Q 「子どもの時間」の発想

贋金づくり日記抄・U
『私の児童文学ノート』(上野瞭 理論社 1970)

           
         
         
         
         
         
         
    
*月*日
 三木卓の『ほろびた国の旅』(昭44・盛光社)を読む。
 この旅行者は、なぜ、ほろびた国へ出かけるのだろう。
 地図から抹殺された満州国。この国を「行く」この旅行者の目は、すべての風景を、なんだかおびえたように眺めまわしている。そんな感じがする。憲兵が、あとをつけまわすからだろうか。そうとは言えまい。ぼくら読者は、この旅の間じゅう黒眼鏡をかけるべし・・・と言われているような気持ちになる。
 黒眼鏡の名は「ツミイシキ」・・・だ。
 おかげで、この旅で見る風景は、重苦しくて、暗い。息を殺して、旅行者の後についていく。
 旅行者は、安治、ヤン、コウといった少年に出会う。自分自身やおふくろや、おやじにも出会う。ぼくら読者の好奇心は旺盛だ。直接、体をすりあわせるようにして、かれらの語ることを聞こうとする。しかし、その前に、この旅行者が、かれらとぼくらの間にはいりこんで、先にしゃべりだしてしまうのだ。
《かれらは犠牲者である。しいたげられ、欺かれたものである。屈折し、真の笑いを忘れたものたちである。そして、かれらをこんな状態に追いこんだものは・・・。》
 ぼくらはうなずく。旅行者が、旅行案内人をもかねていることに気づいてうなずく。その一つ一つの説明が、そのとおりだと知っているから、うなずきながらついて歩く。そして、かれとの旅の終った時、ほっとして、呟いてしまうのだ。
「とてもいい旅だった。しかし、あの旅行者がしゃべらずに、あの子どもたちがしゃべってくれたのなら、もっとよかっただろうに・・・。」

 *月*日
 永井明の『ボンボンものがたり』(昭44・理論社)を読む。
 チビの一生で、いちばんいいのは、六さんとリンコ、そのあとの神父さんのそばにいる時だ。サクラコという女ペテン師の出てくるあたりから、なぜ、ぼくはつまずいてしまうのか・・・と考えこむ。
 同じ作者の『終りのない道』(昭44・理論社)を読んだ時、ぼくは、二本足ども、立っていることを忘れるなよ!と、静かな声で言われたような気がした。ごくあたり前のこととして、この二本足で立っていることを、発想の前提からはずしている文学。「理念」という名の頭の先で、歩いている文学。そうした前提の立て方に、『終りのない道』は、もう一歩ひきさがった地点に原点のあることを思い出させた。狂い咲くイデオロギーの花に見とれて、この自明の原点を忘れている文学もある・・・と知った。
 限りある命の、限りなく遠い道を、この旅行者は歩き続ける。旅に出たくても出られない旅へのいざない・・・。
 太田博也の『風ぐるま』を読んだ時、ぼくは、失明の恐怖におびえた。何もはじまらない先に、何もかもが終ってしまう人生の、存在することにやりきれなさを感じた。『終りのない道』は、そのやりきれなさから出発しようとする・・・。
「神様が見ていらっしゃるから・・・」というアンデルセンの思いあがりを指摘したのは花田清輝だが、この旅行者は、自分の旅の疲れを、そんなことばで、かばおうとはしない。『終りのない道』を、広い世界への通路としてつくりかえようとする。『ボンボンものがたり』は、その一つの試みである。しかし、チビはなぜ死ななければならないのだろう。終りのないこの地上で、限りある命の悲しさを伝えるためにか。サクラコは、どうしておしまいになって、チビを前に、悔い改めるのだろう。
「チビの一生は、すばらしかった。でも、チビが死なずに、六さんや神父さんと会う日まで生き続けるなら、もっといいだろうに。終りのない道で、すこし早く終りすぎたチビの命。いや、チビの物語・・・。」

 *月*日
 奥田継夫の『ボクちゃんの戦場』(昭44・理論社)を読む。
 もし5分の1ばかりの箇所で、本を伏せてしまっていたら、ぼくは一生、この作家のことを、稀代の言語無神経使用者と思いこんだことだろう。敬語家め・・・位で片付けたことだろう。目の中にマツゲが一本はいりこんで、気になってしかたがないのに、じっと遠くを見ていろ・・・と言われているような感じ。それが、集団疎開先のお寺にはいったあたりから、だんだん気にならなくなったから不思議だ。描かれている事実。描かねばならぬという切迫した意気込み。この素材と情熱の力が、ぼくの中の言語抵抗感を、ピッ、ピッと、はねとばしていくのだ。
『ほろびた国の旅』では、常に眼鏡ごしに見ることを強要された感じなのに、この長くてびしょぬれの旅では、眼鏡はおろか「目玉をかっぽじって見よ!おしりの穴までのぞけ!」とにらみつけられているような気がする。ボクちゃん、牧野君、朝比奈君たちが、子どものまま、子どもの時間を破壊されて、大人の時間に組みこまれていく。戦争というどうしようもない大枠の中で、集団疎開という細分化された枠の中で、子どもでありながら大人の役割を強要される。ボクちゃんたちのこの葛藤はすばらしい。エエカッコシイのアカンタレと、ワルイコトシイのコンジョウ屋が対立し、そこに頭の悪い正義の味方や、シラミだらけのいとしの君。いじめられっ子や裏切り屋。みんな出そろうのだ。禄高制度と中チンチンの会。大人が大人を追いつめる状況の中で、子どもが子どもを追いつめる。その大人と子どもを国が追いつめる。追いつめて殺そうとする。
「夜と朝のあいだに、ひとりの私、
天使の歌をきいている、死人のように」
と、ピーターは歌うが、むかしなら、さしずめ「オトコオンナ」とはやされるこの歌手の歌をもじって、『ああ、集団疎開の歌。またの名は、集団飢餓のブルース』を歌いたくなる・・・。
「夜と夜のあいだに、シラミとわたし、
腹の鳴る音きいている、しけた顔で、
夜と夜のあいだに、シラミとわたし、
指を折ってはくりかえす、
数はつきない、わがオナラ・・・」

 *月*日
 山中恒の『ぼくがぼくであること』(昭44・実業之日本社)を読む。
 菅原洋一の歌に「あなたの過去など、知りたくないの」というのがあったな・・・と、ふと考える。
「これはケッサクですぞ。『とべたら本こ』をしのぐかもしれんぞ。」
 先日、優雅にも、朝の茶房で、今江祥智がこう言った。・・・で、早速、読む。『知りたくないの』などいう流行歌を思い浮かべたのは、谷村夏代(作中の少女)の発言によるのだろう。この子のおじいさんは、かつて警官であり、朝鮮人を見殺しにしたり、日本の脱走兵をつきだしたり、なかなかの過去持ちである。こいつを後生大事にツミイシキの風呂敷で包んで、「見ない方がいい。知らない方がいい。」と隠し続けている。おじいさんにとっては、その個体験は、まずは宝物同様だ。孫娘の母親を半狂乱のまま放置したことや、その事実を隠しおおすことが、価値ある人生であるかのように考えている。おじいさんは、自分の罪意識を、こっそりアメ玉のようになめなめ、生きる支えにしてきた。この秘密をパッと開くと、孫娘の夏代が、浦島太郎のように一瞬にして不幸になると思っている。自分の過去が、他人の現在を変えるかもしれないし、変えるに違いないだろうという確信がある。重くて、危険で、大切で、かけがえのない個体験。それを、夏代は、あっさりと、
「むかしあったことじゃなくて、いまあることが問題なんですもの」
と、肩すかしをくらわしてしまうのだ。おじいさんが、泣きそうな顔をするのも無理はない。イヤイヤと首をふるのも、しごく当然だ。
 この作品のケッサク性は、このおじいさんに代表される大人全体の経験反芻主義への否定・・・変にうじうじした「過去を起点にした発想法」を、一撃のもとに否定し去るところにある。おみごと・・・としか言いようのないさわやかさだ。
『天文子守唄』を読んだ時、ムササビ少年よ、いずこへ・・・と記したが、ムササビ少年のエネルギーは、この『ぼくがぼくであること』の平田秀一によって、また、夏代の静かな姿勢によって、呪縛にみちた現状況の中で、みごとに継承され、その場を占めている。
 一つの家庭が裁かれているのではなく、一つの家庭に集約される現状況が裁かれている。裁くものは、家出、労働、殺人現場の目撃者、生命の危機、火災・・・という試練の中で、『ぼくがぼくであること』を確かめようとする自立の思想だ。
 山中恒のバツグンのおもしろさは、ホンネとタテマエのクレパスを、もののみごとに描いてみせるその構想力にある・・・。(テキストファイル化小久保美香

 *月*日

 今江祥智の『さよなら子どもの時間』(昭44・あかね書房)を読む。
 ずっと前、子どもの本を読む会で、いぬいとみこの『みどりの川のぎんしょきしょき』(昭43・実業之日本社)を取りあげた時、教育学専攻の田中さんから、「この作品の子どもは、いい子すぎる。犬のミミに教えられるまで、川の存在を知らなかったなんて受身すぎる。ぼくの子どものころは……」と、子どもの時代についての反論が出たことがある。
 孤軍奮闘、ぼくひとりが、いぬいとみこの作品を背にして、田中さんに、ひとつの反論をした記憶があるのだ。この『さよなら子どもの時間』を読んで、ああ、あの田中さんなら、きっとまた、この「子どもの時間」にひっかかるだろうな……と思った。

 健の子どもの時間は、それほど体験べったりの子どもの時間から、それたところで進行しているのである。田中さんのような「いたずらっ子」の、思いもおよばぬ次元で進行していく時間なのである。たぶん、元気のいい田中さんなら、いたずら一つしない健。レモン色の服を着た少女に、ほのかなあこがれを抱く少年を子どもらしくない……と言うだろう、(いや、言いそうな気がする)と思った。
 健の子どもの時間は、おじいちゃん、おばあちゃん、おとうさん、おかあさん、にいさん、ねえさん、ばあやさんという大家族(と言うほどではないが、平均的な家族構成)の中で成立する。いわゆる保護者同伴の世界なのである。「きみんところはいいなあ。」と、弘くんに言われて、「うん。」とも「そんなことはないよ。」とも言えない健。みんないつも家を出はらっていて、ばあやさんだけしかいない健の家。それを、健は、つまらないなと思っている。弘くんの方が、母ひとり子ひとりの家庭なのに、うんとしあわせだなと考えている。
 子どもの時間が、家族の交流の中に成立する発想を、仮に、保護者同伴の発想法というなら、こうした保護者同伴の発想のほかに、子どもが、大人を拒否した形で、自分だけの世界を持つ、もうひとつの「子どもの時間」の発想法がある、と言えるだろう。
 今江祥智の作品に即して言えば、『あのこ』の世界は、後者の発想に支えられている。「あのこ」は馬と話せるという独自の世界を持っているし、太郎は「あのこ」のことを大人の介在なしに、自分の世界の真中にすえて凝視している。
『さよなら子どもの時間』が、前者の発想であることは言うまでもないとして
も、それだけで、この物語が、温室育ちの「子どもの時間」と言い切れるかどうか……。
「あとがき」の中で、いささか憎しみをこめて戦争を語る作家が、なぜ、温室栽培のような「子どもの時間」を設定するのか……。
『山のむこうは青い海だった』の主人公を思いだす。山根次郎は、シューベルツの『風』ではないが、ただひとり旅に出た。1960年の暗い政治的季節に、さわやかな出発の思想があった。
『さよなら子どもの時間』にみられる、大人に支えられた「子どもの時間」はなかった。
 これは、中学一年生と小学校四年生の、年令的相違によるものだろうか。山根次郎が、もはや「子どもの時間」にさよならをしているからだろうか。そうではなくて、ぼくは、今江祥智における「子どもの時間」の受けとめ方、考え方に、これは関係があると考えるのだ。
『山のむこうは青い海だった』からほぼ十年。この作家の試みてきたものは、「子どもの時間」の一種の純粋培養ではないか……そんな気がするのである。
 にくまれっ子やいたずらっ子。あるいは、大人の状況に左右される子どもたち。そうしたものを、そっくりそのまま引き写すことによって(あるいは、想定することによって、)「子どもの時間」を描いたことになるかどうか……。状況の中の子どもを描こうとして、子どもの本の作者は、状況報告書を作製することが多いのである。いや、それにもまして、状況の中の子どもへの肉迫が、子ども独自の世界を、大人の心情と問題の中に拡散させることが多いのである。大人の心情で子供の心情を代置する、あらっぽい発想法が、しばしばある。
 今江祥智は、リアリズム児童文学が持つ、たぶんに危険なこの落し穴に、すこぶる批判的な視線を走らせているきらいがあるのだ。
 理念の重みが、主題を限定し、主題の限定が、作家の構成力を束縛する……と言えばいいか。「現実」という名の重力に、作家個人の発想法が狭く小さく押しひしがれること。その結果、本来子どもの文学が所有しているはずの「子どもの時間」が、いつのまにか、「大人の時間」に押し潰されてしまい、どうしようもない擬似児童文学が生まれでるのではないか……。
 今江祥智が、「子どもの時間」を純粋培養しようとする基層には、右のような疑問、右のような危険性に対する警告、あるいは、プロテストがあるように思えてならない。
 『山のむこうは青い海だった』においても、もし描けば描けたはずのロウ・ティーンのどす黒い心情や生活は、冷静に排除されている。「大人の時間」に通用するもろもろの要素を、なぜ、「子どもの時間」に、主役づらさせて登場させる必要があるのか。
 短篇集『黒い馬車』の第1部≪夜の物語≫には、『メリー・ゴー・ラウンド』や『夕焼けの国』のように、「子どもの時間」におおいかぶさろうとする「大人の時間」の黒い影を描いているものもある。しかし、それはあくまでも黒い影である。すっぽりと、「大人の時間」に包み込まれた「子どもの時間」ではない。また、主人公の子どもを通して、黒い影の告発にのりだそうとするものでもない。文字どおり、子どもの心情世界を描くことによって、その心情世界にさし込んでいる影を、そこにあるから描かねばならなかった……という方法で描いているのである。
 もちろん、この方法は誤解を招きやすい。『メリー・ゴー・ラウンド』に即して言えば、戦争あるいは戦争時代をさえ、叙情的にしかとらえなかったのか……という、肩ひじいからした「社会科グループ」の誤解を生むだろうし、いまひとつは、戦争あるいは戦争時代をさえ、美しく夢みる心で生きぬいたリリカルな作品……という、「星菫派グループ」の誤解を誘発するだろう。
 しかし、ぼくは、この誤解を、どうこういう気はない。常に大人の価値観から子どもの価値観を見おろしていると、「子どもの時間」それ自体を、独自の時間として描こうとする今江祥智の発想法を、ついに理解しえないのだ……と言うしかない。

 *月*日

 『さよなら子どもの時間』のことを考えているうちに、変な方向に日記はそれた。もとへもどって、純粋培養の話を書こう。

 子どもには、子どもだけが持つことのできる論理というものがある。『ボクちゃんの戦場』にもどって言えば、牧野君というガキ大将の中に、それがよくあらわれている。
 日本は米英を相手に決戦をしている。非常時だ。だから、どんなに苦しいことがあっても、それに耐え抜き、お互いに助けあわねばならぬ。それが非常時日本の少国民の正しい生き方だ……。
 これは、大人の論理である。ホンネとタテマエの二重構造を許す成人社会の論理である。教科書的発想というふうに言いかえてもいい。
 主人公のボクちゃんが、牧野君につけ狙われる原因の一端には、この大人の論理の代行者ということがあるのだ。級長である故に、タテマエに忠実でなければならぬ……という姿勢。ボクちゃんが、決戦下の少国民の模範に近づけば近づくほど、子どもの世界から離れて行くという矛盾。牧野君のいじわるは、意識せずして、その偽善性をついている。
 子分をつくるために、禄高をきめて、人に与える牧野君。たかが紙切れに書かれた文字にすぎないではないかと、笑いとばせるものはさいわいなるかな、である。ついに、「子どもの時間」を理解できない仕掛けになっている。裏づけのない飛躍した発想。意外な悪知恵。すべて子どもの時間の論理なのである。
 なぜこんな話を持ちだすのか……というと、子どもに独自の論理があるように、独自の心情があることを言いたいためである。解りきった話だと、人は言うかもしれない。しかし、この解りきった話が、意外に欠落していくところに、今江祥智の出番があるのだ。
 『あのこ』は疎開っ子の物語である。
 奥田継夫の『ボクちゃんの戦場』も疎開っ子の物語である。
 ところが、短篇・長篇の違いは別として、この二つの疎開っ子の物語には、はっきり異質の発想法がある。このことは、誰しも気づくはずである。
 ロマンティシズムとリアリズム……などと割り切ることはよそう。レッテル一枚で片付けることは、文学史家にまかせて、もう少し、作品の構造を検討してみたいのだ。
 『ボクちゃんの戦場』を一貫するものは、絶え間ない飢餓感である。それはなまなましいばかり、作者によって全面に押しだされる。食い物のうらみは恐ろしいというが、食い物をめぐる争いは、もっと恐ろしい。ビアフラの飢餓を持ちだすまでもなく、食えないことは悲惨である。その悲惨さが、『ボクちゃんの戦場』に、執拗なばかり提示される。
 ところが、同じ集団疎開の町っ子を登場させても、『あのこ』の方には、このうらみつらみが、もののみごとに消去されているのである。「あのこ」が、馬と話せる……と言う。そこで、太郎の馬にひきあわされる。そのあたりで、「ふん。馬さひいてもどって、食おうつうのか。」と、村のわんぱくどもが嘲笑うにとどまるのだ。この作品の作者も、おそらく、戦争のもたらす空腹感を充分に体験しているに違いない。それにもかかわらず、『あのこ』の作者は、あえてその体験を全面から払拭するのである。
 町の疎開っ子と村のわんぱくどもの葛藤も、おなじく、ずうっと背面に押しやられる。引率の先生も、疎開地の風景も、その戦争時代をのし歩いた大人たちも、わずかな添景の位置にまで後退させられる。そして、名もなき少女と少年太郎の世界が、しりぞけられた「大人の空間」にかわって、全面に押しだされてくる。しかも、それは、メンタル・スケッチの形で、(太郎の心象風景の形で)クローズ・アップされるのである。今江祥智の描いている世界は、(いや、描こうとしている世界は……、)外側から眺めた少年少女ではない。内側から眺めた少年少女の世界なのである。戦争も、それに付随する空襲の惨劇も、すべて、子どもの心象風景の中で把えられる。言いかえると、子どもの心情世界に垂直に下降することによって、子どもが子どもなりに吸収している外界の諸要素を、(あるいは、状況を……、描出することが、「子どもの時間」と「状況」とを共に表現
することになる……という発想法である。
 子どもの時間は、多様である。論理が、外側からくるタテマエにからまれて、奇妙な悪行でホンネの浮上を志すように、心情の世界も複雑な方向性を持って、タテマエの束縛からすり抜けようとする。冒険。英雄。戦士。殺戮者。独裁者。魔法使い。いくつかの変身を重ねて、心情は空想の通路をかけめぐる。この心情の基層に、今江祥智は、白い花と馬の姿をみつけるのである。かけめぐる自由のイメージ・馬。ゆれ動くつかの間の美、愛のイメージ・花。『あのこ』の中に描かれているものは、少年の中に疼く「あこがれ」である。白い花の姿としてしか表現しようのない「子どもの時間」の愛のいたみである。
 あのこ……は、それ故に、名前すらも与えられない。みどり、ゆか、はな、ゆき、ちず、かな、ふみ、ゆり、めぐみ、さよ……無数に存在する現実の少女。その少女のむこうに少年が夢みる少女である以上、あのこは、あのことしか名付けようがないのだ。あのこ……と呼ぶことによってのみ、漠とした少年の心情世界は表現できるのだ。「子どもの時間」の「あこがれ」とは、そのようなものである。現実の少女は、馬と話す不思議な力などそなえていないとしても、(大人の時間の当然の帰結だ……、)少年の中の「あこがれ」は、そうした不思議さを自然のうちに受け入れる。馬と共にかけめぐる。
 形を与えられる以前の愛の姿。意味を確認する以前の自由の姿。『あのこ』の
中に描かれているものは、社会的規範の中で、大人によって承認される以前の、「子どもの時間」の心情である。その心情がゆれ動く姿である。
 作者は、少年のゆれ動く心情を通して、戦争に達する。少年の心情の疼きを通して、その悲惨さに触れる。あのこは、現実の世界では被爆死するとしても、少年の心情の中では、白い馬となって消え去るのである……。
 現実にはありえない話だとしても、少年の心情世界ではありうる話。この「ありうるだろう世界」のひろがりを描こうとすることによって、ぼくは、今江祥智の発想法を「純粋培養」だと考えるのである。
 それでは、『さよなら子どもの時間』については、どう言えばいいのか……。(テキストファイル化塩野裕子)

*月*日

 温室栽培のような「子どもの時間」……と、先に記した。この規定の仕方は、六人の大人に囲まれた一人の少年……という、物語構成上の枠組みから来ている。しかし、健を取りまく六人の大人たちは、果して健を保護しているのだろうか。
 弘くんに「いいな……」とうらやましがられる健は、実は、さっぱり家族のものにかまってもらってはいないのである。病気になって、はじめて家族のものが顔を揃える程度で、健には、ばあやさんしかいないのである。そんな健に、六人の大人たちが、こもごも話を聞かせるチャンスがやってきた時、「うしなわれた子どもの時間が、まとめてかえされた……」ように思うのは、健本人なのである。それでは、健には、その時まで(小学校四年生の冬休みまで……)「子どもの時間」が無かったのかというと、そうではないだろう。健は、家族からかまわれないままに、ひとりぼっちの子どもの時間、ばあやさんといる子どもの時間、あるいは、弘くんといっしょの子どもの時間を持っていたに違いない。それにもかかわらず「子どもの時間」が失われていた……ということは、それまでの「子どもの時間」が、年令的、肉体的、物理的、教科書的、外面的「子どもの時間」だったことを意味する。いたずら、いじわる、だましあい、なぐりあい、悲しみ、よろこび……などをそなえながら、健の内面においては、みたされないものがある、そんな「子どもの時間」だったと言える。健の求めているものが、家族同伴の「子どもの時間」と言うなら、多少欠ける顔はあるにしても、日を重ねるうちに、交互に同伴体験は持てただろう。それにもかかわらず、みたされない気持ち、欠落した「子どもの時間」というのは、心情の問題であろう。健の内部にあって息づいている心情の世界……。不定形なまま、さまざまな可能性をはらんでいるその心情に、形を与えるものがなかった……ということになりはしないか。あこがれや不安や、さびしさや悲しさ。それらの心情が、未分化な状態で交錯し、おののいていること。何が価値あるもので、何が美であるか。照合しあうものもないままにゆれ動いている状態。そこに一筋の、あるいは二筋の、空想の通路が示されるだけで、その混沌の心情は、開放の戸口、あるいは具体的な姿を自分なりにつくりあげて、飛躍昇化したに違いない。この形のないままに、(また、形をつくりえないままに、)ゆれ動く心情……これを「失われた子どもの時間」と、健はよんでいたと、ぼくは考えるのである。
 こう言えば、現実の子どもは、自分勝手なイメージをつくりあげる。つくりあげてはくずしていく。友達のことば、テレビ、マンガ、大人の私語をきっかけに、形は、いくらでもつくることができる……と、心理学者は言うだろう。事実、チュコフスキーの『2歳から5歳まで』に掲げられている幼児の連想、イメージの構築化の例は、無数にある。それはそのまま、ぼくらのまわりの子どもの中にも見ることができるものである。だから、健にも、当然、それなりの心情の形象化はあっただろうし、あるはずだ……という意見には賛成する。ただ、さまざまなヒーロー、さまざまな方向に構築できる子どものイメージには、断絶的、衝動的、無意識的な性格がある。イメージの氾濫や交錯、あるいはよりマイナスに働くイメージのクローズ・アップによる不安の進行、混沌の拡大再生産のあることを考えてみる必要はある。もちろん、これと同時に、単一映像による心情の不安定な安定もあるわけだが、健にもどって言えば、「子どもの時間」の喪失とは、そうした未分化な情念とイメージ……これらに、形を与え、子どもなりに、価値の基軸を求める手がかりの喪失を、失われたもの……としてとらえていた……と考えられるのだ。
 さらに付け加えて言えば、こうした健を登場させることによって、今江祥智が、健だけではなく、健につながる現代っ子の、「子どもの心情」を描出しようとしたこと、さらに、みずからの「子どもの時間」をも、ここで重ねて取りあげようとした点に、温室栽培的な「子どもの時間」が成立する。
 ぼくが、純粋培養と言うのは、この夾雑物を排除した原型追求意識に起因するのだ。ひ弱な過保護の少年の、生活の設定を言うのではない。未分化な心情に形を与えるための枠組み。それが六人の大人であり、六人の「かたりべ」の存在であると、言っているのだ。
 奏敬が、いみじくも語ったことは、恐山の「いたこ」ということだが、「いたこ」が死者の声を受けつぐ存在であるのに比べ、なんと今江祥智の場合には、生者の声にみちていることか。陰々滅々たる奈落の底をみるかわりに、ぼくらは、みずみずしい感性の花を、そこにみる。カゴメ、カゴメ……という歌声が、いつのまにか呪文にかわり、「せいちゃん」という男の子の、何の奇異もなく出現する世界。(おばあちゃんの話)「絵姿女房」譚にも似た、海の色の布を織りつづける世界。(かあさんの話)ふっと、まばたきをしただけで、現実の異相に逢着する発想法。(おじいちゃんの話)「かたりべ」が、ことばのあやにしきで一つの世界を垣間見させるわざにも似て、今江祥智は、あこがれや不安、おそれや悲しみといった「子どもの時間」の未分化の心情につぎつぎ形を与えて行くのである。夢と現実の交錯。現実と超現実の交錯。いろいろ規定はできるだろうが、そこに一貫してあるものは、異相の世界は美しくなければならぬ……という意識である。ドス一本に体を託して、一揆鎮圧の侍に突っこむ長五郎。この修羅場の、静かにさえきった表現を見るだけでいい。「ふうわり」ということばの使用どおり、まさに、この修羅場には、スローモーション・カメラでとらえたようなおもむきがあるのだ。それが、ぼくらの中で、緊迫の怒号より、異相の美を感じさせる。「子どもの時間」は、血ぬられたものであってはならぬ。腐臭を放つ、混濁したものであってはならぬ。なぜなら、腐臭混濁、流血陰惨、これすべてみな「大人の時間」のもたらすもの……。たとえ現実に、子どものままにして、「大人の時間」を生きねばならぬ事実があるとしても、本来、「子どもの時間」は、美しくなければならないものだ……。子どもとして生まれることが、どうして暗くて重苦しい、悲しみや痛みであるわけがあろう。「子どもの時間」の混沌たる心情の中には、美しい世界があるはずだ。それを掘りおこさずして、何が子どもの文学か……。言ってみれば、今江祥智の原型追求意識の基層には、右のような思想が息づいているように、ぼくは思うのだ。
         *
 現実の中に異相の美を創造する時、それが、白い花、レモン色の服、海の色の青と、特定の色彩に絞られる点は、今江祥智独自の美意識によるだろう。しかし、限定された色彩感によって構築される世界は、今江祥智を離れて、子どもの心情と交錯する。かれが純粋培養した感性の花が、子どもの個々の時間に摘みとられていって、未分化な心情に形を与えるのだ。

 *月*日
『さよなら子どもの時間』から、まだ、さよならできないでいる。これはとんでもない話である。
 はじめ、一日一冊のつもりで、リラックスな姿勢で、メモふうにこの日記をつけるつもりでいたのだが、自分のしかけた穽にはまりこんだ気配がないでもない。なぜだろうか……と、首をひねってみても、少し遅すぎる。
 直接、現実に対応しようという文学から、完全に虚構の世界をめざす文学に、そのまま横滑りしたぼくの姿勢に無理があったのか。いずれも、現代の課題に対応している点では差異はなかろう。しかし、前者には、「つくりごと」の世界の完成を急ぐより、「つくりごと」の素材である現実世界の、有毒性、イカサマ性、アゲゾコ・二重性の検証を急いでいる気配がある。その被害度、有害度、対抗度の記録を採るのに忙しい。それは「つくりごと」でなければ語れない性質のものなのか。また、子どものための「つくりごと」にしなければならない必然性はあるのか。そうした自問の繰りかえしにかまっておれないほど、切迫した気持ちがある。その点、今江祥智は、「書くこと」の意味を、どちらかと言えば確かめすぎる。「書くことは、創ることであり、創ることは、現実の模写にあらず……。」つまり、この見なれ、聞きなれた日常的世界に、まっこうから対峙する価値のある世界を、刻みあげようとしている。「つくりごと」が、単なる「大人の時間」のデフォルメでも、写し絵でもないことを主張し続ける。「つくりごと」によって、ぼくらの世界を告発することと、「つくりごと」そのものが、ぼくらの世界を告発することの違いであろう。少なくとも今、「つくりごと」の独自性を「つくりあげよう……」としている作家に、「つくりごと」によって、どれほど現実が裁断されたか、「大人の時間」が足蹴にされたか、それを問うことは岡目八目、ひいきのひきたおし、我田引水のおもむきをまぬがれまい。
     *
 ……と、ここまで書いて考えるのだ。
 おそろしい男が横にいる。この男、マレー・バクに、健の家族の話の主人公たちを、むしゃむしゃ食わせているうちはいいとしても、現実に対応しようという主題を、むしゃむしやりだせば、どうなるか。ケンランゴウカ。アイシュウヒソウビ。この今江祥智の色彩に、安堵していてはいけないな……と思うのだ。待ッテロ、今ニ、ヤッタルデ!と、かれは、にこにこしながら、おのが世界のひろがりをためし、おのが世界の構築に、いそしんでいるのである。レモン色の洋服の少女に、いつまで、のめりこんでいるのかいな……と、安心する奴に、わざわいはふりかかるだろう。かれは、座頭市のように、抜く前の不気味さを漂わせている。なあに、ドメクラが一匹……と、やくざのおあにいさん方は、あなどる。叩ッ切るのはやさしい……と、タカをくくる。どっこい、かれの目は、とっくに修羅場を計算している。このチミツなる計算。抑制のきいた構成。これが、『さよなら子どもの時間』の作者なのだ。そして、剣先に漂う妖気こそ、この『さよなら子どもの時間』のはりつめた構成なのだ。バクを見よ!……である。

 *月*日

 ゲープハルトの『どこからかきた少女』を読みかえす。
「名も無き児童文学サークル」の第六回のテーマがこれだからだ。前回、『あほうの星』(長崎源之助)の報告者・坂口さんが、この作品にもみごとな分析をやってみせる。三木さんから、「浪曲的受けとめ方だが……、」と前置きがあって、「少女」肯定論が出る。この肯定論の論旨の中で、一つ気のついたことがある。ゲープハルト肯定の根拠に、ぼくが、今江祥智評価の視点にすえた「子どもの心情の世界」を持ち出していることだ。ゲープハルトに、これだけの評価を与えることは惜しい。『さよなら子どもの時間』について、三木さんの論拠は出されるべきだったと思う。ゲープハルトについては、坂口さんや大上さんの否定論の方がよかったなと考える。
 ミルンの『くまのプーさん』の時は、いかがなるや、と今から楽しみである。
 ゲープハルトにもどって言えば、「何かがはじまる……」予感の、あまりにも末つぼまり的な構成に、ぼくはひっかかっている。宮沢賢治の『風の又三郎』は、ゲープハルトとおなじように、「どこからかきた少年」を子どもの世界に投げこんだ。そして、「何かがおこる……」予感が、そのまま結晶した。又三郎をめぐって、子どもの中に生起する心象風景が、そのまま、ぼくらに「いまひとつの世界」を示してくれた。「つくりごと」の世界が、ぼくらの日常的世界の弛暖した空気を引き裂き、異質の時間の存在を提示した……。
 かつて古田足日は、宮沢賢治の世界も未分化だと指摘した。しかし、「大人の時間」と「子どもの時間」を、明確に分化することは、こうした心象風景を「つくりごと」と共に否定し去ることではあるまい。今日、読者対象を明確に意識した少年少女小説は、多く書かれている。それは、それですばらしい。だが、リアリズムの名において、文学の「つくりごと」的性格を、もし考慮外の問題としているなら、これは、一考も再考も必要とするだろう。児童文学も「つくりごと」の世界をはみだしては、ルポルタージュと化してしまう。ドキュメンタリーに変身してしまう。現実の子どもと、どう関わりあうか……と考える時、そこに生きる子どもにどれだけ近づいているか……ではなくして、「ありうるだろう子どもの時間」を、どれほど描きえたか……と、問うべきだろう。(いや、……とも、問うべきだろう。)
 ゲープハルトに失望したあまり、書かでもがなの一日分の日記まで記してしまった。つくりごと。つくりごと。このことばを、児童文学の創造あるいは発想法と、態度ひらきなおるぼく自身に、わざわいあれかし……と考えている。
 ツマリヤナ。エエカッコシタ言イ方シテモアカンヤナイカ……。マア、アットオドロクヨウナモノ、ツクッテミイヤ……という自戒の言でもある。
  【注】『2歳から5歳まで』は、三一新書・増補改訂版(昭39・抄訳)と理論社版(昭45・完訳)がある。(テキストファイル化武像聡子)