横谷輝児童文学論集1』(横谷輝 偕成社 1974.08.14

児童文学の思想と方法

第一章 児童文学の基礎

第一節 児童文学の構造

(1)
現代の児童文学にたいして、わたしが抱いているもっとも緊要な問題意識を、いささか性急なかたちでひと口にいってしまえば、それをいかにして根底から変革していくかということである。
もちろん、これはあまりにも抽象的ないいかたであり、それを実現していこうとする方向も、その方法もさまざまな可能性が考えられる。たしかにその道すじは、必ずしもひとつではないが、現代の児童文学がおかれている激動と混乱の状況を見つめるとき、おのずからそこにひとつの道が開けてくる。つまり、その追求の作業は、まずなによりも根源的なものとかかわったところで、おし進めなければならないということである。
いつの時代においても、ある児童文学の営みは、つねに「児童文学とはなにか」という根源的な問いのもとに成立していた。そうした問いと結びつくことにおいてのみ、児童文学をめぐるいろいろな問題は、本質的なすがたをあらわし、一歩ずつ前進してきたといっていいのである。
たとえば、小川未明が『理想の世界』という小文においてつぎのように述べている。その「童話観」は、未明の童話創作という実践をその根底においてささえていたことはいうまでもない。「もし、美と正義の世界が、現実に存在するものなら、それはまさしく<童話>の世界でなくてはならない。そして、この美しく、やさしく、平和なる世界の主人公はもとより子供であるが、また、美と正義と平和を愛する人々でもある。この世界ばかりは、一切の暴虐をゆるさなかった。また、いかなる権力も圧制も、曽てこの世界を征服することは能わなかった。これ、我が理想の世界である」(『未明感想小品集』所収)。
また、同じことが秋田雨雀の場合についてもいえる。雨雀は『芸術表現としての童話』(「早稲田文学」大正十年六月号)のなかで、「童話は一般的に言えば、大人が児童に読ませるための創作さるべきものであるが、なお一歩深く考えて見れば、児童にある世界を示すということは、大人が大人自身の現在の生活を反省するところから生まれて来るものだと思います。童話の中に表わされた思想とその世界は、大人の理想の世界であると見ることも出来ます。そしてその世界に於いてのみ子供と大人が<一つのもの>になり得るのです。その時の大人の魂と、子供の魂とは決して差別的ではなくなります。私は、童話は単にある年代の児童にのみ読ますべきものでなく、広い人類に見せるために創作さるべきものであるということを主張するようになった論拠もまたここから出ているのです」、といい、自己の「童話観」をつぎのようにまとめている。「童話は大人が児童に与えるために創作すべきものではなく、人類の持っている<永遠の子供>のために創作さるべきものであると思います。」
秋田雨雀の童話が、こうしたイデーをもとにして書かれていることはこれまたいうまでもないことである。そして、この未明、雨雀の「童話観」には、大正期児童文学における「児童文学とはなにか」という問いにたいする解答が端的にしめされている。いうまでもなく、そこに共通しているものは、童話というものは、子どものためのものとは限らず、子どもの心を失わない、すべての人類のために存在する文学であるという考えである。
この理念の適否は別にして、ここには児童文学にたいする若々しい情熱と気負った意気込みが感じられる。文学の未開拓のジャンルにワクを入れようとする精神がみなぎっているといってもいい。それは児童文学にたいする考えと時代精神との幸福な調和を背景にし、はじめて成立の可能なものではなかっただろうか。すくなくとも、大正期児童文学にあっては、児童文学にたいする共通の理念が存在しえたことをそれは物語っている。
ところが、現代の児童文学においては、もはやそうした共通理念は喪失してしまっている。いうなれば、児童文学についての共通の土俵は崩れ去り、ふたたび混沌のなかに投げこまれた状態におかれているのである。大正期の児童文学のなかで指標となりえた「人類のための文学」や「永遠の子供」や「童心」という理念は、ここではたんなるひとつの表現にすぎなくなっている。
もちろん、今日の児童文学にみられる共通理念の喪失や方法的な模索は、激動と混乱のなかですべての存在や価値や権威の意味が、根源的に問いただされている振幅の大きな現代という時代とつながって生じてきた現象である。しかも、現代の児童文学をめぐる状況は、われわれが予想する以上に早い速度で動いている。
このような時代、状況のなかにあって、われわれはカオスに向かっての出発をしいられているのである。問題を半歩でも前進させ、より本質的な解明を試みるためには、その姿勢はどうしても腰のすえたものにならなければならない。より根底的なものにかかわっていこうとするかまえのないところに、どのような問題もその本質を、われわれの前にあらわすことはないだろう。
「児童文学とはなにか」が問われることは、児童文学についての社会的な通念がぐらついていることをあらわしている。ある意味でそのぐらつきが今日ほど激しいときはないといってもいいのである。だが、「児童文学とはなにか」に答えることは、けっして容易なことではない。文学と同様に、児童文学の定義については多様であり、その焦点をどのような場所、どのような時間にあわせるかによって、でてくる解答も異なってくるところのものである。ここから定義など困難であり、かりにおこなったとしてもあまり有効でなく、無駄であるという見解も生まれてくる。
だが、だからといって「児童文学とはなにか」を考えることが、まったく無意味であるとはいえない。問題はその問いかけの方向であり、その考究の方法である。児童文学の場合、むしろそうした問いかけが、いままであまりにもおこなわれなさすぎたきらいさえある。いまさら指摘するまでもなく、すぐれた児童文学理論の確立が、児童文学全体を高めるためにかかすことのできないものであることは言をまたない。
そこで「児童文学とはなにか」を考える、もっとも、とっつきやすい手だてとして、いままでになんらかのかたちでしめされてきた説をとりあげ、それを手がかりにしながら、まずこの問題の輪郭をたどってみようと思う。「児童文学とはなにか」といったきわめて原理的な仕事にとりかかるとき、他人の見解をふまえ、それを利用し修正して、自分の説を前進させることは必要にして正当な方法なのである。そして「すぐれた理論とは、客観精神を尊重しつつも、究極において明確な自己の立場を主張する」(桑原武夫)ことを確認し、その実現をめざしたいと思う。

(2)
「児童文学とはなにか」についてのいくつかの代表的な見解をつぎに列挙してみよう。
「児童文学とは児童のための文学であります。児童の手になる綴り方や自由詩もやはりそうでありましょうけれども、ここではとりあげません。すなわち、おとなが制作して、児童に与える童話や童謡のことを、児童文学と言うのであります。(中略)児童のためということは、内容表現ともに児童に適するもの、そしてこれが文学であること、この三つが必要の条件と考えます」(坪田譲治『新修児童文学論』)。
「児童文学とは、おとなが子ども(児童)のためにということを意識して創造した文学である。このとき児童というのは、幼児からほぼ十五・六歳までの年齢のものをいう。学校教育制度にあわせていえば、幼稚園、保育所から中学校までの子どものことである。(中略)児童文学がおとなの文学にくらべて、もっともちがう点は何か? その第一は、児童文学が人間の最初の成長期のために書かれる文学だという点にある。別のコトバでいえば、それぞれの年齢の子どもを対象として、それにふさわしく書かれることを可能とする文学だということにある。(中略)その第二は、したがって教育性ということを特に大切にするし、その大切にするしかたは、はなはだ特ちょう的だという点にある。」(国分一太郎『生活記録・児童文学』)。
「児童文学―童話―の特質を、<与える文学>とみる考え方は、今日もなお固執したいもののように思う。与えるとは、ほかのことばでいえば、童話の教育性ということにほかならないからである。すなわち、児童文学の成長段階に応じて、内容を取捨選択し、それを伝達するための手段―表現方法を考慮するということが、<与える>ということの内容であるからである」(塚原健二郎『童話文学論』<「児童文学入門」所収>)
「資本主義制度の進展と個人の自由の発見、個人の発見の一部としての児童の人格の発見という経過をへて、はじめて近代文学の一翼としての<児童文学>が登場したのだ。それは封建時代の<上から>、<おとなから>与えられた物語や歌ではなくて、児童自身の自己解放の欲求に立ってあらわれた文学である。児童の心性を内部から?みうる文学者が、代弁者として、児童にかわって児童の真実を表現したものである。おとなはもはや児童の支配者でなく、教師兼友人となった。ここに発生にからむ児童文学の本質的な性格の一つがある。(中略)作品の中の世界を、読者が生きることで、現在<ある>生活から、<ありうる>または<ありたい>もう一つの新しい自分の生活を、読者が作品とともに創り出すという文学の機能は、感受性の柔い児童の場合、一層効果的に果たされる。主観的にはただの娯楽欲求で読むことが多いとしても、児童の中にはそういう生活的・美的欲求が内在する。そうでなければ、児童文学が児童の内面を照らすために生まれてきたことが、無意味である。年齢の高い児童なら、おとなの指導で、目的意識的な読み方もするようになる。さらに、児童の生命が若く、伸びていく世代に属するために、児童の心性が求めるものは、つねに向日的なアイデアリスチックなものであり、児童文学の本質的な生活の一つがそこから規定されてくる。児童文学は本来、流派を問わず理想主義的な文学である。ここで理想主義的というのは、あうべき生活の理想を追求するというほどの意味で、作者の立つ特定の思想的立場(マルクス主義、キリスト教等)にかかわらない。と共に、デカダンスの児童文学などはありえないという限定性を意味する。(中略)科学的児童観に立つ児童文学は、児童の立場で児童の心情を解放するが、児童の未発達な心性が生む想像力(童心)をそのまま賛美するのでなく、児童性をその年齢的発達段階でとらえて、大きく児童を客観世界へ導こうとする。児童文学はその意味で、おとなが子どもに返るためにあるのでなく、おとなと子どもの間に橋をかけるためにある。この橋をかける児童文学の作家は、ただ人生と社会の教師であるだけでなく、児童心理の洞察者でなくてはなるまい。児童文学によって、子どもは自分の内部を照らしてくれる鏡をもち、おとなもふくめた人生と社会のあるべき真実をまなぶ。また、おとなの読者は児童文学を通して、自分が子どもでないために洞察しえずにいる、児童の内面世界を知ることができる。この児童文学の機能の中にこそ、言語形象芸術としての児童文学の本質が存在している(関英雄『新編児童文学論』)。
「児童文学とは、幼年期、少年少女期にある者をおもなる対象として、成人が制作した文学を意味する。この文学の種別としては、童謡、童話、少年少女小説、少年少女詩、児童劇等がある。(中略)児童文学の場合は、作者は児童に、美しい情緒をやしなわせ、人間性をつちかわせよう、明るい夢を与え、想像力を発達せしめよう、真実を探求する勇気を与えよう、国家や社会に対して正しい奉仕の観念をうえつけようといったようなその精神の啓発を念じつつ制作しているのである。常に作者の善意にみちた、向日性的な理想主義、ヒューマニズムの文学といっていい」(福田清人『児童文学の本質』<『児童文学概論』所収>)。
「世界の児童文学のなかで、日本の児童文学は、まったく独特、異質なものです。世界的な児童文学の基準――子どもの文学はおもしろく、はっきりわかりやすくということは、ここでは通用しません。(中略)時代によって価値のかわるイデオロギーは――例えば日本ではプロレタリア児童文学などというジャンルも、ある時代に生まれましたが――それをテーマにとりあげること自体、作品の古典的価値(時代の変遷にかかわらずかわらぬ価値)をそこなうと同時に、人生経験の浅い子どもたちにとって意味のないことです」(石井桃子他『子どもと文学』)。
「児童文学とは、子どもである読者との間にインタレストを交流しうる文学である(中略)。それが児童文学と呼びうるかどうかは、その作品が子どものために書かれたかどうか、読者としての子どもが存在しているかどうか、という点にあるのではなく、その作品が多くの子どもたちに読まれ、作品と子どもたちの間に、インタレストが交流したかどうかがきめ手である。(中略)インタレストの中味を構成する素材、主題、主人公、プロット、ストーリィ、ことば等々の要素すべてにわたって、児童文学に独自の価値基準が要求される。(中略)結局のところ、児童文学は<向日性>、<理想主義>を基本とするという点にある」(鳥越信『児童文学への招待』)。
「作品からうける全人間的感動が、児童期にはじまる文学作品およびその感動が、児童期においてもっとも深い文学作品を児童文学と考える」(古田足日『児童文学セミナーにおける講義』のことば)。
「児童文学をその主要なモティーフによって分類すれば、およそ次の四つに分けられよう。(1)人間の根本的エネルギーに対する関心から生まれたもので『宝島』や『ジャングル・ブック』『十五少年漂流記』などに代表される。(2)子どもという人間存在に対する関心から生まれたもので、『次郎物語』(3)子どもに話したい、伝えておきたいという気持から生まれたもので、『君たちはどう生きるか』。(4)資質から生まれたもので、未明、広介。この四つのモティーフはそれぞれからまりあい、たとえば『トム・ソーヤーの冒険』は(1)と(2)の合したものと考えられる。またファンタジーは(1)と(3)によっているものと思う」(古田足日『現代児童文学論』)。
「いずれのジャンルに問わず、この文学は広い意味では生への郷愁の文学であって、唯物観よりも唯心観に立って、少年の人間性の解放と個性の育成を目指し、それをやがて全的なものにつながらしめるという人道主義と社会を善くするという理想主義の文学であるといえよう」(船木枳郎『現代児童文学辞典』)。
このほうかに、断片的な見解まで拾っていけば、まだいくつかあげることができる。だが引用が長すぎては繁雑になるおそれもある。それに代表的な見解は、ほぼ以上の引用で概観することはできるはずである。ところで、これらのさまざまな「説」からも推察できるように、児童文学についての定義はけっして一様ではない。もちろん単純なことがらでもない。たとえば、引用のなかにはとりあげなかったが、児童文学ということばによって、どこまでの範囲のものを含めるかという問題ひとつをとっても、必ずしも統一的な見解はでていない状態である。
つまり、「児童に読まれる文学はすべて児童文学だという人がいる。けれどもこの定義は正しくない。なぜか。児童に読まれるもののなかには、わたくしたちの先祖が、子どもに読まれることを予想しないで作った寓話や民話のようなものがあるからである。また、おとながおとなを対象として、それに読ませることを予想して書いたものでも、それを一定年齢に達した子どもが読む場合もあるからである。したがって、げんみつには、児童文学イコール児童の読む文学ということにはならない。(中略)児童の書いた文章のあるものや児童の書いた詩を、児童文学にいれなければならないという主張がある。しかし、これも、げんみつにいえば児童文学ではない。なぜか。その理由の一は、それがおとなの書いたものではないからである。その理由の二は、それらのものを、子どもたちが文学作品を書くとい意識して書いたものではないからである」(国文一太郎『児童文学の本質』<『文学教育基礎講座(1)』所収>)といった見解にたいして、つぎのような見解が対置されるというぐあいである。
「児童文学とは、ふつう、(一)主としておとなが、主として子どものために書いた文学作品のことであり、具体的には童話、小説、童謡、詩、戯曲、伝記などの諸ジャンルにわかれる。しかし、(二)おとながおとなのために書いた文学作品でも、その内容がある程度年齢の高い少年少女の興味をひく作品は、講義の児童文学として数えられる。わが国では漱石の『坊っちゃん』や啄木の歌が、中学・高校生に多くの読者をもっており、ソ連ではゴルギーの『幼年時代』が、児童文学の目録にのっている。また、スウィフトの『ガリバー旅行記』、デフォーの『ロビンソン・クルーソー』のように、本来おとな向きの文学であったものが、そのストーリーの興味からしだいに児童文学として社会的に通用するようになった作品もある。最後に、(三)児童自身の創作物、とくに作文の中のあるものと、児童詩を、その美的・形象的な表現のゆえに、児童文学の範囲にかぞえることもある。けれど文学作品に必要な芸術的概括(目的意図的な諸条件の完備)の足りない素朴な作文、詩を厳密に文学といいうるかどうかには疑問がある」(関英雄・前出書)。もっとも、ここでも(二)の範囲のものについては、完全に児童文学になってしまった作品以外は、厳密には児童文学の枠の外に立つという注がおこなわれていて、必ずしも前者の説とは対立していない。ここでわたしの考えを述べておくと、私も児童文学というものを厳密に規定しようとする場合、夏目漱石の『坊っちゃん』や『ガリバー旅行記』および子どものかいた詩や作文は、その範囲から排除することが妥当であると考えている。その理由についてはくどくどと述べる必要はないだろう。
いずれにしろ、これらのことは「児童文学とはなにか」についての解答のむずかしさを象徴する一例にすぎない。そして、このこと自体はそれほど重要なことではない。児童文学の定義をおこなうとき、児童文学の範囲や読者対象の年齢、あるいはそのありかたにともなう諸条件など、外側から形式論理として規定することの必要さはいうまでもないが、より大切なことは、それらの底を貫いている根源的な発想を足がかりとした、問題の本質へのアプローチでなければならない。

(3)
そのためのひとつの方法として、まずさきに引用した諸家の所説のなかから、いくつかの共通点を抽出し、そのことの意味するものを分析することからはじめたいと思う。
その一つは、児童文学とは、おとなが子どものためということを意識して創造した文学であるということである。
その二つは、児童文学は「向日性」、「理想主義」の文学であるということである。
その三つは、児童文学はおもしろさを重視し、作品と読者のあいだに感動、興味をよびおこすものでなければならないということである。
この三つの共通点とは異質な、独自の発想もなかにはあるがいまはふれない。これらの共通点を、作家―作品―読者の関係において分類するとき、「その一」の規定はきわめて一般的ないいかたではあるが、それはあきらかに作家に焦点をあてたところから生まれてきたものであるといえるだろう。つぎに「その二」の規定は、これまたきわめて抽象的で、作家、作品、読者のいずれにもかかわりながら、より多くは子どもの存在そのものから導きだされてきたものであると考えられる。「その三」の規定は、すでにあきらかなように、作品と読者のかかわりにウエイトをおいたもので、児童文学の本質をその機能においてとらえようとする立場にたつものだといっていいだろう。
この三つのそれぞれの規定は、もちろんその限りでまちがってはいないしある妥当性をもったものとして考えていい。第一の規定にある、児童文学が子どものためということを意識したおとなによって創造されるということは、児童文学そのものが、子どものものとして存在することを考えるとき、いまさら論議する必要がないほど自明のことである。したがって、児童文学は読者である子どもの存在を、いろいろな角度から配慮することは当然のことであろう。
作家が、子どものことなど考えず、自分のためだけに書くといっても、それがいわゆる児童文学をめざしている限り、どこかに子どもの存在がしのび込んでいるにちがいないのである。児童文学の世界でつねにつきまとっている、子どものためにかくか、自分のためにかくかという論議も、児童文学にたいする作家の姿勢を、いつも新鮮な問題意識によってきたえる意味において貴重ではあるが、ことに児童文学のありかたの考察においては、ほとんど無意味なことである。なぜなら、純粋なかたちでの自分のためにかくといった作用は、文学に関するかぎり成立する余地がないからである。子どもとまったくかかわりのない児童文学など、ナンセンス以外のなにものでもない。その意味では、児童文学というものは、子どものためにかくということがとりもなおさず自分のためにかくことになるという関係において、はじめて成り立つものである。
だから、おとなが子どもを意識してかいた文学作品を児童文学だとする規定そのものはまちがっていない。だが、この規定はあまりにも一般的な概念であり、形式論理でありすぎて必ずしも説得性を発揮しえない弱点をもっている。このことについて鳥越信は、「一般的に子どものため書かれた文学、子どもを読者とする文学、といったような規定は、ほとんど児童文学の保証とはなりえない。なぜなら、子どもために書く、子どもを読者とする、という一見当りまえの原理がなかなか当りまえのこととして通用しないところに問題の複雑さがあるからである」(『児童文学への招待』)といっている。そしてさらに、そこに横たわる要因として、「子どものために」ということが文学の質を低めるととらえがちであること、書き手がおとなであることからくる矛盾、子どもを意識せずに自分のために書いた作品が、結果として子どもの読者によろこばれるという事実等を指摘している。
たしかに、この「子どものために」ということが、とかく警戒的にうけとられ、拒否されることがしばしばある。とくにこれから児童文学の道に進もうとしている若い人たちのあいだに、その拒絶反応が強い。このことはおそらく、「子どものために」ということばの背後に、おとなとしての安易な姿勢をかぎとり、それを必然的に文学の質を通俗的なものにしていく危険を感じとっているからであろう。事実「子どものために」という発想が安易に傾斜するとき、ともすればおとなと子どもの位置を上・下の関係に固定し、一方的なおしつけに堕落した児童文学作品をしばしば生みだしてきた。それはいうならば「子ども不在」の児童文学であった。関英雄は前出の『児童文学の本質』という論文のサブ・タイトルに「おとなと子どものあいだにかけた橋」ということばをつかっているが、子どものために意識して書くことは、けっしておとながかってに子どもに橋をかけわたすことではない。それでは真実の意味において橋をかけたことにはならないのである。そこにあるものは、おとなである作家の姿勢や意識だけであって、読者である子どもの存在はない。つまり、ことばをかえていえば、作家と作品と読者の関係が弁証法的にダイナミックなものとしてとらえられていないのである。坪田譲治においては、この「子どものために」ということが、「内容表現ともに児童に適するもの、そしてこれが文学であること」という児童文学の条件として考えられているが、それはもっと児童文学の基本構造をあきらかにするものとして把握される必要があるのである。
いずれにしても、「児童文学とは、おとなが子どものためということを意識して創造した文学である」という規定は、書き手の視点からみたところの児童文学のひとつの側面である。ここに欠落しているものは、読者である子どもの側からの視点であろう。いいかえれば、子どもにとって児童文学とはなにかという問いの欠如である。
では、子どもにとって児童文学とはなになのだろうか。それはどのような存在として映じているのだろうかそれをごく常識的にいえば、なによりもまず「おもしろいもの」として存在しているではないだろうか。
「人は芸術というものを対象化して眺める時、或る表象の喚起するある感動として考えるが、ある感動を喚起するある表象として考えるか二途しかない」(小林秀雄『様々なる意匠』)という、文学というもののきわめて常識的なとらえかたが、いまの場合にもあてはまる。
もちろん、この「おもしろさ」の内容はさまざまで、あるときはたんなる娯楽であったり、あるときは事実のおもしろさであったり、またあるときは空想・想像のたのしさであったり、ときには思想のおもしろさであったりするにちがいない。だが、子どもはけっして分析的ではないので、それはひと口にいって「おもしろいもの」あるいは「感動」といっていいのだと思う。このおもしろさ、感動こそが、子どもの側からみた児童文学作品のあるかたなのである。また、子どもの目のまえにある児童文学作品は、あくまでもまるごとの一個の作品であって、そのうらにひそむ作家の顔も、その基底となった素材をも思い考える必要はないのである。
これが児童文学を享受する、子どもの現実のすがたである。児童文学野本質の追求は、高尚な観念や抽象的な理想を云々するまえにまずそうした現実にかかわらなければならない。その意味で、第三の見解である「児童文学はおもしろさを重視し、作品と読者のあいだに感動、興味をよびおこすものでなければならない」というアプローチは注目しなければならないだろう。
すくなくとも「児童文学とは、子どもである読者との間にインタレストを交流しうる文学である」(鳥越信)という規定は、「児童文学とは、おとなが子どもを意識して創造した文学である」という規定よりも一歩前進している。なぜなら、そこには作家のみでなく読者の始点もふまえて作品と読者の関係のなかにその本質をとらえようとする方向がしめされているからである。「感動」、「おもしろさ」をよびおこさない児童文学作品は、子どもにとって無価値なもの、存在しないものとおなじでことであることを考えるとき、それは当然のことであろう。
昭和三十年前後の時期において、それに対置してもちだされてきた世界の児童文学の基準である「おもしろさ」、「わかりやすさ」が、大きな反響をよんで説得的にうけとめられたのも、以上のことと無関係ではない。児童文学の本質に照らして、それらの主張がより正当であったことの証明でもあった。しかし、これら「おもしろさ」、「わかりやすさ」の主張が、今日において技術主義的にうけとめられ、「子ども不在」から「子ども迎合」への軌道を描きつつある側面は見のがされてはならない。このことは同時に、「感動」、「おもしろさ」を児童文学の本質とする見解にも、問題がふくまれていることを物語るものである。

(4)
ここで問題の所在を確認するために、いままでの問題を整理しておきたいと思う。
つまり、児童文学の本質をめぐる見解として、これまでに提示されている所説を図式化するとおよそつぎのようなことになる。
一方には、児童文学をおとなが子どもをとくに意識してつくった文学であるという見解があり、他方には、児童文学には「感動」、「おもしろさ」を重視したところに成立し、その本質は作品と読者の関係のなかにあるという説が対置される。そして、この両者に共通したものとして、児童文学は「向日性」、「理想主義」の文学である見解がおかれている。
これらの見解にたいするわたしの判断は、いままでのところ、「子どものために」説と「感動・おもしろさ」説とを対比して、後者が一歩前進したところの規定であることを認め、しかしなお「感動・おもしろさ」説にもッ問題外ふくまれていることを指摘したにとどまっている。
ところで、こうした図式のうえにたって、さらにわたし流に問題点を単純化してみることを試みたい。
それを結論風にいってしまえば、「子どものために」説は、児童文学の本質を「認識」においてとらえようとする立場であり、「感動・おもしろさ」説は、児童文学の本質を「リアリティー」においてたしかめようとする立場にたっているということである。
ただ、「子どものために」ということばのなかには、前述したようにきわめて恣意的でアイマイなものがふくまれており、たんなる作者の観念の自己表出といった側面から、子どもを内包した現実を対象として認識し表現するという、表現と作者の関係を正しく規定したものと考えられる側面まで、それはあまりにも幅広い解釈を許すものであるが、その基本は、やはり「子どものため」ということで、対象の精神的な模写をめざす「認識」の立場にたつものといっていいだろう。いうまでもなく、「認識」の立場にたつということは、児童文学の本質を、対象あるいは現実の認識とそれのことばによる再現にあるというものである。もっとも、その内容がどこにあるかについては、現実あるいは対象そのものにあるとするもの、作者の認識そのものが内容だとするもの、読者が作品によって得た認識が内容であるとするものといった見解がわかれているが、この点「子どものため」説はいっそう不明確であるが、強いてあげれば作家の認識そのものにあるとするものに近いであろう。
こうした見解に、もっとも反対の極にたつものとして、たとえばつぎのような主張をあげることができる。
「また現代では、人種的偏見にたいする関心がめざめ、社会不正に気づいた結果、アン・カロル・ムアが<背景が多すぎ、問題が多すぎて、生命を失った物語>と呼んだもので、子どもの本をいっぱいにしがちである。しかも、こういう本が、おとなの側からは喝采されがちである。それは、その本のテーマが子ども本来の興味をひくというよりも、社会問題にたいするおとなの真剣な関心を反映しているからである。それにまた、そういう本の文学としての永続的な真価も、注意深く吟味されていない。(中略)作者の考えの質、かれの築く構成の確実さ、かれのことばの表現力、この三つがかれの文学的な質を大きく決定する。(中略)子どものために二流の物語を書く作家たちは、社会改良のテーマを選ぶことが多すぎる。たぶんそれは、子どもの本というものが、おとなによって書かれるからであり、一般のフィクションのように、おとなが、ほかのおとなのために書くのではないからである。子どもに楽しみを与えるためにストーリーを物語るよりも、おとなとして自分の関心をひく問題を説くためにストーリーを書くことに熱心な作家が多い」(L・H・スミス『児童文学論』)。
ここで主張されていることを端的にいってしまえば、いわば「児童文学認識論」の否定でありそれに対する「児童文学表現論」の肯定である。いいかえれば、児童文学の内容は作品そのものにあるというよりも、「価値をつけるものは、わざとであって、素材ではない」というように、表現そのものにあるという説である。
この説はもちろん、「感動・おもしろさ」説ともつながっている。そしてそれは、「子どもたちは、昔話であれ、すごい冒険談であれ、こっけい話であれ、気持を愉快にしたり暖かい感動を起こさせたりするあらゆる種類の文学を、手当たりしだいに読みながら、自分たちがそこに永続的な真実を求めていることを、意識的には知らないだろう。だが、子どもたちは、お話の底に、自分たちの頼れる真実がひそんでいることに、気づいている」(L・H・スミス、前出)という、子どもが児童文学作品を享受するリアリティーに結びついているとき、ある正当性をもっていることはたしかである。
しかし、それが作品のみによって、あるいは表現のみによって自立しているという考えに傾斜するとき、それはきわめて危険なものにならざるをえない。いまさら指摘するまでもなく、作品も表現も作者の精神のはたらきと切りはなして存在することはありえない。作者の認識と表現のあいだには客観的にな関係が介在しているのである。もちろん、だからといってひとつの作品を作れることを否定するものではない。だが、作品・表現の自立性は、あくまでも相対的なものであって、作者とのかかわりを無視することは不可能である。別なことばでいえば、作品、表現は作者の自己表出であると同時に、それが現実の認識を原型として成立している限りにおいて必然的に他者、社会との関係をもっているのである。
ところで、さきにふれた「感動・おもしろさ」説は、いうまでもなく作品そのものにふれたところに生じる感動や興味を、児童文学作品のありかたとして認めようとする。このことは、とりもなおさず子どもというものを中心にして児童文学の本質をとらえようとするものにほかならない。その点にわたしはこの説のプラス面を認めた。
だが、ここで考えなければならないことは、感動といいおもしろさということは、あくまでも一個の人間の内部に生じた情動であって、おのれ自身のものである。その意味で、ある作品に感動しおもしろいと観じた感覚は絶対的なものである。自己の内部の感覚や意識の絶対性のうえになりたつ「リアリティー」が、ともすれば偏狭な主観主義に傾斜しがちなことはいうまでもない。「感動・おもしろさ」説はつねにそうした危険にさらされているといっていいのである。
「感動・おもしろさ」説は、たしかに児童文学の存在を、リアリスティックに把握したところで成立している。
「十八世紀末までさかんに書かれた、抹香くさい信心物語――その中では<よい子>は早死にをすることになっています――とか、病的な感傷主義の作品は、世紀がかわると同時にすっかり忘れ去られてしましました。もともと子どもたちは、そんなものは読まなかったのです。また、悲惨な貧乏状態を克明に描写したものや、社会の不平等をなじったものなども、いつの時代にも書かれています。いずれの場合も、大人である作者は、真剣な態度でこれらと取り組み、テーマそのものはまじめなものです。そして、多くの批評家や、一般の大人は、非常な感銘を受けて、これをこどもに買って与えました。しかし、そういうした物語は、ストーリー性のない観念的な読み物となっていることが多く、どうしても子どもたちをひきつけることはできません」(石井桃子他『子どもと文学』)。
このような見解の背後にあるものは、醒めたリアリストの目である。児童文学にたいして、いたずらな幻想や観念的な態度をもたず、いうならば「生活者」としての常識でもって接しようとする立場である。こうした「生活者」的リアリストの立場は、必然的に児童文学によって社会の矛盾を批判するといった作業を、おとなのたんなる感傷として否定する。そしてそれにかわって登場するのが、いかに書くかという技術的なものにたいする信頼である。
もちろん、児童文学において、素材、テーマ、プロット、登場人物の描写、会話、文体等が重要な要素となっていることは否定することはできない。どのように作家の態度や意図がすぐれてりっぱなものであったとしても、それは具体的な素材によって創造していく過程で失敗すれば、価値ある作品として評価することは不可能である。
しかし、わたしの判断によれば、それらは児童文学が児童文学として成立するための必要な条件であったとしても、児童文学がまず文学として成立するための基本的な要因ではない。
このいいかたは誤解される余地がないわけではないが、詳細は後にゆずっていまはこれ以上ふれない。
児童文学がたんなる読物や消費物ではなく、文学として存在するためには、なによりもまずその基底に、創作主体の人間情熱にささえられた実践がなければならないのである。そして、その人間情熱とは作家をとりまく現実社会にひそむ矛盾や非人間的要素への、激しくきびしい告発にほかならない。こうした情熱と実践のないところに、児童文学が文学として存在することはないのである。このことは古典的名作の実在が立証してくれていることは多言を要しないだろう。
わたしはさきに、児童文学の本質を「感動」、「おもしろさ」にあるとする見解にも問題があるといった。その理由として、「感動・おもしろさ」説がいわば皮膚感覚の絶対性にあぐらをかきそのなかでのみものを見たり考えたり・行動したりするしかない、表層的・主観的なものに傾斜する危険性を指摘した。この説を極端に主張するとき、児童文学はおもしろくさえあればいいということになりかねない。「子ども迎合」という通俗化現象がおこってくる所以である。
児童文学の本質をとらえようとするとき、われわれは「感動」、おもしろさ」という子どもの側の観点と、「非人間的要素を告発する情熱」という作家主体の側の観点を、同時にとらえる目をもたなければならない。この地点においてはじめて「子どものために」あるいは「向日性」、「理想主義」の問題がかかわってくるのである。「児童文学とはなにか」は、あくまでも人間の論理として追究されなければならない。

(5)
ところで、児童文学は「向日性」、「理想主義」を基本とする文学であるということはどういうことなのであろうか。
その意味するところのものを、さきに引用した所説のなかにいま一度さぐってみよう。
たとえば関英雄は、この「理想主義」ということばを「あるべき生活の理想を追求するというほどの意味」においてつかい、それがよってくるところのものについては、「児童の生命が若く伸びて行く世代に属するために、児童の心性が求めるものは、つねに向日的なアイデアリスチックなもの」であるとして、子どもという存在そのものにかかわっているとする。
また船木枳郎の「社会を善くするという理想主義の文学」や、福田清人の「常に作者の善意にみちた、向日性的な理想主義・ヒューマニズムの文学」といういいかたは、「理想主義」を作家の姿勢ないし意図において考えているといっていいだろう。
これにたいして、鳥越信の説はより基本的なもので、「向日性」、「理想主義」は児童文学の基本であると同時に、おとなの文学と児童文学を区別する最大の根拠がここにあるとする。また、「理想主義ということばは、本質的に秩序だったものであったり、必然的に人間の暗い部分、世の中の悪を排除するものではない。逆に、秩序を破壊し、人間の暗い部分をひきずり出して、それをよりよく変えていこうとする働きをもつもので、その意味では、理想主義はまさに<変革の意志>とつながる」(『現代日本文学の世界』<『児童文学の世界』所収>)といい、「現実を踏まえながら、現実を越えて作りだされた世界を指向する」ものこそ「理想主義」であるという考えにたっている。
ここでまず確認できることは、「理想主義」ということは、通俗的な善意や甘ったるい感傷や御都合主義的な思考や根無し草的な夢想とははっきり別なものであるということである。ある意味で「理想主義」というものは、ラジカルな変革への意志と結びつくことによって、はじめて本来の機能を発揮しうるものと考えなければならない。
「現在<ある>生活から、<ありうる>または<ありたい>もう一つの新しい自分の生活を、読者が作者とともに創り出すという文学の機能」(関英雄)は、けっして通り一辺の善意や美しい理想への願望といった、いわばかろやかな心情などで、つくりだすことはできないのである。それを可能にするものは、人間の存在にまつわる美と醜をまるごととらえうる透徹した目と、常識的なモラルをつきやぶって人間・社会の真実をえぐりだす緊張にたえうる強靭な精神でなければならない。
いまひとつ確認できることは、この「理想主義」が、子どもの存在そのものから必然的に導きだされてきているということである。孟子の「性善説」ではないが、これから成長発達していく子どもは、当然にその内的欲求として、美しいもの、正しいもの、善なるものへの志向をもっている。児童文学はその内的欲求にこたえ、それを充足するために存在するのであるから、そのありかたにおいて「つねに向日的なアイデアリスチックなもの」でなければならないというわけである。
「向日性」、「理想主義」についての、こうした規定づけには、わたしもごく一般的なことがらとしてまちがっていないと思う。
しかし、ここでも「子どものために」という規定にまつわりついていた、あのあまりにも一般的すぎるという問題がのこされている。つまり、はたして「向日性」、「理想主義」というものが児童文学にとってかかすことのできない本質的な条件なのかどうか、あるいは「子ども」という存在が、本来的に美しいもの、正しいもの、善なるものへの志向を内在させているものなのかどうか、という根本的な問いに必ずしも十分にこたえていないのである。ただ、ばく然と先験的にそう考えられるといったていどのことにすぎない。これでは、今日の時点において、「向日性」、「理想主義」が児童文学の本質であるという説得性はよわいといわなければならないだろう。
いずれにしても、「向日性」、「理想主義」という原理をめぐって内包している問題点を、現代というアクチュアルな状況のなかで追求することなしに、児童文学の本質を真の意味で構築することはできない。
ところで、「向日性」、「理想主義」というものの一般的なうけとめかたは、前述の鳥越信の考えのようなものはむしろ異例であって、「善」や「理想」をすでにある常識的モラルと同質にとらえ、それを心情的に描くことが児童文学にとってふさわしい道であるといったところにある。
こうした「向日性」、「理想主義」にまとわりついているアクにたいして、不信の声がおこるのは必然的である。
たとえば神宮輝夫のつぎのような見解はその代表的なものであろう。
「私たちは、いつも、日本の児童文学にはなぜ一本足のジョン・シルバーやトム・ソーヤーやキムが生まれないのかというなげきをもってきた。私はその理由を、一つは児童文学を理想主義の文学とする認識、一つは私がひそかに<変革への意志>とよんでいるものがある日本児童文学の体質であると考えている。(中略)『宝島』にいたっては、いったいどこに理想主義を見出したらいいのだろうか。海賊の宝の地図を手に入れた一団が、欲につられて船出をすると、それを海賊がうばいかえそうとして陰謀、流血、うらぎりなどがつぎつぎとおこる。人間の欲と欲とがぶつかりあい、常識上悪いことになっている海賊がやぶれるだけの話である。それでも私たちは、善意にみちあふれた人たちが社会や国家の進歩発展を信じ、正しくあかるく生きていくような物語の多くよりも、悪玉のジョン・シルバーや浮浪児のハックなどから、より多くの真実、この世の姿を知ることができるし、『アリス』のグロテスクなナンセンスに新鮮な批判の目を読みとることができる。歴史の若い、そしてたえず子どもを守る立場から創作してこなければならなかった、また伝統的に人間性から発する問題意識よりもむしろ環境に発する問題意識がつよい日本の児童文学にあって、児童文学は理想主義の文学という大前提をもつことは、たとえそれがまちがっていないとしても、現状では質の向上にマイナスにしかはたらかない。理想主義、向日性というマジカルなことばは、必然的に人間の暗い部分、世の中の悪などを排除しようとする。だから人間を一面的にとらえたり弱点をかばい長所を誇張する。世の動きも、理想に対してセンチメンタルな飛躍をするか、使いふるしたハピーエンドに堕していく。日本の児童文学の前進の力となったと私の考えている<変革への意志>を持つ多くの作品は、その性急な理想の追究のために、ついに現在にいたるまで個性ゆたかな人間像を創造していない。またつねに時に為政者たちにおもねり、観念的な理想主義をかかげた俗流児童文学は、当然意味のある人物などを登場させることはなかった」(『現代の児童文学におけるリアリズム』「日本児童文学」一九六八年四月号)。
ここに述べられていることの細部については問題がないわけではないが、児童文学を「理想主義」の文学と規定することのマイナス面の指摘は、鋭く的確である。
たしかに、日本の児童文学は「理想主義」というタテマエをあまりにも安易に信用し、しかも観念的にとらえていたと思う。そこでは、「理想」はたたかいとるものではなく、そこにあるものとしてとらえられがちである。「子ども」はいつも善なる存在であり、美しいもの、正なるものを志向していても、時には悪がしこくおとな以上にずるく立ちまわる側面は見のがされている。子どもは独自の価値基準をもつと同時に、おとなの模倣から切りはなされてはその生活も成立しない存在であることが捨象されがちである。
「理想」を根拠とするあらゆる「理想主義」は、必然的に人間そのものよりも「神」に近づこうとする。そこでは人間を善と悪をふくめて、まるごととらえる視点はアイマイにならざるをえない。しかし、児童文学の古典名作は、人間の悪から目をそらしてはいないのである。ある意味で「理想」とは、あらゆるものを否定しつくしたところから生まれてくるものだともいえるのである。あるいは「理想」とは、ただ憧憬するものとしてあるのではなく、それによって「現実」をとらえる方法としてあるのである。
したがって、「向日性」、「理想主義」が、現代においてその機能を回復し有効性をもつためには、それを否定的媒介とする作業こそまずなによりも必要な手続きである。「向日性」、「理想主義」には、当然作家の姿勢や読者にたいする責任ということがふくまれているわけであるが、それはけっして子どもに作家のいだいている「理想」や「観念」を押しつけることではなく、作家自身の生きかたをきびしく自己検証することが前提とならなければならない。まちがっても、作家は「子どものために」という大義名分のもとに、「向日性」、「理想主義」にもたれかかってはならないのである。
児童文学の本質についてのさまざまな所説の紹介のなかでもとりあげておいた、石井桃子、瀬田貞二、渡辺茂男たちによっておこなわれた『子どもと文学』の主張が、大きな影響力をもって児童文学の世界に波及していったのも、思想的な意味からいえば、いわゆる児童文学における近代主義の確立をめざして、硬直した観念的な「理想信仰」から、人間としての子どもを解放しようとしたためである。おそらく、『子どもと文学』の底に流れている子どもを存在論的に把握しようとする視点や、「自我」を根拠とする自我主義の思想が、昭和三十四年以降の時代の状況とマッチしてより多くの共感をよんだにちがいないのである。
『子どもと文学』の主張のもっとも大きな功績は、児童文学の中核に「子ども」をすえたことにある。児童文学の歴史は、たしかに「子ども」を原動力としてつくられる。その子どもの欲望やエゴイズムを正面に押しだし、自我の論理を核とした児童文学の思想をまがりなりにも展開したところにひとつの達成がみられたのである。
だが、われわれはコウした「近代主義」の達成を一応認めながらも、その地点に安住していることはできない。いやむしろ、止揚の対象にしなければならないのである。
たとえば「時代によって価値のかわるイデオロギーは―例えば日本では、プロレタリア児童文学などというジャンルも、ある時代に生まれましたが―、それをテーマにとりあげること自体、作品の古典的価値(時代の変遷にかかわらずかわらぬ価値)をそこなうと同時に、人生経験の浅い子どもたちにとって意味のないことである」といった見解には、人間(子ども)の自我や欲望、つまり存在そのものを、もっとも根底において規定しているものにたいする無理解が顔をのぞかせている。ここで「時代の変遷にかかわらずかわらぬ価値」というのは、わたしの判断によれば人間の欲望の論理と結びついている。すなわち、その「価値」というのは、人間が生きるということは、とりもなおさずエゴの主張であるという、近代における生活の原理そのものをさしている。それを生と死、善と悪、美と醜といったことばにおきかえてみても同じことである。そこでは、近代市民社会における人間の本質=永遠の価値という図式が成り立つ。こうした認識は、たしかにあるリアリティーをもっている。われわれは、近代市民社会に生きようとするかぎり、エゴイズムを自己の方法とすることを強制されているのである。
だがしかし、エゴイズムは人間存在の本質的な側面であると同時に、近代社会の構造そのものから否応なく発現していることを明確に認識しておかなければならない。エゴイズムに象徴される非人間的要素は、近代社会の構造自体が生みだしているのである。この事実に目をとざして、「古典的価値」を云々しても、それは「理想信仰」の裏返しにしかならない。
『子どもと文学』の主張は、「子ども」の存在を認識することによって、児童文学作家に自己対象化をうながすきっかけをもたらした意義は大きい。おとなとしてもっているエゴイズムの自覚なしに、「子どものため」ということで自己の観念を押しつけることの虚偽を告発したのである。エゴイズムの自覚の裏付けなしに、「子どものため」を唱えても、所詮それはおのれ自身のためにほかならないという論理は、近代日本の児童文学伝統にたいして有効性をもった。だが、そうした主張の「本質」は、エゴイズムの論理を軸にした機能主義にほかならない。そこでは児童文学においてなにを実現するかということよりも、いかに「子どもを楽しませるか」という機能だけが重視せられるのである。こうした実践の結果が、なにをもたらしつつあるかは、現在の児童文学作品の底の浅さが証明している。それは子どもの存在をそのもっとも根底において規定しているところの、社会経済構造を認識する視点の欠落からくる必然の事象である。
ここにおいて、われわれはあらためて「子どものために」とはなにかを問う必要があるのだ。われわれは、近代市民社会における子どもの存在が、真の意味においてはまだ存在しえていないことを知っている。ことに日本の社会にあっては、そのゆがみの大きいことを感じとっている。いまわれわれが当面している問題は、子どもを楽しませることとともに、子どもが子どもとして全的に存在するために、社会の構造のゆがみを客観的に認識し、それを批評することでなければならない。
この過程をくぐることによってのみ、「向日性」、「理想主義」は、現代においてふたたびその意味をとりもどすことが可能である。

(6)
以上、「児童文学とはなにか」について、三つの見解にもとづきながら、わたしなりの検討をおこなってきた。そして「児童文学はおとなが子どものためということを意識して創造した文学である」、「児童文学は感動をよびおこし、おもしろいものでなければならない」、「児童文学は<向日性>、<理想主義>の文学である」という規定が、それぞれに児童文学の本質的な側面をあきらかにしながら、いずれもそのひとつによって「児童文学とはなにか」という問いの解答におきかえることはできないという結論にならざるをえなかった。
このことを逆にいえば、「児童文学とはなにか」をただひとつの視点からとらえることは困難であるということであろう。
ところで、ここでもう一度、児童文学の本質をめぐる鳥越信の見解を引用しよう。
「理想主義の問題からひき出される一つの重要な児童文学の特質は、児童文学の評価基準は、大人の文学、一般の文学の評価基準とは異なったところにあるという点である。これを私たちは児童文学の特殊性と呼んでいる。児童文学の本質をめぐる問題点の中で、最も大きな柱の一つは先に述べた児童文学における思想性、イデオロギーの問題であり、今一つは、児童文学の特殊性―平たくいえば、児童文学は大人の文学と同じなのかちがうのか、という問題である。この二点をめぐっての論議はおそらく今後も永遠につづけられるにちがいない」(『児童文学の世界』)。
この見解のうえにたって、かれは児童文学とおとなの文学とを区別し、その根拠として児童文学が「理想主義の文学」である点を指摘している。したがって、鳥越信の児童文学「本質」論の核心は、「理想主義」にあるといっていいだろう。そして、この「理想主義」の中味については前述したとおりで、「秩序を破壊し、人間の暗い部分をひきずり出して、それをよりよく変えていこうとする働きをもつ」ものである。さらにこの説を補足して、児童文学のうえで一種のタブーになっている「恋愛」や「性」の問題をとりあげ、井上靖の『晩夏』とケストナーの『エミールと探偵たち』、マーク・トウェーンの『トム・ソーヤの冒険』を比較検討している。それによると、井上靖の作品に登場する少年・少女の描写は、事実そのままでない濾過された美しさはあるが、それがリアルで「現実に近ければ近いほど、理想に遠ければ遠いほど」、子どもの読者からは反発と嫌悪の感情が増加するにちがいない。なぜなら、少年心理のヴィヴィッドな描写はおとなに共感をよびおこしても、子どもにとっては、逆に自分のみにくさを改めて鏡で見せられるような感じを抱かされ、「消え入りたいほどの恥かしさ」を覚えるだろうからである。「井上靖の小説は、どんなに子どもの心理が克明に描かれようとも、大人のための小説にほかならないのはそのためである」という。
これにたいして、『エミールと探偵たち』や『トム・ソーヤーの冒険』では、エミールのいとこのポニー・ヒューチエンの描写や、トムやベッキーの恋愛シーンを例にひきながら、それらはあくまでも児童文学的に表現され、スマートに処理されている。「マーク・トウェーンやケストナーの描いた世界も、事実そのままでは決してなかった。そうれは、一つの理想的な姿であった。現実を踏まえながら、現実を越えた作りだされた世界が描かれていた。それは真の意味での虚構であり、現実以上にリアリティーをもつものだった」という結論をひきだしている。
要するに、ここでいわんとしていることは、おとなの文学と児童文学とでは、おなじ現実をとらえる場合でも、その方法は異質のものでなければならないということであろう。単純化していってしまえば、おとなの文学はより現実的であり、児童文学はより理想的であるということになるのだろうか。たしかに「人間の暗い部分」をえぐりだすときでも、おとなの文学と同じ方法では児童文学になりえないことはいまさら指摘するまでもないほど常識的なことがらである。そして、その方法を規定しているものは、読者である子どもであることは、これまたいうまでもない。井上靖の作品を読んで、もし子どもが嫌悪感をもつとすれば、それはおそらくおとなとの人生経験のちがいに起因している。おとなはその作品を客観的ないし郷愁的にうけとめることができるのにたいして、子どもは現在的にしかとらえることができないからである。あるいは、子どもにとってそこに描かれているものは、やがてのりこえていかなければならない対象であって、回帰していくところではない。事物の核心を直観的にとらえ、健全な価値判断をおこなう子どもには、それが一種のもどかしいものとして映じることは十分に予想できることであり、そのもどかしさが嫌悪感となってあらわれるといってもいいのである。
児童文学とおとなの文学を、こうした方法の質の差異から区別することは、十分に根拠のあることである。しかし、ただ問題は、その方法の異質が、児童文学をおとなの文学と峻別するキメ手となりうるかどうかということである。
児童文学と一般の文学の関係については、さまざまな意見がある。
一つは、児童文学を一般の文学と同一の基準においてとらえようとする立場のもので、たとえばつぎのような見解がそれを代表している。
「子どもの本が、一般文学とかかわりのない真空地帯にあると考える傾向である。だが、児童文学にもおとなの文学にも同一の芸術上の基準が適用されることは、児童文学をていねいにしっかりと読んでみれば、はっきりする」(L・H・スミス)。
二つは、児童文学は、文学と非文学の中間的な存在であるという立場である。
「児童文学は文学か? この問への出てくる答は簡単であろう。 <文学だ>。だが、ちょっと待ってもらいたいのだ。これは、<文学>という語の内包の詰めかたによってちがってくるのだが、どうも児童文学は<文学>だと堂々と主張するには、何か制約が感ぜられる。(中略)児童文学は文学である。ただし、制約された文学である。制約とは、それが児童(少年)のために書かれた文学である、という点にある」大久保忠利『国語・文学教育といコトバの心理』)といった主張がその一つである。
三つは、児童文学と一般の文学をはっきりと区別する立場で、すでにふれてきた鳥越信の見解がその代表である。
これら三つの見解のなかで、もっとも平均的なものは、児童文学を文学としながらも、それは「児童のために」という特殊性をもっているとする立場である。L・H・スミスの文学一般の基準を適用するという立場も、「児童文学の作品がそれ自体の価値をもって存在するという事実」のうえにたってのことである。
いまこのいずれの見解が、より正当なのかを性急に断定することはひかえなければならない。わたしの判断によれば、そのこと自体はさして重要なことではない。児童文学作家の立場からすれば、児童文学を文学として規定したい心情が強いはずであり、研究者の立場からすれば、もっと厳密にそのありかたを規定しようとするはずである。もっとも児童文学作家のなかには、自己の作品を「文学」ではなく「読物」だと主張しているむきもある。そうしたことにも、この問題の複雑さがのぞいているが、さしあたって重要なことは、まず児童文学の具体的なありかたを冷静に見きわめることである。
このとき、どうしても否定することのできない事実は、児童文学が子どもを読者対象にしているものであるという常識的なことがらである。読者対象が子どもであるという事実は、当然に児童文学のありかたを制定する。そこに児童文学の特殊性が生じることはやむをえない。したがって児童文学はおとなの文学とはまったく同質でないことはあきらかである。このことは、だれも否定することができないはずである。にもかかわらず、「児童文学は文学である」という命題が、くりかえしあらわれるのはなぜだろうか。
これは「文学」の中味にかかわってくるものであるが、わたしはそのことを、児童文学でもおとなの文学でも、作家がある作品を創造するメカニズムというか過程というか、創作の構造そのものは同質であるというように考えて入りう。作品がなりたっている基本において、児童文学もおとなの文学も同一である。つまり作家の思想や認識の質、物語の構成やストーリイ、表現・文体の力などが、文学としての質を決定する要素であることは、児童文学であろうがおとなの文学であろうがなんら異なるところがない。ここに、児童文学とおとなの文学を同一の基準においてとらえようとする考えの成立する基盤がある。「児童文学は文学である」という命題も、この基盤にたってはじめて可能である。そして、このことは子どもをとくに意識せず、作家の興味や関心にもとづいて書いた作品が、結果として子どもに楽しまれているという事実が傍証している。いずれにしろ、児童文学にあってもおとなの文学にあっても、それが人間の真実を追求することにおいて、かわりがないということはたしかなことである。わたし自身も、その限りにおいて児童文学がまずなによりも芸術であり文学であるという立場を支持する。
だが、これでは児童文学をおとなの文学と区別することができない。児童文学が「子どものために」という制約を負っている限り、その質的な差をもたらすものを明確にしなければならないのである。
このことを、つぎのようにいいかえてもいい。つまりある作家の表現が児童文学になり、ある作家の表現がおとなの文学になるのはなぜなのかと。
日本においては、児童文学作家と一般の作家はかなりはっきりとわかれ、とくに最近ではひとりの作家がこの両方を書きわけるというケースが数少ないが、小川未明、坪田譲治あるいは芥川龍之介、佐藤春夫、宇野浩二、豊島与志雄といった作家をあげるまでもなく、おとなの文学と児童文学の二つを書いてきた人は少なくない。その場合、おとなの文学と児童文学をわけるポイントはどこにあったのだろうか。
この問いにたいして、すぐに予想される解答はもちろん「方法」の差異である。すなわち、つぎのような見解である。
「児童文学者はおとなの目と子どもの目の、二重のレンズをもっていて、この複眼に映るものを、<子どもの目>にまとめて表現する」(関英雄)。
「リアリズムの世界が、物語として完結するためには、フィクションとして構築される世界が子どもの目で見たものでなくてはならないし、子どもはもちろん子どもとして、おとなが出てくるとき、その大人像は、子どもの目に映じた、子どもの認識の目をくぐった大人像でなくてはならないだろう」(神宮輝夫)。
「児童文学にとりあげられる素材は、その読者対象である子どもにとって、最も価値のあるものでなくてはならない。それが価値のあるものであるかどうかは、おとなの認識できめることはできない。あくまでも子ども独自の認識にあわせてきめるべきである」。「一般に、おとなの文学と子どもの文学を区別する基準は、人によってさまざまあるが、私の考えでは、その作品の論理が、子どもの論理かどうかの一点だと思っている」(鳥越信)、。
これらのことからいえることは、おとなの文学と児童文学の分岐点として、まず児童文学としての「方法」をその作家がとりうるかどうかということである。「子どもの目」、「子どもの認識」、「子どもの論理」を、よく自分のものにしうるかどうかにかかっている。だが、このことはけっして容易なことではない。機械的な単純な作業によって、その「方法」が自由になるものではないからである。
近代日本の児童文学作家たちは、この問題を「方法」といった科学的な観点からではなく、より情緒的、詩的にとらえようとし、「子供の代弁者」となることによって解決しようとした。それによって立つ基盤は、いうまでもなく「いかなる人々にも、産れた村があったように、そして其の村の景色が永久に忘れられないもののように人間は、また子供の時代を一度は必ず経験する」(小川未明)とする万人に共通の「童心」であった。ここから「私は、<童話>なるものを独り子供のためのものとは限らない。そして、子供の心は失わない、すべての人類に向っての文学である」という主張がひきだされてくる。
こうした立場は、小川未明のつぎのことばにもっともよくあらわされている。
「若し真に本当のお伽噺作家があるとしたならば、それはこの子供の心持を自分から感ずるような詩人でなくてはならない。子供が自然を見る眼には、血があり、生命がある。それと同じような真剣さと生命とをもった、想像力をもった詩人でなければ、真に少年の胸に滲み渡るようなお伽噺は書けない」(『お伽文学に就て』)。
つまり、ここでは児童文学作家でありうるもっとも大きな資格として、なによりも「詩人」であることが要求されているのである。これはいいかえれば、古田足日が指摘している児童文学作家の資質の問題ともかかわっている。
ある作家の表現が、児童文学になるもっとも大きな要因のひとつに、資質という個性があることはたしかである。どのような作品をかいても児童文学的な性格をおびる作家というものは存在する。たとえば小川未明や坪田譲治などはそうした作家のひとりであろう。それに、そうした作家の多くが、より詩人的な存在であることも否定できないように思われる。
だがしかし、この児童文学的資質は鳥越信が指摘するように必ずしもひとつのものではない。ひとつはケストナーが「私の少年小説が世界中の子どもに喜ばれているとしたら、それは私が子どものころのことをよくおぼえているからだ」といったような、幼児の頃のことを細部にわたって再現することのできる才能である。坪田譲治にも、これと似た発言があり、そうした才能にめぐまれた作家のひとりであろう。いまひとつは、「人間のすべての行為を支配するものは良心です。正義の観念です。これに最も感動して不純のところがないのは子供の時代です」(小川未明)といわれるように、子どもが一般的にそなえているところの、正義、美、純粋といった抽象的な性格を、直観的に把握し、あるいは共感して、それを単純な構図のもとに表現しうる才能である。こうした才能にめぐまれた作家としては小川未明、アンデルセンをあげることができる。そして、その資質のあらわれとしては、前者がより散文的であるのにたいして、後者はより詩的なものになるという性質をもっている。このことは、おそらく前者が自己の幼年時代をある程度客観的に対象化してとらえるのに比して、後者が現在のおとなである自己のなかに、幼児と共通するものを発見し同化するという作業の差異から生じているのである。もっと別な表現をすれば、前者ではおとなと子どもが一たんきれた関係にあるのにたいして、後者はおとなと子どもの関係は連続しているのである。

(7)
ところで、児童文学作家がその資質にもとづいて児童文学をかくということは、きわめて当然な行為であって、その資質の内容を問題とすること以外はとくにとりたてていうべきこともない。むしろ重要視しなければならないことは、資質と別なモチーフによって児童文学作品を書こうとしている場合である。つまり、なぜ児童文学を書いているのかということである。その児童文学作家の動機、発想について、古田足日は、@人間の根本的にエネルギーに対する関心、A子どもという人間存在に対する関心、B子どもへの伝達、C資質、という四つのパターンに分類した。こうした児童文学の発想の諸形式は、近代日本人のそれとのかかわりのなかで追求することによって、さらにきめこまかなパターンを抽出することが可能であり、それはきわめて魅力的なテーマであるがいまはこれ以上深入りすることはできない。
ここでわたしが考えたいことは、これらの児童文学を書こうとする内的衝動を、その根源においてささえているところの体験についてである。文学というものがある意味で作者の体験を語るものであることは、あまりにもありふれた命題である。もちろん、その体験は日常的な体験ではなく、作家の意識の世界をくぐることによって、日常的な次元から抽象化されたところの体験であることはいうまでもない。したがって、児童文学の土台をなしている体験は、けっしてたんなる幼児期における体験だけを意味しない。いうならば幼児の体験もふくめた、人間の原型についての体験世界こそが、児童文学体験をかたちづくっている。そして、こうした児童文学的体験を基底としてのみ、児童文学という創造行為が可能なのである。だから児童文学の本質は、子どもを子どもらしく写実することにあるのではない。あるいは美しい文章で、現実や人間を詩的に情緒的に表現することでもない。児童文学的体験というものを土台にして、そのうえにさまざまな経験を加味しながら、ひとつの普遍的な虚構の世界をつくりあげていくことにこそある。この児童文学的体験という具体的・特殊的なものを、より普遍的なものにのりこえさせていく力が、とりもなおさず作家の想像力であることはいまさら指摘するまでもないだろう。
児童文学の原型をなしている児童文学的体験が、いわゆる幼児期の体験だけにとどまるとき、それは必然的に感傷的な「郷愁」の文学にならざるをえない、すぐれた児童文学の創造には、必ずそのうえに人間存在の本質についての体験的世界が加味されている。
このことは、たとえばいくつかの「戦争児童文学作品」を思いうかべるだけでも実証されるだろう。ここでは、ひとつの事例として岡本良雄が『ラクダイ横丁』について語っている、つぎのような創作体験のエピソードを紹介しおこう。
「そのころ、私は、埼玉県の川口市のはずれにある農家の物置のような一室を借りて住んでいました。駅から三十分ほども、殺風景な工場街と畑のそばを歩いてつくその家から、毎日東京へ通っていました。夜は、まい晩、星空を見あげながら帰ります。星座表などを求めて照らしあわせたものでした。星の世界の大きさにおどろきました。少年のようなおどろきでした。まずこれが最初のヒントです。幼いころに、夏の夜の床几で見あげた星が、こちらの屋根からむこうの屋根へと動いて行ったことなどを思いだしました。そして、その思い出は、やはり幼い日に、霜にハアハアと息をかけて消している自分の姿などにつながりました。(中略)作品の中で、二ばんめのおどろきとなっている、日本海の丸い石。―それは、私が三十歳くらいの時のおどろきです。たしか、昭和十七年でしたろうか。小川先生の作品の故郷を知りたくて、私は坪田先生のお伴をして越後の直江津の海岸に行きました。私の初めて見た北の国の海でした。なるほど、暗い海でした。けれども、私が一ばんおどろいたのは、海岸にころがっている、大きなにぎりめしほどの卵形の石でした。(中略)次に、作品の中で三ばんめのおどろきとなっている、ラクダイ横丁を知ったのは、逆にそれよりも早く、昭和六年の春でした。家をはなれて初めての東京生活をしよとする私を、当時の帝大生であった兄が、本郷へ案内してくれました。(中略)<ここがラクダイ横丁や。ここで酒ばかり飲んでたらラクダイや>と兄がいいました。私は、その名前のおもしろさに、思わずわらいだしました。(中略)この作品が、比較的、他の作品より成功した原因は、ここにとりあげたイノキチのおどろきが、すべて、私自身のかつて感じたおどろきであったためではないかと思います。(『創作方法と創作体験』<『文学教育基礎講座2』所収>)。
ここには、子どもからおとなにかけて味わった、「人間生活の複雑怪奇さに対するおどろき」が、どのようにしてひとつの作品の土台をなしているかが興味深く語られている。そしてまた、岡本良雄が児童文学をなぜかいてきたのかという問いについての答えも、ここからひきだすことができる。いうまでもなく、それは人間を発見したよろこびであり、おどろきである。こうした「おどろき」が、「子どものおどろき」という視点から統一して表現されるとき、そこに形成される世界は児童文学ならざるをえないのである。
「子どもの目」、「子どもの認識」、「子どもの論理」をもつということは、けっして子どもらしくよそおうことではない。作家の根底にある児童文学的体験を原型として、想像力を働かせながらことばによいって表現することである。児童文学におけることばの問題は、ともすれば文章の平易さとか、作品の長短とか、ことばの難解さといった次元で論議されがちであるが、詩と散文の問題をふくめてより根源的に問われる必要がある。本格的な考究は別の機会にゆずるしかないが近代日本の児童文学が「子ども不在」の児童文学として批判の対象になったのも、そのもっとも大きな原因はその表現が詩のことばによっておこなわれたからである。日本の童話が物語というよりも、より詩に近いものであったことはいまさら強調するまでもないことであるが、詩のことばは対象を意味するたんなる記号ではなく、ことばそれ自体が「もの」として実体化する性質をおびている。そこではことばそのもののもっている表象性、形象性が読むものに感性的なよろこびをあたえるのである。だが子どもは、ことばそれ自体の美しさを味わうまえに、ことばによって描かれている対象の意味を知ろうとする。このことは、子どもの存在がつねに認識の拡大深化を志向し、成長発達していく過程におかれているからである。そこでは対象を指示する符号としての散文のほうがよりふさわしいのである。散文の場合ことばはあくまでも対象を意味し、描く対象とのあいだに一対一の関係が成立しているのが普通である。もちろん、散文が対象を指示する符号だといっても、その符号は作家の主体によって独自に意味づけられている。つまり、作家は散文によって対象や自分をとりまく状況が、自分にとってなにであるかを意味づけ、その正体をあきらかにしていくのである。作家はそうした書くという行為によって自分というものを解放し自由にする。また読者は、その表現された世界を文体を通して読み進めることによって、自身の内面世界に照明をあてられ、自己を解放していく契機を見いだすことができるのである。
児童文学というものは、こうした作家と読者との自由を志向する共通の人間関係においてはじめて成立することができる。そして、児童文学のもっている真の教育性というものは、この作家と作品と読者との緊張関係のなかにおいてのみ存在する。とくに児童文学の場合、このことばの高度の有効性と普遍性は大切にされなければならない。
児童文学の原理的な構造について、いくつかの視点から考えてきた。それもきわめて概括的な方法をとってきたため、なにかがあきらかになったという感じはうすい。児童文学の本質をあきらかにするためには、さらに具体的なものにもとづいた手続きがなとられなければならないだろう。たとえば創造過程の問題や想像力の問題、あるいは言語の問題や作家の気質と社会の関係などが、つきつめてとらえられる必要がある。だがこれらの問題は今後にのこされた重い課題として、多くの人びとが協力してアプローチしていかなければならない。
いずれにしても、児童文学固有の原理や方法は、子どもという特有な存在によって限定されていると同時に、作家の資質や育ちあるいはその生活と時代とに深く関係していることはたしかなことである。そのなかでもわたしは、児童文学作家野認識にもとづいた批評意識というものを児童文学の構造の根底におきたいと考える。いうまでもなく、児童文学作家にとって児童文学を書くということはひとつの実践である。その実践は人間を否定し、疎外する社会構造や事実関係をきびしく告発し対決するという人間的な情熱にささえられていなければならない。そこにおいてのみ児童文学のリアリティーは成立するのである。あるいはそれを児童文学を保証する「詩」といってもいい。児童文学の本質をその根底においてささえている作家の批評意識を等閑視して児童文学のさまざまな条件をあげつらってみてもそれはしょせんひとつの遊びにすぎないのである。
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