M エーリッヒ・ケストナーに関する覚書

小説『ファビアン』をめぐって
『私の児童文学ノート』(上野瞭 理論社 1970)

           
         
         
         
         
         
         
    
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「この世に生まれてこなかったものも、たいして損はしていない……」と、ケストナーは言う。この世に生まれてきたものも、さほど得はしていない……という発想だ。なるほど。

   これが運命だ
   妊娠と
   葬式のあいだに
   あるものは悩みだけ

 そう呟くかぎり、この世は常に赤字である。あきらめの早い人間は、「勝った、負けたと、騒ぐじゃないぜ。あとの態度が大事だぜ……」と、赤字決算の帳簿を投げだしてしまう。帳尻りのあわない人生に絶望してしまう。しかし、倒産の美学に酔っていて何が得になるというのだろう。夜逃げ、首吊り、一家心中は繰りかえされるだろう。この世に生まれてきたかぎり、損得の計算はつきまとう。それなら、収支決算のあいかねる現実の、商取引きの実態を書き記すことが、せめて、マイナスの人生を知ったものの義務ではないか……。

 わたしが、これから言うことを、しっかりおぼえておいてもらいたい。それは賢さを伴わない勇気は乱暴であり、勇気を伴わない賢さはナンセンスだ……ということだ。世界史には、馬鹿なものが勇敢であったり、賢いものが意気地なしであったりした時代がたくさんある。これは正しいことではなかった。勇気のあるものが賢くなり、賢いものが勇敢になった時こそ、人類の進歩が始めて感じられるようになるだろう。―― 『飛ぶ教室』まえがきU ――

 ケストナーは、赤字の人生の、その原因を抜き書きしながら、同時に、帳尻りのあう人生の明細書を、子どもの本として、書きあげたきらいがある。「この世に生まれてきたもの」が、得をする物語を……。『エミールと探偵たち』(1928)のラスト・シーンで、千マークの賞金がエミール少年に渡される。この大金獲得のことを言っているのではない。勇気と知恵という人間の美徳が、泥まみれになるまで踏みつけられる実人生を前にして、決して、そうはならない今ひとつの人生を、子どもの本の中でつくりあげたことを言っているのだ。ここのところを取り違えると、現実逃避という解釈が生まれる。反俗孤高というケストナー像が生まれる。『独裁者の学校』(1956)の、第七の男はどう叫んだか……。

 ……わたしは何をしたいと思ったのでしょうか。これから何をしたいというのでしょうか。大多数の人たちのために、わずかな幸福、すこしばかりの落着き、一片の自由……これなのです。それが大それたものでありましょうか……。

 そう叫びながら狙撃され、バルコニーから墜落して行く。権力ではなく「一片の自由」に生きがいを求めるモラリストは、ついに救われることがない。この戯曲の前書きで、ケストナーは、「……諷刺どころか、自分の戯画像になり果てた人間を誇張なしに描いた」と記している。反俗孤高の理想主義者が、自分の分身を突き落すだろうか。ナチスが崩壊して、はじめてモラリストの責任が問われているのだ……と言う人は、『ファビアン』(1931)を忘れている。反俗孤高のモラリストは、すでにナチス抬頭の時期に批判されつくしたのだ。それにもかかわらず、ぼくらの周囲にあるケストナー像の、何と反俗孤高のモラリスト然としていることか……。宮沢賢治の横に、常に、「雨ニモマケズ、風ニモマケズ……」の詩を掲げるように、ケストナーの横に、いつも次の詩だけしか見ない読者がいる。

   一時間ごとに毎日気のつくことが一つある
   子どもは正直で善良だが
   大人はがまんならぬ
   ときどきそれを思うと、すっかり自信がなくなる

「童心へ逃げこんだ……」という評価へは、あと一歩である。ケストナーが、文学者として出発した時期と、1920年代後半のドイツの状況をつきあわせればいい。44.3%という失業者総数。いくたびも軍隊が鎮圧にのりだすようなデモと暴動。インフレーション。生産とモラルの低下。ナチスの急速な進出が、『腰の上の心臓』(1927)のまわりに血なまぐさい輝きを放っている。トーマス・マンや、シュテファン・ツヴァイクと並んで、「ドイツにとって好ましからぬ書物」の作者と裁断され、ベルリン国立歌劇場わきの広場で、著書を焼かれるケストナーに結びついて行く。十二年にわたる執筆禁止……。

   むかしは、まったくよく笑ったものだった
   ひとつ、むかしのように笑ってやろう
   そう思って身がまえて笑う

   ああ、なんとぞっとする笑いだろう
   かれはおそろしくなり、いそいでまただまる
   なぜ、もっとほんとうらしくひびかないのか
   と自分に聞く


 この詩でだめなら、『飛ぶ教室』(1933)の禁煙先生や、『エミールと探偵たち』のティッシュバイン夫人が、証言台に呼ばれる。『五月三十五日』(1931)の薬剤師リンゲルフートや、『雪の中の三人男』(1934)の百万長者エドアルト・トーブラー氏や、『消えたミニチュア』(あるセンチメンタルな肉屋の親方の冒険・1935)のエミリエ・キュルツも動員される。そして、論告は、「現実に受け入れられない高邁な理念を、子どもの本の中に押しこんだ……。」ということになるのだ。
 これでは、子どもこそいいつらの皮だ。大人の食わないものを、どうして子どもが食うだろう。犬も食わない夫婦げんか……ということわざがあるが、子どもの胃袋は犬よりも雑ぱくだというのか……。高邁な理念や反俗孤高のモラルの側から見ると、たしかにケストナーは逃亡者の風貌を帯びてくる。しかし、人生損得計算の面から見なおすと、ケストナーは「……得をしていない」この世の帳尻りを、あの世ならぬ子どもの本の中で、ぴちっと収支決算あわせているように思えてくるのだ。「この世に生まれてこなかったもの」が「たいして損をしていない」のに、「この世に生まれてきたもの」が、「ひどい損をしていて」いいだろうか。本来、帳尻りは合うべきものであり、あわさねばならぬものだ。赤字決算の人生を拒否できないとしても、それがそのまま黒字決算の拒否につながっていいはずはない。
 現実は、山高帽の男グルントアイス氏が、エミールのポケットから百四十マークをくすねっぱなしに終るかもしれない。しかし、他人の金をくすねっぱなしにする人生を、人生だと認めることは、他人の金をくすねっぱなしにすることよりもずっと悪い。エミールは追跡する。グスターフや、プロフェッサー君や、ポニー・ヒューチヘンが手を貸す。ベルリンの少年探偵団は、グルントアイスを追いつめる。もし、この作品が、高邁な理念や反俗孤高のモラルを布教するものなら、次のような一章は書きこまれなかっただろう。

「ところで、この話でも、ことによると何か教訓になることがあったかもしれない。」と、マルタおばさんが言った。
「むろん、ありますよ。」と、エミール。
「ぼくは、この話から、たしかに一つ教わりました。人間は信用するべからず。」
すると、エミールのおかあさんが、
「わたしは、教わったわ。子どもは決して一人旅をさせるべからず。」
「ばかな!」と、おばあさんが、うなるような声で言った。「みんな、まちがっている。みんな。(中略)お金は、かならず郵便為替でおくるものなり。」
―――第十八章・なにか教訓になることは?―――


 現実逃避には、常に、価値の相対性の忘却と、絶対的価値観への寄りかかりがある。『エミールと探偵たち』の中に、協力や信頼という美徳をみつけることはやさしい。しかし一番はっきり聞こえるのは、おしまいの「オルゴールのように、クックッと笑った」おばあさんの声だ。おばあさんを笑わせることによって、ケストナーは、子どもの本の布教性、いや高邁な理念や、反俗孤高のモラルに集約される発想法を笑いとばしたのだ。子どもの本は、ケストナーが身をかくす場所ではない。それは人生について説教をする会堂でもないからだ。帳尻りのあわない人生に、帳尻りのあう人生の存在することを、ケストナーはつきあわせているにすぎない。アフォリズムに足をすくわれると、このおばあさんの笑いを聞きのがしてしまう。エミールと母親のティッシュバイン夫人が、教訓として「人間」のあり方ばかりを引きだしているのに、おばあさんが、「お金」のあり方を指摘している点を見のがしてしまう。おばあさんは、郵便為替という送金方法を持ちだすことによって、みんなが「個人のあり方」にのみ目をむけていることを、軽く注意したのだ。「人間は信用するべからず。」にしても、「子どもは決して一人旅をさせるべからず。」にしても、はなはだ逃避的な教訓だ。信用しないと言うのなら、孤立しなければならない。一人旅をさせないと言っても、いつか、子どもは大人となり、一人で旅に出なくてはならない。一見もっともな個人の決意が、決してもっともな結論ではないこと。個人のあり方が、人生のすべての問題の、解決のよりどころではないことを、ケストナーは、おばあさんの口を借りて警告しているのだ。ケストナーの子どもの本が、現実逃避ではない……、帳尻りのあう人生の明示だ……というのは、この点である。
 それでもなお、禁煙先生に、ケストナーの分身をみる読者は、反俗孤高のモラリストのイメージにこだわるかもしれない。
 ドイツ国有鉄道から百八十マークで買いとった二等の禁煙車。その中で、もうれつに煙草を吸い、本を読みふける禁煙先生。

……禁煙先生が、りっぱな、賢い人で、この世の不幸を、さんざん味わった人らしいことは確かだった。あの煙草の煙で一ぱいになった大衆食堂で、流行歌をやたらに弾くことを、はじめから目的にしていた人のようには見えなかった。少年たちは、今までに、もう何度も、こっそりと禁煙先生の所へ相談に行っていた。(『飛ぶ教室』)

 禁煙先生には、だれだって、内に秘めたかたい決意のあることを感じる。内省的孤高の人であることを感じる。しかし、禁煙先生が、そうであるからといって、ケストナーが、かならずしもそうだとは限らない。手放しで禁煙先生を讃仰するには、反俗孤高の理想主義の限界を知りすぎている。ケストナーは、禁煙先生を登場させる以前に、すでに自分の内なる反俗孤高性を裁断していたからだ。それが、「あるモラリストの話」とサブ・タイトルのついた小説『ファビアン』(1931)である。

テキストファイル化矢可部 尚実
           
         
         
         
         
         
         
    

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