横谷輝児童文学論集1』(横谷輝 偕成社 1974.08.14

第二節 リアリズムの問題

 児童文学とリアリズムの問題のごく限られた部分に焦点をあてながら、児童文学におけるリアリズムを考えてみたい。
 児童文学におけるリアリズムの問題については、いままでにもいろいろなかたちでふれているが、この問題の質の深さや、領域の広さを考えれば、まだほとんど未開拓であるといってもけっしていいすぎではないだろう。
 そこでここでは、次同文がウにおけるリアリズムとリアリティーについて、その創作過程と関連させて考察することを意図したいと思う。そしてできれば、そのことがとりもなおさず現代の児童文学がつきあたっている、もっとも核心的で切実な問題にメスをあてることになるというようにしたいと考えている。
 では現代の児童文学が直面している、もっとも切実で中心的な課題とはなんであろうか。
 わたしは、児童文学のなかに現代のリアリティーをどう創造するかにあると考えている、
 「作家はだれでも、自分はリアリストだと考えている」(ロブ=グリエ『写実主義から現実へ』新潮社)ということばもあるように、作家は例外なく「現実」にたいして関心をもち、その「現実」を作品のなかに創造しようと努力している。もちろん児童文学作家においてもかわりはないと思う。
 だが、いまかかれている児童文学作品の多くは、現代の現実をとらえていない。せいぜいのところ「客観的」現実を素朴に信頼し、現象面だけを皮相にとらえることによってなりたっている平板なリアリズム作品か、作者がそれほど信じてもいない世界を、ちょっとしたアイディアや主観の恣意的な想像によってでっちあげたところのファンタジーの作品が目立っている。
 こうした弱点を克服するためにも、児童文学にとって現実とはなにか、児童文学にとってリアリズムとはなにかが根源的に問われなければならない。しかもそれは抽象的・形式的なかたちではなく、より具体的なかたちで追究される必要があるだろう。
 ところで、ここに『青いスクラム』(西沢正太郎、東都書房)という作品がある。これは昭和四十一年度の第十五回小学館文学賞を受賞しており、一応社会的な評価をうけている作品である。
 この作品の内容をかんたんに紹介するとこういうことである。
 ノビロ町に住む小学五年のノブ、ヒロム、ハヤミ、五郎、十郎、ミサ子、カズエという子どもたちが、春休みに「バナナ湖」と名づけているタカラ川の川原にできた水たまりにカニとりの競争にでかける。だがいつもなら百ぴきぐらいわけなくとれるのに、その日は五ひきの子ガニしかとれない。
それはタカラ川に青酸カリが、山本工業所から流出したためだとわかる。
 そのためタカラ川が立入禁止になり、子どもたちは、遊び場をチョッポリ山に移すが、その山も分譲地に造成するために売られようとしている。子どもたちは自分たちの遊び場とともに自然をまもるために、おとなたちにはたらきかけチョッポリ山が売られるのをくいとめるという話である。
 ここでは、衛星都市が今日かかえている工場や住宅の大量進出、そこから必然的にひきおこされる自然の破壊や公害の発生というきわめてアクチュアルな問題が素材になっている。こうした素材にとりくんでいる限りにおいてこの作品はリアリスティックであるといっていいだろう。そして、もしリアリズムというものをエルンスト・フィッシャーのように「リアリズムというものは方法ではなく、姿勢である。芸術のなかに現実を描くことである」(『リアリズムとは何か』〈『時代精神と文学』合同出版所収〉)として拡大解釈するならば、この『青いスクラム』は、まちがいなくリアリスティックな作品なのである。
 だが、わたしはこの作品が現実的な問題にたちむかう態度をしめしているということだけで評価することはできない。その現実がどのような方法で描かれているかが考えられなければならない。
 もともとリアリズムの概念には、二つの内容がふくまれていることはよく知られている。つまり作家が現実を理想や主観をまじえずに客観的にありのままにみる態度と、その真実性を追求し描く方法の二つである。
 前述したように、この作品には現代の日本がかかえている問題はいくつか提出されている。だがそれは現象としてであって、「現実」としてはとらえていない。
 『青いスクラム』に描かれている現実は、けっして主観や理念から独立して存在するものとしては把握されていないのである。むしろ主観によってあらかじめ組み立てられ、理想家された「現実」である。
 それがもっとも象徴的にあらわれているのは、ノブやヒロムやミサ子といった子どもたちのとらえかたである。この子どもたちはあらかじめ作者の善意のオブラートにつつまれ、つねに守られなければならない存在として位置づけられている。したがってかれらはたがいに対立しあうことなく、作者の主観によって行動するのみである。
 たとえば、チョッポリ山を買いしめようとする黒川商事の息子、敏とノブは、「そうねえ。ビンくんのおとうさんたちは、こんどの問題では、まあ、敵といえないことはないでしょう。しかし、ビンくんはべつよ。みんなとおんなじ子どもじゃない。だからさ、握手できたらいいと思うの」という、タチバナ先生の考えによって手をにぎり、いっしょになってノビロ町の未来図を描くというわけである。
 ここでは「客観的」な事実としての現実は、至極かんたんに無視されてしまっている。たとえ素朴でも、現実をありのままにみる態度が貫かれていれば、そこにはもっときびしい対立や矛盾が生じていたにちがいない。子どもたちの感覚や行動や体験をとおして、ノビロ町の動きがとらえられておれば、もっとゆたかな現実がうかびでてきたと思う。この作品では作品の世界と現実があまりにも安易にたちきられてしまっている。現実の抵抗なしに、任意のかたちで作品の世界がもてあそばれている感じが強いのである。
 この作品を読んで、文学的リアリティーを覚えないもっとも大きな理由がここにある。そしてこの作品の根本的な欠陥は、客観的な現実をとらえることよりも、作者の主観的な意識を先行させたところにある。
 ところで児童文学におけるリアリズムとはなになのだろうか。この問題を追求しようとするとき、わたしたちはその作業を厄介でも二重構造的な方法によってっすめなければならないだろう。
 いいかえれば、まず前提として「リアリズムとはなにか」が問われ、そのうえにたって「児童文学にとってリアリズムとはなにか」が考えられる必要があるという意味である、 なぜなら「リアリズム」ということばがあまりにも慣習的につかわれ、その概念がきわめてアイマイで混乱しているからである。
「ところがこのリアリズムということがまたヤッカイで、いわゆる私小説リアリズム、自然主義リアリズム、社会主義リアリズム、素朴リアリズム、風俗的リアリズム等々、実さいのところでは、われわれはいったい何がなんだかわからないというのが実状である」(金連寿『創作方法をめぐって』「文学」一九五九年十一月号)。
「そのようなリアリズム観念の拡大と平行して、リアリズム概念の限定と分化が行われはじめた。自然主義的リアリズム、批判的リアリズム、社会主義的リアリズム、魂のリアリズム、内的リアリズム、詩的リアリズム、象徴的リアリズム、言葉のリアリズム、あるいはまたリアリズム一般と今日のリアリズム等々といった工合に、リアリズムは無数の領域をもったものになった。リアリズム概念は、もともとそれほど明確な規定をもつ概念ではなかった。それにはその概念を用いる人によっていろいろ解釈が加えられてきたが、リアリズム概念の拡大と分化にともなって、今日では、その解釈はますます紛糾の度をまし、ほとんど収拾がつかぬほど混乱している」(佐々木甚一『現代のリアリズムとは何か』「群像」一九六七年四月号)。
 この混乱をどのようなかたちにしろ、なんらかの整理をすることなしに、リアリズムの問題を一歩でも前進させることは困難な状況にある。もしかりに、この混乱を無視して慣習的に「リアリズム」ということばを使って論をすすめても、結局それはアイマイさのうえに、もうひとつ別なアイマイさをつけ加えることがオチのような気がする。骨格のたくましさなどのぞむべくもないように考えられる。
 といって、「リアリズム」の概念を、歴史的、実証的に検討し、本格的なかたちで整理することはわたしの手にあまる仕事である。ただここでは、わたしなりに素朴に「リアリズムとはなにか」という問いを発し、それにこたえることからはじめようと思う。 わたしにとって「リアリズム」とになにかを結論風にいうならば、それは文学のうえにおいては客観的な現実をとらえるための基本的な態度であり、その認識からえたものを表現する方法であるということになる。
 たとえばさきにも引用したエルンスト・フィッシャーは「芸術におけるリアリズムの概念は残念ながら漠然として定かでない。あるときはリアリズムとはひとつの姿勢である。客観的現実をあるがままに認めることであると定義され、また別のときには、それはひとつの様式あるいは方法だとされるが、この第一の定義と第ニの定義とのあいだの境界線は、消滅してしまうことがしばしばなのだ」といって、ここでもリアリズム概念の混乱を指摘しているが、わたしにはこの二つの定義を統一したものこそがリアリズムであると考えている。つまりいいかえるならば、文学の基本原理としてのリアリズムというおさえ
かたをしたいのである。


 そのためには、わたしたちはまず、現実が人間の意識から独立して客観的に存在するものであるという唯物論の命題を確認しなければならない。
 このことは「現実の正しい認識の基礎は、自然に関してであれ、社会に関してであれ、外部世界、すなわち人間の意識から独立したその存在の客観性を承認することである。外部世界の把握とは、意識から独立に存在する世界の、人間の意識を通しての反映にほかならない。存在と意識の関係の、このような基本的事実は、言うまでもなく、現実の芸術的反映についても当てはまる」というルカーチの主張する立場にたつことである。
 もちろん、これはあらためていうまでもないことであるが、こうした反映論の立場にたつからといって、現実を単純にそこにあるものとして模写することが現実を反映することではない。あるいは生活の個々の事実を細部にわたって、いわば自然主義的に写しとることが現実の正しい認識を保証するものでないことは手垢のつくほどくりかえし指摘されてきたことである。
 文学、芸術における現実の反映は、あくまでもその特殊なはたらきを容認したうえで、唯物弁証法的におこなわれなければならないのである。機械論的な反映ないし再現は、文学、芸術にとって有害であっても益するところはない。
 文学におけるリアリズムは、なによりもまず客観的現実の本質を追究することによって、現実のもつ必然性、法則性をとらえ、現実の総体を表現することにあるのである。
 だが、「リアリズム」の概念をこのように規定することだけで、おそらく問題は解決しないところに、今日の「リアリズム」をめぐる困難さがある。
 この困難は、客観的現実と主観的主体という二元をどう処理するかにある。
 たとえば『リアリズムとは何か』(「新日本文学」一九六六年八月号)という文芸時評のなかで佐々木基一はつぎのようにいう。「文学作品となった現実、芸術作品となった現実は、われわれの意識と独立に存在することはできないものだ。(中略)われわれの意識から独立に存在しているものは、ただ存在するというだけのものであって、われわれの見たものではないのだから、文学・芸術のなかにはまだ存在しないものにほかならない。見られ、認知された現実は、言うまでもなくそれを見、それを認知する人間の意識、すなわち、体験し、認識する主体と切りはなしては存在しない。そして、この主観と客観の関係のなかに、その錯綜した、ある場合には極度に矛盾をはらんだ相互作用のなかに言うならば現実の総体が姿をあらわすのであって、客観的な事実の百科辞典的な集積が現実の総体を包括することはほとんどない」。
 この考えは、「客観的にあたえられている現実をあるがままに認めることが芸術におけるリアリズムの本質だとするのなら、この豊かな現実を、われわれの意識とは無関係に存在する外的世界などといるしろものに縮小してしまってはならない。われわれの意識とは無関係に存在するものなら、物質である。それとはちがって現実とは、いろいろな交互作用にみちみちたものであって、体験し認識していく人間もまた、ともにそのなかへ編みこまれているものなのだ。(中略)豊かな現実は、あらゆる主体客体関係を包括している。たんに過去のものだけではなく体験や夢や予感や感情や空想などをも、包括しているのだ。芸術作品のなかでは、現実と空想が結婚している」というフィッシャーの主張と結びついている。
 ここでいわれていることは、文学・芸術作品はただ客観的な現実だけを反映したものではなく、それと同時に作者の意識をも反映することによってなりたっているということである。いわば現実の反映は、作家の内部現実をとおしておこなわれるというのである。そして、現実の総体とはこれら客観的現実と主観的主体を包括したところにのみ存在するというわけである。
 文学・芸術が外部の世界からえた感覚を意識の内部で想像力のはたらきによってイメージにまでたかめることなしになりたたないことを考えるとき、現実の反映が作者の意識を素通りにしておこなわれることはありえない。その意味において、こうした主張は当然のことであるといっていい。作品はたんなる現実を写す鏡ではない。アリストテレスが「詩人の仕事は起こったことを語るのではなく、起こるかも知れぬこと、すなわち蓋然もしくは必然にしたがった、可能なことを語るのである」といっているように、作品は事実の描写のみでなく、起こりうる必然的な可能性をもふくめてえがかなければならないのである。
 だが同時に、作品はけっして作者の意識そのものではないことを明確にしておく必要がある。客観的現実と主体的主体の包括が、結果において、作者の観念、情緒と、外部の現実を、主題のなかでかさねあわせることによってとらえることを意味するものであってはならないのである。それでは文学・芸術の本質は主観のなかにあるとして、リアリズムを否定する立場にたつことにほかならない。
 あくまでも文学的リアリティーは、個人の主義や感情のなかにはなく、客観的な現実のなかにあることを確認しなければならない。
 『青いスクラム』という作品を、わたしがリアリズムの立場から否定的な評価をくださざるをえなかったのは、マルクス、エンゲルスが「シラー化」として指摘したところの、すでにできあがった観念にもとづいて、現実や人物をとらえようとする方法にかたよっているためである。つまりそこでは客観的な現実を、独自な研究による、それがどうように現実的な題材をとりあつかっていても、その題材にひそむ矛盾や性格をあきらかにし、題材の分析をとおしてそれ自身の発展による作品の構成なりストーリイをきずいてはいないのである。ただ作者の主観によってだけ題材の関連づけがおこなわれ処理されているにすぎないのである。
 作者が子どもの側にたとうとする善意はわからないでもないが、それは結果において子どもを真に守っていないと思う。もし作者がほんとうに子どもの側にたち作家としての責任を果たそうとするならば、その題材、主題を徹底的に追究するかたちで、現実とたたかうことがまず前提にならなければ嘘だと考える。それが回避されたところでは、作品の質が甘くなるのは必然のことであろう。

 ところで、リアリズムとリアリティーの関係は必ずしも直接的には結びつかない。あるいはまったく別のものであるといっていいかもしれない。この場合わたしは『だれも知らない小さな国』(佐藤さとる、講談社)のことをたとえば考えている。この作品はいうまでもなくファンタジックな方法をとったものである。だがそこに創造されている文学的リアリティーは、『青いスクラム』のもつリアリティーとは比較できないほど質度の高いものである。ここには今日的な素材はどこにもない。アイヌ伝説に登場する小人のコロボックルとぼくをふくめた二人の人間だけである。この『だれも知らない小さな国』に描かれている世界が、はたしてどれだけ現代の現実をよくとらえているかどうかについては意見がないわけではないが、そのコロボックルという小人の世界が、科学的真理とはちがった、文学における「真実性」「迫真性」をもって読者に迫ってくることは否定することはできない。このいわば「嘘」の世界は、平板なリアリズム作品の足ものにもおよばない明瞭さをもって生きているのである。そしてその作品の「真実性」は読者がうける感動の強さによって保証されている。
 このことは、児童文学におけるリアリズムを考えるときの、ひとつの大切な要点となる。
 わたしたちは、児童文学を考える場合、それがリアリズムの立場にたつ作品であるからといって評価することはできない。もちろんその作品がファンタジーであるという理由から、低い評価をくだすことはあきらかにまちがいである。かつてわたしも、リアリズムにたいする固定的な考えにとらわれて、そうしたあやまった先入観をもって作品評価をおこなったことがあるが、それはリアリズムと文学的リアリティーを無原則にとりちがえたことからくるあやまりであった。もっとも、最近のファンタジックな作品はあまりにも主観的なものが多く、文学的リアリティーにとぼしいという現象は無視できないが、それはまたおのずから別なことがらである。
 リアリズムというものは作品を評価するさいの基準ではない。もし基準をおくとすればそれはその作品がどのような質において、あるいは方向、かたちにおいて、文学的リアリティーを創造しえているかによらなければならない。リアリズムというものは、わたしにとっては文学の基本的な原理であると同時に方法でもあるが、それを作品評価の基準と混同するとき、裁断的な批評を導入する危険が生じるわけである。
 たとえば古田足日の『宿題ひきうけ株式会社』は、その、作品の完成度や方法の完全さといった観点からみるとき、その評価はかならずしも高いものとはならないが、作品のもつ文学的リアリティーないし現代の現実がとらえられているというところに評価の基準をおくとき、それはすぐれた成果をしめしているといえるだろう。
 児童文学におけるリアリズムを考えるとき、わたしはまずこのことを確認したいと思う。でなければ、児童文学におけるリアリズムはいたずらに硬直化する危険がある、と、わたしは考えている。
 もちろんいうまでもなく、児童文学におけるリアリズムといっても、その基本的なありかたはリアリズム一般と別個のものではない。児童文学においても、それは客観的な現実をとらえる基本的な方法であり、その認識の結果を表現する方法であることにかわりはない。
 ただ児童文学が成長発達していく子どもを読者対象にした文学である以上、その特殊性は当然のこととして考慮される必要がある。
 つまり、子どもが成長発達していく過程というものは、ある意味で子どもが外部の世界である自然や社会や人間をふくめた現実を獲得していく過程である。いいかえれば、外部の世界の認識拡大にともなって、内部の現実が変革していくたたかいでもある。
 児童文学におけるリアリズムは、すくなくともそれと対応したかたちであるべきではないかというのが、わたしのひそかな判断である。
 児童文学においては、つねにそれが作家の自己表現であるべきか、子どものための表現であるべきかという問題がつきまとっている。これは児童文学が本来的にかかえている問題であるとともにいわば近代社会における、個人と社会の基本的な分裂のあらわれである。
 内部と外部が分裂し、人間と人間の関係が抽象的な関係としてしか存在しない近代社会にあっては、自分のモチーフにしたがって行動すれば、それは他人を無視し社会的に孤立するしか道はなくなってしまう。自分をユニークな存在としておしだしながら、それをつねに他者によって承認され、社会化されなければならないという矛盾を、近代社会に生きる人間は背負っているのである。
 別なことばでいえば、児童文学作家が、どこまでも自分のモチーフに固執して表現していけばそれは結局読者である子どもとの対話のルートを、みずからの手で断絶することになってしまう。それは児童文学作家つぃての自己の位置をみずからの手で圧殺することである。といってただ子どものためにだけサービスするところに文学が成立することはない。
 自己主張をひめながら、それを子どもに理解されるかたちで表現し、児童文学作家としての自分を社会的に承認させなければならないのである。
 こうした個人と社会、内部と外部との対立を克服し、人間本来の統一を実現する道は、いわゆる「虚構性」という手段を有効に生かすしかないのである。
 リアリズムとはまさしく、この近代社会における人間関係の基本的な矛盾を克服する文学的方法として成立しているのである。虚構性はリアリズムにとってかかすことのできないものである。
 児童文学におけるリアリズムにとっても、この虚構性はきわめて重要である。児童文学作家は、自己のためか子どものためかという二律背反は、このフィクションのなかで統一的な全体を回復することができるのである。
 たとえば、幼年童話においても、客観的現実のなかに本質的なものを追究することはかかすことができないことはいうまでもないが、そこからえた認識の表現法法いかんによっては、幼年童話にかならずしもならない事例を、わたしたちはしばしば見聞している。その場合絶対にかかすことのできないものは、幼年童話は子どものオモチャや遊び道具であっていいという議論もなりたつが、その虚構が単純化の法則によってつくりあげられるとき、自己表現もけっして困難ではないのである。その事例を、たとえばわたしたちは与田準一、平塚武二などの短編童話にもとめることができる。
 いずれにしろ、わたしたちは、児童文学について自己表現か子どものためかに思いなやむよりも、「虚構の真実」をいかにつくりあげるかにこそ、最大の関心をよせなければならないと思う。
 この「虚構の真実」は、冒頭に述べた現代児童文学が直面する「現代のリアリティー」創造とつながっている。
 ところで、「現代のリアリティー」はなになのか。人間の身体にたとえていえば、ある人は身体全体をさして「現代のリアリティー」といい、ある人は足の部分、またある人は手の部分や胴の部分をさしていう。
 そしてまた、ある人にとって「現実」であるものが、他の人にとってはただのことばにすぎないものとうつり、ある人には想像にすぎないものが、他の人にとってそれこそが現代の現実であると感じられることがしばしばおこる。
 こうした現実の分裂は、巨大な機構にふくれあがった現代社会が、必然的にもたらすものである。そこではリアリティーの全体像が見失われている。したがって社会の総体としても現実は、みる人の立場や主観や思想によってさまざまに異なる。リアリティーの世界も、それぞれの作家によってちがってくるのである。
 現実の構造が複雑になるにつれて、そのリアリティーも複雑、多種にわたり、それをとらえようとする創作方法も人によって、時代によってちがってくるのは当然のことである。
 いずれにしても絶対不変のリアリティーはない。児童文学の世界においては、時代やイデオロギーによって変化しない絶対的な価値を表現することがすぐれたことなのだという考えがあるが文学的リアリティーはけっして超歴史的なものとして存在することはない。あくまでも芸術的・社会的・歴史的な条件のなかでのみ存在しうるのである。リアリティーは時代によって変化しており、静止していないのである。
 このことからいえることは、「現代のリアリティー」をとらえるためには、それにふさわしい方法をつくりださなければならないということである。
 『うみねこの空』(いぬいとみこ)、『目をさませトラゴロウ』
(小沢正)、『とべたら本こ』(山中恒)、『ぬすまれた町』(古田足日)などにみられる方法は、そうした「現代のリアリティー」を創造するための有効な方法へのアプローチである。もちろん、まだ実験的な段階で、方法としての完成はみられないし作品にも新しい調和に達しているとはいえない不均衡はあるが、つかいふるされた方法によってささえられた作品よりも、「現代のリアリティー」をより多く伝える力をもっていることはたしかである。もし、「今日のリアリズム」というものが生まれるとすれば、こうしたさまざまな方法的実験のつみかさねによってのみ可能であろう。
「完結したものとして世界をとらえ、予定調和的秩序のなかに世界を閉じこめてわたしたちを不安がらせるリアリズムでなく、世界を不断に生成過程にあるもの、矛盾とたたかいnなかにあるものとしてとらえ未知の現実にたえずわたしたちを直面させてわたしたちを混乱に陥れ、そうしてわたしたちを新しい現実に目ざめさせるリアリズムー現代の文学に必要なのは、そのようなリアリズムである」(佐々木基一『現代のリアリズムとは何か』同前)。
 「今日のリアリズム」についてのひとつの見解がここにしめされているが、たしかにはげしい転換期にあっては安定した世界を手なれた方法でとらえた作品よりも、たとえそれが破綻していても外界のあらあらしい現実にたちむかって、その新しい断面をきりとっているような作品のほうがふさわしいといえる。
 児童文学におけるリアリズムでも、子どもを甘いムードでつつむような世界をつくりあげるよりも、すこしぐらい混乱をしても、ひろびろとした現実世界になげこむようなたくましい構築をもった作品がのぞましい。
 だがこうした「現代のリアリティー」なり「今日のリアリズム」が、それを創造するものの立場や思想や世界観をぬきにして論じられてはならないだろう。それらの関係を正しくとらえないとき、抽象的な美学論議になっても、いまわたしたちが切実に欲している生きた芸術としての児童文学を創造する問題と具体的にかかわることはできない。
 ひとつの例をあげよう。
 ベトナム戦争を取材して、すぐれたルポルタージュをかいたことで知られている朝日新聞社の記者である本多勝一は、そのときの感想を『事実とはなにか』(「読者の友」一九六八年三月十一日号)という短文のなかでつぎのようにのべている。
「この仕事(注ーベトナム取材)によって、私は〈新聞記者とは何か〉という強い反省をせまられ、その関連として〈事実とは何か〉ということも再検討をさせられました。再検討の結果、明らかになったのは、いわゆる事実というものは存在しないということです。真の事実とは、主観のことなのだ。主観的事実こそ、本当の事実である。客観的事実などというものは、仮にあったとしても、無意味な存在であります。(中略)ルポルタージュする者の目からたとえば戦場のような対象をみるとき、そこには無限のいわゆる事実があります。(中略)私たちはこの中から選択をどうしてもしなければならない。選択をすれば、もはや客観性は失われます。(中略)戦場で、自分の近くに落ちた砲弾の爆発の仕方や、いかに危険だったかを克明に描写するよりは、そこで嘆き叫ぶ民衆の声を克明に記録する方が、意味のある事実の選択だと思うのです。これは主観的事実であります。(中略)そして、主観的事実を選ぶ目を与えるもの、問題意識を与えるものの根底は、やはり記者の広い意味でのイデオロギーではないでしょうか。」
 長い引用になったが、客観的事実にたいする選択の重要性が強調されている。この事情は文学創造においても同じことである。客観的現実をとらえるといっても、そこにはかならずひとつの立場からの認識なり判断がはたらいている。まったく無色透明なものによっては、客観的現実をとらえることはできないのである。
 ここから創作方法と世界観の問題がひきだされてくる。創作方法は世界観と同一ではない。創作方法を世界観に還元することはできない。したがって、世界観の正しさのみによって、その作品のリアリティーを保障することはできないのである。しかし、だからといって世界観をぬきにして創作方法を論じることはきわめて危険である。なぜなら、創作方法と世界観はたがいに密接につながっており、創作方法がリアリスティックなものであるかぎり、それは世界観に作用せずにおかないのである。
 このことについて、蔵原惟人はつぎのようにいっている。
「作家の思想とその作品の対象とのあいだに不一致が生じた場合、観念主義的な傾向をもった作家は、その作品のうちで自分の思想にあわせて現実を改変するが、現実主義的な傾向の作家は少なくともその作品のうちでは自分の思想をすてるか、またはそれを再検討して作品のはじめの構想を変えることを余儀なくされる。新しい思想はただ新しい文学の可能性を与えるにすぎない。その思想がいかに正しい科学的なものであっても、それだけでただちに芸術文学を生みだしはしない。思想さえ正しければ、正しい世界観さえ確立していれば、自然にすぐれた文学が生まれるように考えるならば、それは大きな誤りである」(『文学と思想』)。
 わたしたちは、「現代のリアリティー」を、現実を変革していく方向においてとらえることをまず確認する必要がある。そしてそれは必然的に労働者階級の立場にたっておこなうことを要求するだろう。だがいままでの日本の児童文学のリアリズムが成立している基盤は、小市民階級に象徴されるきわめて微温的なヒューマニズムであった。しかもそれはそのまま子どもの立場と癒着していたのである。
 児童文学作家が、まず子どもの立場に着目し、それを支柱として現実にたちむかうことはしごく自然ななりゆきである。しかし、子どもの立場にたつことが、そのまま小市民的ヒューマニズムに短絡するということは奇妙なことである。子どもの存在が社会にとってなにを意味するのかをあらためてこのあたりで、新しい目でとらえなおす必要がある。その正しい追究は、必ず日本の社会の基本的な構造とのきびしい対決をひきださずにはおかないはずである。そのたたかいのきびしさこそ、「現代のリアリティー」を創造する起動力であり、「虚構の真実」を保障するものである。そのための児童文学固有の方法としてリアリズムが自覚され位置づけられなければならないのであ
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