UNIT評論98通信  bT/6


 CONTENTS
 ●オンとオフのあいだで…佐々木江利子
 ●コドモノチカラ…芹沢清実
 ●時評/透かし絵を読み解く−森絵都『カラフル』…佐藤重男
 ●アニメ時評/漠とした未来の中の夢−「ファンシーララ」…高見ゆかり
 
           発行:1998年10月21日 編集発行:UNIT評論98
   連絡先:芹沢 清実 〒360-0026 121-1-603
              E-mail:CXL02651@nifty.ne.jp
          ご意見ご感想などおよせいただければうれしくおもいます。
                    
●論集作成に踏み出すために 〜前回会合の報告●

 第四回UNIT会合は九八年九月四日、新宿区中央図書館の会議室にて行われた。参加者は原・芹沢・佐藤・亀田・佐々木の六名。八十人はゆうに入る広い会場の片隅で、約四時間ほど話し合いが行われた。
 まずは、芹沢より庶務連絡。年間千円という、ごくごくささやかな会費で運営していた当会についに財政不安が訪れた。会報はなるべく手渡しで配付してきたが、郵送料の支出が予算の枠を越え始め、このままでは年度末の論集の制作が危ぶまれるという。そこで、会の内外の方にも幾らかのカンパをお願いすることになった(詳しくはこの項、末尾を参照)。
 その間、前回の会報に寄せられた反応が回覧されたが、多かったのが西本鶏介氏の発言についてのコメントだった。よって、会合の議論も西本氏のこの発言についての再検討から始まる。読書を人間性を豊かにする手段として用いること、大人が子どもに「与える」という一方的な姿勢等、こうした発言に対して、諦観するのではなく、何がおかしいのかを検証し、はっきりと反対の姿勢を示すことが児童文学にかかわる者の一種の倫理として必要なのではないかという論議となった。
 前号の奥山の『1973年のピンポール』論についての討議は、二人の人物の物語が平行して語られる作品の「結末のつけ方」から発し、さらに「生産」と「消費」というキーワードへと発展した。家族とはつまり、男女による子どもという新しい生の生産であり、家族の再生とは、つまりは生産へと結びつくものである。成長、問題解決もまた生産のベクトルに結びつくが、一方、「消費」のベクトルは児童文学の中でいかにして描かれてきたかということから、児童文学における<経済>論の可能性も提起された。
 また、戦後の児童文学シーンにおけるいぬいとみこや古田足日のように、評論する側と創作する側が一致していた時代ではなく、双者が重ならない時代である今、評論と作品とのコミットの必要性が再確認された。
 春に発足した当会も、論文を書き上げるという、具体的な目標の期日が差し迫ってきた。各自が内に抱いていたぼんやりとしていたモチーフや問題意識も、回を重ねるうちにだんだんと輪郭をなしてきたのではないか。通信も五号目、そろそろ仕事にとりかかる時期にきたと、身を引き締める思いで会を閉じた。
                               (佐々木)
 <ご協力ください>
  …やはりドンブリ勘定のツケがまわり、論集送料が不足しそうです。以下の方法でご協力いただけるとありがたく存じます。
  @有料講読者(千円or80円切手12枚で通信全6号と論集を郵送します)をふやして下さい。 
  A80円切手3枚程度のカンパ大歓迎。

              

●オンとオフのあいだで●
 佐々木 江利子 (CZJ06353@nifty.ne.jp) 

▼児童文学をめぐることば/オン▼
 この通信の発行部数は現在二百から三百部、といったら読者の方は驚くだろうか。とはいえ、それだけの部数を物理的に印刷して郵送しているのではなく、そのうち約二八〇部はひこ・田中さんのメール・マガジンとして、電子メールで定期的に届けていただいている。よって、この通信には紙で読む読者とディスプレイ上で読む読者の、二種類の読者がいることになる。
 そのうち、読者からのリアクションは紙の読者からのものがほとんどであり、その多くは直接面識のある人たちからのものだ。印刷されたものの配付先が、ほとんど専門的に児童文学に係わる人々であるのに対し、私にはディスプレイ上で読んでいる見知らぬ二・三百人の人々のことは何もわからない。年齢も性別もどこにいるかさえも全く知らない人々に、自分の言葉はどう伝わっているのか、伝わっていないのか。いや、そもそも私は、ディスプレイ上の読者のことを念頭において書いてきたのだろうか。児童文学について語る時、自分の中で無意識に読者層を限定しているのではないかと、自分自身の反省を込めて思う。
 今回は、通信側に身を置く側として、パソコン通信世界の児童文学に関する状況について、若干のレポートを試みたい。なお、パソコンに関しては万年素人なので、誤り等についてはご指摘いただければ幸いである。

▼インターネット状況▼
 今、漠然と考えているのは、パソコン通信は児童文学シーンをどう変えうるかについてである。ここ一・二年の子どもの本をめぐる状況の中で、雑誌『ぱろる』の休刊と復刊、絵本学会の発足等の動きがいくつかあるが、私が個人的に注目しているのが、パソコン通信における児童文学サイトの増加である。
 例えば、数年前にインターネットで「児童文学」のキーワードで検索しても数件しか結果がなく、出版社のホームページさえほとんどなかったのが、現在は大手の出版社は既に自社のホームページを持ち、電子本屋では直接書籍を買うこともできる。児童文学に関する個人のホームページも日増しに増加し、創作発表、書評、作家のファンページ等々、その内容はバラエティーに富んでいる。これまで雑誌等に発表された書評等を収集しているひこ・田中氏のホームページも着々と増強されているが、今年は新たに「書き込み帳」が作られ、ホームページを訪れた人が、自由に児童文学についての発言をできるようになった。
 また、ひこ氏だけでなく、角野栄子や長谷川集平、工藤直子など、作者が自分のホームページを持つケースも増えてきた。児童文学以外でも、村上春樹やマンガ家のめるへん・めーかーのページは特に活発で、作者と読者のことばのやりとりを読む楽しみもある。こうした「電子」上の作家のことばは、以後の作家研究にどんな役割を果たすのか、果たさないのか。
 読者が個人の研究・調査の成果をホームページ上に発表するケースも増えてきた。日本にはめずらしく児童文学の書誌学の充実したサイトとして、「高橋誠と鈴木朝子のホームページ」の中のトールキンの書誌学的研究がある。このページでは内外の作家辞典を制作しており、その作家一人一人に対する製作者のコメントも興味深い。 個人発信のそうした発表のケースは、ますます増えてくるだろう。また、情報の受信者が発信者とイコールであることと、そうした人物間の相互関係の中で、新たなものが生まれてくる可能性もある。

▼ニフティの状況▼
 ニフティサーブ上では今年の春、「絵本フォーラム」が新設された。フォーラムはテーマごとの会議室に分かれ、それぞれのテーマにそった話題が繰り広げられている。その中に児童文学に関する会議室も独立して設置されている。これまで、SF・ファンタジーや一般文学のフォーラムでマイナーに位置にいた子どもの本が、独立したフォーラムを持ちえたのは大きな動きなのではないか。
 そこでは主に、絵本にまつわる思い出や、なつかしい絵本、子どもに読み聞かせた感想などが話されている。評論や研究という書き言葉で書かれる発言よりも、語り口調での感想が主流であり、雑記帳を読んだり書きこんだりする感じで参加も気軽にできる。中には児童書の編集者もいるが、概ねは子どもの本が好きな主婦や社会人が参加する同好の集まりといった感じである。
 彼らの読書量と発言数は概ね比例関係にあり、中には独自で福音館や岩波書店の児童書目録を制作している人物もいる。彼・あるいは彼女たちの発言の影響は大きい。また、通信上で話題になった本を読んだ人がさらに話題を展開してゆき、ああ、こんな読みがあったかと思う場面もある。
 このフォーラムで話題になる児童文学作品は、『ドリトル先生』や「ナルニア国物語シリーズ」などの翻訳作品や、安房直子、佐藤さとる作品といった、子どもの頃に好きだった本について、あるいはその再読の感想が多い。一方、森忠明や岩瀬成子、荻原規子、森絵都といったYAを視野に入れた作家の新作についてのコメントも目立つ。中でも梨木香歩の『裏庭』や『西の魔女が死んだ』を読んで「癒される」思いがしたという発言は多く、梨木作品に対して斜にかまえがちな自分の視点を相対化するにも役立つ。
 特に、インターネットと違い、ニフティは色も音もない文字だけの通信である。しかし一般的に議論はそう多くはない。会議室には一定のルールがあり、意見の相違はあっても論争には至らない。若干話題に制限があり、ルールにしたがって運営されるフォーラムと異なり、パスワードを知っている者だけが入れるパティオでは、より細かな話題が展開する。雑誌「『日本児童文学』を読む会」のパティオでは、毎号の同誌についての感想や、児童文学に関する辛口な意見も飛び交う。

▼オフ/人にかかわることば▼
 パソコン通信において、情報の受信者は同時に発信者でもあり、読み手は書き手へと転換される。しかし、電子上飛び交うことばは書き言葉よりも話し言葉に近い。
 例えば、ニフティでは誰かの「発言」に、読んだ側がレスポンスを付け、それにさらに枝葉上に反応が続いてゆく。基本的にそれは書かれたことばでありながら、一人の人物への問いかけであり、第三者に向かって開かれた言語というよりも、むしろ対象を明確にした私的なはなしことばで書かれている。私的でありながら不特定多数の読者を持つパソコン通信のことばは、どこかで一人称で語られた物語の様式に類似しながら、より読者への接近を図ろうとする。
 電話は人と人との距離を無化したといわれるが、通信におけるこうしたことばの様式のあり方は、電話という媒体を基盤にしているメディアの特性なのかもしれない。それは、通信のオンラインを離れた「オフライン」上の人と人をつなぐ契機にもなりうる。
 今年三月、日本児童文学者協会研究部の公開研究会の場に、パティオ上でしか面識のなかったメンバーが初めて顔を合わせるという場面があった。初対面でありながら、既知の人物とのやりとりはどこか不思議だ。周囲もその会話を、どこか奇異な眼で眺めていたが、今後もそうした機会は増えるだろう。
 私にとってパソコン通信は「既にそこにあるもの」であり、それを自分が使うか否かにかかわらず、そうした社会環境に自分が置かれていることを負いながら、今後も使用していくものとして受け入れている。先の距離感の変化のような、どこかで身体感覚への影響も視野に含めながら、それが児童文学シーンへもどう作用してゆくか、あるいはいかないのかを、現在の関心の一つにしている。

●コドモノチカラ● 
芹沢 清実

▼子どもの「無力」▼
 年3月に翻訳がでたモーリス・グライツマン『はいけい女王様、弟をたすけてください』(唐沢則幸訳、徳間書店)は、英国批判やゲイのエイズ患者が登場することで話題になった観がある。しかしそうした素材よりも、むしろ気になったのは、主人公である十二歳の少年の形象だ。
 重病の弟を救おうと駆け回る少年だが、アマゾンへ行こうとかバッキンガムに侵入して女王に直訴しようとかの、彼のいかにも「子どもらしい」無謀な試みは、作中で成功するならまだしも、ことごとく失敗することが容易に予測できるし事実そうなる。両親の愛情の多寡を弟と比べていじける冒頭からして、おとなへの依存をあけっぴろげに示しているし、「大事なのは一緒にいること」と弟の力になる方法を教えてくれるのも、これまたおとなである。
 少年のこの「子どもらしい無力さ」が、じつに気にかかるのだ。
 たとえばカニグズバーグ描くところの子どもならば、こうした「無力さ」とは対極のところにいることが多い(用意周到に家出を企て、それを成功させる『クローディアの秘密』など)のに…。日本の戦後児童文学に目を転じても、子どもたちがおとなとは違った道すじで「力」を身につけ成長していく姿を描く作品群があった。
 しかし、よく考えてみれば、じつは「無力な子ども」というのは、伝統的な子ども観でもあったのだ。また、おとなの助力なしには何も成し遂げることができない子どもに「必要とされる」ことは、アイデンティティが揺らいでいる現代のおとなを満足させることでもある。こうして「無力な子ども」は、児童文学のなかで再生産され続ける。

▼子どもの「超能力」▼
 では「力」とは何か。
 すぐにイメージされる肉体的な筋力や運動能力だけでなく、「知能」と総称されるようなさまざまな知的能力も含め人間のもつさまざまな力は、近代においては「労働力」として抽象化される。労働力の再生産という意味で視野に入ってはくるが、ここでも子どもは周縁的な存在である。近代の始まりとともに「見いだされた」子どもは、だからあくまでも可能態にすぎない。いやむしろ、自由と民主主義のもとでの社会進歩という近代のビジョンそれ自体が、可能態にすぎなかったのかもしれない。
 テリー・イーグルトン(『ポストモダニズムの幻想』森田典正訳、大月書店)に指摘されるまでもなく、近代(とその反対物である反体制運動)に陰りが濃くなったとき、人々は好んで周縁に目を向けるようになる。周縁的な存在(イーグルトンが挙げているのは、少数民族や女性、ゲイなど)こそが、体制をくつがえす力をもつものとして注目を集める。
 こうした文脈で、80年代以降ポピュラーになり今も再生産されている子ども像のひとつ、<世界を揺るがす超能力少年>は了解することができる。
 その先駆でもある代表作は、大友克洋「AKIRA」(マンガ連載82年〜90年、アニメ公開88年)である。大友は「童夢」(単行本83年)でも同様に、疎外された周縁的な存在である老人/子どもが(こちらでは団地的日常という)世界を揺るがす物語を描いている。そこでは、他の登場人物に比べて背丈が小さく頭が大きい幼児体型の少年が、容易に人を殺傷できるのみならず、世界の秩序をも揺り動かし突き崩す能力を持っている。ここでは「無力」がひるがえって「超能力」の源泉になっているのである。
 こうした<恐るべき子どもたち>の現代版は、その後もマンガやアニメのなかで再生産され続けてきた。「前世」ブームのきっかけになった少女マンガ、日渡早紀「ぼくの地球を守って」(連載87年〜)にも、謀略をめぐらせ超能力で人を傷つける小学生・小林輪が登場し、強い印象を残した。大友の直系では、この夏公開された劇場アニメ「スプリガン」(川崎博嗣監督)に、野球帽をかぶった小児ながら米国国防省機械化小隊を指揮する酷薄な超能力者、マクドーガル大佐が登場する。ほぼ七、八歳、いかにも子どもらしい容貌の彼らがもちいる超能力は、人を殺傷し世界を破滅に導こうとする邪悪な「力」なのだ。
 一見「無力な子ども」だが、そのじつ世界を揺るがす力を持つ<超能力少年>。
 このイメージは、現実生活の中でいやというほど自分の無力さに直面させられている子どもにとっては、現実を補完するファンタジーとして好まれるだろう。
 「目立たない普通の子」が突然キレる、あるいは世間を騒がす連続犯罪を周到にやってのける。そのとき彼らは、こうしたファンタジーのヒーローになっているのではないだろうか。(そんな誤読をする読者はよもやいまいとは思うが、アニメやマンガが暴力や犯罪を誘発していると言っているのではない。時代の空気として通底するものがあるだけのことだ。老婆心ながら申し添えておく。)
 被支配者が支配者になる。周縁が逆襲する。ここでは「力」は、もっぱら他者を支配する道具=権力としてたちあらわれる。

▼学校化社会における子どもの「能力」▼
 集団におけるヒエラルキーでは、常に力のある者がその上層をしめる。それは本来、集団の維持・存続にとって合理的な選択の結果だったはずだ。
 しかし、上層に独占的な特権がともない、それが明白な事実として集団全体に知られるところとなると、ヒエラルキーの上位に立つこと自体が目的となり、そのための力の獲得が目標となる(とはいえ、これは競争がつねであるような集団においてのみ成り立つものだ。前近代の身分制社会では、特権にともなう代償としての義務−徳や慈善のような−が上層に生じるが、競争社会においてはそれはない)。これは目的と結果の転倒である。
 現代日本のような学校化社会では、「(制度で測定基準を定められた)学力」の獲得によって、ヒエラルキーの上層に立つことができる。こうして、本来の上流階級とはまた異なった意味での「エリート」が生み出される。
 ういうシステムをめぐる、シュールな物語が、今年7月に出た皿海達哉『EE'症候群』(小峰書店)の表題作だ。
 −この世のエリートと称する人たちは、何を楽しみに生き、何を生きがいに生きていこうとしているのだろう。その能力をほんとうにいいことに使ってくれているのだろうか。(p.83)
 この主人公のつぶやきは、転倒したシステムに対する素朴な疑問であり批判だろう。
 引っ越した町で、新しい中学校の入学式にひとりで登校する少年が主人公である。しかし、そこで彼は、ある種「異世界」を体験するはめになる。次々あらわれる人物が、彼に突拍子もない難癖をつけて困惑させるあたり、ちょっとカフカを連想させるストーリー運びである。
 そこは、価値の尺度を「エリート」とまったく別のところにおくことが、異常とみなされる世界である。主人公がとがめられる異常の兆候は、たとえば次のようなことだ。
 みんなと同じ服装をしていない。しかも、そのことに気づかないほど無頓着である。桜の花を、長いことぼおっと眺めていられる(見続ける時間の基準を定め、限度を数値化しているのが、何ともおかしい)。
 ここからは、「正常」とみなされるものからちょっとでもはみ出ると「異常」とみなされる管理社会への批判も読みとれる。
 しかし、それだけではない。
 妙な目に合わされすっかり懲りた主人公は、しっかり者の妹に、言いきかせる。
−「勉強ってな、どんなことがあっても、ほどほどにしとかんといけないんだぞ。
 普通でいいんだぞ。その普通も、特別の普通じゃなく、ほどほどのほんとの普通じゃなくちゃいけないんだぞ!」(p.102)
 ここでは明らかに、勉強することの目的と結果が転倒している。目的となるのは、勉強の結果得られる社会的ステイタス(ここでは、攻撃されないために目立たなくすること)であり、「学力」それ自体ではない。ここでも「力」はそれ自体の使用価値からではなく、他者との関係を決定する要素(すなわち交換価値)としてとらえられている。
 この作品世界では「学力」そのものの内容についてはふれられていない。しかし「エリート育成」を至上命令とする世界で、それに敵対するものとされる「力」がどのようなものかについては、言及している。
 前にもふれた、ぽかんと口をあけて満開の桜に見とれる「力」。
 通りがかりのおじさんに、彼の自転車の荷台からヒモがたれていることを教えてあげる「力」。
 入院しているお母さんの代わりに飼い犬を家族として連れていき、一緒に入学式の記念写真に写り、友だちをつくってしまう「力」。
 つまりは、「生きる力」(70年代後半ころ教育学で論じられた学力論に通じるもの)であり、生きることを「楽しむ力」である。
 こうした諸力を、本来獲得されるべき子どもの「力」として展望するところから、今の日本の児童文学はずいぶん遠いところにきてしまっているような気がする。それだけに、この作品を興味深く読んだ。



時評/児童文学》          
●透かし絵を読み解く ー森絵都『カラフル』● 
佐藤 重男

 森絵都の『カラフル』(理論社)を読んだ。
 ひょんなことから(抽選に当たって)、「死んだはずのぼくの魂」が自殺を図った真(中三)の体のなかに入りこみ、蘇生した真になりすまして家にもどってみると…。
 会社の上層部の逮捕を機に出世した父親、ダンス教室の先生と不倫する母親、弟をいじめる兄の満(高三)。さらには、援助交際をしている中学生ひろかや、うっとおしいほど真にまとわりついてくる同級生の唄子…。まあ、いまどきの世相をそのまま引き写したようなにぎやかさである。
 だからといって、風俗を描いただけの作品、とか、家族の危機を描いた作品といった切り口で語るのだけはやめてほしい。何を描いているかよりも、どう描いているかが問題なのだから。
 この作品は、額面どおりに読んでしまってはいけないと思う。とりわけ、主人公・真の母親、そして中学生のひろかや唄子たちの、これまでの日本の児童文学が避けて通ってきた部分を描くことで、彼女らのパワフルな生き方を肯定し励ますことを通して、読者である専業主婦や女子中学生をも励ましているという構図になっている、そこが読みどころなのだ。
 でも、という声が聞こえてくる。不倫する主婦と援助交際をする中学生が登場してきて、何が励ましだ、という声が。
 だが、といいたい。たしかに、ゴメンナサイで終わってしまうのならそうもいえるだろう。しかし、この母親は懲りない。またしても、たどり着く先には不倫が待ちうけているかもしれないというのに、いそいそと出かけていくのだ。あきっぽい、とかいったマイナス思考では、この母親を理解することはできない。ほんとうに自分のやりたいことは何か、それをどん欲に追い求めていく姿は、もしそれが男なら、あっぱれと賞賛に値するもののはずだ。たとえ社会的倫理に反するようなことをしでかしたとしても。しかし、主婦(母親)には、その賞賛は与えられない。不倫よばわりされるだけである。なんとも片手落ちではないか。
 そしてまた、援助交際をするひろかも立派である。主人公に救われたはずの彼女は、冒険ごっこを楽しんだあと、中年男のもとにもどっていくのだ。ここには、宮台真司らのいうところの「性の自己決定」と重ねあわせたくなるところだ。
 そうしてみたとき、主人公に邪険にされて落ち込んでしまったかのように見えはしたが、なあに猫を被っていただけじゃないか、そう思うと、この母親のたくましさというかバイタリティに圧倒されてしまう。こういうパワーを押さえ込むほうがどこかおかしいのだ。
 一方、ひろかはどうか。「わたし、少しおかしいの」などと主人公の男ごころをくすぐっておいて、しっかりと援助交際を続ける。このパワーもなかなかである。
 唄子もまたしかり。真に対する想いが幻想にすぎなかったのだと気づいたあと、それなら今度こそちゃんと向かい合ってやろうじゃないかというしつこさは心地いい。
 それにくらべて、父親と主人公のなんと矮小なことか。渓谷に釣りに出かけて云々なんて、いつの時代の父子関係なんだ、と思わず怒鳴りつけたくなる。
 さらに、真をいじめつづけてきた兄の満が、弟の真が自殺して運び込まれた病院で、なんとか真を助けようと必死になっている医師の姿に感動し、浪人までして志望先を医大に変えるなど、なあーんだ、父親も兄もいい奴なんだあ、と主人公はわかってあげてしまう。
 にもかかわらず、わたしは、父親や兄たちのそういうところに、危うさとうさん臭さを感じてしまうのだ。あえていえば、作者がまじめに描けば描くほど、男たちはあまりにもナイーブな存在としてきわだっていく。
 この女と男の活力の違い。サバイバル(生き残り)できるのはどちらか、断を下すまでもないだろう。
 いま、時代は、どう生きるかを求めてはいない。どう生き抜くかだと思う。森絵都がいいたいのは、そのことに尽きる。
 そういう意味でも、額面だけからこの作品について何かを語ろうとすると、とんでもない間違いをすることになる。
 そうしてやはり、この作品は、専業主婦や女子中学生に対する励ましになっているのだ。従来の倫理観、つまりいま中高年といわれる人たちの価値観からしてみれば、この主婦や中学生のやったこと、やっていることは「いい」「悪い」でしか判断されないだろう。しかし、いまを、そしてこれからを生きるわれわれに必要なのは、「いい」「悪い」を判断する価値基準ではない。どう生き抜くか、その力こそが必要なのだ。そのことがわたしには、はっきりと透けて見える。



《時評/TVアニメ》         
●漠とした未来の中の夢 ー「魔法のステージ・ファンシーララ」●
高見 ゆかり

 今から十五年前、「クリィミーマミ」というアニメが日本テレビ系列で放映された。
いわゆる魔法少女もので、普通の少女が魔法の力を与えられ、人気アイドルに変身、活躍する話だった。こう書いてしまうと他愛もないが、魔法を通して、夢を現実することの意味を知る、少女の成長物語でもあった。
 その、マミに酷似した作品が、最近テレビ東京系列で放映された。タイトルは「魔法のステージ ファンシーララ」(春日るりか 「りぼん」連載中)。
 かつて「クリィミーマミ」を作ったスタジオぴえろが、新魔法少女シリーズとして送り出した第一作目で、設定、内容ともにマミに非常に似ており、リメイク版と言ってもいいかもしれない。
 主人公は、小学三年生の篠原みほ。みほは「時間の記憶の世界」に迷い込み、そこで出会った妖精を家に置くことになる。そのお礼として「魔法のペン」と「魔法のスケッチブック」をもらって、少しの間だけ大人になれるようになったのだ。
 この、アイテムによって大人になるというパターンは、「クリィミーマミ」以降、同系列の魔法少女ものに共通で、主人公のサポート的存在として妖精が常駐するのも、同じである。
 しかし過去にシリーズとして三作続いた魔法少女もの(魔法少女ものというジャンルは、幅が広く、細かく分類されるものだが、今回は<スタジオぴえろ系>と呼ばれるものに限定させてもらう)と、「ファンシーララ」は明らかに違うところがある。
 一番大きなところでは、主人公のみほが自分の未来に不安を抱いている、という点だろうか。
 自分自身にコンプレックスを抱く主人公はアニメにはよく登場する。しかしみほのように「将来の自分に自信が持てない」という設定は、今まで無かったように思う。
 キャラクター表のみほの欄から引くと、こうだ。
 −将来自分に何ができるのか、自信が持てずに毎日を送る自称「悩み多き少女」。
  打ち解けられる性分ではなく、少し対人恐怖症ぎみである。
 最近の子供たちは、溢れるほどの情報の中に身を置きながら、逆にそのために自分自身というものが見えにくくなっているような気がする。みほにしても、「漫画家」「マスコミ関係の仕事」という夢をちゃんと持っているのに、果たしてそれが自分に実現できるのかというところで疑問を持ってしまっているのだ。
 未来は見えないし、自分の望んだものになれるかどうかは、やってみなければわからないものである。しかし、現実的であるがゆえに、現在の自分から推し量り、その可能性を自ら限定してしまっている。
 みほの抱えているジレンマ(夢を持ちたいと思いながら、その夢を現在の自分の延長上でしか考えられない)は、今の子供たちに共通しはしないだろうか。
 魔法、変身、アイドルになるという設定の割に、「ファンシーララ」のストーリー自体は実はとても地味だった。派手なコスチュームに身を包むわけでもなく、悪と戦うわけでもなく、アイドルといっても下積みから始まっている。
 魔法も無制限に願いをかなえてくれるという性質のものではなくて、「大人になる」と「描いた服が本物になる」の二つしかできない。魔法で「ララ」に変身しても、プロフェッショナルになるわけでもなく、みほはあくまでみほのままなのだ。
 今の子供たちが、安易で都合のいい魔法を受け容れにくくなっているということもあるだろう。しかし理由としては、実は魔法は二の次で、話の重点が置かれているのは、みほの日常だからだ。
 学校での生活、友達との関係、共働きで忙しい両親、出来すぎていて時に反発を覚える姉など、「ファンシーララ」で描かれるのは、常に小学校三年生のみほとその周囲なのである。
 魔法はみほにとって、未来を見出すためのきっかけであり、迷い、考えながらみほが成長していくことがストーリーの核なのだ。その証拠に、「ララ」はトップアイドルにはならない。最初のCDが出て、ファースト・コンサートを終えた所でみほは唐突に魔法を失い、「ララ」は駆けだしのままで消えてしまう。
 というのは、「ララ」がアイドルになるということはみほの可能性の一つで、未来はまだ決まっていないからだ。これからのみほ次第で、道は幾つにも別れ伸びている。そのことを魔法は示したに過ぎないのだ。
 最終話、魔法を失い落ち込むみほは、同じ不思議にであった大人に出会う。魔法は特別なものではなく、だれもが出会うかもしれないものだということ、魔法の終わりは決して夢の終わりではなく、自分の力で続きを見るのだということをみほが知って「ファンシーララ」は終わる。
 日曜日の午前九時半、他局のアニメが終わった後に、ぽつんと島流しのように放映していた「ララ」は、決して視聴率は良くなかっただろう。しかし内容的には、良質なアニメだった。
 「夢の大切さ」という「クリィミーマミ」から続いているメッセージは、今の子供たちには素直に受け取り難いものかもしれないが、未来が漠としている現在だからこそ、「夢を持つのも悪いもんじゃないよ」と言いたくなるのだ。




 Be−子どもと本 例会のおしらせ
 <子どもと本>をキイワードに、新刊本を中心に、ジャンルにとらわれず話題の本をとりあげて話し合っています。ぜひご参加ください。           
 ★毎月第3水曜日、午後6時30分より
  会場:日本児童文学者協会事務局
 (地下鉄東西線・神楽坂駅下車。神楽坂方面出口のすぐ右手、中島ビル5階)  
 ★11月例会=11月11日(水)−今回のみ第三水曜ではありません
  <テキスト>
  森絵都著『つきのふね』
 ★お問い合わせ・連絡先
  平湯克子まで  п放A・03−5376−3281  


 
 ・「UNIT評論98」の次回会合は、11月7日(土)昼12時分より。
 ・この通信は次号bU(12月中旬発行予定)で最終号となります。       
 
     1998.10月発行「UNIT98通信」No.5