インベーダーの発想は、実は、裏返しにした「行く思想」ではないか・・・と、先に記した。これは、1864年の、ジュール・ベルヌの『地底旅行』、その翌年の『月世界旅行』の時点まで立ちもどって考えてみればいいだろう。
 ベルヌが『地底旅行』を発表する前年、牧師のチャールズ・キングズリーは『水の子・陸の赤ん坊のためのおとぎ話』を発表した。初稿は『小さなトムの物語』であり、妻君にせき立てられて書きあげた・・・ということは、この際必要ではないだろう。主人公の少年が「水の子」となるためには、溺死という「通路」が必要だったということ・・・そうした「通路」を必要とする時代にさしかかっていた・・・ということが大切だ。ダーウィンの進化論に象徴される新しい時代思潮が、神への信仰の領域を押しせばめる予感。合理的世界観の抬頭を前にして、神学的世界を防衛しなければ・・・という意識。この時点での敬虔な信仰者にとって、科学こそはインベーダーであっただろう。「来るもの」に対して防衛することは当然の措置である。しかし同時に、そこから一歩踏みだして、「来るもの」たちの世界へ「行く思想」の必要性が、やがて自覚されてきたのではなかろうか・・・。 
 キングズリーの場合は、キリスト教信仰と合理的世界観の接点を求めて、少年トムを溺死させ、そうすることによって、高次な精神の次元を水の国にみつけた。しかし、「通路」は神の国にだけ通じているのではない。合理的世界観のわれ目・・・「来るもの」たちの内部へ向っても「通路」の架設は可能なのである。
 ジュール・ベルヌが、その空想の翼を、地底へ、海底へ、空中へ、異星へ、・・・と向けていた時、侵入する異質の世界観を前にして、その侵入者の内部へ「行く」ことを苦慮していた人間がいる。
 インベーダーが存在するということは、そこになお、未開拓の空間があるということだ。神の使徒にとっては、開拓すべき心情の荒野(不信者)が存在するということである。
 侵入するものがある限り、侵入される側にとっても、侵入者の世界は、侵入可能の空間となる。
 インベーダーの発想は、異星の存在を想定する。異星の存在の想定は、未開拓の空間の想定に結びつく。事実、1938年には、侵入者の一拠点として仮想された火星が、今日では、アメリカやソヴィエトの宇宙開発の具体的対象となっている。恐怖の星から、「約束された豊かな土地」へ・・・と火星は変わろうとしているのである。
 ジュール・ベルヌの悲しき孫である『真夜中のカウボーイ』は、フロリダへ「行く」ことで終った。しかし、やがて、カウボーイの孫たちは、バスのかわりに宇宙船をかり立てて、地上を飛び立っていくに違いない。仮想敵の星は、「行く思想」のオプティミズムによって「草原の輝き」と同一視される日がくるのだろう。インベーダーの発想は、こうした意味で、「来る思想」より、「行く思想」の変型・・・つまり、裏返しにされた「行く思想」だと言えるのである。
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 もともと、「来る思想」そのものは、人間の救済願望であった。敵対者の侵入ではなかった。その証拠に、風にのってやって「来る」メアリー・ポピンズは、バンクスさん一家の安定を保持しようとする。サミアドは、砂の中からやって「来る」。プティ・プランスは小さな星からやって「来る」。どちらも、人間の秩序に破壊をもたらすものではない。人間につかの間のよろこびや安息をもたらす存在なのである。
「行く」ことによって、人間がどうしようもない疎外感を抱きはじめた時、「来る思想」は太古の衣装をはぎとって、さまざまなヒーロー・ヒロインの姿で、出番を告げられた。その意味で「来る思想」の登場は、どこか人間の危機意識と結びついているような気がしないでもない。危機意識の潜在が、インベーダーを予想させたり、絶対的な価値観の代表のような主人公を予想させたり・・・というふうにも思えるのだ。

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 侵入者であれ、救済者であれ、「来るもの」を待ち受けることは根気のいる仕事だ。それが人間の姿・形をしたインベーダーである場合には、それを見わけ、感じとり、そうだと信じることは、一層むずかしい。人間の味方であるはずのメアリー・ポピンズだって、その値打ちが解るのは、彼女が行ってしまってからのことである。せっかちな現代では、やってくるものを、ただ待ち受けるほど悠長な人間は少ない。たまたまジョーは、長距離バスに飛び乗ったが、ジョーの仲間であるわれわれは、加工された人生のバラ色の断面を、ポータブル・ラジオから聞くだけに終っている。テレビの前で、またトランジスター・ラジオのそばで、そこから「来る」ものを待ち受けているだけだ。神の声どころか、人間の真実の声さえ聞けない現代では、加工即席食品にも似た「人工神の声」で、「来るもの」を代用させてしまいがちだ。

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 ジョーはその電波のささやきを、神の声と信じた。そこで、カウボーイ・ハットも勇ましく、そのお告げのままに、泥沼へ飛びこんでいった。だが、幌馬車を長距離バスにかえ、長距離バスを宇宙船にかえたところで、未開拓の空間のみを目ざすところの「行く思想」は、いつかまた、ジョーのように、真夜中の泥沼にたたずむことで終わるのではないだろうか。
「なぜ、人は、空間をのみ行こうとするのだろうか。」
 ジュール・ベルヌの孫たちは、自問してみても損をしない。行くべき土地は、空間とは限らないし、空間でなければならないとも規定されていない。おのれの内部。あるいは見すてられた神の世界。本来、神々が「来る」はずのその原初の心情世界。あるいは、「時間」とよぶ特殊な人類の創造物の中にも人は行くことが可能である。
 フィリパ・ピアスは、扉を開くことによって、バーソロミューおばあさんの時間の中に、トム少年を投げこんだ。C・S・ルイスは、全知全能の神の化身・アスランの摂理の世界へ、少年少女を連れこんだ。見なれ、聞きなれた時計の運針とセコンドの音が、また、古ぼけた一冊の聖書が、いきなり未開地として読者の前に開示された。ここには、ジョーの「行く思想」とは異質の「行く思想」が息づいている。いつかは「来る」べきはずの死の世界や、救済者の世界へ、逆に「行く」ことを志す思想がある。牧師キングズリーの苦慮した「行く思想」が、その後継者たちによって「通路」の完成にいたり、ここにキリスト教信仰圏のファンタジーが、成立した・・・とも言えそうである。

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 しかし、自由の女神はおろか、神の片鱗さえもないわたしたちは、宇宙空間へ「行く」ことを拒否すれば、どこに行けばいいのだろう。古田足日の『水の上のタケル』は、突如として、人を古代社会へ投げこむ。呪術と荒ぶる神の存在する彼岸にむかって、扉を開く。それは、いくらか此岸の影を引きずっていないでもないが、一つの試みであることは確かである。また、いぬいとみこの『みどりの川のぎんしょきしょき』について言えば、『ジーキル博士とハイド氏』的魔女が登場して、土着的発想の産物アズキトギと融合の世界を形成しようという努力が試みられる。おしまいのあたりで、平和宣言のような話が不意に飛びだす点では、空想のつまずきを感じるとしても、団地の子どもが、川辺から魔女の世界へ「行く」ことを発見したことは、アスランを持たぬわたしたちにとっては、一つの「行く」道の開拓とも言えよう。
「行く思想」は、青年ジョーの悲哀を抜けださなくてはならない。そのためにはもちろん、『真夜中のカウボーイ』ならぬ『真夜中のボーイ』を描くことによって、情報過多時代の空間を「行く」物語も書かれる必要があるだろう。山中恒の『ぼくがぼくであること』のように、主人公の少年が「真夜中」の状況の中で、自己を確認する物語を忘れるわけにはいかない。ふとした家出にはじまるこのドラマは、「この世のほかならいづこへでも」と考えるものは、何も、テキサスの皿洗いとは限らないことを告げてくれるのだ・・・。

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 SF童話・・・という帯書き・背文字をみるたびに思う。これは、バスに乗って大都会を目ざしていくジョーの物語なのだろうか・・・と。「行く思想」は、ともすれば、空間の開拓苦難史となりがちである。インベーダーを仮想する「来る思想」と対立意識でとらえられる。しかし、わたしたちは、守るべき価値ある世界を持っているのか。侵入者に対して防衛すべき「開拓地」を所有しているのか。分割された地上の国家意識は、インベーダー以上に、わたしたちを侵蝕している。この事実を考えると、わたしたちは、この見せかけの「開拓地・地球」という空間を、今一度、荒野とみなして、あらたなる開拓物語を描かねばなるまいと思う。ナンセンス・・・ということばがある。このことばは何も、大衆団交の席上で、ツブテのごとく投げあうためのものだけではあるまい。これは、「行く思想」の、実は合言葉の一つ、いや「通路」の一つのようにも思うのだが・・・。
   〔注・1〕 オーソン・ウエルズのこの放送は、1898年(明治31年)のH・G・ウ      エルズの『宇宙戦争』によっている。
〔注・2〕 旧約聖書『出エジプト記』第3章7〜10を参照していただきたい。こ      れは一例であるが、「行く思想」の一つの表現と言えよう。
   〔注・3〕 一例として新約聖書『ヨハネによる福音書』第14章18〜21や、『ペテ      ロの第2の手紙』 第3章8〜13を参照。
(テキストファイル化渡辺みどり)