『日本のプー横丁』(上野瞭 光村図書出版株式会社 1985/12/24)

  付録の一章 家庭の事情


 「ひげのプーさん」こと今江祥智から、原稿を頼まれたのは一九八一年(昭五六)秋のことである。
 それは間もなく創刊するはずの、そして、プーさん自身が「仕掛人」であるところの、『飛ぶ教室』なる雑誌の原稿ということだった。
 「なあ、イーヨーさんよ、独断と偏見に満ちたやつでええのンや、児童文学史を書いたりイな」
 プーさんはこういう場合、いつもイーヨーが戸惑うような、そのくせイーヨーが断りかねるような迫り方をする。
 プーさんの頭のなかでは、唐突でも何でもないのである。たぶん、その雑誌を思いついた時、そしてスポンサーと交渉を始めた時、執筆者や雑誌の内容はプーさんのなかで「出来上がっている」のである。執筆者の知らないところで、執筆者のかわりに、プーさんは原稿内容まで思い描き、それどころか、プーさんのなかでは、もう雑誌が店頭に並んでいるのである。
 「大和書房」の刈谷さんなどは、「プー先生は、そんじょそこらの編集者よりずっと編集者だ」と感嘆したことがあるが、プーさんは「熱すると」、じぶんが広告代理店そのものみたいになってしまう。締切りのとっくにすぎたじぶんの原稿のことなどほっぽりだして、電話をかけ、また電話をかけ、人に会い、また人に会い……大変なのである。
 イーヨーはおかげで、じぶん一人なら決してやらないような「仕事」を、いくつかやってきた。しかし、『飛ぶ教室』なる雑誌の原稿を頼まれた時は、数日経って、速達で「やっぱりおろしてください」とプーさんに断り状をだした。
 なぜか、なにが故に……ということだが、イーヨーはその時「落ち込んでいた」のである。
 原因はいくつもあってクロス・オーバーしているのだが、思いつくままに書きだしてみると、その一つに『ひげよ、さらば』のことがある。
 イーヨーは、この物語を、一九七七年(昭五二)の二月頃から書き始めた。雑誌『子どもの館』(福音館)の編集長をしていたSさんが、おもしろければ連載してもいい……といってくれたからである。
 五章か六章まで書きあげたところで、Sさんが京都にきた。ホテルの喫茶室の片隅で、Sさんは席を移して一人読み始めた。イーヨーは別のテーブルで、窓の外を見ていた。選考結果を待っている「大卒者」のような気がした。車の流れが目に映っているのに、イーヨーの頭のなかは、車など走っていなかった。じぶんの書いた原稿があざやかに浮かび、そいつを一枚一枚読み返している別の目があった。
 Sさんは席にもどってくると、それが特徴の、考え考え言葉を置いていく言い方で、「載せることに、異存は、ありません」といった。イーヨーはその時になって、はじめて、じぶんの胃袋が収縮していることに気づいた。
 連載は、一九七七年(昭五二)の八月号から始まった。一九八〇年(昭五五)の十一月号まで続いた。毎月、担当のYさんが、電話校正してくれるのである。三年を超えるこの期間は、同居していたじいさま・ばあさまの容態が極度に悪化し、順繰りに、昇天していった時期でもあった。また、文字通り「素寒貧」であったイーヨーに、「この家をでていくか、さもなければ買いとるか、いずれかを選ぶべし」と通告してきた義兄が、イーヨーの、はじめて銀行から気の遠くなるような借金をしてきたそれを手にしたあとで、突然この世を去った時期でもあった。
 連載の途中で、時どきSさんが京都に立ち寄った。Sさんは原稿のことにはほとんど触れず、テームズ河をボートで遡行する話や、読んだ本のことや、庭に繁茂した草花のことを語った。
話を聞きながらイーヨーは、(この人は編集者であるよりも、大学の先生になればよかったんではないか)と考えた。Sさんは、イーヨーが「場違いな大学教師」であるのにくらべ、まことに「学者的」だったのである。
 話のついでに、イーヨーは「原稿料」のことに触れた。
 「Sさんは信じないかもしれませんが、ぼくはね、こうやって原稿を書いて送って、それで毎月、きちんと原稿料をもらうなんて、はじめての経験ですよ」
 「ほんとうですか」
 「ほんとです」
 Sさんは(まさか)という顔をし、それから、(へえー)という目をした。
 イーヨーが、原稿料皆無の「プー横丁暮し」を続けてきたとはいえないだろう。思いだした頃に「単発」の仕事がはいって、忘れた頃に「タバコ代」程度の原稿料が送られてくることはあった。一年に一度か二度の場合もあるし、まったく「注文」一つない年もあった。それは、もし、「プー横丁」の居住資格に、「要原稿料収入」という一項目があれば、たちどころに、イーヨーから「プー横丁」の市民権が剥奪されるほどのものだった。
 「原稿料で食う」などということは、イーヨーにとってはカール・ブッセの詩句みたいなもので、「アメリカのプー横丁」「イギリスのプー横丁」はいざ知らず、「日本のプー横丁」では、奇蹟に近い出来事だと思い込んでいた。
 「原稿料」という言葉を、「印税」という言葉に置き替えてみても事情は変わらない。イーヨーはその時点で、「自著」なるものを五冊か六冊持っていた、しかし、それは、『アラジンのふしぎなランプ』のように、「御主人様、なんなりと御用をお申しつけください」と、一度たりとも「豊かな富」を送りだしてはこなかったのだ。
 イーヨーが「日本のプー横丁」の住人たりえたのは、胃潰瘍・十二指腸潰瘍を繰り返しながら、長きにわたって仏教系のH学園に、そして今はまたキリスト教の大学に、身を縮めながらも籍を置いてきたからである。
 今日、事情は変わっているだろうか。
 残念ながら……と、イーヨーは呟くしかない。たとえば、ひげのプーさんは、昨年(一九八四年)イーヨーの作品がテレビ化されて、原作なるものがすこし動いたことで、「今年の金持ちであるイーヨー」と冗談をいったが、イーヨーは未だ、銀行にうんざりするほどの借金を残しているのである。崩れ落ちた裏塀と、腐蝕した風呂場の柱と、応急手当で持ちこたえている家の傾きを、なすすべもなく日夜眺めているのである。
 連載のおかげで、毎月振り込まれるようになった原稿料について、なにかの話のついでに、灰谷健次郎さんにも話したことがある。
 「イーヨーさん、それほんと? そんなに安いの? そんなんで原稿書いてるの? その出版社、安すぎるのとちゃう? みんな、そうなん?」
 健次郎さんは、驚いたような顔をし、それからイーヨーが、急に恥しくなってむりやり平気な顔をしようとしていると、イーヨーのかわりに憤慨さえしてくれた。
 「そやけど灰谷さん。子どもの本の世界いうのは、こんなもんやで。ええほうと違うのやろか。そら、大人の本の出版社の原稿料とはくらべもんにもならんやろ。そやけどな、ぼくは、書きたいこと書いて、それでお金くれるいうんやし、文句いう気はなんにもないんや」 
 イーヨーは、じぶんの「うろたえ」をきわめて「いい子」ぶった返事でごまかした。
 そういえば、灰谷さんは、イーヨーの作品のテレビ化原作料のことでも、イーヨーのかわりに心配してくれたのである。
 「一年間やるのやろ。そやのに、それだけでええの? それ、ちょっと安すぎるんやない?ふつう、そんなもんと違うんやない? NHKやろ?」
 灰谷さんは、じぶんに支払われている大手出版社の稿料や、テレビ・ドラマ化されたじぶんの作品の原作料と比較して、その時イーヨーにハッパをかけてくれたのかもしれない。イーヨーはそれをありがたく思ったが、そうはいわず、「そら違うんやで。あんたは別格みたいなもんやで」と、爪の先ほどもひねくれた返事をした。そういう返事をするじぶんに、すこしだけ腹を立てていた。
 (灰谷さんのことを、ここで、こんな形で触れるのは不本意である。酔っぱらうと変につるんで三条木屋町あたりをうろつき、「健次郎」なんて呼び捨てにしたこの作家のことは、『続・日本のプー横丁』か『続々・日本のプー横丁』で、「部分的」ではなく、また「一過性の触れ方」でもなく、「まじめに」触れたいと思っている。この「イーヨーの呟き」は、今なお雑誌に連載中である。灰谷さんと「出会う」のはもう少し先になりそうである)
 雑誌『子どもの館』の「原稿料収入」によって、もう一つだけイーヨーのやった贅沢(?)がある。だれも知らないことだが(いや、イーヨーのカミサンだけが知っていたことだが)、自転車で十分の距離に「仕事部屋」を借りたことである。
 階下にいた「じいさま・ばあさまの容態が極度に悪化し」と先に記したが、それは「寝たきり老人」を抱えるどの家庭でも、かならず遭遇しなければならない過労と睡眠不足が、イーヨーたちの「日常」になったということである。
 目の見えないばあさまは、深夜トイレに立とうとして転倒する。腰痛のじいさまが、非常ベルを押す。ベルは、イーヨーたちのいる二階についている。一日の仕事がやっと終って、疲れを抱えて眠り込んだばかりのイーヨーは、それで跳び起きる。隣の部屋にいるカミサンが階段を駆け降りる。なんの役にも立たないイーヨーだけれど、カミサン一人にまかせておくわけにはいかない。目をこすりながら階下に降りる。
 カミサンがばあさまを起こし、便器にまたがらせ、後始末をし、ベッドに運び入れるのを、突っ立ったまま見ている。ばかみたいだけれども、「大丈夫?」など声をかけながら、ほんのすこし手伝う。そいつが終って二階にもどり、うとうとしかけると、ドスンとまた地ひびきがする。
 ばあさまがまた立ちあがろうとして、転倒する音である。じいさまがベルを押す前に階下に降りなければ、脳味噌を針金で突つかれるような、あの音がひびきかえる。それに、ベルを鳴らさなくても、充分イーヨーには階下の音が聞こえる。じいさま・ばあさまの寝ている部屋の真上が、イーヨーの仕事部屋兼寝室だからである。立て付けの悪い日本家屋だから、布団のなかにいても、じいさま・ばあさまの声は聞こえる。
 カミサンと猫は、はなれた部屋だから(ついでにいっておくと、その頃、大学生だったセガレは、家をはいったすぐのところの、もと犬小屋のあった空間に、プレハブ小屋を建てて、そこを居室としていた)、転倒の音は直接とどかない。
 イーヨーが、舌打ちしたい思いで、ばあさまを起こしにいく。今度は遅れてカミサンが降りてくる。抱え起こし、便器にまたがらせることはできても、イーヨーには、ばあさまの股ぐらの始末はやりにくい。ばあさまだって女性である。義理のオフクロさまだといっても、義理のセガレであるイーヨーには、そこへ手をのばしかねる。結局、カミサンが叱咤激励しながら(「そら、足をのばして!」だとか、「もっとお尻をあげて!」だとか)後始末をし、ベッドに連れもどす。
 叱咤激励は、カミサンだけがやるのではない。ほとんど寝たままのじいさまも、じぶんがやるわけではないから、「しっかりしろ!」だの、「それではあかん!」だの、無責任に布団のなかから檄をとばす。
 これが、一晩や二晩ではない。くる日もくる日も続くのである。おしまい頃には、(その時、イーヨーにもカミサンにも、これに「おしまい」があるなどとは考えられなかった。M・エンデの『はてしない物語』ではないが、どちらも、「はてしない夜の儀式」と覚悟を決めていた)じいさまが今度はおかしくなり、まだ秋になったばかりだというのに、「明日は大晦日だから、正月用の酒はあるか」といいだしたり、じぶんは天井に寝ているのだからといって、満タンの
溲瓶を逆さに置いたり、ともかく、イーヨーとカミサンの神経をピアノ線のようにふるわせた。
 『ひげよ、さらば』は、そうした「日常」のなかで書き続けなければならなかった。「恥しながら」大学の教員であるイーヨーは、講義なるものや会議なるものがあって、それがまた、内容の濃度・密度に関係なく、頭の痛い仕事である。時どきうんざりして帰宅する。その余波が抜け切らないまま深夜に及び、ドスンという「夜の儀式」につながったりする。
 仕事というものは、坐りなれた部屋、書きなれた場所でするのがいいに決まっている。それを「仕事部屋」など借りることにしたのは、一時的にせよ、そうした「日常」から離脱を計り、離脱することによって、否応なしにもどらなければならぬその世界への、耐性といったものを恢復させようとしたのかもしれない。
 その証拠に(といっても、カミサン以外のだれも知らないことだが)、契約期間中の二年間、ついに一度も、「ほくざん荘ビル」五階のその部屋に、イーヨーは寝泊りをしなかった。布団を用意しなかったわけではない。机と湯わかしとポットと寝具は備えたけれど、とてもじゃないが泊る気にはならなかったのだ。学校のない時、朝か午後か自転車で走ると、夕方にはもうカミサンといっしょにスーパーへ走り、そのまま帰宅して二世帯分の食事の準備にかかり、夜は、「夜の儀式」を待ち受けるように、じいさま・ばあさまの部屋の上で布団にもぐりこんだ。
 どれだけの仕事が、「別世界」でできただろう。『ひげよ、さらば』の三分の一くらいは、ひょっとして「仕事部屋」で書いたのかもしれない。しかし、時には、二日も三日も四日もでかけないことがあり、そんな時でも、ドシン、ズデンドウ!の真上で机に向かっていたから、あの「仕事部屋」は、「仕事部屋」とかりに名づけた「じぶんを取りもどすための、もうひとつの国」だったのかもしれない。「日常」からふっと抜けだせる部屋があることによって、そこへいかなくても、「日常」の時間のなかで足を踏んばれるということ、それを無人のまま確保できるということ、それは、最大の贅沢であった。
 物語はそれを書き始めてから四年目の夏、脱稿した。最終回として掲載されたのは、一九八〇年(昭五五)の十一月号だった。イーヨーは、ハワイ・マラソンを完走し終えたような、長距離走者の興奮を内側に残していた。
 「いずれにしても打ちあげをやりましょう。これからのことも御相談したいので……」
 十月の中旬、そういって、SさんとYさんが京都にきた。
 イーヨーたちは、Sさんが最初の原稿を読んでくれたホテルの喫茶室で会った。
 イーヨーは、完結した千五百枚の物語を一冊の本にまとめてくれるのだろうか、それとも、上・下二巻に分割して出版するという話がでるのだろうか、もしそうなら、第一章と第二章を改稿して、もうすこし引き締めたものにしなくては……など考えていた。『子どもの館』に連載された長篇は、ほとんど、その発行元の出版社から一冊にまとめられていたからだった。
 ただ電話で「打ちあげ」の話があった時、Sさんが、そうしたことには触れず、「これからのことも御相談したいので」といったことは、多少、イーヨーの胸にしこりをつくっていた。本にしようという気があるなら、まずそのことを用件の一つとして先に告げるだろう、しかし、Sさんは……という気持が消えなかった。
 当りさわりのない話を一通りしたあとで、Sさんは、「ところで」と話を変えた。話しにくそうな表情だった。イーヨーは「ええ」と、さり気ない返事をした。
 「これを一冊にまとめることなんですが、今のままでは、いろいろ考えてみて、どうしてもむりだと思うのです。上・下二巻に分けても相当な頁数になるし、それでは、半分とか三分の二に削るといっても、出来上がっている物語ですし、著者のほうでも、それは困るとお考えになるでしょう。こっちにくる新幹線のなかでも読み返してみたのですが、内容についても、このままでは、やはり出版できないな、という気持です。これを、もうすこし短く、書き直していただけるなら、またなんとか考えられないでもありませんが。そういうしだいで、今回は、まことに申し訳ありませんが、出版を見送らせていただきたいと、いうしかありません。もちろん、そういうしだいですから、もしこの作品を、他の出版社でおだしになるなら、こちらとしては、なんのオブリゲーションも付けません。その点は、はっきり申しておきます」
 予期しないことではなかった。電話での話といい、話の前のためらいがちな表情といい、ひょっとすればひょっと……という思いが、イーヨーにはあった。そして、話の方向がその通りになったことは、それ自体「そうか、やっぱりな」で済ますことができた。
 Sさんの話が一くぎりした時、猛然と込みあげてきたのは、(この物語を、あなたは、すこしもおもしろくないと考えながら、それでも三年半、雑誌に連載してきたのか)という「怒り」だった。もしそうなら、連載途中でも、京都で会っている。その時、そういって「打ち切り」を申しでることも可能である。Sさんは、そうはしなかった。それは、イーヨーのはじめての「原稿料収入」を打ち切りにしないための「社会福祉的発想」だったのか。まさか、そうではないだろう。(あなたは、今、長ながと、出版できないということだけを話したが、その前にまず、この物語を連載してきたことについて、いや、物語そのものについて、一度もおもしろいと思わなかったのかどうか、その点について話すべきではなかったのか。出版もしたくないような作品を、なぜ掲載し続けてきたのか)
 イーヨーは、そうはいわなかった。そういう思いで、胃袋のあたりをこわばらせていたが、むりやり平静さをよそおっていた。
 「わかりました」
 イーヨーのその声は、変にかすれた。
 Yさんが横から、「あの、そんなふうに言い切れないと、わたし、思うんですが……」と、Sさんの考えにちょっと口をはさもうとしたが、「いや、いいんです、この話、もうやめましょうよ」と、イーヨーはいった。Yさんの考えを押し止めるつもりはまったくなく、イーヨーは、そういうことで、込みあげてくるじぶんの憤りを抑え込もうとしたのである。
 物語の評価について、イーヨーの思いとSさんの思いが完全に食い違っているにせよ、Sさんは、自由気ままに書き続けるための誌面を提供してくれた人である。それだけではない。「これが児童文学なの?」と眉をしかめる「識者」のいるなかで、イーヨーの『ちょんまげ手まり歌』を高く評価してくれ、それがきっかけで、この連載以前にも、「仕事」をするよう声をかけてくれた人である。
 ジョン・ロウ・タウンゼンドの作品に私見を書かせてくれたり、はるばる遠野へいって『遠野物語』のことを考える機会を与えてくれたり、天沢退二郎の『光車よ、まわれ!』(筑摩書房)をめぐって、神宮輝夫との対談の席を設けてくれたりした。
 イーヨーは、その計らいに感謝しながら、よくそれに応えなかったような気がする。『アーノルドのはげしい夏』がなぜ書かれねばならなかったのか、明確に答えることができなかったし、遠野の町に数日滞在したが、ひたすら自転車で走りまわるばかりで、柳田国男の仕事の大きさに感嘆したに終った。対談に至っては、Sさんの思いとは裏腹に、『光車よ、まわれ!』に感動しきれないじぶんのいることを語った。発想や意図はさて置き、登場人物たちにつまずいたのである。たまたま神宮輝夫も否定的であったため、対談は論議白熱の方向へ弾まなかった。どこか白けた淋しいものになった。イーヨーは『目こぼし歌こぼし』(あかね書房)をだしたところだったので、じぶんの描きだした登場人物と、『光車よ、まわれ!』のそれとを、無意識のうちに比較していたのかもしれない。また、「人間の光と影」ということについて、それを描きだす方法の違いを、客観的に見られなかったのかもしれない。物語を書くことによって、その時イーヨーは、評論と呼ばれた「児童文学に関する呟き」をやめようと考えていた時だったので、よりかたくなに、じぶんの方法にこだわっていたのかもしれない。いずれにしても、その対談はついに陽の目を見なかった。終って、神宮輝夫の「知っている店」にいったのだが、変に気づまりな空気が残っていた。その晩、イーヨーはSさん宅に泊った。
 人と会うということは、そういう「人との関わり」を無意識のうちに甦らせるものである。言葉や態度は、その延長線上に生まれる。イーヨーは、できれば和やかに、Sさんのそれまでのいくつかの厚意だけを眺めていたいと思ったが、じぶんがとてもじゃないが、そんな寛容な「灰色ろば」でないことにすぐ気づかされた。物語完結と同時に「他社での出版になんら制約を加えない」というSさんの一言は、脊髄に達するナイフであり、そこから走る痛みが、イーヨーのなかのイーヨーに悲鳴をあげさせた。
 「打ちあげ」は、百万遍の「梁山泊」でやった。酒を前にして、Sさんは当りさわりのない話をし、イーヨーも機嫌のよい顔を前に押しだして合槌を打った。
 「今日はなんやの? なんの会?」
 カウンターの向こうから、オーナーであり「ダンサン」(旦那さんの意)でもある憲さんが声をかけた。
 イーヨーは酔っていたのかもしれない。ふだんならそういうことをしなかっただろうと思うのだが、Sさんから渡された連載原稿のコピーを、(第一回から最終回までの三年半にわたるじぶんのそれを)袋ごとカウンターの上に投げだした。
 「今日はこの仕事が終った打ちあげなんや。これ、あまりにも長すぎるというわけや。憲さん。これ読んで、好きなように削って切って、縮めといてんか。ばさばさ切って、かまへんのやで。あんたにまかすから。邪魔になったら捨ててもええねんから。頼むで」
 イーヨーは、二度とコピーなど見たくないという言い方をした。こんな物語がなんでえ……という放りだし方をした。
 憲さんは一瞬、(どういうこと?)という顔をしたが、イーヨーの投げやりな態度に気づいて、すぐに調子を合わせてくれた。
 「よっしゃ、そんなら、切って削って縮めたろ。ええねやな。よし、まかしとき」
 そのコピーは、その日以来、憲さんの手元に置かれたままである。その時から五年経っているのに、(そして、その間、何度か「梁山泊」に出没しているのに)一度もそのことに触れたことはない。憲さんが、それを捨てたかどうかも聞いていない。
 Sさんはすぐ横にいて、その時、眉をしかめていたのだと思う。「大人気ない」イーヨーの仕打ちを見て、あきれていたのかもしれない。しかし、イーヨーは、そうした「過激」(?)な反応を示すことによってしか、脊髄の痛みを向こうへ押しやることができなかったのである。
 ずっとあとになって、その長編が理論社から出版された時、どうして福音館からださなかったのか……と聞いた人がある。福音館の雑誌に掲載されたものを、ほかの出版社に持ち込むなんて……と咎めるような口吻があった。Sさんのいった「いっさいのオブリゲーションを付けない」という言葉が、反射的にイーヨーの頭のなかを走った。はるかに遠い時間の出来事なのに、脊髄は疼いた。今、その日のことを「過ぎしむかしのお話」という形で書きながら、やはり脊髄はおなじ痛みを感じている。そういうことを、質問者には語らなかった。語る気持にはならなかった。一言二言の説明で、人間の内側に刺さったナイフの話など、できっこないからである。
 「打ちあげ」は、三条木屋町下ル都会館二階「ルート・滝」でしめくくりとなった。イーヨーは、灰谷健次郎さんといっしょの時のように、「気ヲツケ!」の姿勢で、一人、東海林太郎の『国境の町』をうたった。それは別の時のことで、あるいは、SさんやYさんをカウンターの前に残し、ポイと店を飛びだし、そのまま家に帰ったような気もする。いずれにしても、ひどく冴えない長篇完結祝いだった。
 ひげのプーさんが、『飛ぶ教室』なる雑誌の原稿を依頼してきた時、イーヨーはその気持を引きずっていたのである。
 その日から、ほぼ一年経っていた。イーヨーとて、「義理と人情」の日本人である。きわめて事務的にA社がだめならB社へ……」など考えない。Sさんはああいったが、是非とも枚数縮少の上、一冊にしたい……と作品掲載元が申しでることも考えられる。半年待った。もちろん、ぼんやり待っていられるような状態ではない。今は亡き乙骨淑子のあとを受けて、雑誌『教育評論』への連載に取りかかっていた。それに没頭することで、『ひげよ、さらば』の後味の悪さを忘れるふりをした。半年を越えた時、なんの連絡もなかった。そこで、はじめて理論社に話をした。ところが、それがまた、すこしもたついて……ということは、今、触れる必要はないだろう。
 イーヨーの「厭戦気分」は、『ひげよ、さらば』のこと以外にもあった。たとえば、プーさんから誘いのかかったその年、その頃会うことの多かった黒瀬勝巳が突然自殺した。彼は編集者であり詩人であり、おまけに、イーヨー同様、「灰色ろば族」の血筋(?)だった。それは、だれとも口をききたくないほどの衝撃だった。衝撃はたやすく消えなかった。今、こうして彼のことに触れただけで変に息苦しくなり、なぜそうなるのか、このまま書き続けたい気がしてくるのである。しかし、彼のことは、『日本のプー横丁』の続篇か続々篇までひとまず置かねばならない。
 もう一つ、イーヨーをためらわせたものに、新雑誌の発行元の「政治献金」の問題があった。新聞は、その年、教科書出版会社が、政府与党へ「政治献金」をしているとすっぱぬいた。批難の声があがった。「日本のプー横丁」の住人たちも、機関誌の上で、そうしたことを改めなければ許さない……といった調子の強いキャンペーンを繰りひろげた。新聞に取りあげられた一社だけではなく、教科書出版に関わっているすべての会社宛にアンケートをだし、「政治献金」の有無を問い、それへの今後の対応や如何……ということを聞きだそうとした。
 イーヨーは、風のたよりで、「日本のプー横丁」の住人のなかにも、教科書出版の編集委員や顧問をしているものがいることを知っていた。そういう住人は、この際、いっせいにその仕事をおりるのかなと思った。教科書会社というものは慈善事業をしているのではない。利潤追求のために、もっとも大量に、また確実に売れる「教材」という名の商品を「生産・販売」しているのである。顧問・編集委員の「先生方」が、いくら「良心的」に「教材内容」にだけ関わろうとしても、結果としては「商品生産」に協力していることになる。それを「不潔」とするなら、その仕事をおりるしかない。たとえ、おりたとしても、そして「書きたいものだけを書いて」暮そうとしても、それを出版しようとするなら、また別の利潤追求システムに力を貸すだけである。そういう人為の社会に生きている。社会体制の違いはあっても、現在の世界では、そういう仕組みを拒否して暮しは成り立たない。そこのところをどう考えているのだろう。
 イーヨーは、「正義」に立ち、「不正」を糾弾するそのことに文句をつけるつもりはないが、「正義」と「不正」が、おなじカラクリのなかに存在することを忘れてはいけないなと考えた。
 もちろん、イーヨーは、教科書に無縁だから、世間一般の人びととおなじく、なんだ、「政治献金」なんかしやがって……と「不潔」なものに触れたみたいに鼻白んだ思いをした。しかし、これはどこか、「目くそ鼻くそを笑う」だなと、苦笑もした。いってみれば、政府与党に「政治献金」をするということは、それを「権力」と認め、その庇護のもとに商売の安定を計るということである。一種の「あざとい商法」といってもいい。本当に庇護があるかどうかわからないが、イーヨーのような「大衆」には、「じぶんを超えてある支配力」に常に敏感なのである。その力を頼もうとする発想には、つい身構えてしまうのである。これは、少なくともイーヨーの場合、過去の「太平洋戦争」と呼ばれたあの時代の、「それとはわからない形での贈り物」だと思っている。「目くそ鼻くそを笑う」ことになるとしても、この敏感さや反応だけはダスター・シュートに投げ込みたくない。
 一連の新聞記事は、そんなことをあれやこれやとイーヨーに考えさせたため、プーさんの申し出はありがたいが、新雑誌への協力は見送ろうと、その時、思いだしていたのである。
 「そんなこといわんと、書いたりイな。たしかに時期的にはまずい。ああいう問題の起こった時やから、書かへん……いう人もいる。そやけどね、イーヨーさん。これはチャンスやと思わへん?だいたい商売にもならん児童文学の雑誌をや、こっちの思いどおりにさしてくれるとこて、今の時代、あらへんよ。いろんなことをいう人はあるやろけど、こっちは知らん顔して、新しい児童文学の冒険やったらええのんと違うか?」
 ひげのプーさんは、イーヨーが狭量なる正義感にとらわれていると思ったようだ。そうしたカケラがまるでなかったとはいわないが、それだけではなかったと考える。プーさんの一押し、また一押しで、イーヨーはぶつぶつ答えた。
 「そんなら、あんたがやるというのやから、プーのために書く」
 イーヨーの『日本のプー横丁』は、かくして連載が開始されたのだが、そして、「書く」にあたっては、河合隼雄さんと「梁山泊」で顔を合わした時、その河合さんからも強くすすめられたということがあるのだが、第一回の原稿を渡した時、じつは「付記」があった。それは掲載してもらわなくていいといって、原稿といっしょに渡したものである。イーヨーが、この原稿を書くにあたって、どれほど腹を立てたり、わだかまりを持っていたかということを、例によってぐじぐじと綴ったものだった。ずっとあとで、編集の紀伊萬年さんが、「いやあ、あれはきつかったですね。今でも大事にとってありますよ」と苦笑したから、たぶん、どこかに残っているのだろう。そこに記されているのは、出版社とひげのプーさんに対する呪詛の言葉だが、それを書かせたのは、ここに長ながと記してきたいくつかの事柄である。いや、それによって落ち込んでいたイーヨーの脆さである。
 そのほかにも、じつはまだいくつかの「厭戦気分」醸成材料があるのだが、それは『飛ぶ教室』に目下継続中の「イーヨーの呟き」にまかせるしかない。
 問題は、ここに書かれた事柄は、すべて本当のことかということである。ある読者はこれを「事実の記録」と受け取るだろう。児童文学者の「台所案内」と考えるかもしれない。それに対して、イーヨーは、首もしっぽも横にふることはできない。そういわれれば、そういうものでもあるが……と呟くしかない。しかし、「事実」だとか「真実」だとかいうものは、それほど易々と人間の手につかみとれるものだろうか。たとえイーヨーが、「これは本当のことだ」といったとしても、ここに登場するだれかれは「嘘ッ!」と思うだろう。イーヨーという「灰色ろば」の目を通して任意に眺め直した情景だから、別の目、別のフィルターを通せば、こうは映らないはずである。「それではセミ・フィクションなのか」と、読者は問うかもしれない。『詩と真実』なるゲーテの書があったが、(イーヨーはもちろん、そいつを読んだわけではない。むかしむかし、それを買って、読まずに古本屋へ持っていった記憶がある)これは「詩」でもあり、「真実」でもあり、いや、そんなカッコいいものではなく、どっちつかずなのである。そういう「未分化」の奇妙な独白なのである。
 そういうものを、なぜ書き続けるか。それは、ほんの一にぎりの人にせよ、「うん、おもしろい」といってくれたからであり、イーヨーもまた、そんな場合には「真偽」を問わず、きわめて都合よく解釈するからである。「灰色ろば」は、おだてにのりやすいのである。

 最初、第一回のそれが雑誌に掲載された時、電話で会いたいといってきてくれたのは、たびたびプーさんを介して顔を合わせていた大和書房の刈谷さんだった。同編集部の小川哲生さんが、「海のものとも山のものともわからぬ」これを、ぜひ出版したいといっている、ついてはお目にかかって……ということだった。たまたま仕事で上京していたイーヨーは、ホテルの喫茶室で小川さんに会った。小川さんの言葉は、イーヨーをふるいたたせた。「何冊になってもいいじゃありませんか、うちでだしたいと思います」
 イーヨーは、「ぜひお願いします」という言葉を、素直に、そして即座に、吐きだしたくて仕方なかった。しかし、そういうかわりに、「ありがたいと思います。でもまだ、連載が始まったばかりですし、期待にそえるものになるかどうか自信がありませんし、それに……」と、ややあいまいに答えた。それは、雑誌の発行元のことを考えたからだった。その時点で、発行元の出版社は、単行本化のことなど考えていなかったと思う。しかし、自社の雑誌に載ったものを、他社の出版にゆだねる……、いや、別の言い方をすれば、他社の単行本化を前提に、自社の雑誌のスペースをイーヨーに提供する……ことも考えていなかったと思う。
 変な話だが、イーヨーは、手前勝手な呟きを誌面に載せてくれる発行元に、「義理」を感じていたのである。まず担当者に話して、それでよしということになれば、晴れて(?)小川さんなり刈谷さんなりに「よろしく」としっぽをふればいい。十回も書けば、発行元の考えもはっきりするだろうし、小川さんのほうも、声をかけたことは早計だったかどうかの判断もつくだろう……そう考えたのである。十回にならない段階で、非公式に、発行元が単行本化の意志ありと伝えてきた。伝えてくれたのは、ひげのプーさんである。小川さんに葉書を書いた。
 『飛ぶ教室』の常田さんと紀伊さんが、イーヨーの陋屋にあらわれたのは、それから間もなくである。イーヨーは、ぶつぶつと小川さんとの出会いのことを話した。すでにそれは、紀伊さんに、別の席で話していたことだったのに……。未練たらしいのである。決断を避けようとするのがイーヨーなのである。
 そういうイーヨーに、紀伊萬年さんは、ひどく気をつかってくれた。灰色ろばのくせに、イーヨーは「人情」にも脆いのである。紀伊さんが再度、馬小屋にあらわれた時、「どうぞ、よろしく」とイーヨーはいなないた。
 この一冊は、そうした結果、生まれた。


    一九八五年十月
灰色ろばイーヨー

 「飛ぶ教室」創刊号〜第十三号(一九八一年十二月〜一九八五年二月)に連載
 「付録の一章」は本書のための書き下ろし
テキストファイル化赤澤まゆみ