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 1928年の『南方飛行』のパイロット・ベルニスと、人妻ジュヌヴェーブの恋愛がそれだ。
 ふたりの人間は愛しあっている。もし「愛」が、すべてにまさる価値あるものなら、ふたりの立場、階級、性格の違いなど、なにものでもないだろう。ふたりは「しあわせ」になれるはずだし、「しあわせ」にならねばならぬ。しかし、ベルニスとジュヌヴェーブの間には、目に見えないクレバスが穴をあけていて、ジュヌヴェーブは、それを飛びこすことができない。彼女を、ベルニスとの「愛」から切りはなすものは、彼女自身の身にしみた生き方だ。めぐまれた生活様式は、すでに、ジュヌヴェーブの肌にしみついて、彼女自身の一部とさえなっている。観念の中で、ジュヌヴェーブは、過去の一切のめぐまれた生活様式を否定しているにもかかわらず、事実として、それはジュヌヴェーブを規制する。ベルニスは、そこに、否定しようにも否定しえないジュヌヴェーブを見る。
「彼女が、じぶんの白いシーツに、じぶんの夏に、じぶんの身のまわりのものにしがみついていたので、ぼくには連れ出せなかった」と、考えるベルニス。
 やがて、ベルニスは、飛行機で飛び立ったまま消息を絶つのだが、この物語で、すでに「個人」と「個人」を結びつける「愛」、「個人」の中に咲く「花」が、もののみごとに、人間の築きあげてきた「羊」の生活様式に食い散らかされることを告げているのだ。
「花」は、それでは、まったく人間にとって無価値なものなのだろうか。
 この問いは、個人の幸福を超えて、人間には、いかなる価値があるのかという問いに移行する。『夜間飛行』(前出)のリヴィエールこそ、この設問にまっこうから答えようとする人物である。そして、このリヴィエールをして「人生の意味」の発見者、あるいは創造者たらしめることによって、みずからの生の意味を問いつめているのが、サン・テグジュペリであろう。
「人間の生命には価値がないのかもしれない。ぼくらは常に、なにか、人間の生命にたちまさる価値があるように行動しているが、それはなにか。」
 民間航空会社の支配人リヴィエールは、自問自答する。かれは、多くのパイロットを幸福であたたかな、妻や恋人のいる「生活」の中から切りはなし、危険きわまりない夜間飛行にかり立てるからだ。
「なんの名において、ぼくは、かれらを、そこから引っぱりだしたのか。じぶんは、なんの名において、かれらを、その個人的幸福から奪い取ってきたのか。まず、じぶんのしなければならなかったことは、実は、そうした個人のしあわせを守ってやることではなかったのか。それなのに、じぶんは、その個人のしあわせを破壊している。しかし、よく考えてみれば、そのような個人のしあわせは、蜃気楼のように、かならず消えてしまうものなのだ。年をとることと、死ぬことが、リヴィエールのやっていることよりも、もっと残酷に個人のしあわせを破壊する。このことを考えると、個人的幸福より、もっと永続性のある、なにか人間を救いだすものが、人生にはあるのかもしれない。ひょっとすると、リヴィエールは、人間の、その束の間のしあわせを救いだすために、働いているのかもしれない。もし、そうでなければ、人間の行為というものは、説明のつかないことになる。」
 ファビアンというパイロットが、消息を絶つ。しかし、リヴィエールは、身じろきもせず、「きみの追い求めているものは、やがては、きみ自身の中で亡びてしまう。」と考える。
 個人的幸福を超えて、しかも、その個人の人生に意味あるものを確立すること。それは、個人の限界を自覚し、「個人的立場」の無意味さを、超個人的価値を想定することによって補うことである。「他人」でもいい。「人間」でもいい。「未来」でもいい。「個人を超えたものの名において」個人の生存理由を確立することだ。リヴィエールのこの考えは、のちに、サン・テグジュペリの考えとして明確に打ち出されたものである。
「戦いで殺されることなど、なんでもない。ただ、わたしの愛したもののうち、なにほどのものが残るだろうか。人間に関する限り、それは習慣であり、かえようのない発音の仕方であり、ある種の精神の輝きであろう。それから、オリーブの樹の下での田園の昼食。さらに、ヘンデルの音楽。そのまま存在しつづけるであろう事物のことなど、わたしには、どうでもいい。あえて価値あるものといえば、事物を秩序づけるその仕方であろうか。文明というものは目に見えぬ財産なのである。それは事物に支えられるものではない。事物を、ひとつひとつ結びつけていく目に見えぬ『きずな』に支えられているのだ。それ以外ではありえない。大編成の管弦楽器が完全に揃っていても、音楽家がいなければ、どうなるのだろう。戦争で殺されようとも、わたしは、かまわない。飛行とはなんの関係もなく、
パイロットを、ボタンと計器盤の間の一種の計算係にしてしまう、あの砲弾の狂暴な発作をこの身に受けようとも。しかし、もし、わたしが、この『なくてはならないむなしい仕事』から生きて帰れるとすれば、わたしには、ひとつの問題が提出されるだろう。人びとに対して、なにをなすことができ、なにをいわなければならないか。」(前出『X将軍への手紙』より)
「花」は、個人的愛の領域を超えて、「ある種の精神の輝き」「ヘンデルの音楽」「秩序づけるその仕方」「音楽家」の価値をたたえることで、「文化」に移行する。「戦争で殺されようとも、わたしは、かまわない」と、サン・テグジュペリ個人を否定することで、サン・テグジュペリは、自己の「生きる意味」を、「花」づくりの仕事に委譲する。
「三百年もまだたたない昔、人びとは『クレーヴの奥方』を書くことができた。また、恋の傷手から修道院に生涯こもることもできた。それほど、恋は激しくもえさかったのである。たしかに今日でも、人びとは自殺する。しかし、かれらの苦しみは、激しい歯の痛みと変りはしない。耐えられなかっただけだ。まったく、これは恋とは無縁である。」
 サン・テグジュペリが、こういう時、そこには、「自己を超えたもの」に対する激しい個人の燃焼がある。自己否定の情熱が、逆にその自己を肯定すること、あるいは、否定しさる個人の「生きる意味」を生みだすという人生観がある。孤独に耐え、傷心に耐え、「なくてはならぬむなしい」戦争にも耐え、その果てに「ある種の精神の輝き」を保持しようというこの姿勢は、リヴィエール、サン・テグジュペリ、プティ・プランスを一貫しているものである。
「なんて、へんな星だろう。からからで、とんがりだらけで、塩気だらけだ。それに、人間に味がない。ひとのいうことをオームがえしにするきりだ。」
「星の王子さま」は、山の上から人間を発見しようとして、むなしいこだまの答えを聞くだけである。
 この「星の王子さま」の姿も孤独なら、リヴィエールの姿も孤独である。しかし、

  (・・・なんて、へんな王子さまなのだろう。ひっそりとしていて、じっと耳をすましているだけで、人間を規定しているだけの王子さま。王子さまといえば、ふしぎな冒険と、おそろしい出来事の中で、なにかを見つけだそうとするものではなかったのだろうか・・・。)

と、どうして、人は、問いかけないのだろう。リヴィエールは孤独とはいえ、激しい自己との内面の戦いを持っていた。星の王子さまは、それに対比できるような戦いを、なにか持っていたのだろうか。このスタティックな人間観照は、いったいどこから生まれてくるのだろう。

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 アンリ・ギヨメに捧げられた『人間の土地』(1939)は、ダイナミックな人間の記録である。砂漠や山岳、視界ゼロの濃霧や嵐、そうした大自然と人間の葛藤が、たくみに描かれている。それだけではなく、機械と人間の葛藤、さらには、人間の「自己自身」との葛藤を描き出すことよって、すぐれた人間の文学となっている。
 アンリ・ギヨメの、人間の肉体の限界に挑戦する不屈の姿もそうなら、サハラ砂漠へ不時着したサン・テグジュペリの脱出記録も、共に、わたしたちに深い感動を与える。「人間であるということは、とりもなおさず責任を持つことだ。人間であるということは、じぶんに関係のないと思われるような不幸な出来事に対して忸怩たることだ。人間であるということは、じぶんの僚友がかちえた勝利を誇りとすることだ。人間であるということは、じぶんの石をそこにすえながら、世界の建設に加担すると感じることだ。」
と、サン・テグジュペリは付け加えるが、このすぐれたことばも、なまなましい遭難体験を前にしては、抽出された観念にすぎないような気がする。それほどまでに、この記録が、人間の行動、それを支える意志の偉大さを伝えてくるということは、ひるがえって、『星の王子さま』が、こうした不屈の冒険と自己との戦いの結果、抽出された観念であることを示してはいないだろうか。
『星の王子さま』を支える道具立ては、すべてこの中に整えられている。砂丘の十字架や僧院、さびたポンプや、かれない泉。それらの幻影と共に、不時着のサン・テグジュペリが、「おおーい、人間ども!」とよびかける姿は、そのまま「星の王子さま」の、山の上からの呼びかけを思い出させる。しかし、デティルの相似を指摘することよりも、『人間の土地』については、本来、物語の中で、王子さまが立ちむかわなければならない葛藤の数かずを、実際に、「星の王様」であるサン・テグジュペリが先取りしたものである、ということが大切だろう。「小さな王子」の生みの親である作者が、民間航空士として、また、軍用機のパイロットとして、さきに、冒険と危難の旅で出てしまったのだ。当然、「星の王子さま」は、「王」であるサン・テグジュペリの遺産相続人となる。この地上に降り立つと、王のことばをそのまま伝える人形になる。『星の王子さま』を、スタティックな人間観照と前に記したが、それは、ダイナミックな人間の行動の中に、人生の意味を求めたサン・テグジュペリが、自分の行動の中から手に入れた考えを、しずかに並べていることからくる。
「王様の星」から「地理学者の星」まで、人間のさまざまな頽落性を指摘したあと、第七の星「地球」で、サン・テグジュペリは、同時代の人間を総括して提示する。権力。虚栄。無気力。所有。労働。思索。それぞれの場に固執し、その固執の意味を喪失した人間を提示したあと、それらに共通する人間の条件を「星の王子さま」に語らせる。「蛇」は「死」、「根なし草」「転轍夫」の話は「人間の無目的な生活」だとすると、「狐」は「希望」か「価値」か。ともかく、パズルを解くように、わたしたちが、それらの意味を解いてみても、そこに、姿をあらわすものは、「星」からきた「小さな王子」の秘密でも過去でもなく、サン・テグジュペリの人生案内だけだということは、つけ足しておく必要があるだろう。この作品で、現代人は批判される。批判したプティ・プランスは、飛行機の修理完了と同時に、サン・テグジュペリの胸の中に収められる。それは、一篇のすぐれたファンタジーの完結というよりも、一席の人生論の終了だといってもよい。そこに、ファンタジー独自の奔放な空想力の展開を期待するものは、裏切られる。読者は、人間の価値観を聞くに終わる。それ以上のなにを期待すべきだというのだろう。
 この点で、ベッティーナ・ヒューリマンは寛大すぎるのだ。明確に読者を意識して分化しつつある児童文学の世界に、一冊のおとなのための、おとなの本を入れようというのだから。読者とは、「かつて子どもであったおとな」や、今も「子どもであるおとな」ではなく、「現に子どもである」少年少女のことである。
「星からくる王子さま」は、そのことばどおり、人間ではないく、「星の子ども」でなければならばい。ということは、ファンタジーというものが、「人生詩的案内」ではなく、まったく「異質の人生」の開示だということである。ただ「星の子」に仮託された「おとな」の人生観では、ファンタジーとは呼びえない、ということでもある。
「星」から「きた」主人公といえば、ヘンリー・ウィンターフェルトの『星からきた少女』もそうだ。この物語の場合は、明確に読者対象を意識している。それにもかかわらず、宇宙人モーの独自の世界を描くことより、わたしたち人間の、知恵や勇気や信頼を描くことに力を入れている。「星」という異質の次元からやってきた異質の存在を、ゆたかな空想力の展開の中で定着させるより、人間の側に引き寄せて、人間的に提示している。
「星」から「きた」だれかを見て、人間は驚かないのだろうか。87歳の少女モーを前にして、わたしたちは、どんな反応を示すだろうか。これからも、星から物語の主人公たちはやってくるだろう。その時、「星」から「くる」主人公たちは、いかにも「星からきた」少年少女らしく、わたしたちの日常性を、もののみごとに突き破ってほしいものだ・・・。

テキストファイル化中島千尋