短評
あさのあつこ
『The MANZAI』の「おもしろくなさ」
について

奥山恵

           
         
         
         
         
         
         
     
 へんなタイトルで書き始めてしまったが、あさのあつこの新作『The MANZAI』(岩崎書店)をけなすつもりはさらさらない。一気に読めたし、じーんとくる場面もたくさんあった。なによりいいところは、学校という先の見えない場所の不安定さをうけとめつつ、その真っ只中で新しい価値観を提示しようとしたところ。主人公の「ぼく」は、何かあればすぐ「おかしい」とされてしまう中学校になじめず不登校になり、そのうえ父親と姉を同時に事故で亡くすという苦い記憶を抱えて転校する。学校生活を続けるために、ひたすら「ふつう」であろうとする「ぼく」。そんな主人公に対して、新しいクラスの秋本は、漫才の相方になってくれとせまる。文化祭で「ロミオとジュリエット」の漫才をやることになってしまった「ぼく」に、秋本は熱心に言う。「おまえはふつうやないんや」「おれにとっては、特別なんや」と……。ほとんど恋愛に近い二人の関係は、「ふつう」でなければ「おかしい」とされてしまう学校という場に、「ふつう」でなくて「特別」という別の価値観を体現してみせてくれる。
 にもかかわらず、ただひとつ、決定的に物足りなかったこと、それは、この作品の「おもしろくなさ」、つまり、読みながら笑えなかったということだ。「ジュリちゃん、貯金、あんの」/「ありまっせ。郵便局三年定期。株は外国株ファンド」/「すっごい」/「だろ? だから、わたしみたいな百点満点な子が、まちがってもロミオみたいなアホとつきあっては、いけませんて、い・わ・れ・て・ん・の」/「そんな、アホちゃうで。ぼく、りこうやで」/「じゃ聞くけど、おまえ、なに家」/「け? ちょっと、天然パーマはいってるわ」……。たとえば、この最後の場面、文化祭でのロミジュリの漫才。私は、ぜんぜん笑えなかった。これは、単にギャグのセンスの違いだろうか。
 と、とまどいつつ、改めてユーモアということについて考える。ある講演会で、歌人の馬場あき子はこんなことを言っていた。「遊びというとき、人間、自分が、愚かなものだと感じられているかどうか」。それを聞いたとき、私は、遊びや笑い含めてユーモアの感覚というのも、主体がうんと希薄になり愚小になるところに、生まれるのではないか、と思った。『The MANZAI』について言えば、「おかしい」のかわりに「特別」という価値観を提示したところには、貴重な意義を感じる。しかし、それが笑いにつきぬけるためには、さらにその「特別」な関係が、一方ではもっと希薄になり、お互いの愚小さへと解放される必要があったの
ではないか。
 単なる一作品への不満ではない。ユーモアは、私にとって、もっとも興味ある、そして困難なテーマになりつつある。