8.「楽しさ」と「思想性」−60年代・その4

『われらの時代のピーター・パン』(上野瞭 晶文社 1978/12/20)

           
         
         
         
         
         
         
    

 山のたけやぶに、とらがすんでいた。なまえはトラノ・トラゴロウといった。
 小沢正の『目をさませトラゴロウ』(昭和四〇年)の書きだしである。こうした書きだしで、七つの話が語られる。それがどういう話か、ということは、ひとまず横に置いて、いきなり、この物語の結論にとんでみよう。七つめの物語のおしまいで、動物たちがみんな、「まちがかわる日のうた」を歌う。ある朝、目をさますと、町が変わっていて、動物と人間がいっしょに、平気で歩いている。そんな日が早くくるといいな、と歌う。そこのところで終わる。この結末のつけ方と、たとえば、この中の「きばをなくすと」という話とを結びあわせて、『目をさませトラゴロウ』は、社会の変革を目ざし、人間ひとりひとりが、そうした方向で「目をさませ」と主張しているのだ……そういう理解の仕方もあったと思うのだ。たとえば……、としてあげた「きばをなくすと」の話は、その場合、つぎのような解釈を引きだすのだろう。筋書をなぞる形で推測してみると、こんなふうになる。

 ある日、トラゴロウは家に走ってかえる。すると、おかあさんのトラが、きばの片方しかないトラは、うちの子じゃない、という。そこで、トラゴロウは、右のきばをさがしにいく。にわとりのところにいくと、みみずを食ったら教えてやる、といわれる。みみずの味は、いやなものだ。でも、それを食べて、手がかりを聞きだす。第二の手がかりは豚である。泥んこの腐ったジャガ芋を、ここでも食べさせられる。第三の手がかりは、羊である。羊は、トラゴロウに枯れ草を食べさせる。とっても、とっても、いやあな気持ちになる。そうして、やっと、木こりの家につく。そこでも、まずいスープを飲まされる。スープのお椀の底に、じぶんのきばがころがっている。トラゴロウは、それを、じぶんの口にはめて、やっと叫ぶ。「ぼくは とらだ。きばさえもどれば、ぼくは つよいとらなんだ。もう みみずも くさったじゃがいもも、ほしくさも たべたりするもんか。ぼくのきばで スープをつくったりして、おまえたちは よくも ぼくを ばかにしたな。さあ、きばが 二ほん そろった口で おまえたちを たべてやろう。ぼくは つよいとらなんだぞ。」
 トラゴロウは、木こりを呑みこみ、木こりのおかみさんも呑みこむ。それから、羊も、豚も、鶏も、呑みこんでしまう。家にもどって、それを報告すると、おかあさんはびっくりして、こういっただけだった。
「そ、そんなに いっぺんにたべると おなかをこわしますよ。」

 トラゴロウがトラであることのシンボルとして、右のきばがある。それをなくすと、どうなるか。じぶんより力の弱いもの、おとなしい動物にだって馬鹿にされる。みみずや、ジャガ芋や、ほし草を押しつけられて、それこそ、いやあな思いをする。侮蔑される。右のきばがあって、はじめてトラはトラである。侮蔑する相手をやっつけることができる。すなわち、トラゴロウの右のきばは、人間における主体性を示唆している。シンボルということばを使ったが、トラのきばは、人間が人間であることを指している。鶏・羊・豚・木こりの夫婦は、そうした人間の価値を無視し、疎外するファクターである。
 もちろん、別の仕方の意味づけや解釈もできるが、右のように理解しようと思えば、理解できる。そんな設定を持っているのである。こうした理解の仕方から、結末に接続し、その歌をコミューン形成への意志、あるいは、社会変革への発想と読みとるあり方が、『目をさませトラゴロウ』にはついてまわっていたのではないか。
 もし、この作品が、そうした志向性で一貫されているなら、「献身」「反献身」の「延長線上の」発想に組み入れられ、「楽しさの系譜」からはずされるべきだったろう。事実、『目をさませトラゴロウ』は、一種の「反献身」の発想に関わる要素を含んでいる。それは否定できないことだが、同時に、この作品の魅力は、「現実的主題」への一つの提言、ときめつけるには、あまりにもそれからはみだす「楽しさ」を持っているのだ。作品の意図はいざ知らず、小沢正の構築した世界は、みずからの意図した範囲をこえている。(それも、作品の意図である……というには、やはりひっかかってしまう。「まちがかわる日のうた」に集約される発想は、どうみても変革志向型の発想である。「楽しさ」というものは、変革願望の合唱とは少し違うものである)。わたしが、この作品を「楽しさ」の児童文学としてとらえるのは、主人公トラゴロウの中に、期せずして、子どもの姿が(あるいは、子どものあり方に関わる基本原則が)、よく形を与えられているからである。それを一言でいえば、「たべる」「うごく」「ねる」である。子どもが、もっとも関心のあること、子どもが子どもであることを示すものは、その三点である。トラゴロウは、どの話の中でも、その三原則に立脚し、それに関わる事件をひきおこしていく。
 たとえば、人間の主体を問うものとして例にあげた「きばをなくすと」の話にしても、別の読み方をすれば、ずいぶん楽しい物語になってしまうのだ。子どもは、よく物をなくす。あるいは、たいせつな用事を忘れる。その、物をなくしたこと、用事を忘れたことさえ忘れてしまう。そして、そんなじぶんに気づかないものである。そこのところを、トラゴロウにもどっていえば、右のきばをなくして家に帰り、母親にいわれて、はじめておどろく、という個所だ。

 トラゴロウは、おかあさんに とびついて、
「おかあさん、なんか ちょうだい」
と、いった。
 ところが おかあさんったら、とても こわいかおをして、
「おや、あんた どこの とらのこだい?」
 なんて いうんだ。

 こうした親子の会話(あるいは、関係)というものは、よくあることである。別に、トラゴロウでなくても、現実の生活の中で、時どき、子どものぶつかる親の態度である。そうした子どもの体験する事柄にダブって、それがトラの話として描かれていること、そこに、子どもは、親近感と共に、一つの楽しさ、あるいは、おもしろさを感じる。物語の主人公もまた、じぶんとおなじようなことをやってのけるという共鳴感である。トラゴロウは、家からほうりだされて、しくしく泣いてしまう。それから、あっちこっち、右のきばをさがしまわる。こうしたトラの行為の中に、読み手である子どもの生活があることは確かである。どうするのだろう、という興味が、子どもをつぎへかりたてる。すると、鶏があらわれ、豚がでてきて、羊が登場する。この繰りかえしの物語展開は、すでに、グリム童話や、日本の民話でおなじみのパターンである。謎を解く場合や、宝さがしの場合と同様、読み手を、物語の楽しさに引きこむ階段のようなものである。そのたびに、難問難題をふっかけたのは、従来のフォークロアからいえば魔法使いのばあさんだが、ここでは、動物が、いやな食べもの、という形で、そのばあさんの役割を果たしている、ということができるだろう。民話の主人公だって、目的地に到達するために、また、目的の品物を入手するために、どれほど、いやな思いをしたことか。それらの話では、それこそ「いやな思い」が、ふしぎな出来事との出会いという形で、つぎつぎ描かれていくのだが、トラゴロウの場合は、食べること、子どもにとっては一大関心事である「食べもの」の形をとって立ちはだかるのである。これは、きわめてリアリティのあるドラマ展開だ、といえよう。「食べものの好き・きらい」の問題ほど大きい問題はないし、まして、みみずや、腐ったジャガ芋ときては、思わず、身をのりだしてしまう。トラゴロウは、それを食べる。食べて、いやあな思いをする。これも、子どもにアピールするだろう。最後に、木こりの家で、やっとこさ、右のきばをみつける。だれが、「ありがとうさん」など頭をさげられるものか。こんな目にあわされたのだから、ぶんなぐってやりたいと思う。子どもなら、そう思うところを、トラゴロウは、ぺろりと、相手を呑みこむ形で処理する。走ってもどって、いじめっ子や、意地悪っ子をけとばすかわりに、トラゴロウは、かたっぱしから呑みこんでいく。少なくとも、「いい子」ではない「ふつうの子ども」なら、たぶん、こんな反応を示すだろう。そういう点を、トラゴロウは、トラなりに反応する形で示しているのだ。おしまいのところで、おかあさんのトラが、みんな仲よく……など説教しない点もいい。わが子の体だけを心配するなど、世間ざらにある母親の姿である。こうして、「きばをなくすと」という話は、人間の主体性の問題提起とは別に、子どもが子どもである姿に一つの形を与えた点で「楽しさ」を伝えているのではなかろうか。
「たべる」「うごく」「ねる」と三原則を立てたが、「うごく」楽しさについては、「はちみつか、みつばちか」という話のラストにも、よくでている。みつばちに追いかけられて、トラゴロウたちは、どんなふうに逃げたか。

 トラゴロウと、きつねと、くまは、のをこえ、山をこえ、どんどん どんどん にげた。みつばちものをこえ 山をこえ、ぶんぶん ぶんぶん おいかけた。
 とうとう ちきゅうを ひとまわりしたけど、おいかけっこは おわらない。ふたまわりしても まだ おわらない。そしてね、いまでも トラゴロウと きつねと くまと みつばちは ぶんぶん どんどんおいかけっこを しているそうだ。

猛烈なスピードで、スケールの大きい疾風を繰りかえす。この場面は、走ること、体を動かすことを、生活の中心にすえる子どもを楽しくさせるだろう。そういえば、はじめの「一つが 二つ」という話でも、二匹になったトラゴロウは、キツネの発見した機械の中で、どたばた、やるのだ。そして、やっと、もとどおりの一匹にもどった時、トラゴロウは、竹やぶに帰っていく。「トラゴロウは、ひるねを していなかったので、そのよるは ぐっすり ねむった。」というのである。子どもは、あばれまわり、食べたがり、そのあと、ぐっすり眠る。この物語が、はじめに推測した社会変革の「理念」提示だけのものなら、どうして繰りかえし読まれることがあるだろう。たとえ、そうした意図や「理念」が伏在しているとしても、この物語の魅力は、それを語ろうとしてつくりだされたトラの世界……そこに、子どもの世界が生き生きと形を与えられた点にあるのだ。
 これは「楽しい」物語である。「楽しい」物語ではあるが、けっして「よい子」の物語ではない。はじめに記したように、作者の目は「現実的主題」の方に向いていることもわかる。「現実」や「いかに生きるべきか」という問題を、まったく切りすてた地点で成立している物語ではない。むしろ、そこを出発点にして、「楽しい」世界をつくりあげている。これは、『ちいさいモモちゃん』でも触れたことだが、「楽しさ」とは、常に誤解を受けている。それは「現実的主題」に背を向け、「思想性」と対峙する発想だと、すぐに考えられる。しかし、どのような架空の楽しい世界を描くにしても、それが「思想性」と無縁などということはありえない。ほんとうに楽しい物語には、常に思想があり、作者の中に「現実的主題」が息づいているはずである。もし、それが、欠落しているかにみえるなら、その物語もまた、ほんとうの「楽しさ」を欠落させているだろう。問題は、「理念」を語ることではなく、それを作品として消化することである。消化不良の「理念」提示は、さきにタテマエ時代と呼んだ「戦後」の一時期に氾濫した。志の高さを、文学の質的高さと錯誤した時代である。それらは、「おもしろくない」故に袋小路にはいりこんだ。「おもしろくない」ということは、「理念」や「思想性」というものを、不動の観念としてしかとらえていないところから生まれる。『目をさませトラゴロウ』でわかるように、おもしろさとは、子どもの楽しみとする世界を形にして示すことである。人間尊重とか、子どもの幸せなどいわなくても、『ちいさいモモちゃん』を読めばそれが理解できる。自由だとか、人間性ということばにすがらなくても、『ぼけっとにいっぱい』を読めば、その世界に出会える。そうした形のものが、児童文学における「思想性」である。少なくとも、思想表現の一つのあり方である。そこのところを、「現実的主題」はリアリズムで……というのは、児童文学を限定する発想である。この悪しき通念は、「少年文学の旗の下に」(前出)という宣言の、「功罪」の「罪」に発するように思えてならない。「楽しさ」に形を与え、そこに「思想性」をみる発想を、「リアリズム路線」は軽視してきた。子どもの本は、それほど狭い道なのだろうか。少なくとも、子どもの世界は、それほど狭くない。
 こういえば、右の「少年文学の旗の下に」宣言に対置される「子どもと文学」(前出)の主張を是とする立場にみえるかもしれない。しかし、リリアン・スミスの主張(前出)に重なるその立場が、「楽しさ」と「現実的主題」とを、いかに分断しているかは一考に価するだろう。この両者を切り離した地点で、児童文学は成立しない。もし、リリアン・スミスの主張が正しいのなら、どうして、ダウンゼンド(前出)のような作家があらわれるだろうか。ここでは、二つの主張を対比検討することが問題ではない。「楽しさ」というものが、それ自体、一つの思想性であることをつけ加えておけばよい。『目をさませトラゴロウ』には、そうした方向があった。「楽しさの系譜」をひろげる役割を果たしていた、ということである。こうした方向をひきつぐものとして、どういう作品があるのか。私は、その一つとして、山下夕美子の『ごめんねぼっこ』(昭和四四年)をあげたいのである。
  一日に、しかられる回数五十回。
  一日に、なかしちゃう女の子三十人。
「ごめんねぼっこ」は、夏平という男の子のプロフィール紹介からはじまる。

 夏平は、ぜったいにゴメンナサイをいいません。
 わたりろうかに針金をはって、校長先生をころがしたとき。
 ネコの足にインクをぬって、おかあさんのふとんの上を歩かせたとき。
 じぶんで、悪いことがわかっていても、けっして、あやまったりはしないのです。
 ゴメンネをいうぐらいなら、校長室に立たされるほうがマシ。あやまるよりは、ネコをだいて、物おきへ家出するほうがいいと思っています。


 夏平がゴメンネをいわないのは、おとうさんのせいである。おとうさんは、デパートの苦情拝聴係。つまり「あやまり屋」である。それを知って、夏平は、おとうさんの謝る分を取りかえそう、その分だけ謝るまいと決心する。ところが、そんな夏平の前に、夏平そっくりの男の子が出現する。そして、かたっぱしから、夏平のいたずらを謝ってまわる。これが、ごめんねぼっこである。
 この物語は、夏平とごめんねぼっこの奇妙な同居生活を楽しく描いていくのだが、同時に、「現実的主題」ともいうべき原爆問題も語られる。はじめの部分に、一人のおばあさんが登場する。村上ひでという名前である。このおばあさんは、子ども会のようなことをしている。子どもを集めて、いろいろ話をしてやっている。娘さんは原爆でなくなり、一人住まいである。このおばあさんが、発病する。原爆症である。夏平は、先生といっしょに見舞いにいく。その時、おばあさんが、「もう戦争なんぞありませんように」と祈っているのだと話す。それを聞いて、
「ばかだなあ、おばあちゃんは。戦争なんて、あるんじゃなくて人間がするんだぞ」
と、夏平は、にくまれ口をたたく。先生は、夏平をにらみつける。それに対して、
「ぼく、あやまんないよ。ほんとに、そう思うんだから」
 夏平は、がんばる。おばあさんは、それを聞いて、そのとおりだという。この話の前に、原爆の犠牲者のための石碑のことば、「やすらかにねむってください、あやまちは、くりかえしません」が、やはり、夏平の反駁を買う。なぜ、殺された側の人間が、謝らねばならないのだ、という疑問である。
『ごめんねぼっこ』は、この人類の罪科の問題にむけて、自然に物語を集約していく。もし、「主題」を中心にこの作品をみるなら、原爆問題だという説も成り立つだろう。この病院での結末の中で、謝罪という問題が大きい位置を占めるからである。夏平個人のいたずらの問題が、人間あるいは人類の罪の問題にスライドするからである。この移行は不自然ではない。個人的問題から個人をこえた問題へ、物語はうまく展開する。しかし、もし、そうした人類の罪科を考えようというだけなら、この作品は、まったく違った形のものになったのではなかろうか。違った形、とは、ごめんねぼっこと夏平の話が、ここまで大きくスペースを取らなかったのではないか、ということである。そういってもおかしくないほど、この作品は、ふしぎな世界を力を入れて描きだす。この作品の魅力の大半は、ごめんねぼっことの共同生活の方にあるのだ。それは、まったく楽しく、思わず噴きだしてしまうほどである。かりに、このふしぎな話が、結論にいきつくための、長い長い伏線として用意されたものであったとしても、結果は、伏線であることをはみだして、独特の「楽しい」世界の形成になっている。期せずして(あるいは、反対に、それを意図してかもしれないが)、この物語は、子どもの考える楽しさに、一つの形を与えているのだ。ここで、読み手である子どもは、よく知っているこの日常的世界をふみこえて、「もう一つの世界」にはいりこむ。「ありえないこと」を、「ありうるもの」として体験し、そうすることによって、じぶんの中に伏在する人間としてのひろがり(自由、あるいは可能性)に気づく。それは、いちばんはじめの『おおきなおおきなおいも』の話にもどっていえば、じぶんの空想するだろう世界に、一つの明確な形を与えられたことになる。
『ごめんねぼっこ』は、そうした「楽しさの系譜」をつくりだすものであるとともに、じつは、「献身」「反献身」の「延長線上の」発想にも、また関わるものだった、といえる。その二つの流れの、一つの接点のあり方を示すものだ、ともいえるのである。
 もちろん、こうはいっても、児童文学作品が、常に、二つの方向の接続を目ざすべきだ、というのではない。たまたま、『ごめんねぼっこ』には、明確に、二つの方向の同居があるから、その点を指摘しているのである。「現実的主題」に取り組む児童文学も、その主題の明確化だけではなく、それを消化する形で「楽しさ」を開く方向へいくだろう。反対に、子どもの世界を楽しくおしひろげる児童文学も、その「楽しさ」そのものを、一つの思想として評価される方向に進むだろう。そうでなければ、児童文学の評価は、一つの文学史として定着していかないだろう。「楽しさ」そのものが一つの思想であるということは、たとえば、レオ・レオニの『あおくんときいろちゃん』(昭和三四年)という一冊の絵本をみればいいだろう。これは、楽しい色の世界であるとともに、人間のあり方を語っている。
 いずれにしても、「現実的主題」を追求する流れに対して、もう一つの流れである「楽しさの系譜」は、それほど検討され、価値づけられることがなかった。その結果、七〇年代においても、斎藤隆介に象徴される「献身」の発想だけが、クローズアップされた。ここに、現代日本の児童文学の、一つの問題があるように思うのである。
 問題は、それだけだろうか。つぎに、現代の児童文学に関わりのある出来事をあげ、この「思想」論のまとめをする必要がある。

テキストファイル化岡田和子