『日本のプー横丁』(上野瞭 光村図書出版株式会社 1985/12/24)


第12章 湿地にて・1968

 「『ちょんまげ手まり歌』を、めずらしく、さっそく読みました。大きな期待もありましたし、一刻も早く本にして、あなたをはげましたいという気もありましたので」

 その手紙がイーヨーのもとに送られてきたのは、原稿を送って一週間経つか経たないころだった。
 イーヨーは、この「すばやさ」に、かすかな不安を感じた。ひげのプーさんから、理論社には「持ち込み」の原稿が山ほどある・・・・・・と聞いていたせいもある。また「プーの横丁戦後論」を抱えて上京した折り、バビロンの首長こと小宮山量平さんが、さまざまな作家とその作品を手厳しく批判していたことを覚えていたせいもある。三百三十枚のイーヨーの原稿に、これほどすばやい「返書」があるということは、これはひょっとして最悪の事態なのであって、そうだとすれば、落ち込まないように気持の準備をしておく必要があるのであって・・・・・・。
 イーヨーは開封する前、小宮山さんの手紙をわざと無造作に机の上に投げだして、爪を切ったり、犬小屋の前にいってしゃがんだりした(その頃、なんと、イーヨーの家には犬がいたのである)。

 「読みおわって、ちょっと重くるしい気分です。
 いわゆる水準の点では文句なしりっぱです。失敗作ではないのです。そういう意味では不安はありません。
 児童文学という世界の円周を可能なかぎり大きく描いた上で、その世界からはみ出るようなものを持っているのか・・・・・・と云うのではありません。そういうはみ出しに対しては、私は、余り不安やおどろきは感じないほうです。
 あなたの作品は、児童文学の可能性を拡げる意味での実験的な作品となるだろう・・・・・・という期待はあったのですが、その期待に応えるような実験性は、むしろ稀はくだと思います。むしろ、あなたに即していえば、いかにもあなたらしく常識的だとさえ思います」
 アッタァッ!イーヨーはここで、じぶんのなかの「もうひとりのイーヨー」が頭を抱えてうずくまるのを感じた。そいつは、うろたえたように目を左右に走らせた。そいつがぶざまにうろたえることによって、イーヨー自身は、かろうじてつぎを読むことができた。

「問題はどこにあるのでしょう。私にもよくは分かりませんが、2、3の感想を率直に記しましょう。ノォトのように。
(1)反児童文学的―といった感想がまずわく。かつて今江祥智が何気なく云ったことがある。
『ぼくは自分の作品の中で人を殺さない』と。私は、その言葉をとてもだいじにしまっておいた。甘いヒューマニズムのためにではない。
 子どもは、「死」において、詩も文学も感じないのだ。私は、肉親の老人の死床に、自分の子どもを立ち合わせることを避けたことがある。残酷を避けるためではなく、「死」という冷たい物体が、ひんやりと伝達するものが、子どもの生命の熱さと交わらないものなのだ。この作品が、そういうひんやりしたものを持っている。たんに多くの人の死が描かれている・・・ということを云うのではない」

 イーヨーは、そうだろうな・・・・・・・と思った。山また山に囲まれた架空の小国を想定した時、イーヨーの考えていたことは、「出口のない世界」をいかに描くか・・・ということだけだったからである。
 特定の主人公はいなかった。さまざまな人物は登場するだろうが、それは「出口のない世界」のメカニズムを浮きあがらせるための登場で、いってみれば、「その世界」の中で飼育され、翻弄され、最初から「生きながら葬られている」に等しい役割しか与えられていなかった。
 小宮山さんが、「ひんやりしたもの」と指摘したのは、たぶん、そうした人間(登場人物たち)の「扱い」についてに違いない。
 イーヨーはのちに、「成長小説」まがいの長篇を書くようになるのだが、最初のそれは、かたくなに「個人のドラマ」を排し、「状況のドラマ」というべきことに固執していたのである。
 もちろん、イーヨーもまた、その物語の中の「生きながら葬られている」に等しい登場人物に自分を重ねていた。

「(2)当然、深沢七郎の世界を連想する。深沢においてはマゾヒズムとニヒリズムが、ムードとしてではなく、体質的に抵抗にまで昇華されている。彼の作品がそれを果し得たのは、最初の一行から、詩であり、文学であり、どのように分解してみても、説明や論証とは無縁である。あらゆる部分が『芸術』である。ところが、『手まり歌』は、マゾヒズムやニヒリズムが、方便であり、手がかりであって、ある『温かい目的』を描くための説明的な方法となっている。だから、作者の云いたいことが見えてくるまでは、文学的『たのしさ』がわかない。およそ60枚をすぎて、やっと、作品の一角にたどりついた感じがした。『怪談』を語るときのヒュードロドロ・・・・・のおはやしのたのしさが無く、論理的に誘導される感じ。
(3)むしろ一遍の『怪談』として語るべきではなかったろうか。あるモチーフを説得しぬく作者の志向が、320枚という枚数をすき間なく重ね、その限りではムダはないのであるが、この主題は、『怪談』としてなら、100〜150枚ですうっと語られるような気がする。
(4)私が『怪談』というとき、深沢の作品の他に、『白毛女伝』のことがある。『手まり歌』は、児童文学を手がかりとして、じつは悲痛な訴えになっている。しかし、その悲痛は、うっかりすると、過去の残酷的世界からの近代化のコースへのすすめを語る知的悲痛なのだ。そんな残酷が残酷ですらないほどの民衆的エネルギーの楽天性の面から、ゲンバや殿さまを喜劇的オバケにしてみせる『怪談』の語り手。私には、児童文学者の優位性は、このような語り手として作品が書ける点にあると思う。知的悲痛は、近代文学者センセイにおまかせし、私たちは『ブラック・マザー』的視点に立ちたいものだ。『白毛女伝』は、けっして教条主義的作品ではなく、不屈の民衆が語る『怪談』だ」
イーヨーの中で「もうひとりのじぶん」が、頭を両手で抱えてうずくまるのを知った。マイッタナ・・・・と思った。小宮山さんは、イーヨーの目を向けまいとしたところを的確にひろいだしている。そのとおりだけれど、そのとおりだといったところで、イーヨーまでしゃがみこむだろう。
 架空の小国を、それを取りしきる藤巻玄蕃さまを、とてもじゃないが書き直す気力はない。それは、小宮山さんのいうとおり、一篇の「怪談」になりえたのかもしれないが、イーヨーは、そうは書けなかったのである。さまざまな欠点を指摘されるそのものとしてしか書けなかったのである。
 たぶん、これは才能の問題だろう。
 それにしても、なぜ架空の小国「やさしい藩」なのか。喜んでじぶんの片足を傷つけられ、お山を越えることをタブーとするさむらいたちの物語なのか。
 イーヨーがこの物語を書こうと思ったのは、それが「国家」や「組織」の在りようをそれなりに寓意しているからではなく、(それもあるだろうが)それよりも、イーヨーの勤めている宗派立の学園が、ある日ふいに「閉ざされた奇妙な世界」に見えたからである。
 もちろん最初から、職場がそんなふうに見えたわけではない。それは、「学校」というものについてイーヨーの抱いていたイメージを多少混乱させたけれども、最初のあいだ、いや、そのあとも長い時間にわたって「やさしい藩」ではなく、ただの「学校」だったのである。
 多少の混乱とは、こういうことである。
 イーヨーがその学園に勤め始めた頃、古い生え抜きの教師が、職員室に生徒を連れてきたことがある。「ホーム・ルーム」に遅刻したその高校生は、詰問されて、「朝寝坊をしたために」とすこし弁解した。そのとたん、古い生え抜きの教師の右手が風を切った。一撃で、その生徒は、壁ぎわまでぶっとばされた。「きさまのような奴は学校をやめろ!」怒声がとんだのはそのあとだった。
 その教師が、柔道界では名を知られた有段者であると知ったのは、すこしあとだった。事あるごとに鉄拳の一撃をふるうため、彼に声をかけられただけで生徒が硬直するということもすぐわかった。
 石坂洋次郎の『青い山脈』を読み、「戦後民主主義教育」という言葉を何となく耳にしてきたイーヨーは、ふとこの学園には、「戦後」がまだきていないのではないか・・・・と思った。
「気をつけろよ。Kがおまえをなぐるといっている」
 その頃のある日、同僚のMがイーヨーに、あたりをはばかるような声をかけてきた。一瞬イーヨーは聞き違えではないかと思った。
 Kは、「一撃→壁」の生え抜きの教師の直系の弟子である。やはり柔道の有段者で、数学の担当者である。のちに野球部長となり「甲子園出場」でスポットを浴びるようになる。しかし、「戦後八年目」のその時点では生徒に畏怖される「五傑」の一人といったほうがいいだろう。
「いったい、どういう理由でなぐられるんや。おれはあいつと口をきいたことさえないんやぞ」
Mにいうと、Mは困ったような顔をした。
「おまえは、Sさんに廊下ですれ違っても礼もせんそうやな。Sさんは、新任のくせに生意気やといったはる。Kがそれを聞いて、おまえをなぐるといいだしたんや」
 複雑である。イーヨーは、「そのSさんとは何者なりや」と改めてMに聞いた。Mはあきれた顔をしたが、それが理数科の主任であることを説明してくれた。イーヨーは、ゆっくりと廊下を歩く、いつも紺の背広を着た白髪の大柄な教師を思い出した。そういえば何度か廊下ですれ違ったことがある。
 「あれはえらい人なのか」
 「そうや」
 Mは、この学園の出身である。教員の三分の一をしめる出身者のことなら、まずまず何でも知っている。「一撃→壁」が一方のボスとするならば、S氏のほうももう一方のボスなのだという。
 学園というところに、学園長がいて、それを補佐する教頭がいて、「えらい」のはその二人だけだと思っていたイーヨーは、別口の「えらいさん」が存在することに(それも二人も)いささか驚いた。
 Kが本気でイーヨーをなぐるつもりだったのかどうか、それは知らない。
 しかし、一ヶ月ばかり経った頃、イーヨーとKが、学園裏のうどん屋で「ラム酎」のコップをカチリとうちあわせたのだから、まるっきり噂話ではなかったのだろう。焼酎をラムネで割ったそれの乾杯は、いわば「手打ち式」だった。お互いに相手に思うところがあるだろうが(イーヨーには何もなかった)、これで一つ、水に流そうという儀式(?)だった。何だかヤクザ映画みたいだが、柔道何段という「つわもの」になぐられることを思えば、焼酎で真っ赤になり、頭の芯から心臓までどきどきさせるのはたやすいことだった。
 事をこんなふうに運んでくれたのは、「先生」こと鴨原一穂さん(第九章「望郷詩片」に既述)と、MやTだった。「先生」は、この学園の図工と作文の担当者で、職員室に席を置かず、グラウンドの片隅に建っている古ぼけた図工準備室にいた。イーヨーが大学卒業を前にして、北海道にいくべきかどうか、就職先のことで迷っていた時、
 「どうだ、それなら学園にくるか」と「先生」はいった。学園がどこにあってどんな学校なのか、たずねることもしなった。極貧に違いなかったが、就職についての実感がなかったのである。北海道と大阪と二つの教師の口があるのに、できれば京都をでたくなかった。イーヨーは「先生」に向かって「お願いします」と頭をさげた。その学園がどこにあるにせよ、京都市内であることは確かだったからである。
 それから二十年にわたる職業の選択にしては、じつにイージーな決定の仕方だった。
 三十余年前の話である。酒を飲めば、かすれた声で「ラ・ヴィ・アン・ローズ」を口ずさんだMは、今、教頭になっている。北杜夫の『白きたおやか峰』に登場したTは、登山を続け、山の写真で個展を開いたりしている。「先生」は岡山奉還町の飲み屋のおやじとなり、「一撃一壁」氏はとっくに退職し、S氏のほうもこの世にいない。イーヨーもまた学園の外にいる。
「多少の混乱」と最初に記したが、勤め始めたばかりのイーヨーは、学園の複雑かつ単純な人間関係がよく呑み込めなかっただけである。驚きやとまどいは、そのカラクリを知ればうすれていく。体罰と宗教的行事、質銀交渉一筋の「組合」とそれを上まわる出身者たちの「母校意識」、それらが奇妙にないまぜになった共同体。その雰囲気に最後までなじめなかったものの、学園はまだ「やさしい藩」には見えなかったのである。「一撃一壁」氏やS氏が肩で風を切って闊歩していたとしても、それはまだ「閉ざされた小国」ではなかった。
 「やさしい藩」は、この両氏が定年退職し、両氏に忠実だったものたちが、その仕事を引き継いだあたりから生まれる。善きにつけ悪しきにつけ「大物」でない人物が「大物」の役割を引き受けようとするとどうなるか。「大物」たちがその存在で維持してきた任意の共同体を、規則で、役職の力で、統制しようとすることになる。「大物」たちが「大物」故に、諸規則や服務規程にこだわらず、「人情」を先行させてきたところを、すべて管理体制に組み入れようと計る。個々の教員が自由裁量で生徒たちに関わることを、厳しく規制するようになる。
 「ちょっと申し上げておきますが、本日はじめて教室をまわり、二、三の先生方の授業を見せていただきました。おおむね、みなさん方はよくやられているように思いましたが、なかにはどうも、大学ならいざ知らず、高等学校の授業としてはどうかなというものがありました。ひとつ、この点は今後お改めいただきたいと考えます。どなたの授業がそうだとは申しません。しかし、おわかりいただけると思います。ついでに申せば、みなさん方は、この学園が本務校なのであります。他大学に嘱託講師として出講なさっている方も二、三あるやうにうかがっております。しかし、それはあくまで余力があっての出講です。本学のために真剣に力をそそがれる方には、そういう余力があるはずはない。じぶんの研究も大切でしょうが、高等学校に学者は要らない。学問研究をやるというのなら大学で行うべきであって、そういう方がこの学園におられる必要はない。今後はそういう方針でまいりますから。よろしくご協力ください」
 これは学園長退職のあと、某大学から新たに学園の責任者として就任した「文学博士」の言葉である。会が終わろうとした時、この新たな「おえらいさん」はつと立ちあがってそういった。イーヨーはこの時点で、まだ大学に出講していなかった。槍玉にあがったのは、のちに考古学研究の分野で(『須恵器大成』によって)「学士院賞」を受ける社会科の「ナベショウ」こと田辺昭三である。イーヨーとナベショウは、おなじ時期に学園を去るのだが、それはまだ数年向こうの話である。ナベショウに対するいやがらせは、その翌年「校務分掌の均等化」という名目で、さらに進んだ。彼はまったく専門外の「就職指導係」にまわされた。その仕事は何年にもわたって商業科担当の教員が手がけてきたものであり、時に体育科の教員が加わることがあったとしても、それは「彼なら不適切でないだろう」と思える人物だった。
 授業や補習を持って、その他の時間を発掘に費やす若い考古学者を、なぜ「就職指導係」にまわす必要があったのだろう。
 新任の学園長「文学博士どの」が、ナベショウをいびる必要はまったくなかったのである。もしあるとすれば、それはナベショウだけでなく、それぞれ専門分野にあってひそかにじぶんの仕事を続けている何人かの教員すべてが対象だったはずである。「古文法」研究ですこしは名を知られた「文学博士どの」が、繰り返しいいたかったことは、「みなさんの研究などは所詮大したことではない。高校の教師というものは、それよりも学級活動にだけ専念すべきである」ということだったのである。
 ナベショウの発掘や研究を快しとしなかったのは、だから新学園長というよりも新教頭Fである。Fは、「大物」直系の先輩たちがいるのに、その手腕を買われて、先輩を跳び越して学園の管理・運営の実質的責任者の地位についた。彼が、「燃えた」のは想像にかたくない。かつて「大物」たちが果たした役割を、彼は引き継いだのである。学園は今、彼の思い描くように一つにまとまる必要がある。それには、ナベショウのように、「学外」で独自の仕事をし、それなりの評価を受けることなど許すべきではない。学園を一つの「運命共同体」として受け入れ、その体制に忠誠を誓うもののみを高く評価すべきである。すべての基準は「ここ」にあって「学外」にあるのではない。彼は「一撃一壁」氏やS氏が、その存在と威圧力でやりとげてきたことを、こまごまとした干渉と規則でさらに推し進めようとし、それがまずは、ナベショウいびりとなったのである。「文学博士」どのは、Fの進言を受け入れ、会議で発言したにすぎない。そうすることで彼は、Fと一体であることを示し、Fに管理・統制の全権を委任し、雑務やトラブルから距離を置きたかったのかもしれない。いずれにしても、この「学者」にとって、教員は自立的研究者であるよりも、彼やFの考えに忠実な、ただの学級管理人であることが望ましかったのである。
 一つの共同体が(あるいは一つの組織が)、その結束をかためるためにスケープ・ゴートを用意することはよくある。Iは、その祭壇に捧げられた一人だった。出身者の序列からいえばFより先輩に当たるIは、どういうわけか、仲間うちから軽んじられていた。学園の出身者たちは、彼の愚直さががまんならなかったのかもしれない。Fが「大物」のポストを占めると、「生徒指導不適格者」という烙印を押され、ある日突如クビを切られてしまった。「組合」は動かなかった。Iは救済を求めなったということもあるが、それよりも、「組合」を構成する出身者・非出身者の大半が、Iなら仕方ないだろうと考えたからである。馘首にあたり、「文学博士どの」もFも、強い反対は起こらないだろうと読んでいた。
 八木あき子は、その労作『五千万人のヒトラーがいた!』(文藝春秋・1983)の中で、ユダヤ人大量虐殺の歴史的背景を鋭く描きだしているが、だれが見ても不条理と思える事柄が堂々とまかり通る時、そこには、じぶんの手を汚さない多数の共犯者がいるわけである。
 IのあとにNが、その発病を理由に教員から職員に降格させられ、そしてさらに、今度は「生徒指導の在り方」をめぐって一騒動が持ちあがるのだが、それはまだ数年あとの話になる。
 イーヨーは、「学園紛争史」のために、一職場の粗描をしているのではない。
架空の閉ざされた小国「やさしい藩」の物語は、イーヨーが、この学園にいなければ生まれなかっただろう・・ということのために記している。また、この物語中の「藤巻玄蕃さま」は、Fや「文学博士どの」なしには生まれなかっただろうということでもある。
 しかし、「やさしい藩」は一職場のカリカチュアではない。一つの組織、一つの共同体に凝縮している「国家」の在りようを考えたものである。それがきわめて紋切型になっているとしても・・・である。そうした主題は、日本のプー横丁にはなじまないものなのか。子どもに「国家」や「組織」や「共同体の成立事情」を(いや、その恐ろしさを)語ることは邪道なのか。ずっとあとで、イーヨーのこの物語が、「良心的な文庫」の書棚から排除されたという話を聞いた時、憮然とした記憶がある。
 吹き抜ける風のようにさわやかで、きらめく木漏れ陽のように美しく、人と人のぬくもりが漂う物語というものがある。イーヨーはそうした物語を忌避したのではない。忌避するどころか、いつかそうした物語を書くかもしれないと夢見ていたはずである。ただ、そこにいくにはまずじめじめした暗い湿地を眺めまわさなければならなかったのである。

 「こんなふうにノオトしていけば、きりがありません。あなたの作品は、こういうノオトを私にひきださせる重みをもっているわけですから、私が率直に格斗の記録をしたからといって、怒ったり、悲観したりしないで下さい。結論的に云って、私は、この作品をこのまま出版してみることに異存はないのです。だから『小宮山があんなことを云ったから、原稿を引っ込める・・・』などとは云わないで下さい。むしろ、この作品をつうじて論争し、次の作品では、また、同じ文句を云わせぬようながんばりを示してください。できれば、最小限、目下のあなたの作品を色づけるペシミズムのようなものだけは、自覚的にとりだし、組み伏せてみせてください。私は、児童文学の最大の中心スローガンはオプティミズムだと思います。むろん、悲痛を踏まえることなしに真のオプティミズムなんてあるわけはありませんが、今度のあなたの作品が、そういう点で成功しているとか、実験的であるとか、ソフトに申しあげてはならないと思うのです。」(1986年5月6日付手紙)

 14年ぶりに、イーヨーは小宮山量平さんの手紙を読んでいる。はじめてそれを読んだ時の「居たたまれない気持」が、あざやかによみがえってくる。イーヨーは、そこにいるイーヨーに、つい声をかけてしまう。
「今ならよくわかるんだけども、あの時、おまえさんは、いわれていることを半分も理解していなかったんじゃない?あの人の立っているところと、おまえさんの暮らしているところが、あまりにも違いすぎる・・・・・・、そればかり思っていたんだろ」
「本になったのは11月なんやけどね、その前の9月に、組合の執行委員長にされてしまってね、それで本のこと、よく考えるどころやなかったんやね。執行委員会のあと、いつも荒れて飲んでおったね。おかげで本のできた翌月は、今度は胃カメラを呑んでいるんや」
「ずっとあとで、鶴見俊輔さんが、『暗い作風の、読みにくい文体の少年小説』というふうに書くんだけれど、おまえさんはそれでも、これはだれも書かなかった物語だと、その一点にすがりついていたんじゃない?すこうし、やはり、一人よがりにも思えるな」「あんたは、もうおれじゃないからね、だから、そんなことがいえるんや。あんたは、おれのいたところから飛びだしていったやないか。おれはね、あんたみたいに、物事がまずまず見えて、何事も比較検討できるという奴がきらいなのよ。おれに声なんかかけずに、続きを書けばいいやないか。ふん、何が灰色のイーヨーや」

 最初の、イーヨーをふるいたたせた手紙は、寺村輝夫さんからきた。寺村さんはたぶん、じぶんが出した手紙のことなど覚えていないだろう。

「このたびは『ちょんまげ手まり歌』ご恵贈たまわり、まことにありがとうございました。昨晩まで、たまった仕事をかたづけに網代の宿におりまして、その折たった一冊、御著をもっていきましたが、おもしろくておもしろくて、つい半日棒にふりました。たいへんな営業妨害でありました。失礼! また何がこんなにおもしろがらせるのか考えこんでいるうちに、自分自身、これから書こうとしているものに混乱を感じ、とにかくウラメシク思います。特異な作品――と、ひとはいうのでしょうが、いってしまえば、コトバとしてはおもしろくもない「特異」という『世界』を、もう一ど私たちは考えなおさなくてはならないと思います。いままで児童文学の評論の中で、いろいろ使われてきた用語ないしは画一的な批評の『パターン』を、あれこれ考えてみましたが、そのどれもが適応しない作品だと思います。『空想』『ヒユ』『抽象』『抵抗』・・・。だれかが井上洋介氏のえをほめていたけれど、私は、いいわるいの問題でなしに、『え』がじゃまでしかたがなかった。えなしでこの作品を読みたかった。『ずるっずるっ』とひきずってあるく女房――そこには『音』はあるけれど、『画』という形象化はないような気がするし、びっこをひいてあるくすがた、また、いつもにこにこしているゲンバさまのわらい顔、みんな違うんですね。ちかごろは画のたすけなしには読めないような創作が多いけど、画がジャマになるものをはじめて読んだ気がします。私は私なりに、このへんにポイントをしぼって、児童文学の本質にふれてみたいと思ったんですが――。自由なかたちで読者にまかさるべき作家のイマージュが、その間に雑多な媒介物が存在することによって、どう変わっていくのか、それが文学の本質をどうユがめていくのか。とんだオシャベリで申しわけありませんでした。(1968年12月20日消印の手紙)

 イーヨーは「私信」の勝手「公開」をやっている。法に触れなくても「道義」には触れるだろう。「イーヨーに手紙を書くと、『飛ぶ教室』で使われるから、おれは手紙を書かんことにした」と、先日、ひげのプーさんもいったばかりである。わかりすぎるほどわかるんだけれど、(そして、正直いって、他人さまの手紙を無断借用することは、前にも記したことだが相当なためらいがあるんだけれど)一つの事柄を「独白」だけで押しきりたくなないのである。だから、もう一つ引く。長崎源之助さんの手紙である。 

「拝啓、にせがねづくり殿。あなたのつくったにせがねは、いかにもにせがねまるだしです。壱万円の『円』だって、幼稚園の『園』という字をあてたり、『子供銀行』だなんてはっきりかいてあったり、これではにせがねづくりのプロにはなれません。だが、おどろいたことに、あなたのおさつをだしたら、子どのもおみせやで、アサガオのしるでつくった色水や、レンガをけずってつくったオレンジ色の粉末や、はては、大もりのサザンカの花びらをくれました。
 これは、いったいどうしたことでしょう。小生はあらためて、あなたのにせさつをながめました。そして『なるほど』とうなずきました。あなたのつくったにせさつは、まあ、なんて精巧ににせさつらくしつくってあることでしょう。
 たわらの上にかしこまって、にこにこしているダイコクさまのひげが、一本一本かいてあるし、たわらのわらも、一本一本ごまかしなくかいてあります。おどろいたことに陽にかざしてみると、すかしまではいっているではありませんか。
 ほんものらしいにせさつはつかえません。バーのかべかけになるのがせきのやまです。にせものにてっしたにせもの、こいつは、やっぱりすてきなんだとおもいました。あなたのにせさつは、文学の世界ではつかえるリアリティがある。
 やさしい藩の比喩は、それほどあたらしくも、おもしろくもない。むしろ類型的発想です。しかし、読みおわったとき、ふしぎで気味わるいリアリティをもって、心の中にいすわってしまったから妙です。このなんともかともいえぬぶきみなやさしい藩を、子どもたちがどううけとめるか、興味のあることです。(以下略)」(1986年・日付不明)

 長崎さんはそのあと、久しぶりに小宮山量平さんに会ったことを記している。
「えんえん数時間」グルジアの旅について話を聞かされたことを記している。
 イーヨーは、12月2日付で小宮山さんの手紙をもらっている。やっと本ができあがったという「お礼」の手紙である。「お礼」はイーヨーのほうがいうべきである。原稿の段階から一冊にまとまるまで、小宮山さんが、ただの「出版社」として「機械的に」イーヨーの作品を眺めていたのではないということがわかる。その手紙に、グルジアの旅から帰ったと記されている。長崎さんは、だからその頃、小宮山さんに会い、イーヨー宛に手紙をくれたのだなとわかる。いずれにしても、「横浜南」局のスタンプは、みごとに日付の部分が消えているのである。
『ちょんまげ手まり歌』については、もう一通、忘れがたい手紙がある。「見ず知らずの男で名前に、イーヨーは首をかしげた記憶がある。これが、のちに「すばる書房」をつくり、孤立無援の中で姿を消す長谷川佳哉であると知るのは、すこしあとのことになる。長谷川佳哉のことは、「月刊絵本」の時代まで待たねばならない。今はただ、下総縦の手紙を引いておく。

 「ボク自身は、あの作品を高く評価します。今年の児童文学の最も質の高い作品だと思います。作品の骨組みが見えすぎているという弱みはあるにせよ、変革の思想が色濃く出ていて、しかもそれが、抒情的な雰囲気の中で伝えられているという点、見事だと思いました。あの作品は、性格全体としては、児童文学の境界をはみ出していると思います。その点、子どもの日常的な思いの中に、いますぐ入り込み、子どもを浮き浮きさせるというサービス性はキハクですが、きっと読者(子ども)の中に何か核になる種を蒔いたに違いなかろうと判断しました。本質的に、親が子に伝えなければならぬものが、或は思いが、あの作品にはあると思いました。
 書き忘れましたが、手まり歌が大変いいです。あれが若し創作なら、それだけで立派なものだと思います。若し地方に残っているワラベうたなら、その全部が知りたい思いです。」(1968年1月30日手紙より)

 イーヨーは、じぶんの最初の「書き下ろし」原稿のゲラがでた頃から、頭を抱え始めていたのである。じぶんの物語の、あまりにも下手くそな「残酷の表現」に、ワッと叫びだしたい思いだったのである。日本のプー横丁には、「六本松」や「百ちょ森」や「ゾゾのいるところ」や「てんけん隊」を描いたものはある。明るい陽ざしに満ちたじつに楽しげな世界である。その世界が「プー横丁」だといわれている。それなのに、イーヨーは、川のこちら側の「じめじめしてさびしい」湿地そのものを書いてしまった。それがよくわかったからである。
 落ち込んでいるイーヨーの肩を、ポンポンと叩いてくれたのが、右に「無断拝借」した手紙なのである。

 『11月某日、金曜。組合総会。「3.3カ月プラス一律金」の要求額を少差で可決。だれが本気でこれをかちとろうと考えているのか。「それじゃ赤旗でも立てて、あなたは校門に坐るのですか」と聞いたところ、「もちろん」とSがいう。この無責任なその場かぎりの発言こそ、総会の空気をよく示している。80名の組合員中、委任状をだして51名が欠席している。20数名で「総意」を決定しているのである。押しつけられた執行委員でなければ、とっくに欠席しているだろう。夜八時、散会。帰宅すると「ちょんまげ手まり歌」の見本刷り一部が着いていた』

 注 2年ばかり前に、突如「学園会報」なるものが送られてきたことがある。イーヨーは「あれ?」
 と思った。それは、イーヨーが「学園」にいた頃から発行されていたものである。卒業生対象のタブロイド版ニュースである。イーヨーが辞めてから10年あまりたっているのに、その間、そういうことはなかった。一面に、Fが新学園長に任命されたことが載っていた。ヤルナアと思った。Fのことを考えると、「人間て変わるもんだな」ということがしみじみわかる。昨日までの隣人が、ある日、なんのためらいもなくユダヤ人の家を襲ったドイツのことを考えてしまう。こういうふうに考えが飛躍するのは、この夏、イーヨーが、八木あき子の『二十世紀の迷信・理想国家スイス』と広河ルティの『私のなかの「ユダヤ人」』を読んだせいかもしれない。
テキストファイル化秋山ゆり