『ダメおやじ』の存在理由−古谷三敏

『われらの時代のピーター・パン』(上野瞭 晶文社 1978/12/20)

           
         
         
         
         
         
         
    
1.

「神さま、お願いです。この戸のむこうに平和がありますように!!」
 わが家の入口に立って、ひとりの男が心から祈っている。言葉にすれば、敬虔なキリスト教徒が、一家の息災延命を願っているように見える。しかし、そうでないことは、つぎの場面を見ればわかる。この男が祈っているのは、じぶん自身の無事、家族の迫害からじぶんがまぬがれることである。
 この男とは、海野ダメ吉。サラリーマン。妻あり子ありのマンガの主人公である。
 いうまでもなく、ぼくは、古谷三敏の作品『ダメおやじ』のことをいっている。この作品は「少年サンデー」に連載された。連載と同時に賛否両論が殺到(?)した・・・と作者はいっている。わかるような気もする。『ダメおやじ』は、従来のマンガにあった父親像を、徹底して踏みにじろうとしたからである。
 たとえば、その「第五悲話」は交通事故を取りあげている。ダメおやじが黄色い旗を片手に、横断歩道を渡ろうとしている。しかし、途中で靴の片方がぬげたために、自動車にはねられる。一方、ダメおやじの家族は、家でトランプをやっている。オニババとして繰りかえし猛威をふるう妻と、おなじく、ダメおやじをいびりたおす娘と息子である。そこへ、病院から電話がはいってくる。トランプに熱中している妻は、電話で怒鳴りかえす。「なに?おやじが入院?死んでしまえといって!!」トランプ続行。また電話のベルが鳴る。病院からどうしてもこいという。せっかくの勝負を中断された三人は、悪魔のような形相で病院にかけつける。「バカッ!!おまえがモタモタしてるからひかれるんだよっ!!」
「いっそ死ねば、お金がガポッとはいったのに」。三人は加害者を追いかえし、被害者のダメおやじをせめる。腹にすえかねて、包帯だらけのダメおやじがとび起きると、今度は、トランプ遊びのかわりに、ダメおやじをからかって遊ぶ・・・。
 家族の嗜虐性は、この程度では収まらない。回を追うごとにエスカレートしてくる。いつも飯ぬきにされたり、熱帯魚の水槽にほうりこまれたりしているダメおやじが、たまたま、夢の中で、妻や子どもを徹底してやっつける。思わずその夢の結末に快哉を叫ぶ。すると、三人の家族は、でかい木槌でダメおやじをなぐって目をさまさせ、逆吊りにする。眠るからそんな夢を見るのだ、10日ほど眠るな・・・と、天井から重石をつけてダメおやじを吊す。
 ダメおやじは、毎回、瀕死の状態に追いこまれる。マンガの世界ではなく、現実の出来事として見るなら、無数の死体が転がっていることになる。しかし、不死鳥さながらにダメおやじは画面に復活する。現に、北海道出張の話では、ダメおやじ不在のため、妻も子どもも、生き甲斐をうばわれた空虚さを感じる。北海道まで追っていっても、ダメおやじをめためたにやっつけねば・・・という発想になる。

2.

 こうした親父像が、現代マンガの世界にあらわれるというのは、現実の反映だろうか。父親、あるいは、父権は地におちた・・・という意見がある。確かに、会社その他の職場で、現実の父親は、道具化していっている。「仕事の鬼」といえば聞こえはいいが、その実、人間の個としての権利や自由を、所属集団のために削られていっている。また、その努力の割には経済的に報われていない。そうした萎縮させられた父親の状況が、ダメおやじに集約されている。そういえないでもない。しかし、このマンガにでてくる娘のユキ子や息子のタコ坊のように、すべての子どもが、じぶんの父親をダメおやじと見ているのかどうか・・・。

 「ぼくの父は、こわい時と、やさしい時の差が大きい。いちばんこわかったのは、前のばん、父と母がでかけた時、姉とけんかしたから、おてつだいさんがてんてこまいして、父に言うた。朝起きたら、父がぼくを外につれていって、ほっぺたをおもいきりたたいて、川原のちょっと高いところから、ぶらさがっていたぼくの手を投げた。それで、ぼくは川へ落ちた。あの時は、こわいのと、いたいのと、水の冷たいのとで、おそろしかった。まだほかに、せ中をたたいて、あとがついた時もあったし、倉に入れられたり、夜、外に出されたりした」(五年、男子)

 これは、『おとうさん、あのね・・・』(京都青年会議所・青少年委員会発行)という作品集の一部である。この作文集が、現代の子どもの父親観の集約だとはいわないものの、その一端であることは間違いないだろう。約百篇の作文を読んでみると、ダメおやじ的発想がないことに気がつく。父親の欠点としてあげていることは、「よくおこる」「どこへも連れていってくれない」「お酒を飲みすぎる」「いっしょに御飯を食べない」などである。父親の仕事が忙しすぎることを、多くの子どもが指摘している。この作文に見られる限り、子どもは、「じぶんたちの側」へ父親を引き寄せたいと考えている。そうしたものとして父親をとらえている。
 もちろん、これが真実で、ダメおやじの家族が嘘だといっているのではない。こうした気持がある一方に、ダメおやじの家族がいて、それが人気を呼んでいる事実があること、そこに、ひとつのつながりがあるのではないか、そう考えているのである。

3.

 めためたに打ちのめされるダメおやじ。打ちのめすことで生き甲斐を感じている娘や息子。この一見サディスティックな人間関係の中に、裏がえしにしたスキンシップがある。つねに、肌に触れようというか、体と体のつながりを求める志向性がある。もし、まったくダメなものなら、そこまで打ちのめす必要はない。しかし、打ちのめすことによって、ダメおやじの家族は、もうすこしましな父親の恢復を願っている。そのことは、ダメおやじが課長になることを願ったり、すもうで勝つことを願ったりするエピソードでわかる。作者はもちろん、それを「いびり」の材料に使っている。また、スキンシップなどという幼児発達期の注意事項に目を向けていないかもしれない。しかし、結果として「いびる」形でダメおやじとの接触を保ち続ける家族の努力(まさに、これは努力である)、それは、作文に見られる父親との接触願望の裏がえしにした投影なのである。子どもたちは、できれば、いかなる手段によってでも、父親をじぶんの側に引きつけたいのである。加えて、このマンガで繰りかえされるように、父親に強くなってほしいのである。

4.

『ダメおやじ』は、会社でも家庭でも弱い。弱々しい大人として描かれている。しかし、ほんのすこし視点を変えてみれば、これほど強い父親像はない。ナイフやキリやカナヅチでぶちのめされ、胃袋の中に手をつっこまれ、時には、サメに片足の肉をすっかり食われても、なおかつ、生存しているからである。それだけではない。「逃げだしたい」と繰りかえしながら、ダメおやじは、けっして逃げださない。かれは、かれを拒否する「家庭」へ、どんな場合でももぐりこんでいく。「逃がすものか」というオニババ女房の目があるということもある。それ以上に、ダメおやじが逃げださないのは、かれが、徹底的なマイ・ホーム主義者だからである。このマンガは、「家庭」という枠をこわさない。それがこわれた時、この物語は消滅する。被虐、嗜虐、自虐、何でもいい。そうしたあらゆる手段を通じて、古谷三敏は、強じんな「家庭」を描いているのだ。同情。哀れみ。憤慨。いろいろな声があるだろう。しかし、そうした賛否両論を口にしながら、実は、このマンガに、ぼくたち読者は、マイホーム絶対の発想をどこかで感じとっているのだ。

5.

 もちろん、ダメおやじを別な見方で見ることもできる。繰りかえされる痛めつけ、それを親子の価値の転換と見るものもあるだろう。また、いびられる子どもの叛乱幻想と見ることもできよう。さらに、子どもは、常に親を踏み台にして育つものだ、そのマンガ化した姿だというものもあるだろう。さまざまな解釈が可能だとしても、ここにある新「家庭」
劇という発想は消え去ることはないと思うのだ。
 マンガの中の親父像という場合、当然、赤塚不二夫の『天才バカボンのおやじ』が思いだされる。このおやじは、家族にいじめられることもない。いつも、ねじり鉢巻で、ステテコ、腹巻姿でとびまわっている。毎回、徹底したバカをやってのけている。バカ田大学卒業の職業不明人である。このおやじもまた、「家庭」なんか糞くらえという顔をしているくせに、常に「家庭」に回帰する。「家庭」をこわすこともない。ダメおやじを仮りに、裏がえしにしたスキンシップのあらわれとするなら、元祖天才バカおやじの方は、子どもの願望のストレートな反映と見られないでもない。なぜなら、この父親は、常に子どもといっしょになって(いや、それ以上に)、遊んでいるからだ。働きにいくこともない。いってみれば、友達としての父親像である。これはマンガだから、きわめてでたらめが徹底しているが、よく考えてみれば、こうした形の父親を持つことが、子どもの内側に疼いているとはいえないか。
 ネガとポジ。写真の焼けつけの裏おもてではないが、ダメおやじと、バカボンのおやじとの間には血縁関係がある。このふたりのおやじは、従来のマンガの親父像を、より徹底的に踏みぬけた。しかし、それが、是非はさておき「新家庭劇」であることは見落せないだろう。
 それにしても、天才バカボンのおやじの登場する「怪僧ケップーチン」、これはケッサクである。何度見ても噴きだしてしまう。ただし、これは「未成年者おことわり」だそうである。

テキストファイル化中島千尋