『児童読物よ、よみがえれ』(山中恒 晶文社 1978)

児童文学・児童図書

 昨年(一九七三年)、例のトイレット・ペーパー騒ぎと期を同じくして、出版界は突如として急激な用紙パニックに襲われた。児童図書の分野ではそのために原稿が揃っているにもかかわらず、シリーズごと棚上げになり、未だに陽の目を見ない企画があるという。
 その用紙パニックの陰謀説はとにかくとして、その際のことであるが、「来年度(一九七四年度を指す)もし〈青少年読書感想文コンクール・課題図書〉の指定を受けた場合、増刷のための用紙の手当をどのようにするかというのが、〈課題図書〉批判派・支持派を含めて児童図書の出版関係者の共通の話題であった。
 事実その時点では、冒頭に述べたように多くの出版物の発刊期日が大幅に延期され、シリーズものも中絶されたまま今日に及んでいるものもある。
 特に〈課題図書〉の場合、指定により当該図書の可成りの数量がはけるということが予め判っているにもかかわらず、用紙不足でみすみすその好機を逸せざるを得ないとなったら、その殆どが中小企業である児童図書出版社にとっては由々しき問題であろう。そして、その場合には、多分他の図書の分として割り当てられたり、プールしてあったりした用紙を動員することになり、その結果、新刊書の発行点数は大幅に抑えざるを得なくなるだろうというのが大方の予想であった。それと仮に〈課題図書〉の指定を受けたにしても、僅かな用紙の奪い合いから必然的にコスト・アップをきたし、相当量の部数が売れたとしても、従前通りの利潤は期待できないであろうという推測もあった。というのは〈課題図書〉の指定を受けた場合、その時点での価格をコンクールの募集期間中、キープすることが義務づけられているからである。その期間はほぼ六か月間であるが、その間に物価の急激な上昇がないという保証もない。では、その際に〈課題図書〉の指定辞退という処置はとれないかという質問に対しては否定的であった。それでもなお、児童図書出版の分野に於ける〈課題図書〉の占める部分は大きいのである。
 だが、周知の通り、コスト・アップという当然と言えば言えるような厄介な荷を背負ってはきたが、用紙の流通事情は、さして深刻な事態にもならず、本年初冬に於いて、ほぼ旧に復した。新刊の点数も例年に比べてやや落ちたが、それほど極端な変化はなかった。そして本年度の〈課題図書〉の指定発表時には、価格問題はあったが、用紙の流通事情は殆ど話題にのぼることもなくなっていた。従って、用紙パニックの時期に延期され、今日未だに刊行されていないシリーズものは、今になって企画の評価が変わったのだろうといわれている。
 その問題の〈課題図書〉であるが、これは売れたことは売れたが、東京及びその周辺での成績は例年ほどではなく、沖縄を筆頭に地方ではかなりの伸びがあったといわれている。にもかかわらず、全体としての売上は昨年に比べて余り芳しくなかったらしい。目下のところでは、それを裏付ける確実な資料が出されていないので、具体的な数字による比率の算出は不可能であるが、〈課題図書〉の指定を得たにもかかわらず、経営不振からの起死回生とはなり得ず、却って条件を悪化させてしまった出版社があったり、予想外の売れ行き不振で、大量の返本をストックせざるを得なくなり、かなり深刻に経営中枢の責任が問われている出版社があるという事実はそれらを雄弁に物語っているかも知れない。
 〈課題図書〉の売り上げはここ数年来驚異的に伸びてはいたが、それが確実な保証になるわけではない。取次店からの請求数がそのまま売上げ実数にならないのは、何も〈課題図書〉にだけ限って言えることではない。もちろん、売れ行き不振といっても、〈課題図書〉以外の児童書に比べたら、絶対数で格段の差があるのだから、黒字になるか、赤字になるかは、制作者側の手腕、裁量次第であって、責任を他へ転嫁することはもともとおかしなことではある。
 また売れ行き不振という現象は、何も〈課題図書〉に限ったことではない。軒並み制作費の急騰で、児童書と一般書とを問わず、価格の値上りは天井知らずの状態にある。そのために、一般の書籍購入率は低下していることも事実で、その影響は当然、児童書にも及んでいる。そんなわけで、いまや〈課題図書〉は児童図書出版社にとっては必らずしも、好材料ではなくなりつつある。昨年あたりまでは、〈課題図書〉の指定内示があると、すぐ地方取次店あたりから、それ等の出版社に対して、祝電が打たれたりしたものだが、場合によって、それは黒枠つきの予告になる危険性もあるということである。

 そういった点もあり、今年の児童書の状況は、やや日和見的緩慢さを示し、出版されたものも、格別評価の高いものはなかった。また評価する側も、一向に顔ぶれは変わらず、例によって例の如く、仲間が仲間ぼめをするだけで、大手筋の新聞の月一度の児童図書紹介欄もマンネリ化していた。目立ったことといえば、多少エッセイ集の増加したことだろうか。しかし、これとても、特筆すべきものには行き当たらなかったようだ。
 ところで〈課題図書〉批判の方も、ここ数年来レギュラー化してしまったようで、変り映えしなくなってしまった。批判の輪がひろがっていけば、主催者側も多少は意に介するかも知れないが、「ああ、またあいつか」ということで黙殺されている。一方、作家の側も、同じようにしか見ておらず、批判者は空しい努力を強いられているのが現状である。無理もない、目ぼしい作家は、殆どこの〈課題図書〉の恩恵に浴しており、共犯関係にあることを意識して黙りこくっているか、その〈課題図書〉の本質に対してまったく無知であるかのいずれかである。
 そうした中で、今年の〈課題図書〉の批判では、ちょっとした変り種があった。社会党の中央機関紙『社会新報』である。共産党の『赤旗』が〈課題図書〉を書評でほめていたのに対して、こちらはかなり痛烈であった。詳しく説明すると、〈課題図書〉がもっとも売れる夏休みの八月一八日付から九月一日付までの間、五回に亘り『課題図書をめぐって』という特集にかなりのスペースをさいている。
 執筆者は「日本婦人会議府中支部・子ども文化研究会」というグループであるが、実際に府中で文庫活動をしている母親たちである。彼女達は実際に書店の店頭で、〈課題図書〉を強引に子どもに押しつけている母親の様子や、感想文コンクールにへきえきしている子ども達の声を取材し、これほど子ども達に不人気でありながら、一方的に子どもに押しつけられている感想文をとる読書運動とはなにかと、「青少年読書感想文コンクール」の主催者である全国学校図書館協議会の佐野友彦事務局長にインタビューする。佐野事務局長は「一年に一度、命がけで読書し感想文を書く。それがその子どもの人格形成に役立つのだ」と恐ろしく大時代的な大見栄を切って見せる。
 もともとこの人はやたらに「命がけ」という言葉を使いたがるくせがあるらしく、これまた主催者の毎日新聞が例年「夏休み読書特集」を組むが、本年も七月四日付けのものに寄稿し、「感想文の出発」と題し、いかなる理由で〈課題図書〉制度を設けたかに言及し、最後に
「それにしても、さすが課題図書だけあって、子どもたちから『おもしろい』『視野がひらけた』といった評価が得られなければ、選んだ値打ちはない。約一ヵ年の新刊の中から、課題を選び抜いて決めるという命がけの仕事が主催者側に課せられることになった。毎月々々出される本を読んで取捨し来年の課題をきめる1年がかりの仕事がもう始まっている。」
 大威張りで自画自賛して見せるが、今どき、「命がけで」などということがあるだろうか?三里塚の農民や、公害病患者の闘いなら「命がけ」である。もし本気で、そうだと思っているなら、「撃ちてし止まむ、大君のへにこそ死なめ」を思い出させられて、なんとも恐ろしい。命がけで子どもに読書を強いるなどはまともな感覚とは思えない。
 話は横道へそれたが、その母親の取材グループが、〈課題図書〉が出版社の競争をあおること、出版資本を儲けさせることは読書運動にとって矛盾ではないかと、彼に質問する。それに対して「そんなことは私たちの関知しないことだ」「いいじゃないですか、良い本が売れて出版社が儲るなら」とうそぶいて見せるあたりは、記事としても、なかなか迫力があった。このあたりは児童図書出版社は肝に命じておいてほしいところだ。全国津々浦々に万遍なく本が行き渡るようにというのは、あくまでも主催者側の希望であって、作り過ぎて返本による山が出来ようと、〈課題図書〉になりそうな傾向の本ばかり作って、〈課題図書〉にならなかったとしても主催者には何の責任もない。これは当然なのである。もちろん〈課題図書〉の指定を受けると同時に新聞に広告義務を負わされることも、広告代理店が勝手にやることであり、「命がけ」でやる〈課題図書〉選択とは何の関係もないのである。
 ついで取材陣の母親たちは佐野事務局長がそれこそ「命がけ」で選んだ「良い本」と称する〈課題図書〉とはどんなものかを確かめて見ようと、可能な限り取り揃えて文庫で子どもたちにすすめて反応を見る。子どもたちはまるで受けつけない。戦法を変えて子どもたちが喜ぶ読み聞かせ方式をとってみる。子どもたちはシラケ、読み手に尻をむけて、他の本を読み出す始末に、続行をあきらめる。つぎに自分たちが可成りの忍耐力をもって読んで見る。それらの本からは、極めて徳目的な道徳教育的テーマしか出て来ないのに?然とする。記事には具体的に作品名をあげ、自分たちの受けた印象がていねいにの述べられてある。そして、
「まったくうんざりしたものです。けっして良書ばかりとはいえない課題図書を、教師も母親もよく読みもしないで、なぜ子どもに押しつけるのでしょうか。それとも課題図書は、貧弱な子どもの読書環境に目をつぶり、見せかけの上品さで飾った夏休みの年中行事なのでしょうか。――そこには児童文学の原点である子どもが不在になっているのです」と読書感想文コンクール〈課題図書〉の実態を鋭く衝いている。
 ついで、その感想文コンクールという運動を学校という現場で担っている教師達にインタビューしようとする。そして取材者たちは教師たちの恐ろしく多忙なスケジュールに舌を巻いてしまう。やっと時間をつくっていざインタビューということになると、当の教師たちは学校側との意見調整もせずに公的な発言は出来ないとものすごい警戒心を剥き出しにし、取材を拒否されてしまう。既にこのあたりに、ものを言わなくなった教師たちがいるということである。取材班の母親たちは夏休みの旅先でも取材してまわる。この感想文コンクールに熱心な地方の教師にインタビューを申し入れる。その教師は〈課題図書〉の感想文は意識過剰からか、心を打つものにめぐり会わない、それは子どもたち自身で選びとった本ではないからだと批判的である。それなのに、どうして〈課題図書〉がまかり通るのかと問うと、教師が忙しすぎて、本の内容を確かめる(読む)ゆとりがないために、どうしても〈課題図書〉に頼らざるを得ないという、きまりきった返答である。無理もない、このコンクールが地方では教育委員会あたりと結びついて、上からかなり強引に押しつけられているのである。そこで母親たちは一歩つっこんで「組合で課題図書が問題になることはありませんか」とたずねる。「全然ありません」という返答である。
 確かに今日の教育問題にかなり高い意識をもって取り組んでいる教師たちも、こと子どもの本になると、極めて消極的になってしまう。逆に子どもの本に深い関心を示している教師はともすれば、トータルな教育問題には余り関心を示したがらない傾向がある。
 最後に、この全国的なコンクールという行事が総理大臣賞を最高賞に据え、時にその表彰式に皇太子夫妻を招いて有終の美を飾るものであり、皇太子の発案であるという「考える読書」という標語を金科玉条の如く振り翳し、「考える暇」などない教師たちを動員して、読書運動と言えば、良いことだと当然考える間隙を縫ってまかり通っている、きわめて政治的かつ反動的な国家主義的な行事ではないのかと大胆な告発を行っているのである。
 実際その権威主義的押しつけの実態を見るにつけ、筆者などは、読書運動に名をかりた売書運動であり、強引な押しつけで、実は「本ぎらいの子ども」を増加させ、果ては「考えない人民共」を作りあげるための権力側の陰謀ではなかろうかと思うことさえある。
 その意味で、文庫活動から、こうした問題に取り組みつつある母親たちがいることは、ある種の安らぎを抱かせてくれる。

 さて、この稿の殆どを〈課題図書〉問題に費やしてしまったが、本年度の児童図書事情ではやはり価格が問題になっている。わずか一年の間に三〇パーセント以上の値上りとなっている。このすさまじいインフレのなかで、児童図書関係者だけは我慢して、めしを食うななどという無茶苦茶な意見は成り立つはずもないが、これは直ちに子どもたちにはね返ることだろうと思われる
 確かに大手筋の何社かは「文庫」という名で、廉価版を作ってはいるが、目下の所、創作の書きおろしはまだこれに参加していない。作家によってはやはり外形的にも安っぽくない本をと主張するが、この際本は外見ではなく内容であるということを一般化する方法はないだろうか。
 また、出版社側の主張によれば、シリーズものといういわゆる規格ものの場合で、部数を増加させれば、それほど極端なコスト・アップをしないで済むという。出版社にしてみても、値上げはした売れなかったでは商売にならないので、妥当な価格を模索しているというのが実状であるらしい。しかし、規格ものになると枚数制限も出て来るし、読者のグレードの問題もあるので、勢い冒険が出来なくなり、ある程度の実績を持つ作家にだけ狙いをつけるようになって来る。
 だから、枚数制限なしに書きたいものを書きたいように書けということになると、こんどは大部なものになり、規格外ということでコストも格段に高くなってしまう。しかも、規格ものであれば、図書館や文庫等を対象にして、セット・セールで売りこむことが可能であるが、規格外ではセット・セールがきかないので、部数も大量には刷れない。従ってその部分はコストにはね返る。ここでもまた新人起用の機会が少なくなり、固定化して行く危険性がある。
 もちろん、こうした問題はなにも児童図書にだけ限ったものではないだろうが、もともと児童文学書というものは、再三問題にしている〈課題図書〉にでも指定されない限り、そうそう売れるものではない。その〈課題図書〉が格段に売れたといっても最高三五万部であり、一般書のベスト・セラーの足もとにも寄れないのが実状である。それだけにコストの問題は、可成り深刻な当面の問題として取り組まれねばならない。
 さて、今年(一九七四年)も目ぼしいものが無くて終わりそうであるが、考えてみると、今年は実力を見込める新人の登場がなかった。今まで述べてきた実状からすれば当然なのかも知れないが、なにやら中休みにはいったみたいなムードである。
 しかし一方、一般の読書運動を見ると、それぞれ個性的な活動を始めており、ようやく地について来たという感じがする。今年は各種の団体が講座を開き、どこも盛会であったといわれている。もっとも、これらの運動の中では、やはり日共系のものが一番実力を持っているらしく、組織加盟といった形式で、殆どの組織がその傘下にある。
 しかも、その中枢にあり指導的役割を果たしているものの中には、この感想文コンクールとのかかわりを持っていて、〈課題図書〉問題には発言をしない。同じ組織中軸にあって、やはり〈課題図書〉批判をしている人物もいるのだが、そのあたりで仲良しこ好しがきくというのも、よくわからない。特別な事情があるのかも知れない。
 だが、一般の多くの母親たちは、子どもの本に関しては殆ど無関心である。つい先頃、子ども調査研究所で行ったアンケートで、児童文学の作家名をあげてもらう設問があったが、大体、坪田譲治、小川未明、浜田広介、宮沢賢治どまりで、ごくまれに石井桃子が登場する程度である。こうしてみると、読書運動に参加している母親たちは、ほんの一部でしかないという実体を思い知らされる。
 今日、中だるみの状態ではあるが、児童図書の出版が一時期とはくらべものにならないほど、点数をのばしていても、本来的な意味での市民権を得て、一般に定着するまでにはかなりの日子を必要とするに違いない。問題は、児童文学がどれほど主体的に文学運動の緊張感を保持し得るかということである。文学作品が図書という商品を媒体にしている以上、商業主義との絶縁は、幻想にしか過ぎないであろうが、児童文学の文学としての成否が商業主義に力点がある現状を打破するにある、ということは、単に作家側に於ける創作活動のみでは解決されない、ということだ。当然その普及活動へもかかわりを持たねばならなくなるであろうし、単に商品を媒体とする商取引の相手としての出版社を考えるといったやり方も検討されねばならないであろう。
 また、文学の問題からはるかに逸脱した悪しき政治主義への闘いも展開されねばならないし、同時に〈課題図書〉問題に於いても触れた教師たちとの共闘も考慮に入れるべきであろう。こうして見た場合、日本の児童文学は戦後第二期興隆期開始(一九六〇年前後)から、ようやく一五年になろうとして、検討されねばならない多くの問題が実は全く未解決のまま放置されてあったことを知らされるのである。時に出版状況即児童文学状況といった判定のしかたがあったが、本来的な意味で等質のものであるべきではないのである。それは〈課題図書〉の実状が示すように、本来の当事者である子ども、つまり読者をすりぬけた所で、どのような問題提起や状況論が展開されようと、おとなの自己満足に終始してしまうからである。
 そうした意味で、児童文学及び児童図書にとっての一九七四年は、個々の側面に於いては、動きがあったが、トータルな意味では、やはり不毛に終始したように思われてならない。

 あとがき

 私自身「児童読物作家」を自称しているが、原則的に、なにが児童読物で、なにが児童文学なのかという基準を求められたら、返答に窮するところである。というのは、私自身の内部に、所詮はおなじものだろうという感覚があるからである。ただ、いまある児童文学といわれるものに、若干のものを除いては、なんとしても好意を感じられないというところに、あえて「児童読物」を旗じるしとして、離脱というよりは、撤退したい願望があったからである。もちろん、いまある児童文学を否定しようというほどの挑戦的な意識はない。むしろ「どうぞ、そちらはそちらで、芸術でも、訓育でも、伝達でも、お好きなようにおやりください。ただ私は、そういうのが嗜好にあいませんので、ご免こうむります」といった程度のことなのである。児童文学が教育文化に従属することにより、教育の晴(ハレ)の場に位置していることから、少くも私だけは撤退したいと願ったからである。
 自分では撤退し、かかわりを持たなくなったつもりでいても、世の中はそうは見てくれないし、児童文学の側からも、なにやかやとやかましい批評がでる。そうしたものに対して、屁をたれたのが、本書におさめられた、〈児童読物・児童文学〉にかかわる雑文である。
 正直なところ、私はこうしたエッセイ集が売れるとは思っていない。子どもの読物にかかわろうとする人口は極めて少い。折角、一般向け図書として出版されても、実際に手にとってくれるのは、私がご免こうむりたいと思っている児童文学にかかわりのある人、あるいは格別に興味を持っている教師くらいのものであろうという気がする。しかも、その数はごく僅かであろう。たとえば、一般に、あまり読書をしないような人でも、現代作家の名前をあげてみろといったら、即座に一〇名くらいはでてくる。ところが、こと児童文学で、現代作家の名をあげよといわれたら、おそらく三名あげるのがむずかしいだろう。つまり児童文学一般がまだまだ一般には知られざる領域であり、児童文学一般も閉鎖された領域であるということである。しかも、私の場合、更にそこから撤退を意図した「児童読物作家」であるということになったら、なおさら、そんなエッセイ集など見向きもされないのがおちだろうという気がする。
 いままでも、こうしたエッセイ集を出してはどうかという話はなかったわけではないが、さきに述べたような理由で、断ってきた。それと、お読みいただければわかるように、どちらかといえば時事的な発言が多いので、まとめたとしても、その背景に関して、更に解説をつけなければならないような結果になりかねない。そうした作業を考えると、エッセイ集を出すこと自体、おっくうになってしまうのである。その意味では、あえて、それに挑戦してくれた晶文社の島崎勉氏はじめ、編集スタッフの諸氏に敬意を表したく思う。
 それはともかくとして、いま、この稿を執筆している最中、ある新聞社から電話によるアンケートを求められた。子どもの読書調査の統計が出たのだが、あれほど読書運動に熱心になっている児童文学が、ほとんど登場せず、上位をしめているのは、マンガとUFO、オカルト、偉人伝であるが、児童文学者として、どう思うかというのである。私はまず、私自身、児童文学者ではないと断り、その結果は当然だろうといった。理由はというから、子どものおもしろがるものがないし、児童文学界の一般的風潮として、子どもがわけもなく喜ぶようなものは、芸術的ではないマイナーなものと見る向きがあるからだといった。調査結果に対する児童文学者の真摯な反省の言葉のようなものを期待していたらしい記者の困惑が目に見えるようだった。もちろん、私は意地悪でそういったのではなく、本心そう思っているからだということを説明した。そして、その状況は当分変らないだろう、とにかく現在はマンガで育った人たちが親世代になってきているし、マンガの普及率に比したら児童文学など、それこそ微々たるもので、それだけに、逆に児童文学者にとって児童文学はやりがいのある仕事ではないか、問題は児童文学者の側にあると話した。ついでに、こんど晶文社から、そういうことについて書いた私のエッセイ集が出ることになっておりますから、ぜひお買上げの上、お読みくださるようにと抜けめなく宣伝しておいたので、多分まちがいなく一冊は買ってもらえるだろう。
 さて、なんによらず、状況がきびしければ、尖鋭化するか、萎縮するか、さもなくば現状維持の彌縫策に頼るかである。要はその状況を主体的にどうとらえて対処するかである。児童読物風にいえば「マサニ暗雲タレコメ風雲急ヲ告グルノ秋(トキ)」である。少年講談の山中鹿之介ほどの勇気を持たぬ山中恒は、口ほどにもなく、ひどく心細くなっている。

山中恒

初出一覧
子ども観の歴史を越えて 《情況》76.7
「子どもはこうあるべきだ」論考 《3・4・5歳》73.6
喧嘩の死滅 《AVサイエンス》74.2
読まない子ども 読まれない本 《読売新聞》76.7.13
児童文学 1976年 《文学年鑑》52年度版. 77.6
児童文学は、いま・・・ 《月刊東風》75.2

児童読物作家を自称して 《日本読書新聞》69.10.20
私はいま・・・、児童文学はいま・・・ 《日本読書新聞》72.4.17
教材「ノボルとソイツ」について 《国語の教育》72.9
なぐらなかった先生 《小三教育技術》73.8
読者からの手紙 《綜合教育技術》74.4
奇妙な文章 《児童図書館》20号.73.11
吉田とし『むくちのムウ』 《児童図書館》21号.74.8
佐野美津男『なっちゃう』 《児童図書館》22号.74.12
小沢正『のんびりこぶたとせかせかうさぎ』 《児童図書館》23号.75.1
わたしの育児観 《読売新聞》75.6.27
夏のくるたびに 《広報まちだ》74.8.1
三十三年前の作文 《児童図書館》23号.75.1
国民学校へのこだわり 《北海道新聞》75.1.28
一枚の賞状 《毎日新聞》75.1.11
八月十五日、そのとき子どもであったこと 《朝日新聞》75.8.14
年をとること 《児童図書館》25号.76.2
脇役登場数世界一の教師について 《図書新聞》76.7.17
お互い執念深いこと 《綜合教育技術》76.11
『佐々木邦全集』第九巻 《児童図書館》26号.76.8
ぼくにとってのサトウハチロー 岩崎書店刊《青いねこをさがせ》解説.77.4
佐野美津男の〈戦後〉 《児童図書館》27号.76.12
岡真史詩集『ぼくは12歳』 《日本読書新聞》77.1.31
子どもはいつも幸せか 《河北新報》77.8.18
憲法を生きて 《読売新聞》77.4.22
「音声資料による実録大東亜戦争史」を完成して 《日本読書新聞》77.11.14
渡辺清『砕かれた神』 《週間ポスト》77.8.12
佐野美津男『イメージの誕生』 《出版ダイジェスト》78.6.1
心に残る故郷の歌 《北海道新聞》78.5.12
小川未明のある童話 《児童図書館》32号.78.7

課題図書の存立構造 社会評論社刊《教育労働研究2》73.10
児童文学・児童図書 《出版ニュース》74.12中旬号

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