『子どもの本のねがい』(山中恒 NHK出版協会 1974)

  〈訓育材料〉としての子どもの本
 私は「読書」という行為は本来、きわめて私的なものだと思っています。そういう意味では、「読書教育」というものと同次元で論ずべき性質のものではないと思います。
 家庭においても、また同じことです。家庭では〈読後処理〉などというやっかいなことを言わないまでも、「書ヲ読ム即チ学」のほうへ近づけて考えがちです。ですから、大方の親たちは「ためになる本」をとねがい、また、子どもの本にはテレビやマンガよりも質の高い、教育的な意義があるはずだと信じきっているようです。この場合の「教育的な意義」という概念ですが、一般にこれを「徳目的訓育効果」のあるものと考えているようです。
 つまり、これこれの本を読めば、うそをつかなくなるだろうとか、兄弟げんかをしなくなるだろう、親孝行をするようになるだろう……といったことに、効き目があるかないかということです、ことによると、そのあたりに〈偉人伝〉が売れたり、〈世界名作童話〉や、もはや日本の児童文学にとっては古典に近くなった、訓育性の強い本が売れる秘密があるのかもしれません。
 ちょっと意地悪な見方をすれば、とにかく本を読ませたからには無駄にはしたくない、なんとか、もとをとりたててやろうということになるかも知れません。
 また、それほど露骨ではないにせよ、「これこれの本を読ませたのだから、これこれのことを学習したはずである」という確証を欲しがる風潮は、子どもの本の専門家といわれる人たちの中にもかなり強固にあります。そういう人たちは、確証のつかめない本は子どもの本として不適当だと考えがちです。
 そのために、作品もどんなテーマで、なにを言わんとしているのか……ということを重視するテーマ主義のようなものが多くなってきていることにも、このこととは無関係では
ありません。作家の中にはわざわざていねいに、そのことを〈あとがき〉で解説する人もいるぐらいです。本など、どう読もうとそれは読者のかってのはずなのですが、著者が読み方まで指導解説するなどというのは児童文学の中だけの珍現象です。それなのに、そういう解説を読んで、「この本には著者のあたたかい心がいきとどいている」などとほめたたえてしまうのですから困ってしまいます。その場合、私は「あたたかい心」なんて感じません。読者に対する著者の「傲慢不遜な心」を感じさせられてしまいます。もっとも、単に児童文学にかぎったことではなく、広く児童文化のなかに含まれるものを見た場合でも、同じような傾向が強いようです。児童文学というものが、多分に教育文化に従属している今日の事情からすれば、これも当然のなりゆきなのかも知れません。
 たとえば、お母さんたちは信用しないかも知れませんが、親たちから目の敵にされているテレビ番組やマンガの制作者たちにも、そうした〈訓育的効果〉を期待する意識はかなり強いのです。そうしたものの企画書などに目を通しますと、「企画意図」という項目には、「子どもに善悪のけじめを教え、正義はかならず勝つという希望をもたせたい」「健康な笑いを盛りこむことにより、子どもをストレスから解放し、ユーモアの理解できる大らかな心を育てたい」といったようなことが書かれています。作品化された場合、こと志と違う場合が出てくるかも知れませんが、一応はそうした〈訓育的効果〉をねがう意図が配慮されているのです。
 つまり、なにによらず、子どもは〈訓育されるべき対象〉としか考えられていないということかも知れません。しかも、始末に悪いことは、それが子どもに対する真の愛情であり、親はもちろんのこと、おとな一般が子どもに対して果たすべき義務であると考えられていることです。ですから、児童文化財が親たちの訓育的な好みに合えば、それで〈良心的児童文化財〉という通行手形をもらえるのです。
 こうなると、うっかり異義を唱えることも考えなければなりません。子どもの読書に対する、母親の愛情を否定したなどと非難されかねないからです。けれども〈子どもを育てる〉ということを考えてみてください。その場合、訓育的効果ばかりねらって、子どもをしめつけることが望ましいなどとはどのお母さんも思っていないはずです。一方的なしめつけからはよい効果が出ないということは、賢明なお母さんならだれでも予測することです。そして、どのお母さんも、子どもをのびのびと自由に育てたいと思っているはずです。また、どのお母さんも子どもを理解したいとねがっているはずです。
 にもかかわらず、現実においそれとそれができないような状況にあるということも事実です。だからといって、現実の状況に押し流されて、世間的風潮に伍して、子どもを訓育的にしめつけることがいいとはどのお母さんも思ってはいません。心ならずもという部分はあるかも知れません。もちろん、そうした状況へ挑戦することは必要なのですが、さし当って、子どもの本から訓育のわくをはずすことから始めたらどうでしょう。なにからなにまで、訓育のわく組みにはめこまれてしまったら、子どもだってたまったものではありません。子どもの本へ、訓育的に仲介することをやめてみるということです。多分、子どもの本を見る目も変ってくると思うのです。
 子どもはおとなの訓育の対象になるために生きているわけではありません。そういう基本的なことは、どの親もわきまえてはいるのですが、そのまま通用しない世の中の仕組みの中に、親も子もとじこめられて、親子の関係が望ましくない方向へと押し流されているのが現実です。それが政治というものの実態です。子どもの本もまた、そういう現実の中のひとつの問題なのです。
 もちろん、子どもの読書に対して、「訓育的な効果だけを期待すべきではないし、子どもに読書の楽しみということもおぼえさせるべきだ」という声は以前からありましたし、読書運動や読書指導をしている専門家たちもそう言います。もっともな意見ですし、このかぎりでは異論はありません。
 ところが、そういう意見を述べている人たちに、「それでは、どのような子どもの本が望ましいのか」という具体的な問題を提起してみますと、意外に〈訓育派〉であることが多いようです。
「子どもの本は、生真面目で啓蒙主義的でありすぎてはいけない。それは子どもの読書意欲をそぐようなことになって感心できない。そうかといって、ただおもしろいだけではいけない。そういうものは、子どもの一次的な感興を誘発するだけに終り、知育の面から見てもあまり生産的とは言えない。理想から言えば、両者を兼ね備えたようなものが望ましい」と言います。ところが、この〈ようなもの〉の果たす役割は、結局のところ、「楽しみながら学ばせる」というところに落ち着いてしまい、最終的に「学ばせる」という目的が出てくるのです。そういう意見の人たちが、理想的な見本として推奨する本が、〈訓育的なもの〉であるのは当然と言えば言えるでしょう。

 私はそのあたりで「楽しみながら学ばせる」という、大変口当りのよい子どもの読書に対する考え方にしつこくこだわりたく思っています。もちろん、読書にかぎらず、子どもが主体的に「楽しみながら学ぶ」ことについて否定するものではありません。ただ子どもに対して、おとなの側から読書を通じて学ばせようとするものがなんであるかと問う前に、「学ばせる」ことの目的として「楽しませる」ことがある、「楽しませる」ことが「学ばせる」ことへの技術にされているということです。
 私自身も、つい先ごろまで、そうした考えに組しておりましたが、そうした意見の人たちと微妙に食い違ってくるあたりをさぐっているうちに、私自身、批判していた〈訓育派〉の人たちと同じことを言っていたことに気づいたのです。同じことを言っているはずなのに、なぜ対立するのか……ということです。もしろん、批判のための批判ということではなかったのですが、たしかめずにものを言ってはいけないと反省しました。
テキストファイル化山児明代