K ビルドゥングス・ロマン

『小さなバイキング』と世代の問題
『私の児童文学ノート』(上野瞭 理論社 1970)

           
         
         
         
         
         
         
    

 いまさら教養小説でもないでしょう。『ヴィルヘルム・マイスター』『緑のハインリッヒ』どちらも遠い世界に属しています。たとえ、この範疇に、『ブッテンブローグ一家』を含めるにしても……です。
 それにもかかわらず、ビルドゥングス・ロマンなどという、いささか仰々しいことばを思い浮べたのは、べッティーナ・ヒューリマン殿(いや、ヒューリマンさんと言うべきでしょう……)あなたの『子どもの本の世界』の第八章、つぎのようなことばを読んだせいです。
 「……言葉を語るあぶくは、間にあわせの手段にすぎないが、それにもかかわらずこの文学は、既存の文学を駆逐しかけている。これを文学と呼びうると仮定した上でのことだが……」
 どうして、あなたは、第三の文化などと呼ばれはじめている漫画を、文学の仮想のもとに論じられるのでしょう。
 「……漫画を抜きにして、今日の子どもの本を語ることはできない。それは、既存の子どもの文学を駆逐しかけている。それは事実だとしても、駆逐されつつあるのは、あくまで既存の子どもの文学であって……」
とも、書くことができたでしょうに……。
 しかし、わたしが言いたいことは、そうした仮定の仕方、文学と漫画の同一視的発想のことではありません。あなたが、『子どもの本の世界』の中に、
 「……絵とあぶくの言葉は、同時にまた、諸民族を結びあわせる一種のエスペラントとなっている。」
と、漫画の功罪にまで及ぶ一章をもうけられた時、どうして「既存の文学」を駆逐する側面からのみ思考をすすめられたのか。たとえば、今日のマンガ世代にチャレンジする(あるいは、しようとする)児童文学作品を、あなたの言う「あぶくの言葉」(……普通、「吹き出し」と言うあれです……)と、対置して考えられなかったのか。その点に関してであります。
 わたしは、この章を読みながら、ルーネル・ヨンソンの『小さなバイキング』を思い浮べ、『小さなバイキング』の漫画的発想法ということを考えているうちに、まわりまわって、ビルドゥングス・ロマンということばに行きついたというしだいです。
 もちろん、この連想は、ルーネル・ヨンソンの『小さなバイキング』が、ビルドゥングス・ロマンである……ということを意味しません。むしろ、全く反対の性格を持った児童文学作品……そう言って誤解を招くとすれば、裏がえしのビルドゥングス・ロマン、あるいは「さか立ちした教養小説」と呼べるのではないかと考えているのです。
 あなたの『子どもの本の世界』には、コルネイ・チュコフスキーも、エーリッヒ・ケストナーも含まれていません。とすると、当然、それ以上に評価の定まらぬスエーデンの作家は、いくらドイツの児童文学賞を受けたとしても、割愛されることになるのでしょう。(こう言えば、あなたの本の読者は、「索引」の頁を開いて、ケストナーが無いだって、とんでもない……と言いそうです。そこで、わたしは、こう言いかえておきましょう。『星の王子さま』にさえ一章をさいたあなたが、それ以上に、子どもの本を書いたケストナーについては、ついに断片的にしか触れなかった……と。いや、そう言えば、モルナールの『パール街の少年たち』も無いのですが……)
 ルーネル・ヨンソンの評価については、どうも、わたしの知る限りでは、「落語的」という訳者の解説くらいです。それ以外に、それ以上のもの、あるいはそれ以下のものがあるのかどうか、寡聞にして、わたしは知りません。
 しかし、「落語的」というのは、どうでしょう。
 たしかに、主人公の少年ビッケが、ノコギリエイという魚の語源を、「ノコノコやってきたから、ギリリとつかんだ……」その結果、ノコギリエイと言う……と説明する点は「落語的」です。また、父親ハルバルと母親イルバとのテンポの早いやりとりには、「漫才的」要素さえ感じられます。しかし、こうした「ダジャレ」にも似たことば遊びのおもしろさは、果して「落語」あるいは「漫才」的おもしろさでしょうか……。どうも、わたしは、こいつを「漫画的発想」だろうと、言わずにはおれなくなるのです。
 冒頭、少年ビッケは、狼に追われて木の上によじのぼります。木の上から、狼めがけて、石を投げつけます。石はゴツンとあたるはずです。あたらねばなりません。しかし、ルーネル・ヨンソンは、そうしたリアリズムに「アカンベェー」をして、「オオカミと石とが、両方から全速力でぶつかりあったら、しごとはいちばんうまくいきます。」と、さらりと書いてのけるのです。
 もちろん、漫画的発想とは、こんな些末な表現法だけを言うのではありません。
 はじめてのバイキングの遠征で、ビッケが、フラーケ族の掠奪隊と共に、どんな愚かな失敗をやってのけるか……。
 陸地だ! すごい屋敷だ! それ行け!……と、喚声を放って入口からとびこむ海賊たちとビッケ。その入口の一歩むこうは、深い落し穴であって、家とはハリボテの見せかけのわな。そのため、総員いっせいに墜落して捕虜となるのですから、これはまさしく漫画です。
 いや、漫画といえば、捕虜になったバイキングの一行が、ピンチを脱する方法がまた、より漫画的なのです。ノコギリエイのくちばしで(……と言ってもよいのでしょうね)、ごしごし、柱をのこぎりびきして脱走するのですから、科学的合理性を主張していては、だれもつきあいきれない仕掛けになっています。
 スノッレという「いやぁな男」のむし歯を抜くエピソードも同じです。
 フランク人の城から、ビッケが父親を救出する場面。あるいは、デンマークの税取りたて役人をあざむく方法など、数えあげればいくつもあって、それだけを取りあげてみていると、『小さなバイキング』は、「字でかいた漫画」だと断定されかねないような発想法で貫ぬかれているのです。
 しかし、この作品を「字でかいた漫画」から「文学」として自立させているものこそ、さきに指摘したアンティ・ビルドゥングス・ロマン的構造、すなわち、「裏がえしにした教養小説」の発想なのです。
 反教養小説的発想。これを明確にするためには、ビルドゥングス・ロマンそのものの性格を考えてみればいいでしょう。
 ビルドゥングス・ロマンの始祖は、ゲーテやケラーに帰せられますが、このカテゴリーに根づいた作品、あるいは根づこうとする作品は、今も、わたしたちのまわりに多く見られます。
 オランダ医学を習得し、御殿医を夢みて江戸へもどってくる青年医師・保本登。かれが、小石川の施療院へ、新出去定を訪ねて行くことからはじまる生活と価値観の変化発展の物語。これは、ごぞんじ山本周五郎の『赤ひげ診療譚』ですが(……と言っても、ヒューリマンさんには、ごぞんじのないドラマですが)、これこそ、ちょんまげ版『感情教育』であり、周五郎版ビルドゥングス・ロマンなのであります。
 ビルドゥングス・ロマンとは、言ってみれば、人生未体験者の精神発展史……つまり、「未知」あるいは「無知」で「無自覚」な人間が、「知覚」「開眼」「円熟」という精神的成長にいたる心情開拓史の構造を持っているものなのです。
 多くの場合、こうした人生未体験者の主人公の前に、人生の案内係として登場するのが、人生体験保持者です。かれらは、そのキャリアにものを言わせて、人生未体験派の主人公を、従来の生活態度、従来の価値観から、脱皮・発展させる媒体となります。
 ジャン・クリストフに、真の音楽を教えるゴットフリートおじ。白土三平の『サスケ』における父親。『天と地と』の金津新兵衛を含めて、ビルドゥングス・ロマンでは、おとなは、常に子どもの師となり、主人公の人生開眼促進者の役目を果します。
『小さなバイキング』の面目は、まさにこの点にあらわれます。
 バイキングの掠奪遠征の旅の中で、自己の生き方を自問し、既定の価値観の絶対性をこわしていくのは、体験保持者「おとな」の側なのです。ビルドゥングス・ロマンの場合と立場は逆転して、人生開眼の水先案内人となるのは「体験非保持者」である「子ども」の側……ビッケなのです。
 力こそすべて……と言うバイキング。この既存の価値観は、一種の経験主義です。かれらの経験によれば、多大の収穫、英雄的尊敬は、力の上に約束されます。
 この絶対的信念を、ゆすぶり、うちこわすもの。それは、落し穴であり、フリース人の攻撃であり、フランク人のわなであり、デンマーク人の税役人です。いや、それ以上に、これらのピンチを、「考える」ことによって切り抜ける少年ビッケの知恵の力なのです。
「旅」に出ることによって、少年ビッケが、一人前の勇ましいバイキングになるなら、これはビルドゥングス・ロマンと言えましょう。しかし、勇敢なる一人前のバイキングが、「旅」のプロセスで、なまっちょろい人生未体験者の知恵によって、自分の「勇気」や「英雄性」(つまり、既存の価値観)を、反省し、相対視するように変化するのですから、これは、ビルドゥングス・ロマンではありません。まさしく、アンティ・ビルドゥングス・ロマン……「裏がえしにしたビルドゥングス・ロマン」ということになります。
 体験保持者と非保持者の逆転。ここから、「力より知恵を……」という教訓を汲みとることはやすいでしょう。しかし、『小さなバイキング』に、そうした二者択一的な考え方があるかどうか……。
 さまざまな事件の前に破綻をきたす「おとな」の経験主義は、決して、少年ビッケの実証主義や合理主義の絶対視にとってかわられることはないのです。
 ルーネル・ヨンソンは、そのことを、母親イルバの口を通して、あるいは行動で、巧みに提示しています。
 「だれもかれもが、ビッケをほめそやしました。でも、ビッケは、べつに高慢ちきにはなりませんでした。これは、いくらかは、イルバかあさんのおかげです。つまりイルバは、ひとりのりこうなおばあさんから、オオカミの前足を一本買って、ビッケの上着の中に、それをぶらさげておいたんです。このオオカミの足はたいしたもので、ビッケがいい気になると、かならず、がさごそくすぐるし、といって、そうでないときは、一度もくすぐらないのでした。
 (こういう足をぶらさげてあげたい人は世の中にはたくさんいますよね。そして、小さい小さいオオカミの足は……ほんとに小さいのでいいけれど……あなたがたにも、わたしにも、ときどきは必要かもしれませんね?)」
 少年ビッケは、たしかに、父親ハルバルをはじめとして、フラーケのおとなたちの価値観をかえてしまいました。しかし、それによって、新しい英雄にも、また『巨人の星』の飛雄馬のような強者にも、なりはしなかったのです。
 冒頭、狼をおそれて逃げまわったビッケは、ながい遠征のあと、なお狼をおそれる少年として、わたしたちの前にいるのです。ビッケは、粗暴な父を愛し、粗暴なハルバルは、ビッケの弱さを嘆き、それでも、ビッケの思考力への敬意を忘れません。また、勇気と知恵を等分に見すえる母親イルバ。ここに、英雄や強者を冷静に見すえるルーネル・ヨンソンの目があります。しかも、ルーネル・ヨンソンの首には、ビッケの首にぶらさげたのと同じ狼の前足が、こっそりぶらさがっていることも見のがせません。
 もちろん、この作品を、マンガ世紀の児童文学の発想法という見方からはなれて、たとえば、どうしてバイキングであることを、ビッケは自己否定していかないのか……と言うこともできましょう。しかし、アラン・シリトーの『ウィリアム・ポスターズの死』ではないが、人は「旅」に出て、「ふるさと」をかえりみないでいることは、なかなか困難な話なのです。たとえば『風』というような歌が口ずさまれるのも、そうした弱さと、どこかで結びついているのかもしれません。自分で自分の寄りどころを否定する思想。
 ともあれ、ルーネル・ヨンソンは、ビルドゥングス・ロマンを逆立ちさせました。逆立ちさせることによって、世代の問題に漫画的発想でいどみました。わたしは、このことをひとこと、ヒューリマンさんは、『子どもの本の世界』で、触れておいてもよかったのではないかと、考えているのです。

〔注〕『小さなバイキング』は学研・昭42・大塚勇三の訳で、また、ヒューリマンの『子どもの本の世界』は福音館・昭44・野村ひろし氏の訳で出ている。

テキストファイル化中島京子