『子どもの本のねがい』(山中恒 NHK出版協会 1974)

 戦後児童文学の冬の季節と花盛り

 少々、古い話から始めます。もう、かれこれ二十年ほど前のことになりますが、そのころ、私は早稲田大学の児童文学研究サークルである<早大童話会>(現在は早大少年文学会)というのに所属して、児童文学の勉強をしておりました。といっても、私は第二学部(夜間部)の学生で、昼間はあるデパートの宣伝部に勤めていて、看板やポスターなどを書いておりましたから、サークルのメンバーとはめったに顔を会わせることはありませんでしたし、研究会へも、年に一度か、二度ぐらいしか出席できませんでした。
 あるとき、メンバーのひとりである上級生から、この次の研究会には作家を招待することになったから、ぜひ出席するようにという連絡を受けました。招待されることになった作家は、そのころの日本の児童文学界の中堅どころとして名の知られた人で、児童文学者の団体の機関誌などに、次々と問題作を発表し、話題の中心になっていたので、私たち後輩の学生にとってはあこがれの作家でした。特に私は、そのサークルの中でも、彼の熱烈なファンだったということもあり、そのことを知っていた上級生が、わざわざ私の職場まで知らせに来てくれたのです。
 いよいよ、その日、私は会社を早退して、それこそ、とるものもとりあえず、会場へかけつけました。すでに作家を囲む研究会は始まっておりました。その作家は非常に温厚な人柄で、にこやかに後輩たちの質問に応じたりしていました。私はといえば、自分がその作家と同席しているという感動で胸がいっぱいになり、とても発言するどころではなく、司会に指名されてもあがってしまい、どきどきして、ひどくとんちんかんな質問をして、満座の失笑を買う始末でした。
 やがて、研究会が終わりますと、私に連絡してくれた上級生が、そっと私をよび、その作家に個人的に紹介するというので、私は夢心地で、その作家と上級生のあとについていきました。近くの中華そばやで、一応、私自身の紹介が済んだあと、自分も、将来はあなたのような児童文学の作家になって創作活動をしたいと、抱負の一端を語りました。
 ところが、その先輩作家は研究会での話し合いとは、うって変った投げやりな口調で、「もし、ほかのことでメシが食えるようなら、児童文学の職業作家にだけはなるもんじゃない」と、忠告とも、自嘲ともつかぬようなことを言い出したのです。
 私は、父の友人の画家が制作上のことで、ひどく苦しんでいたのをたまたま知っていたので、その作家もまた、きわめて、芸術的な創造上の悩みを語っているのだと思いましたから、そのことまでが、ひどくかっこうのよいことのように思われ、ますます、その作家に心ひかれる思いがしました。
 けれども、だんだん話をきいていくうちに、私は勝手にひとり合点していたことに気がつき、とほうにくれてしまいました。その作家のいった言葉の真意は、そういった芸術上の悩み以前の、児童文学者の不本意な生活のことを言っていたのです。
 その作家が言うには、どんなに優れた長編児童文学を創作したとしても、出版してくれるところはないし、雑誌社や出版社からの注文は、ほとんどが<世界名作童話>の再話(リ・ライトと言います)という仕事だし、たまさか、新聞社あたりから創作童話の注文があっても、四〇〇字詰め原稿用紙三枚という、短い、いわゆる<三枚童話>といわれるもので、それ以上長いものを書いても、掲載してくれるのは原稿料の出ない機関誌ぐらいだというのです。
 私にとっては、つめの垢でもいただいて、煎じて飲みたいぐらいにも思っていた、あこがれの作家から、そんな冴えない話をきかされてしまったものですから、なんともやりきれなく、もの悲しい気分になり、重い足を引きずって帰路につき、なん度もためいきをついたものです。
 その時代は、児童文学者でありながら、創作するよりも、<世界名作童話>という他人さまの作品をいじりまわすことでしか、生活ができなかったわけです。
 そのころの日本の児童文学界は、きびしい不景気の風が吹き抜ける<冬の季節>であったといわれています。当時の、創作児童文学の出版状況を見ますと、ひとり活躍していたのは『二十四の瞳』で知られる壷井栄さんぐらいのもので、その壷井さんも、本来は児童文学の専門作家ではありませんでした。そのころの児童文学作家の個人著書は、一九五〇年(昭和二十五年)から一九五四年(昭和二十九年)にかけての年間出版点数は、三点から五点というさびしい状態でした。

 それから二十年、そのときの先輩作家も、壷井さんも世を去り、現在では「日本の創作児童文学は花盛りである。その歴史始まって以来、未曾有の隆盛期を迎えた」といわれております。
「花盛り」とか「隆盛」とか言う言葉が、はたして、今日の児童文学の状況を外見内実ともに、適切に表現するものであるかどうかは、いずれゆっくり検討することとしまして、現在では、その「花盛り」「隆盛」の結果、「子どもの本は大洪水」だといわれています。もちろん、この原因結果は逆で、「子どもの本が大洪水」だから「日本の創作児童文学は花盛りで・・・隆盛・・・」といわれているような気もするのですが、そのあたりにも、すこしこだわって考えてみたいと思います。
 たしかに、街の書店やデパートの書籍売場をのぞいてみますと、そうした言葉を裏づけるように、実にたくさんの種類の子どもの本が並べられています。中には、とても子どもの本とは思えないような、値段も外見も豪華な特装本もあって、びっくりさせられてしまいます。
 特に進入学期、夏休み前、年末年始のころには、さらに子どもの本がふえて、店の書棚の一般向けの図書のところにまで食いこむほどのありさまです。

 新聞の記事によりますと、五、六年前まで、子どもの本と一般書との陳列スペースの割合は、子どもの本1に対して、一般書が9。子どもの本は全体の一割でしかなかったのに、年々、子どもの本は増加の一途をたどり、最近では、その比率はおよそ3対7だというのです。
 値段も一九七一年度の新刊書の平均価格は約五五〇円前後だったのに、現在では、確実に七〇〇円を上回るだろうといわれています。しかも、紙不足や、資材費高騰などが確実に影響して、一冊千円を上回る児童図書がぼつぼつ店頭に並び始めています。
 そして、店頭に並べられている子どもの本も、年間出版される子どもの本のごく一部だというのですから、これもまたびっくりです。
 子どもの本は、学習参考書や、直接、学校の教科に関係のあるテスト集とか、ワークブック、あるいは辞典といったものを除いて、年間およそ八千点、冊数にして、ほぼ四千万冊が出版されているといいます。
 新刊書はそのうちの、およそ二十五パーセントにあたる二千点が出されています。もちろん、この二千点という数の中には、かなり粗雑につくられた<ぬり絵集>みたいな絵本や、いわゆる<赤ちゃん絵本>といったものから、どうひいきめに見ても、雑誌の付録なみとしか思えないような、<クイズ集><ゲーム集><歌唱集>および、いわゆるマンガまで入っています。
 これらの子どもの本の中で、比較的よい待遇を受けているのが創作児童文学書です。「比較的よい待遇」と言ったのは、ほかの分野の子どもの本に比較して、本としての造り方や、外装やデザインなど、いわゆる<造本体裁>にも注意が払われ、大体、一定水準を保っております。また、その造本体裁に金がかかり、口絵などのカラー印刷や、数多く入っている、さし絵などの経費や、発行部数などの関係もあって、値段もほかの分野のものにくらべて、割高になっているにもかかわらず、現在では常識的な慣例として通用しているからです。
 この値段の問題は、編集制作にあたる側でも「もっと安い本をより多くの子どもたちに」と考えるらしいのですが、安い本は売れないといわれているということもききます。私はその実例を知らないのですが、本を買う側の意識の中に「値段の安い本より、高い本の方が中身が高級だろう」ということがあって、安い本は売れないというのです。第一、本など、内容を読んでみなければわからないものですし、こういった買手の意識が変らないかぎり、本はますます高くなるような気がします。
 そして、先ほど申しました、いま「花盛り」で「隆盛」の創作児童文学の新刊書は、子ども向け新刊書全体のおよそ二十パーセントに相当する四〇〇点ほどであるといわれています。<冬の季節>といわれた時代の、年間平均四点という数とくらべてみてください。じつに一〇〇倍です。これはもう、たいへんな数です。
 そのほか、新しく翻訳されて、初めて日本に紹介される海外児童文学の新刊書は、こども向け新刊書全体のほぼ五パーセントといいますから、一〇〇点ぐらいの見当になるでしょう。児童文学の新刊書は両方で五〇〇点です。一口に「五〇〇点」と言いますが、かりに、毎日一冊ずつ読んだとして、一年かかっても、三分の二しか読みきれません。
 こういう現象は、日本の創作児童文学の歴史始まって以来のことだと言われていますが、前にも述べたように、<冬の季節>時代はもちろんのこと、十年ほど前でも、とても考えられないことでした。
 私が本格的に文筆を正業とするようになったのは、一九六〇年春のことですが、その年、私は半年の間に二社から、三点の長編児童文学の著書を出版しました(『とべたら本こ』四月、理論社・『赤毛のポチ』七月、理論社・『サムライの子』八月、講談社)。そのことで、私は当時の児童文学界の話題をさらったものです。「かつてない快挙」とか「その創作意欲は驚嘆に値する」などと、書評紙などに派手に書きたてられたものです。
 その三点の作品は、それ以前、五年ほど前から同人雑誌に発表したり、失業のときの時間つぶしにかかれたものなので、出版の話はそれぞれ別々に進められており、たまたま出版時期が半年の間に集中したにすぎないのですが、それまでに、年間三点の長編創作を出版した児童文学の作家はいませんでしたし、同じ著者の作品を、一年以内に二点も出すような出版社もありませんでした。そういった当時の、子どもの本の出版事情から考えますと、それは、たしかに注目に値するきわめてセンセーショナルな事件だったといえるわけです。
 けれども、現在では、年間三点の出版点数を持つ児童文学の作家ならざらにいます。いや、ざらどころか、ほとんどの児童文学の作家がそれ以上の年間出版点数を持っています。また、年間六点はごくふつうなのです。
 私の場合でも、一九六八年には出版五社からそれぞれに新刊書を出しています(『火と光の子』実業之日本社・『泣こうかとぼうか』あかね書房・『クラマはかせのなぜ』学習研究社・『いたずらいっぱい』偕成社・『天文子守唄』理論社)。けれども、この時書きおろしたのは二点で、他のものは、それ以前に雑誌に連載したものに手を入れたものです。翌一九六九年には絵本一点をふくむ六点を出版しています(『まけないアキラ』大日本図書・『うすらでかぶつ』国土社・『あばれんまとおひなさま』学習研究社・『このつぎなあに』あかね書房・『ぼくがぼくであること』実業之日本社・『ルギーはさけぶ』学習研究社)。このときも書きおろしは二点です。その当時は「粗製濫造」などと悪口をいわれたものですが、七〇年代になると年間五点や六点の作家は珍しくもなんともなくなり、私に対する攻撃も鳴りをひそめてしまいました。

 話は前後しますが、一九六七年、私は二点の著書しか出版しませんでした(『しごかれ四銃士<われら受験特攻隊>』秋元書店・『青春は疑う』三一書房)。二点ともいわゆる児童文学作品ではなく、ジュニア向けユーモア読物と、もうひとつは高校生向けに、私自身の戦中日記を再構成したものでした。その年、私はもっぱら、テレビ映画のシナリオや放送台本を執筆しておりましたので、めったに児童文学の作家たちと会うことがありませんでした。たまたま、なにかのレセプションでいっしょになった、同世代の作家たちと話をしましたところ、創作児童文学のブームだというのです。しかし、来年あたり(六八年を指す)が限界で、子どもの本がダブついて、倒産する児童図書出版社が出るかも知れないというのです。それより数年前に、ばたばた創作児童文学書を出して、倒産してしまった児童図書の出版社があったからです。
 数日後、連載の原稿を取りにきた編集者にその話をすると、その編集者は、そんなことはない、それどころか、ブームはさらに拡大するはずだというのです。私はまっこうから対立するこの意見に、とまどってしまいました。ところが、その編集者が、彼と同行した講演会で私が批判したあることを忘れてしまったのかとたずねるのです。当時、多分に血の気が多くて、いきのよかった私は、いたるところで、景気のよい演説をぶちあげて、あちこち攻撃していたので、自分がなにを批判したのかも忘れてしまいました。彼が私に、そのあることを思い出させてくれました。そのあることについての批判は、当時、まだ、どの児童文学者も論議していなかったことなので、私自身、ぶちあげたあとで、あれは少々勇み足であったかなと懸念したことなのです。このことについては、後でふれることにして、話を先へすすめます。

           
『子どもの本のねがい』(山中恒 NHK出版協会 1974)

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