T 魔女失格

メアリー・ポピンズ論
『私の児童文学ノート』(上野瞭 理論社 1970)

           
         
         
         
         
         
         
    
 パメラ・トラバースの『メアリー・ポピンズ』の場合、なんとなく「うさん臭い魔女だな」と思うのは、ぼくだけのことだろうか。
 東風の吹く日、突然あらわれて、西風の吹くころ、風のように去っていく。なんだか、黒沢明のむかしの映画『用心棒』みたいだが、(……と言っても、もちろん、不意に姿をみせて、去っていくとこだけだ。第一、風吹きすさぶ、さびれた宿場町と、のんびりした桜町通り十七番地では、いっしょにならないけれど……)、メアリー・ポピンズの場合は、どうも、桑畑三十郎のようにカッコイイとは、義理にも言いかねるのだ。
デイジーの花のふちどりをした麦わら帽子。銀ボタンのついた青色外套。オウムの頭のかざり付きコウモリがさ。茶色のじゅうたん製バッグ。ぼくは、この優雅な(?)いでたちを、とやかく言っているのではない。
 たしかに、『用心棒』の浪人の異様な殺気は、ぼくの心情的修羅場愛好癖を、ちょっぴりくすぐる。だからと言って、ぼくは、浪人の世界と魔女の世界を同一視するほど近眼でもないし、また、緊迫した事件が、常にリアリズムに所属するもの、いや、浪人の剣先に漂う異常な殺気からだけうまれるものとは、決して考えてもいないのだ。
 ぼくは、メアリー・ポピンズを、うさん臭い魔女だと言うのは、この女性が、ほんとうに魔女なのかどうか……疑っている点からきている。
こう言えば、もちろん、「魔女でなければ、どうして奇想天外な事件をつぎつぎ引きおこせるだろう……」と、次のような事例を指摘されるかもしれない。

 『風にのってきたメアリー・ポピンズ』では、マッチ売りで、街頭絵かきのバートと、絵の中の世界にはいりこむ。そこで、木イチゴジャムのケーキを食べる。それに、ふしぎな磁石で、子どもたちを、世界一周につれていったり、夜の動物園で、人間が檻に入れられているのを見せてくれるじゃないか……。
 『帰ってきたメアリー・ポピンズ』では、少女ジェインを、お皿の中の世界に入れてみたり、夜の外出日に、星の世界に行ったりするし、『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』では、公園にある大理石の彫刻の少年とイルカに、生命を与えたり、去り行く年と新年の時間のすき間に、飛びこんだりする・・・・・。
 それに、メアリー・ポピンズこぼれ話集とも言うべき『公園のメアリー・ポピンズ』では、マイケル少年を猫の国へ行かせてみたり、おもちゃの公園にはいっていったり、人間の影だけが踊り狂う奇妙な祝祭を見せてくれる……。
 それだけではない。こうした事例に加えて、
「メアリー・ポピンズは魔女かどうか……」
 と首をひねっているぼくの前に、次のような彼女の親戚知人を紹介する読者のあることも、ぼくには解っているのだ。
笑えば笑うほど、空中に浮びあがってしまうウイッグおじさん。第二月曜日には、願いごとが、どうしてもアベコベになってしまうタービィーさん。足のかわりに、木の台しかついていない、おもちゃのような夫婦の、ドジャーおじさんとネリー・ルビナ。あるいは、特別の日にだけ、七つの願いごとをかなえられるトイグリーさん。
 そのほか、空とぶおかしのステッキを売っているミス・キャリコや、紙の星を空にはりつけるコニーおばさんなど……。メアリー・ポピンズが、この世のものではない証拠は、いくつも取り出せる仕組みになっているのだ。
しかし、そうした証拠を、いくらつきつけられたとしても(いや、つきつけられれば、つきつけられるほど……と、言った方がいいのかもしれないのだが……)、ぼくは、彼女を、「うさん臭く」思ってしまうのだ。穏当な言い方ではないが、「ダマサレタ」と言いたくなるのだ。
             *
 ぼくは、パンクスさんところの、ジェインやマイケルと同じに、はじめのあいだ、彼女のことなんか全く知らないんだ。だから、パメラ・L・トラバースさんの呪文で、メアリー・ポピンズが、パンクスさんの家の前にあらわれた時、すっかりいかれてしまうのだ。
なぜなら、メアリー・ポピンズは、パンクスさんとこの階段の手すりを、上から下へ、逆にスルスルッと滑りあがるし、何もはいっていないからのカバンの中から、まるで魔法のように、エプロン、ヘアピン、香水、ひじかけ椅子、せきどめドロップなどを取り出すからだ。(……魔法のように、と言ったが、魔女だったら、あたり前の話だ……。)
 だれだって、こんなことを目の前でやられたら、目をまるくしてしまう。
「おや、すごいのがあらわれたぜ。」
と、ぼくだって、その場に居れば、ジェインやマイケルをひじでつっついているはずだ。
「いったい、何ものだろう。なぜ、バンクスさんの家にきたのだろう。」
            *
 謎の人物。これほど魅力あるものはない。その謎を解きあかしていくことほど、また、胸をわくわくさせるものはない。
            *
 そこへもってきて、木曜日の午後、ふしぎなデートの模様が紹介される。
(おや……。これから毎週、絵の中の世界へ、メアリー・ポピンズはバートといっしょにはいっていくのかな。このふたりは、どうなるんだろう。結婚するのかな。ただの友達どうしなのかな。)
 ぼくらは、魔法使いでも魔女でもないから、人間らしい関心や興味を、このふたりに持つのはあたり前の話だ。
しかし、何も起こらない。
(何だ……。)と、思ってしまう。(魔女というものは、ごくはじめのうち、デートをしても、あとになっては、そんなことを、きれいさっぱり忘れるものなのだろうか……。)
 『公園のメアリー・ポピンズ』をみたって、『とびらをあけるメアリー・ポピンズ』をみたって、二度とふたたび、バートとのデートは出てこないのだ。バートは、メアリーに、ふられたのだろうか。それとも、デートは、メアリーの気まぐれだろうか。
 ぼくらは、人間であるから、人間でないもの……いや、人間にして人間ではない彼女の一挙一動に引きつけられるのだ。
            *
 ぼくらは、(いや、ぼくだけかもしれないんだが……)、冒頭の驚くような光景のせいで、いや応なしに、メアリー・ポピンズのおしりにくっついて歩く。ジェインやマイケルと、その点では全く変りがない。ひとつの驚きは、次の驚きを期待し、驚きに対する期待は、息つくひまもないほどの、緊迫した事件の渦中に巻きこまれたい期待につながっていく。この期待のふくらみ……これがふくらむと、架空の世界への、ながいながい旅……つまり、口うるさいママや教師がいて、「横断歩道だ。手をあげて。右みて、左みて、すばやく渡れ!」など言うことのない世界へ、どっぷり、ひたってみたい切なる願いが沸いてくるのだ。
 あんなにふしぎな魔女だから、きっと、この願いを聞きとどけてくれるだろうと、考える。だれだって思う。そこで、メアリー・ポピンズのあとを、のこのこ、ついていく。すると、笑えば笑うほど空中に浮ぶウイッグおじさんの家に連れこまれるのだ。
ジェインやマイケルは笑う。ぼくも仕方なしに笑う。でも、ジェインやマイケルほどではない。(大人になると、笑うことより、腹を立てたり嘆いたりすることの方が忙しいからかな……と、自己批判したりして、だ。)そのうち、磁石のふしぎな力で、世界の極点に連れていかれる。夜の動物園に案内される。このあたりになると、ぼくはもう、仕方なしに笑うこともできなくなるのだ。ジェインやマイケルなどは、目をまるくして、手を打ったり笑ったりしているけれど、ほんとうに笑っているのは、なんだか、メアリー・ポピンズひとりみたいな気がしてくるのだ。
 風船玉のようにふくれあがった「ながいながい旅」への期待は、小さく、小さく、しゅぼんでいく。

 ぼくはもう一度、自己批判する。フィリパ・ピアスの『トムは真夜中の庭で』のように、トムといっしょに、時間の壁を抜けて、ハティに会いに行ったあの驚き。あんな驚きを、メアリー・ポピンズに期待したのは間違いじゃなかったのかな……と思いかえす。これは、ナンセンス・テールなのかな……と、方向感覚に誤りがないかどうか、考え直してみる。しかし、
「すべてが頴倒する。上のものが下になり、遠いものが近くなり、内部が外部に、昔がいまに、右が左に、これから起こるころがすでに起こってしまったことになる……。」
という『ナンセンス詩人の肖像』の種村季弘のことばなどを思い浮かべて、(待てよ!)と呟いてしまうのだ。
 秩序。価値観。方向感覚の頴倒。そんなのがあるかな。頴倒と言うには、メアリー・ポピンズの世界は、きわめて筋が通っているのだ。
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 メアリー・ポピンズは、じつに冷酷な教師なんだ。ジェインや、マイケルや、ぼくの見たものを、また、体験した異常な小旅行の記憶を、「ふん」と、鼻の先であしらってしまうのだ。冷たい目で、「何、ねぼけているのさ……。」と否定してしまうのだ。
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 彼女が、自分のふしぎな世界を否定するのはいいとしても(……ほんとうは、よくないんだな、これだって。「それから……」「なぜ……」って、期待にみちて、空想世界の継続を願うぼくら、その先の話を聞こうとするぼくらに、鼻の先でピシャンとドアを閉めてしまい、現実世界に追いかえすんだから、ほんとは、よくないんだけれど、それはそれとして、がまんするとしても・・・・・)どうして、メアリー・ポピンズは、ジェインやマイケルを、「いい子」でいさせようとするのだろう。マイケルが、猫の国へ投げ込まれたのも、ジェインが、ふしぎなお皿の国につれこまれたのも、みんな、子どものわがままをなおしたり、「いい子」にするためじゃないか。
 メアリー・ポピンズの言いつけを、きちんと守っている限り、魔法を見せてくれるなんて、これは反則じゃないのかな。
 ハウフの童話の王様だって、「ムターボア!」と、自分で呪文を唱えて、自分で変身を体験し、自分自身、冒険に参加したがったのだ。当然、ぼくらは、ふしぎな世界を知ったなら、その「通路」を自分で覚えこみ、入国条件を手に入れて、自分の力で、この日常世界から飛び出してみたくなる。「いい子」か「わるい子」か、そんな価値判断をするメアリー・ポピンズの統制下で、あれこれ、ふしぎに参与したいと思わない。それを、メアリー・ポピンズは、冷酷に拒否する。まるで、子どもにはまかしておけない……という表情で、「ノオー」と、言うのだ。秘密も魔法も、一切の鍵は、彼女の独占のもとに置かれるのだ。それに、どうだろう。
「メアリー・ポピンズが居ないと、何もかも、めちゃくちゃだ」
と、うめくバンクスさんと奥さん。これじゃ、メアリー・ポピンズが、ますます鼻たかだかに、ひとりで采配をふるうのは、目に見えている。メアリー・ポピンズは、自分の魔法を、ムチのかわりに使う人生の教師、いや、人間生活の指導者にほかならないではないか。それも、現状維持、現状安泰のために力をつくす「教訓の天使」ということになる……。
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 魔女ってものは、もっとわるいものじゃないのか。わるい……と言って誤解を招くなら、日常的なこの規範を、そのふしぎな力で破壊するもの。つまり、現実に奉仕するどころか、非現実に奉仕するもの。いや、このせこせこした日常的世界を、一瞬のうちに異質の世界に塗りかえるもの。価値紊乱者……ではないのか。
 国家公認の魔女、イスタル・バーバラばあさんでさえ、看板に次のように記しておいたではないか。他人の不幸や災害をひきおこします……と。(ぼくは、カレル・ポラーチェックの『魔女のむすこたち』の、あのおばあさんのことを言っているのだ……。)このおばあさん、地方教育委員会から、むすこを学校にあげよと命令されて、かんかんに腹を立てた。魔女らしく、怒った。ところが、メアリー・ポピンズは、そうした教育の介入に腹を立てるどころか、彼女自身が、もうそれだけで、ひとつの学校みたいなものだ。子どもたちすべてを、言いつけどおりに従わそうとする。すごく意地悪の教師なのだ。
 人間の日常的秩序の維持に献身する魔女。
 ぼくは、そこに、「うさん臭い」ものを感じるのだ。魔女は敵だ……なんて、だれの言ったことだろう。ヨーロッパには、魔女裁判のながい歴史さえあったのに……。
 うさん臭い魔女。ひょっとして、これは、ジュール・ミシュレの『魔女』なんて本を、胸をおさえて読んだせいだろうか。胸をおさえて……と言ったって、娘カディエールの悲惨な話のせいではない。ぼくは、先日、自転車から落ちて、胸の骨を折ったからだ……。

テキストファイル化松本安由美