいふるされたものでしかないが、その当時にあっては、ある腫の新鮮さをもっていたことは否定することができない。
 その新鮮さは、おそらく作者が主人公の立場に移入することによって、世界との関係を明確に決定することが可能になることからくる。しかし、この作品の場合、二つの問題点があった。
 一つは、作者主体と主人公との関係についてで、ここでは主人公である少年の私≠ヘ、その存在の影がうすく、おとなである作者主体がそれにとってかわっている感じである。つまり、かたちのうえでは、たしかに私≠フ視点をとおして語られているが、その視点は少年のものというよりも、作者であるおとなのものである。したがって、そこには子ども本来の視点はない。児童文学の文体が成立するためには、作者の視点とともに、子どもの視点が不可欠の条件である。作者の視点は子どもの視点をくぐることによってのみ、それは児童文学としての価値をもつことができる。しかし、この作品ではそれが十分におこなわれていないと思う。
 いいかえれば、作者主体と主人公の関係があいまいで、十分に対象化されていないということにほかならない。ということは、作者主体と世界のかかわりが明確でないということであり、それは二つめの問題点とつながっている。
 いま一つの問題点は、この作品が現実のできごとを素材にしているにかかわらず、描写がいたってすくなく、説話性のかったものになっているということである。もちろん、そこには小波が軽妙で、平易な話をつくりたいとのぞんだねらいが、大きな要因として働いているにちがいない。しかし本質的には、この作品において描写的要素がすくないということは、作者主体と世界とのかかわりが、浅いものであったことに基因している。こうしたところに、小波の主体のよわさや古さがあり、それはとりもなおさず、小波の児童観をふくめた思想のひよわさであった。
 この文体と対比するために、現代児童文学作品のなかから引用してみよう。

 「そこで、ぼくは、とちゅうの神社の境内をつっきるとき、ふと、フジ山にのぼってみようかしらという気持になった。ぼくのいうフジ山は、三千七百メートルもある高い山のことではない。境内のはずれにある、箱庭のように小さな山のことだ。でも頂上にのぼると、ぼくらの町が一目に見わたせた。ぼくはそれを見るのがすきだった。むしょうにその景色がながめたかった。そうしたら、この二、三日の、すっぽり頭におおいかぶさった、もやもやした気持もいくらかきえていくのではないかとおもった。おとなの人のいう神経スイジャク病に、ぼくもかかったのかもしれなかった。
 小さな山だけれど、小石まじりの、ねっとりした赤土のきゅうな路で、この山をのぼるには、山の体中にうわっているツツジの木のたすけをかりなければならなかった。ツツジの枝に手をかけて、アリのようにのぼる。草むらから虫がはねてとんだ。
 もう、頂上にちかかった。ツツジの枝のあいまから、チラチラと秋の空が見えだしてきた。
 あと一足、と右足が小さな岩のさきにかかったとき、ぼくは頂上にだれかがいることに気がついた。ツツジの枝のすきまから、ちらっと人影がはいってきたのである。
 だれ? ぼくはチョットおそろしい気持で人影を見つめた。
 それは子どもだった。それも知らない子どもではなかった。せなかのツギで一目でわかった。同級生の弘だったから。
 おそろしさが、そのままなつかしさにかわって、ぼくはもうすこしで声をかけそうにした。が、声にならぬうちに、弘のある動作が、はっきりと目にうつったのだ。頂上の岩に腰をおろし、こちらにせなかを見せて――だから、町を見おろす姿勢で――弘は弁当をたべていたのだ。ぼくはハッとした。そして、そのまま、いそいで山をかけおりていった」。
これは昭和二十八年九月「童苑」に発表された、大石真の短編『風信器』の一節である。この作品も方法的には、『渡舟銭』とおなじく、主人公のぼく≠フ視点をとおしてかかれており、作者主体はぼく≠フ動きに即していわば影のようによりそっている。その意味では、『風信器』も『渡舟銭』も、文体の基調において共通しているが、ただ大きく相違しているところは、後者の主人公の視点がおとなのそれであるのに比して、前者の主人公の視点は、子どもの眼や論理や心理のリズムをとおして、世界と関係していることである。児童文学の文体にとって、この差異は決定的なものであり、作者主体が子どもをくぐることによって、現実世界とかかわっているという位置づけが、『風信器』の文体を形成する骨格となっている。

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ある一つの新しい文体の誕生は、まえにものべたように、そのジャンルがもっている固有の文体とのたたかい、影響、継承、融合によっておこなわれるのがふつうであろうが、ときには、強烈な個性をもった作家が出現し、それ以前の作品がもちえた方法を、その総体においてのりこえるかたちで、新しい文体をうみだす場合もあるにちがいない。
 わたしは、児童文学のジャンルにおけるそうした例の一つとして、小川未明の文体をあげることができると考えている。

 「ある日ふたりは町の人びとから追われて、港のはしのほうにやってきました。そこは海の中につきでていて、岩がそばだっています。そして、波がよせておどりあがり、はねかえり、ひびきをたててくだけていました。空の色はいちめんになまり色におもく、くらく、にごっていて、水平線に墨を流したようにものすごく見えます。風はさけび声をあげて、頭の上をするどくすぎていました。名も知らぬ海鳥がかなしく鳴いて、空にみだれ飛んでいました。じっと子どものふたりは、がたがたとさむさにからだをふるわして岩の上に立っていますと、足さきまで大波がおしよせてきて、赤くなった子どもの指をひたしています。ふたりは空腹とつかれのために、もはや一歩もうごくことができずに、沖の方をながめて、ぼんやりと泣かんばかりにして立っていました。そのうちにみぞれまじりの雨がしとしとと降り出してきて、日はとっぷりと暮れてしまいました。ふたりはやみのうちにだきあっていましたが、まったくそのかげが見えなくなってしまいました。
 その夜のことです。このあたりには近ごろなかったようなあらしがふき、波があれくるったのであります。そしてそのくらい、すさまじい夜が明けはなれたときには、ふたりのすがたは、もはやその岬の上には見えなかったのであります。町の人びとはその日もその翌日も、かのこじきふたりのすがたを見なかったので、なかにはどこへ行ってしまったろうなどと思った者もありました。するとある天気のよい日のこと、漁夫が沖へ出て網をおろしますと、それにこきゅうが一つひっかかってきました。それがあとになって、こじきのもっていたこきゅうであることがわかりました」。

 小川未明が大正五年に発表した『黒い旗物語』の一部分である。この作品はたとえばそれから五年後にかかれた代表作『赤いろうそくと人魚』などに比較して、深みはないが似かよったフンイキをもっている物語である。
 ここには小波の作品がもっている、軽快なリズムや調子はない。あるものは、重くのしかかってくるような情感の迫力である。それは、社会の矛盾や不正にたいする、作者のはげしい怒りによってささえられている。この作品がもっている独特の文体は、なによりもまず、そうした作者のつよい情念や心情によって形成されているのである。
 この作品の主人公は、二人の子どものこじきであるが、作者はこの主人公に即しては語っていない。その関係はどちらかというと第三者的な立場のものである。かといって、純粋な客観的描写でもないのである。作者主体は、二人の子どもや町の人びとにたいして、つかずはなれずれの位置をたもちながら、作品全体との関係においては、二人の子どものこじきの立場にのめりこんでしまっている。もちろん作者は決して自己を神≠フ位置において、非情な町の人びとをさばいているのではない。不正や矛盾をにくむ心情を、人一倍つよくもっている作者は、はじめから二人の子どものこじきの立場にある。したがって、客観的、第三者的な描写は不可能であり、同時に二人の子どもに即した位置づけでは、一面的な底の浅さをさけることができない。そこで考え出されたのが、以上のような重層的な主人公と作者主体との、独自なかかわりである。
 この第三者的な位置づけを保ちながら、その総体において、主人公の立場にのめりこむという関係は、強烈な観念ないし情念の持主である作者が、作品をたんなる観念のさけびにおわらせないために実在感をもたせようとしてとった必然的な方法であるといっていい。それは小波の作品にみられる、作者主体と主人公との平面的なかかわりとちがった独自の仕方をもっており、その独自性が未明文学の新しい文体をうみだしたのである。そして、そうした作者主体と世界との独自な関係は、ロマン的、気分的なものの考え方をもちながら、同時に社会主義運動にかかわっていった未明の思想と深く結びついている。
 だが、未明がうみだした新しい文体は、未明の個性によってあざやかにふちどられているが、それは子どもがもつ論理や、その世界特有のテンポやリズムを排除したところでなりたっていた。未明の作品にみられる、ある不透明な気分や情感といったものは、そのこととおそらく無関係ではないだろう。もちろんこのことは、未明のみの責任ではない。児童文学というジャンルに固有な文体が、十分に成熟しえなかったところで、自分なりの個性的な文体をかたちづくらざるをえなかった、先行者としての未明がになわなければならない宿命のようなものであった。未明自身は児童文学の文体の、普遍性と独自性を同時にはたさなければならない役割をになっていたともいえるのである。
 このようにして形成された未明の新しい文体は、日本の近代児童文学の文体の原型の一つとしてやがて一般化していくことになる。そして、昭和二十年代の後半に、未明童話伝統にたいする批判がおこなわれるまで、その文体はほとんど透明化され、無意識のうちに定着していたのである。

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 ところで、未明の文体が、近代日本児童文学がもちえた文体の、一つの原型をかたちづくったとすれば、いま一つの原型は、千葉省三、坪田譲治によってうみだされたとわたしは考えている。
「八月四日
夕方、街道でみんなで遊んでいたら、学校のほうから、人力が二台きて、新屋敷
の前でとまった。前の車からは、いい着物着た奥さまと、海軍服着た、女みたいな顔した男の子がおりた。あとの車からは洋服着て、ひげはやした、えらそうな人がおりた。
 『あれがおとっつぁまだな』と、おれらはちっちゃい声でいった。
 『どっからきたんだんべ』
 『東京からだぞ。きっと』
 なんていってるうちに、男の子は、おれらをふりかえりもせず、さっさと中さはいっていった。
 『あれまあ。よくきたねえ』
 『さあ、おあがんなせえ、坊っちゃま』
 新屋敷の人が、みんなで出てきていう声がにぎやかにきこえた。おれらは門の前に立って、うらやましげに中をのぞきこんでいた。そのうちに、お客さまはあがっちゃったとみえてしいんとしちゃった。
 しばらくして、
 『けえんべや』と、源ちゃんがつまんなそうにいった。
 『うん、けえんべ』
 おれらは、家のほうさ、のろのろ歩きだした。角ちゃんが、
 けえろがなくから
 けええろ けえろ
 なんて、うたいだした」。

「垣根の外を一人の坊さんが通りかかりました。坊さんは黒い着物に黄色い袈裟
をかけていました。それを見ると善太が小さい声でいいました。
 『三平ちゃん、見な。あすこを坊さんがいくだろう、ね。あれをぼくいま、蝶に
してみせるから』
 『うん、すぐして見せてよ』
 『待ってろ、待ってろ』
 『ならないじゃないか、兄ちゃん、早くしないと、あっちへいっちゃうじゃない
か』
 『いいんだよ、いいんだよ』 
 そういっているあいだに、坊さんは向うへいってしまいました。
 『とうとう行っちゃった。だめだよ、兄ちゃんなんか。早くしないからいっちゃ
ったじゃないか。ぼく、人間が蝶になるところが見たかったんだ』
 『だって、そりゃだめだ。あの人、蝶にするっていったら怒っちまうだろう。だから、分らないようにして、やるんだ。どこにいたってできるんだから、目の前にいない方がかえっていいんだよ』
 ちょうどそういっているところでした。一羽の黒あげはがひらひらと風にのってとんできました。
 『そうら きたきた』
 善太がそれを見て、大きな声をだしました。
 『ね、これ、今の坊さんなんだよ。もう蝶になってとんできちゃった、早いもんだ』
 これで三平も少し不思議になってきました。ほんとに、このあげはの蝶と、いまの坊さんとどこか似たところがあるようです。そこできいて見ました。
 『ほんとう、兄ちゃん、ほんとに魔法つかったの』
 『そうさあ、大魔法をつかったんだ』
 『ふうんいつつかったの』
 『いまさ』
 『いまって、なにもしなかったじゃないの』
 『それがしたのさ、三平ちゃんなんかにわかんないようにやったんだ。だから魔法なんだ』
 『ふうん、そうかねえ』
 三平はすっかり感心してしまいました」。

 前者は、大正十四年九月〜十月号の「童話」に発表された、千葉省三の代表作『とらちゃんの日記』の一部であり、後者は、昭和十年一月「赤い鳥」にのった、坪田譲治の『魔法』の一節である。
 『とらちゃんの日記』は、いうまでもなく日記体でかかれた作品で、その冒頭において「この日記をかいたとらちゃんは、じつは小さい時のわたしかもしれない。またわたしの知っている、おさな友だちのことかもしれない」と作者はかいている。ここにこの作品の文体を考える一つのカギがある。
 主人公のとらちゃんは、日記のなかではおれ≠ニして登場し、さまざまなできごとが、当然のことながら、おれ≠フ視点をとして語られている。だがそこにある作者主体と主人公の関係は、たんに作者が主人公に即して動いているといったものではない。たしかに作者主体は「この日記をかいたとらちゃんは、じつは小さい時のわたしかもしれない」というように、とらちゃんの立場によりそっているが、それは日記体という形式をとることによって、主人公という対象を、より客観的にとらえることができるようになっている。いわば、作者主体は直接的におれ≠ノ即するのではなく、主人公のとらちゃんをとおしてかかわっているのである。これを図式化すると、つぎのようになる。
              おれ
 作者主体――とらちゃん― 源ちゃん― 作品世界
              角ちゃん
 したがって、作者主体は、とらちゃん∞おれ≠ニいう二重の視点をとおすことによって現実世界とかかわっている。作品のなかのおれ≠ヘ、主人公のとらちゃんであると同時に、その仲間の友だちでもあるという位置をしめしているのである。つまり作者から同格として位置づけられ、より客観的に対象化されているわけである。
 こうした方法は、作者の幼少期の体験を、客観的にとらえるためのものであり、この作品に登場する子どもたちや人物が、いずれもいきいきと描きだされていることも、恐らくそこに基因していると思う。
 坪田譲治の『魔法』の場合、特色的なことは作者主体が一人の主人公に自己を限定していないということである。善太にたいする作者主体、三平に対する作者主体というかかわりかたをしている。といって、作者はただ公平に、概念的に、善太や三平とかかわっているのではない。つまり、善太・三平の行動を、外側から描写したりするのではなく、作者主体は対象である善太・三平のなかにはいりこんで、いわば対象が主体化されているのである。したがって、この『魔法』では、作者主体が善太と三平の内部にはいって、その心の動きや行動を観察するのではなく、三平そのもの、善太そのものに転化している。三平の眼をとおした善太が描かれ、善太の眼をとおした三平の姿が描かれるという関係である。この場合、作者主体は対象の中にのめりこんでいるのであるが、そのはいり方は未明のそれとは異なり、より客観的・論理的である。
 坪田譲治の作品が、日本の近代児童文学のなかで、児童像らしい児童像をうみだすことが可能であったのは、一つはこうした作者主体と主人公との関係をつくりだしたからである。
 どうも舌足らずな解明になってしまったが、すでにあたえられた枚数がつきた。ここでとりあげたことは、複雑な文体の問題のごく一部分に焦点をあてたものにすぎない。それより深い追求は、作者が対象をとらえるさいの身振りやクセをふくめ、さらには作品の構成、語イ、テンポ、リズムなどにわたって、きめこまかい検討が加えられなければならないのである。
(「日本児童文学」昭和四十六年五月号掲載)
 神原 えみ