私の問題意識 一九九九年、八の月から
佐々木 江利子

 時々、ひどく気が焦る時がある。あれもこれもやらなくてはいけないのに自分だけ未だ何も出来ていない、なのにただ時間だけがどんどん過ぎてしまっているような。これは何だろうと思っていたら、それがもしかすると一つの時代の焦燥感かもしれないことに、一九九九年の七の月を通り越してしまった時、ふと気がついた。
 森絵都の『つきのふね』(九八年、講談社)でも、ノストラダムスの予言への不安を心の底で抱えながら生き急ぐ女子中学生や、人類救済のため宇宙船の設計図を繰り返し書き続ける青年が登場する。この物語は、そうした「ある時代が終わりに向かっている」時代全体の気分を映し出した作品になっている。
 こうしたじりじりとした感覚は、大晦日の「今年があと何時間で終わる」あの感じにどこか似ている。大晦日がここ数年に渡って続いているといってもいいのかもしれない。しかし、一九九九から二〇〇〇へと明確に節目がやってくる西暦ではなく、その時の天皇の死によって新しい元号が与えられてきた日本では、「世紀末」という感覚を得るのは今世紀が初めてなのではないか。


 今年の春に結婚(そのごたごたで前期の論集に参加できませんでした。今期こそは形にします)し、戸籍上の姓が小林に変わった。小学校入学前に母が離婚した時、母方の姓に変わったことを含めると二度目の改姓になるが、自分の名前が変わることに違和感を感じたのはこれが初めてだ。前回の改姓で違和感の記憶がないのは子どもの頃だから忘れたというのではなく、小学校入学前は名字で呼ばれない社会生活の中にいたからだと思う。
 迷った末に、四月に入学した白百合女子大学大学院の学籍は小林名にしたが、結局「佐々木江利子」のまま書き続けることにした。「小林さん」と「佐々木さん」の間で、たまに宙吊りになった感じがするけれど。


 現在の自分の問題関心は、漠然としているが「歴史」のようなものへと向かっている。それは単に過去の出来事とその因果関係というだけでなく、ある対象が違う名称で呼ばれることによる変化、役割の変化によって生ずる個人の中の多層的な変化、物語の中の時間の流れ、そしてその時代全体の雰囲気など。言語化しにくいが、無理に言葉にすれば「歴史」と呼べるかもしれないものを、どうやって語るかについて考えている。


 そんなことを考え始めたのは、一つには読みの多様性、多義性といったものへの疑いや不信、自分の中での行き詰まりがあったからだ。ある作品について、作品内で語られたものに意味づけを与えることがイコールとしてその「作品そのもの」を語ることにはならない。どこまでいってもそれは「自分の読み」という他者不在の地点に堂々巡りをしてゆくのではないか。もちろん、それが堂々巡りであることを自覚して回りつづける道もあるのだろう。でも、私にはそれが好きな時に始めて好きなときにやめることができる、勝者も敗者もないぐるぐるまわり――『不思議の国のアリス』のコーカス・レースのように見えてきてしまうのだ。
 また、「作品そのもの」へといくら近づこうとしても、同語反復以外にテクストと「全く同じこと」を語りうる方法が本当はないのではないかという疑い。作品を素材にして何かを語ることもできるだろうが、それでは作品はそのための手段となってしまう。そうではなく、「作品そのもの」を語ることは可能かどうか。と同時に、作品について私が何かを語れたとして、それがどこに向かっていくのかが、今、よく分からないでいる。
 今の私はそうした種々の迷いから一度ちょっと離れ、解釈ではなく事実そのものの記述へと向かいたがっている。例え、「事実」そのものは完全に言語化できないとしても。


 「歴史」について考えるようになったのはそうした自分の手法の行き詰まりからだけではない。南京大虐殺やアウシュビッツは「なかった」という発言の登場や、形骸化した戦後日本の民主主義がもたらした最近のいくつかの国民不在の法案の制定への危惧もその一因となっている。
 いくつかの言説を論拠に積み上げて行き、これまでの定説とは全く異なる説を述べることは論理的に可能なことだ。しかし、そうした「書かれたもの」のみを真としていけば、論の妥当性のみが「事実」の真偽を判断するものに陥ってしまう。言説と言説の鎖は南京大虐殺やアウシュビッツが「なかった」という言語ゲームが「真」として確立しうる時、生存する証言者も物的証拠もない場合、何によってそれを打破したらよいのか。


 また、戦後の日本の民主主義が現在に生きる私たちに何をもたらし、何をもたらさなかったのかという問いは、戦後日本児童文学の形成と現在の児童文学の関係とパラレルになっているのではないか。それは、戦後の「戦争児童学」の意味を問いなおすことにもどこかで通じているのかもしれない。
 例えば、ここ数年、私が気になっているのは、荻原規子、伊藤遊といった戦後生まれの作家たちの作品中で、「天皇」の神性が無意識に肯定されていることだ。と、同時に上橋菜穂子、たつみや章、浜たかやといった作家たちが、時の国家権力が「歴史」を捏造し、都合良く塗り替える過程を主要なモチーフにした作品をここ数年の間に書いている。
こうした作品は皆「戦争児童文学」ではなく、ファンタジーの形式を取っている。例えば、現代の「児童文学」が一九五九年、佐藤さとるの『だれもしらない小さな国』と、いぬいとみこの『木かげの家の小人たち』というファンタジー作品によって具現化したことを考えれば、何のつながりもないとは言いがたいのではないか。
 また、これらの作品を「戦争児童文学」ではなく、「国家」と「個人」をテーマとしてとらえなおすこともできるだろう。


 以上の断片的なことを考えつつ、今期の具体的な作業として、この一、二年は「いぬいとみこ」という一人の人物に焦点を当てることを予定している。いぬいとみこは戦前と戦後の日本をキリスト者という少数派として生き、未明を代表とする「童話」から「児童文学」への生成の過程を評論と作家として関わった。また、書き手であると同時に岩波書店の編集者として、翻訳児童文学の一つの局面を形成している。
 こうした彼女の活動を軸として、戦後日本の児童文学をとらえなおすことができるのではないか。特に、現在、記述されていない事柄に関して、いぬい氏を知る方々に是非お話を伺いたい。自分がこれから先の児童文学とどうかかわっていけるのか、今は先人たちから多く学びたい。
また、同時に現在の児童文学作品――女性作家のものを中心に読みながら「歴史」という視点を交えつつ考えていきたい。何もかも今は青写真にすぎないのだが、今期の終わりには少しでも輪郭を作っておきたい。読者の方々からのご指導、ご指南頂けたら幸いです。今期もよろしくお願いいたします。


〒171-0033 豊島区高田2-8-9-403小林方
              佐々木江利子

「児童文学評論UNIT2001」No.1 2000/01