『児童読物よ、よみがえれ』(山中恒 晶文社 1978)

 読まない子ども 読まれない本


 最近の子どもたちは本を読みたがらないといわれだしてから、もう何年になるだろう。そのためか、子どもによい本を読ませようというおとなの読書運動は年々たかまってきて、いまではその関係の夏期講座などは、どこでも満員盛況だという。また<青少年読書感想文全国コンクール>を主催している団体の関係者は、調査資料の統計を示し<不読者層>という、なにやら舌でもかみそうな<層>が年々厚くなっていると憂え、だからこそ、一年に一度はまじめによい本を読み、真剣に読書感想文を書く機会を与えることは子どもたちの人生にとって有意義であり、参加校も年々増加し、いまでは二五〇万の応募数を見るにいたったと自賛してみせる。
 しかし、子どもたちはほんとうに本をよみたがらないのだろうか。そんなことはない。書店で見ていると、子どもたちは結構本を買って行く。超能力ものとか、UFOものとか、怪奇もの、あるいは「欽ちゃんのドンと・・・・・・」といったタレントものなど。つまり、なんによらず、面白い本であれば、子どもたちはポケットマネーをはたいて買い、読んでいるのである。
 それでも、なおかつ「子どもたちは本を読みたがらない」ということになると、これはその「読みたがらない本」を問題にしなければならない。そこははっきりしている。子どもが読まないとおとながなげく本は、おとなから見て、いわゆる<ためになる本>で、それを読むことにより、多分なにがしかの教育的効果がもたらされるだろうと思われるもののことであるらしい。つまり子供の側からすれば、嗜好の問題もあるが、どちらかといえば、きまじめで、面白くない本ということになりそうだ。
 これなら、読みたがらないのは当然であるし、読みたがらないという現象もきのうきょうに始まったことではないし、テレビやマンガと関係なく、ずうっとそうだろうと思う。

 ぼく自身の子ども期のまずしい読書体験からしても、そうだろうと思う。ぼくは三年間国民学校で学び、中学二年で、敗戦を迎えた世代であるから、いわゆる「欲しがりません勝つまでは」と耐乏生活をしいられた子ども期をすごした。それでも、戦局が悪化する以前はまだ書店に児童書はならんでいたし、母は毎月のようにそれらの新刊書をぼくの本箱に入れてくれた。いま思うと当時の文部省推薦図書やら、名のある人たちのものであったらしい。にもかかわらず、それらの本はたいがい、初めの方をちょろりと見ただけで、あとは本箱へおさまりっぱなしだった。
 それほど本を持っていながら、ぼくがむちゅうで読んだのは、その当時絶版同様の扱いを受けていた、いわゆる大衆派児童読み物の本であった。もちろん、そんな本は書店に無いので、兄や姉のいる同級生から借りた。それもなかなか貸してもらえず、そのため、万引きの手伝いやら、宿題の請負やら、いまだに痕跡を残す悪性のできものをうつされた体験もある。しかも、そんなにまでして手にする本はぼろぼろで、本というよりはページの塊と形容したいようなしろものだった。いま、それらの本の復刻やら、文庫やらを見ると、そのファナチックな忠君愛国思想や、教育勅語的訓育思想にへきえきするが、それを上回る読者への猛烈なサービス精神と熱っぽい呼びかけが、当時のぼくらにとって、たまらない魅力だったのだろうと思う。

 その意味で言えば、現在だって同じである。おもしろければ子どもはポケットマネーをはたいても本を買う。だが、教育的効果が予測される教材的なものにはそっぽを向く。しかも一番困るのは、おとなたちが子どもが喜ぶそれらのものを「子どもの本」として認めたがらず、認めても<通俗的なもの>として、市民権を与えたがらないことである。そして、子どものころの読書体験がその子の将来に決定的な影響を与えるというような迷信に、大まじめで支配されていることである。もちろん、そうしたことを全面的に否定はできないだろうと思うが、もしそれが真実なら、戦時下に子ども期を送り、そのころの子どもの本を読んだ人間はすべて、いまだに天皇制ファシズムの忠君愛国思想の持ち主になっていなければならない。
 いま、夏休みが近づき、書店に読書感想文全国コンクール用の銀のラベルをつけた課題図書が、どかんを平積みされている。夏休みになったとたん、このコーナーは親子連れでにぎわい、課題図書が売れることであろう。例年のことながら、ことしもまた、何百万人かの子どもたちが、さして読みたくもない本を読まされ、しかもそれを読んでしまった罰みたいにして、感想文を書かされ夏休みの終わりをさえなく過ごすことであろう。子どもはこれに対し無告の民であるし、やがては卒業するから、年中行事のひとつとしてあきらめているかも知れない。それを思うと気が重くなる。
「あのね、おとなのすすめる本の中にだって、結構いけるのもあるんだぜ」と言ってやりたいと思うが、それすらものどにひっかかってしまうのである。これは子どもの本の作家として、かなりつらいことでもある。読まない子どもを責めるより、読まれない本こそ責められるべきだとかねがね思っているからである。
テキストファイル化浜口富美子